織田家

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

若い家康




徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす)は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての
武将・戦国大名及び天下人です。
安祥松平家9代当主で
徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖です。
旧称は松平元康(まつだいら もとやす)。
戦国時代に終止符を打ち、
江戸幕府を開府し征夷大将軍となりました。

家系は三河国の国人土豪である松平氏。
幼名は竹千代でした。
通称は次郎三郎のちに蔵人佐。
諱は今川義元より偏諱を受けて
元信(もとのぶ)次いで
元康と名乗っていましたが、
今川氏から独立した際に
「元」を返上して家康に改めました。

永禄9年12月29日(1567年2月18日)に
徳川氏に改姓しました。
本姓は私的には源氏を称していましたが、
徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し、
豊臣政権では豊臣氏を称した形跡もありました。
けれども天正16年(1588年)以降に
源氏を再び称しています。

【生い立ち】
【幼少期】
三河国の土豪である
松平氏の第8代当主である松平広忠の嫡男として
天文11年12月26日(1543年1月31日)
寅の刻(午前4時頃)に岡崎城 にて誕生しました。
母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。
幼名は竹千代(たけちよ)でした。

【母と生き別れになる】
竹千代が3歳のころ、
水野忠政没後に
水野氏当主となった水野信元(於大の兄)が
尾張国の織田氏と同盟したので
織田氏と敵対する駿河国の今川氏に庇護されている
父親の松平広忠は於大を離縁します。
竹千代は3歳にして母と生き別れになるのでした。

【駿府へ送られるはずが尾張へ】
天文16年(1547年)8月2日、
竹千代は数え6歳で
今川氏への人質として駿府へ送られることになります。
けれども、駿府への護送の途中に立ち寄った
田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、
尾張国の織田信秀へ送られました。
しかしながら松平広忠は
今川氏への従属を貫いたため、
竹千代はそのまま人質として2年間、
尾張国熱田の加藤順盛の屋敷に
留め置かれました。
このとき織田信長
知り合ったという伝説がありますが、
残念ながら現存している
史料には記述がありません。

【父親の死去と死因について】
その2年後に松平広忠が死去しました。
松平弘忠の死因については諸説あります。
◆病死説⇒「三河物語」(69頁)
「松平記」(107頁)など
◆岩松八弥(片目八弥)によって殺害
⇒「岡崎領主古記」
◆一揆により殺害⇒「三河東泉記」。
数え年10歳くらいで父親である松平清康を亡くし、
常に今川氏と織田氏の挟み撃ち状態だった
松平弘忠は24年という短い生涯でした。

【人質交換で今川へ送られる】
今川義元は織田信秀の庶長子である
織田信広との人質交換によって
竹千代を取り戻したのでした。
竹千代は駿府に移され、
岡崎城は今川氏から派遣された
城代(朝比奈泰能や山田景隆など)により
支配されたとのことです。

墓参りのためと称して
岡崎城に帰参した際には、
本丸には今川氏の城代が
置かれていたため入れず、
二の丸に入ったとのことです。
近年の研究では、
竹千代の今川氏の人質や
岡崎城の城代に関しては
従来とは異なる見解がなされています。
まず、人質に関してですが、
幼少の竹千代では、
松平家中・領国の存続は不可能であり、
松平領の安定のためにも
駿府で保護する必要性があったためという説です。
また、岡崎城の城代についてですが、
松平領はあくまでも将来は竹千代が継ぐものであり、
今川義元は安祥松平家で
唯一岡崎城に残されていた随念院(竹千代の大叔母)
を擁した松平家臣団による政務を
承認する形で実際の統治が行われていたとする考えです。

【元服と結婚】
天文24年(1555年)3月、
駿府の今川氏の下で元服し、
今川義元から偏諱を賜って
次郎三郎元信と名乗り、
今川義元の姪で
関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶ります。
名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらい
蔵人佐元康と改めています。

【当時の三河の事情】
当時、三河国では国衆の間で
三河忿劇と称される大規模な反乱が起きており、
永禄元年(1558年)2月5日には
今川氏から織田氏に通じた
加茂郡寺部城主・鈴木重辰を攻めています。
これが竹千代改め、松平元康の初陣となります。
城下を焼いて引き揚げ、
転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めました。
この戦功により、
今川義元は旧領のうち山中300貫文の地を返付し、
腰刀を贈ったとされています。
永禄2年(1559年)に駿府の松平元康は
7か条から定書を岡崎にいる
家臣団との間で交わしています。
これは、将来的に今川氏直臣の
岡崎城主となるであろう松平元康と
今川氏による間接統治下で
希薄化した家臣団との間の
主従関係を再確認する
性格を持っていたと考えられています。

国立博物館 庭園

桶狭間の戦いで今川義元死す】
永禄3年(1560年)5月、
桶狭間の戦いで先鋒を任され、
大高城の鵜殿長照から
城中の兵糧が足りないとの訴えにより、
今川義元から兵糧の補給を命じられました。
けれども織田軍は大高城を包囲しており、
兵糧を運び込むには
包囲を突破する必要がありました。
そこで5月18日、
鷲津砦と丸根砦の間を突破して、
小荷駄を城中に送り込み、
全軍無事に引上げました。
翌19日、丸根の砦を攻め落とし、
朝比奈泰能は鷲津の砦を攻め落としました。
今川義元が織田信長に討たれた際、
大高城で休息中であった松平元康は、
大高城から撤退します。





【岡崎城への帰還】
その後、今川軍が放棄した岡崎城に入ると
独自の軍事行動をとり始めます。
早い段階で今川からの独立を
果たそうとするのでした。
こうした動きを見て
桶狭間の戦いの直後から、
松平元康は今川・織田両氏に対して
軍事行動を行う
両面作戦を行ったとする説もあります。
更に近年の新説として、
桶狭間での勝利に乗じた
織田軍の三河侵攻を警戒した
今川氏真がこれに備えるために
松平元康の岡崎城帰還を
許したとする説もあります。

【東西三河攻略】
永禄4年(1561年)2月、
松平元康は将軍・足利義輝
嵐鹿毛とよばれる駿馬を献上して
室町幕府との直接的な関係を築くことで、
独立した領主として
幕府に認めて貰おうとしています。
4月、松平元康は東三河における
今川方の拠点であった牛久保城を攻撃し、
更に藤波畷の戦いなどに勝利して、
西三河の諸城も攻略するのでした。

【清洲同盟】
永禄5年(1562年)には、
先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ
伯父である水野信元の仲介もあり、
今川氏と断交して信長と同盟を結びました。
一方、将軍である足利義輝や北条氏康
松平・今川両氏の和睦を
図りましたが実現しませんでした。

【家康へ】
翌年には、
今川義元からの偏諱である
「元」の字を返上して
元康から家康と名を改めました。

【三河国の統一】
永禄7年(1564年)、
三河一向一揆が勃発しましたが、
苦心の末にこれを鎮圧します。
こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、
対今川氏の戦略を推し進めていきます。
東三河の戸田氏や西郷氏を抱き込みながら、
軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような
敵対勢力を排除していきます。
遠江国で発生した遠州忿劇と称された
国衆の反乱の影響で三河国への対応に遅れる
今川氏との間で宝飯郡を主戦場とした
攻防戦を繰り広げた後、
永禄9年(1566年)までには
東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、
三河国を統一しました。
この際に松平家康は、
西三河衆(旗頭:石川家成(後に石川数正))、
東三河衆(旗頭:酒井忠次)、
旗本の三備の制への軍制改正を行い、
旗本には旗本先手役を新たに置いたのでした。

【「徳川」への改姓】
松平家は祖父の清康の時代から
「新田氏支流世良田氏系統の清和源氏」
であると自称していました。
けれども正親町天皇より
「清和源氏の世良田氏が
三河守を任官した前例はない」
と拒否されたのでした。
そこで家康は近衛前久に相談します。
近衛前久は対処したが、
吉田兼右が万里小路家で先例に当たる
系譜文書
「徳川(根元は得川)は源氏だが
もう一つの流れに藤原氏になった例がある」
を発見し写しを譲渡され
申請に使用したのでした。
この得川の末だと藤原氏を名乗る
特例ともいえる措置を得て、
家康は従五位下三河守に叙任されました。
この先例とされたのは
松平氏の祖とされる
新田氏庶流の世良田三河守頼氏で、
藤原氏となったのは嫡男有氏とその弟教氏で、
松平清康の世良田改姓と
つなげたとの説があります。
この勅許に関連した改姓で
当面は徳川姓を名乗るのは家康一人であり、
松平氏一族や家臣団統制に役立ちました。
この改姓に伴い家康は「本姓」を
「藤原氏」としていましたが、
後に源氏に復しました。

生品神社 境内

【織田氏の援軍として】
永禄11年(1568年)、
織田信長が室町幕府13代将軍である足利義輝の
弟の足利義昭を奉じて上洛の途につくと、
徳川家康も織田信長への援軍として
松平信一を派遣しました。

武田信玄との同盟と手切れ】
同年12月6日、
甲斐国の武田信玄が
駿河今川領への侵攻を開始すると、
徳川家康は酒井忠次を取次役に
遠江割譲を条件として武田氏と同盟を結び、
13日、遠江国の今川領へ侵攻し
曳馬城を攻め落とし、
軍を退かずに遠江国で越年したのでした。

武田氏との今川領分割に関して、
徳川氏では大井川を境に
東の駿河国を武田領、
西の遠江国を徳川領とする協定を
結んでいたとされています。
けれども永禄12年(1569年)1月8日、
信濃国から武田家臣・秋山虎繁(信友)による
遠江国への侵攻を受け、
武田氏とは手切となったのでした。

【遠江今川領への侵攻】
5月に駿府城から本拠を移した
今川氏真の掛川城を攻囲しました。
籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて
今川氏真を降し、遠江国を支配下に置きました。
今川氏真と和睦すると徳川家康は
北条氏康の協力を得て武田軍を退けました。
以来、東海地方における
織田・徳川・武田の関係は、
織田と他2者は同盟関係にありましたが、
徳川と武田は敵対関係で推移していきます。

【出世城・浜松城の築城】
元亀元年(1570年)、
岡崎から遠江国の曳馬に移ると、
ここを浜松と改名し、
浜松城を築いてこれを本城としました。
今川氏真も浜松城に迎え庇護します。
また織田信長を助け、
金ヶ崎の戦いに参戦したほか、
朝倉義景浅井長政の連合軍との
姉川の戦いでは
活躍を見せたのでした。

姉川合戦の地

【武田氏との戦い】
徳川家康は北条氏と協調して
武田領を攻撃していましたが、
武田氏は元亀2年(1571年)末に
北条氏との甲相同盟を回復すると
駿河今川領を確保しました。
織田信長と反目した将軍の足利義昭が
武田信玄、朝倉義景、浅井長政、石山本願寺
反織田勢力を糾合して信長包囲網を企てた際、
徳川家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めました。
けれども徳川家康はこれを黙殺し、
織田信長との同盟関係を維持したのでした。

【武田氏の三河国侵攻】
元亀3年(1572年)10月、
武田氏が徳川領である
遠江国・三河国へ侵攻を開始しました。
これにより武田氏と織田氏は手切となりました。
徳川家康は織田信長に援軍を要請します。
けれども織田信長も包囲網への対応に苦慮しており、
更には武田軍に美濃国岩村城を攻撃されたことから
十分な援軍は送られませんでした。

一言坂の戦い
徳川軍は単独で武田軍と戦うこととなるのでした。
徳川軍は遠江国に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、
天竜川を渡って見附(磐田市)にまで進出します。
浜松の北方を固める要衝である
二俣城を取られることを避けたい徳川軍が、
武田軍の動向を探るために
威力偵察に出たところを武田軍と遭遇し、
一言坂で敗走しました。





【二俣城の落城】
遠江方面の武田軍本隊と同時に、
武田軍別働隊が侵攻する
三河方面への防備を充分に
固められないまま、
この戦いを機に徳川軍の劣勢は
確定してしまいます。
そして12月、二俣城は落城したのでした。

三方ヶ原の戦い
そしてようやく織田信長から
佐久間信盛、平手汎秀率いる援軍が
送られてきたころ、
別働隊と合流した武田軍本隊が
浜松城へ近づきつつあったのでした。
対応を迫られる徳川軍に対して、
武田軍は浜松城を悠然と素通りして
三河国に侵攻するかのように
転進していきました。
これを聞いた徳川家康は、
佐久間信盛らが籠城を唱えるのに反して
武田軍を追撃しますが、その結果、
鳥居忠広、成瀬正義や、
二俣城の戦いで開城の恥辱を雪ごうとした
中根正照、青木貞治といった家臣をはじめ
1000人以上の死傷者を出し、
平手汎秀といった織田軍からの援将が戦死し、
徳川・織田連合軍は惨敗したのでした。
徳川家康は夏目吉信に代表されるように、
身代わりとなった家臣に助けられ、
命からがら浜松城に逃げ帰ったということです。
武田勢に浜松城まで追撃されましたが、
帰城してからの徳川家康は冷静さを取り戻し、
「空城計」を用いることによって
武田軍にそれ以上の追撃を断念させたとのことです。

【武田信玄の死去】
浜名湖北岸で越年した後、
三河国への進軍を再開した武田軍によって
三河国設楽郡の野田城を2月に落とされ、
城主・菅沼定盈が拘束されました。
ところがその後武田軍は、
武田信玄の発病によって長篠城まで退き、
武田信玄の死去により撤兵したのでした。
武田軍の突然の撤退は、
徳川家康に信玄死去の疑念を抱かせたといいます。
その生死を確認するため徳川家康は
武田領である駿河国の岡部に侵攻・放火し、
三河国では長篠城を攻めました。
そして、これら一連の行動で
武田軍の抵抗がほとんどなかったので、
武田信玄の死を確信したとのことです。
そこで徳川家康は、
武田氏に与していた奥三河の豪族で
山家三方衆の一角である
奥平貞能・貞昌親子を調略し、再属させました。
奪回した長篠城には奥平軍を配し、
武田軍の再侵攻に備えさせたのでした。

【家康と武田氏の攻防】
武田氏の西上作戦の頓挫により、
織田信長は反織田勢力を撃滅し、
徳川家康も勢力を回復して
長篠城から奥三河を奪還し、
駿河国の武田領まで迫ってきました。
これに対して武田信玄の後継者である
武田勝頼も攻勢に出て、
天正2年(1574年)には東美濃の明智城
遠江高天神城を攻略し、
徳川家康と武田氏は攻防を繰り返しました。

【家康、武田氏に対して優位になる】
天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは
主力を持って武田氏と戦い、
武田氏は宿老層の主要家臣を数多く失う大敗を喫し、
駿河領国の動揺と外交方針の転換に迫られました。
一方、徳川家康は戦勝に乗じて
光明・犬居・二俣といった城を奪取攻略し、
殊に諏訪原城を奪取したことで、
高天神城の大井川沿いの補給路を封じ、
武田氏への優位を築いたのでした。

【織田信長が主君の立場に・・】
なお、徳川家康は、
長篠城主の奥平貞昌(信長の偏諱を賜り信昌と改名)
の戦功に対する褒美として、
名刀・大般若長光を授けて賞しました。
更に、翌年には築山殿との間に生まれた
長女・亀姫を正室とさせています。
けれども、このころから、
織田信長との関係が対等ではなく、
織田信長を主君とする立場となります。
軍事行動でもこれ以前は
将軍足利義昭の要請での軍事援助という形式でしたが、
以後は織田信長臣下としての参軍となるのでした。





【謙信の死去と甲相同盟の破綻】
天正6年(1578年)、
越後上杉氏で急死した
上杉謙信の後継者を争う御館の乱が発生し、
武田勝頼は北信濃に出兵し乱に介入します。
上杉謙信の養子である上杉景勝(謙信の甥)が
武田勝頼と結んで乱を制し、
同じく養子の上杉景虎(謙信の姪婿で後北条氏出身)
を敗死させたことで
武田・北条間の甲相同盟は破綻しました。
翌年の天正7年(1579年)9月、
北条氏は徳川家康と同盟を結びます。
この間に徳川家康は横須賀城などを築き、
多数の付城によって、
高天神城への締め付けを強化しました。

春日山城址

【信長からの正室の殺害と嫡男の切腹命令】
また同じころ、
織田信長から正室である築山殿と
嫡男である松平信康に対して
武田氏への内通疑惑がかけられたとされています。
徳川家康は酒井忠次を使者として、
織田信長と談判させましたが、
織田信長からの詰問を酒井忠次は
概ね認めたために松平信康の切腹が通達され、
徳川家康は熟慮の末、
織田信長との同盟関係維持を優先し、
築山殿を殺害し、松平信康を切腹させたのでした。

高天神城の戦い
岩村城の戦い以降に、
織田氏と武田氏は大規模な抗争をしておらず、
小田原北条氏との対立をも抱える事にもなった
武田勝頼は人質にしていた
織田信長の五男・勝長を返還するなど
織田氏との和睦(甲江和与)を模索していました。
けれども、織田信長はこれを黙殺し、
天正9年(1581年)、
降伏・開城を封じた上での総攻撃によって
徳川家康は高天神城を奪回しました。

高天神城落城、
しかも後詰を送らず見殺しにしたことは
武田氏の威信を致命的に失墜させ、
国人衆は大きく動揺したとのことです。
木曾義昌の調略成功をきっかけに、

【甲州征伐】
天正10年(1582年)2月、
織田信長は徳川家康と共同で
武田領へ本格的侵攻を開始しました。
織田軍の信濃方面からの侵攻に呼応して
徳川軍も駿河方面から侵攻し、
武田軍の蘆田信蕃(依田信蕃)の田中城を
成瀬正一らの説得により大久保忠世が引き取り、
さらに甲斐南部の
河内領・駿河江尻領主の穴山信君(梅雪)を
調略によって離反させるなどして
駿河領を確保しました。
武田勝頼一行は
同年3月に自害して武田氏は滅亡。
徳川家康は3月10日に
穴山梅雪とともに甲府へ着陣。
織田信長は甲斐の仕置を行うと
中道往還を通過して帰還したのでした。

【駿河国拝領と信長への接待】
徳川家康はこの戦功により駿河国を与えられ、
駿府において織田信長を接待しています。
また、徳川家康はこの接待のために
莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営しました。
織田信長はこの接待をことのほか喜んだとのことです。

また遅くともこの頃には、
三河一向一揆の折に出奔した本多正信が、
徳川家に正式に帰参しています。

本能寺の変
天正10年(1582年)5月、
駿河拝領の礼のため、
織田信長の招きに応じて降伏した
穴山梅雪とともに居城・安土城を訪れました。
6月2日、堺を遊覧中に京で
本能寺の変が起こりました。

【神君伊賀越え】
このときの徳川家康の供は
小姓衆など少人数であったため、
極めて危険な状態となり、
一時は狼狽して
織田信長の後を追おうとしたとも
伝えられています。
けれども、本多忠勝に説得されて翻意し、
服部半蔵の進言を受け、
伊賀国の険しい山道を越えて、
加太越を経て伊勢国から海路で
三河国に辛うじて戻ったのでした。





【秀吉が光秀を討つ】
その後、徳川家康は明智光秀を討つために
軍勢を集めて尾張国鳴海まで進軍しましたが、
このとき中国地方から帰還した
羽柴秀吉によって、
明智光秀がすでに討たれたことを知ったのでした。

天正壬午の乱
一方、織田氏の領国となっていた
旧武田領の甲斐国と信濃国では
大量の一揆が勃発しました。
さらに、越後国の上杉氏、
相模国の北条氏も旧武田領への
侵攻の気配を見せたのでした。
旧武田領国のうち上野一国と
信濃小県郡・佐久郡の支配を
担っていた滝川一益は、
旧武田領を治めて
まだ3ヶ月ほどしか経っておらず、
軍の編成が済んでおらず、
更には武田遺臣による
一揆が相次いで勃発し、
滝川配下であった信濃国の森長可
毛利秀頼は領地を捨て畿内へ敗走しました。
また、甲斐一国と信濃諏訪郡支配を担った
河尻秀隆は一揆勢に敗れ戦死するなど
緊迫した状況にあったのでした。
こうした中、更なる追い打ちをかけるように、
織田氏と同盟関係を築いていた北条氏が
一方的に同盟を破り、
北条氏直率いる6万の軍が
武蔵・上野国境に襲来したのでした。
滝川一益は北条氏直を迎撃、
緒戦に勝利するも敗北し、
尾張国まで敗走しました。
このため、甲斐・信濃・上野は
領主のいない空白地帯となり、
徳川家康は武田氏の遺臣である
岡部正綱や依田信蕃、
甲斐国の辺境武士団である
武川衆らを先鋒とし、
自らも8000人の軍勢を率いて
甲斐国に攻め入ったのでした。

一方、甲斐・信濃・上野が
空白地帯となったのを見た北条氏直も、
叔父・北条氏規北条氏照
5万5000人の軍勢を率いて
碓氷峠を越えて信濃国に侵攻しました。
北条軍は上杉軍と川中島で対峙した後に
和睦し、南へ進軍していきました。
徳川家康は甲府の尊躰寺・一条信龍屋敷に
本陣を置いていましたが、
新府城(韮崎市中田町中條)に本陣を移して
七里岩台上の城砦群に布陣し、
若神子城(北杜市須玉町若神子)に
本陣を置く北条勢と対峙しました。

【5か国を領有する大大名となる】
徳川軍と北条軍の
全面対決の様相となりましたが、
依田信蕃の調略を受けて滝川配下から
北条に転身していた真田昌幸
徳川軍に再度寝返り、
その執拗なゲリラ戦法の前に
戦意を喪失した北条軍は、
板部岡江雪斎を使者として
徳川家康に和睦を求めました。
和睦の条件は、上野国を北条氏が、
甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、
徳川家康の次女である督姫
北条氏直に嫁ぐというものでした。
こうして、徳川家康は北条氏と
縁戚及び同盟関係を結び、
同時に甲斐・信濃(北信濃四郡は上杉領)
駿河・遠江・三河の5ヶ国を領有する
大大名へと成ったのでした。

羽柴秀吉柴田勝家を破る】
織田信長死後の織田政権においては、
織田家臣の羽柴秀吉が台頭し、
羽柴秀吉は織田信長次男である織田信雄と手を結び、
天正11年(1583年)には
織田家筆頭家老であった柴田勝家を
賤ヶ岳の戦いで破り、
さらなる影響力を強めていきました。

柴田勝家公

【織田信雄と手を結ぶ】
織田信雄は天正壬午の乱において、
徳川家康と北条氏の間を仲裁しており、
賤ヶ岳の戦い後の織田政権においては
織田信長の嫡孫である三法師織田秀信)を
推戴する羽柴秀吉と対立し、
織田信雄は徳川家康に接近して
羽柴秀吉に対抗したのでした。

小牧・長久手の戦い
天正12年(1584年)3月、
織田信雄が秀吉方に通じたとする家老を
粛清した事件を契機に合戦が起こり、
徳川家康は3月13日に
尾張国へ出兵し信雄と合流。
当初、両勢は北伊勢方面に出兵していましたが、
17日には徳川家臣である酒井忠次が
秀吉方の森長可を撃破し、
徳川家康は28日に
尾張国小牧(小牧山)に着陣しました。

羽柴秀吉率いる羽柴軍本隊は、
尾張犬山城を陥落させると楽田に布陣し、
4月初めには森長可・池田恒興らが
三河国に出兵しました。
4月9日には長久手において両軍は激突し、
徳川軍は森・池田勢を撃退しました。

小牧・長久手の戦いは、
羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま推移し、
一方で徳川家康は北条氏や
土佐国の長宗我部氏ら
遠方の諸大名を迎合していきました。
また羽柴秀吉もこれに対して、
越後国の上杉氏や安芸国の毛利氏、
常陸国の佐竹氏ら徳川氏と
対抗する諸勢力に呼びかけ、
外交戦の様相を呈していったのでした。
羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の双方は
同年9月に和睦し、
講和条件として、
徳川家康の次男である於義丸(結城秀康)を
羽柴秀吉の養子としたのでした。

【豊臣政権の確立】
戦後の和議は羽柴秀吉優位であったそうです。
越中国の佐々成政が自ら、
厳冬の飛騨山脈を越えて浜松の徳川家康を訪ね、
羽柴秀吉との戦いの継続を訴えましたが、
徳川家康は承諾しなかったとのことです。
天正13年(1585年)、
紀伊国の雑賀衆や土佐国の長宗我部元親
越中国の佐々成政ら、
小牧・長久手の戦いにおいて
徳川家康が迎合した諸勢力は
羽柴秀吉に服属しています。
さらに羽柴秀吉は7月11日に関白に補任され、
豊臣政権を確立するのでした。





【第一次上田合戦】
これに対して徳川家康は、
東国において武田遺領の甲斐・信濃を含めた
5ヶ国を領有し相模国の北条氏とも
同盟関係を築いていましたが、
北条氏との同盟条件である
上野国沼田(群馬県沼田市)の割譲に対して、
沼田を領有していた
信濃国上田城主・真田昌幸が
上杉氏・秀吉方に帰属して抵抗していました。
徳川家康は大久保忠世・鳥居元忠平岩親吉らの
軍勢を派兵して上田を攻めましたが、
真田昌幸の抵抗や上杉氏の増援などにより
撤兵となりました。
また同年には、
徳川家康は背中の腫れ物の病で苦しみ、
重篤となりましたが、最終的には治りました。

【領国の荒廃】
勢力圏拡大の一方で、
徳川氏の領国では
天正11年(1583年)から
天正12年(1584年)にかけて
地震や大雨に見舞われました。
特に天正11年5月から7月にかけて
関東地方から東海地方一円にかけて
大規模な大雨が相次ぎ、
徳川氏の領国も
「50年来の大水」に見舞われたのでした。
その状況下で北条氏や
豊臣政権との戦いをせざるを得なかった
徳川氏の領国の打撃は深刻だったそうです。
徳川氏領国の荒廃は、
豊臣政権との戦いの継続を困難にし、
国内の立て直しを迫られることになったのでした。

【家康が武田軍を見習った理由】
徳川家康の厳しい情勢が続く中、
豊臣秀吉は徳川家康に対して
更なる人質の差し出しを求め、
徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら
豊臣政権に対する強硬派と
石川数正ら融和派に分裂したのでした。
さらに豊臣秀吉方との和睦の風聞は
北条氏との関係に
緊張を生じさせていたとのことです。
しかも、同年11月13日には、
石川数正が出奔して
豊臣秀吉に帰属する事件が発生しました。
この事件で徳川軍の機密が
筒抜けになってしまった事から、
軍制を刷新し、
武田軍を見習ったものに改革したとのことです。

【秀吉の家康臣従政策】
天正14年(1586年)に入ると、
豊臣秀吉は織田信雄を通じて
徳川家康の懐柔を試みます。
4月23日には、
臣従要求を拒み続ける徳川家康に対して
豊臣秀吉は実妹である朝日姫(南明院)を
正室として差し出します。
徳川家康もこれを室として迎え、
豊臣秀吉と徳川家康は義兄弟となるのでした。
さらに10月18日には、
豊臣秀吉が生母・大政所
朝日姫の見舞いとして岡崎に送ります。
徳川家康も24日に浜松を出立し上洛しています。

徳川家康は10月26日に大坂に到着し、
豊臣秀長邸に宿泊しています。
その夜には豊臣秀吉本人が
徳川家康に秘かに会いにきて、
改めて臣従を求めたとされています。
こうして徳川家康は完全に
豊臣秀吉に屈しました。
10月27日、
大坂城において豊臣秀吉に謁見し、
諸大名の前で
豊臣氏に臣従することを表明したのでした。
この謁見の際に徳川家康は、
豊臣秀吉が着用していた陣羽織を所望し、
今後豊臣秀吉が陣羽織を着て
合戦の指揮を執るようなことはさせない、
という意思を示し、
諸侯の前で忠誠を誓ったとあります。

【豊臣家臣時代】
天正14年(1586年)11月1日、
京へ上り、11月5日に正三位に叙されました。
このとき、多くの徳川家康の家臣も
叙任されたとのことです。
11月11日には三河国に帰還し、
11月12日には大政所
豊臣秀吉の元へ送り返しています。
12月4日、本城を17年間過ごした浜松城から
隣国である駿河国の駿府城へ移しました。
本城を移した理由ですが、
出奔した石川数正が
浜松城の軍事機密を知り尽くしており、
それに備えたとする説があるとのことです。





【駿河大納言】
天正15年(1587年)8月、
再び上洛し、豊臣秀吉の推挙により
朝廷から8月8日に
従二位・権大納言に叙任され、
所領から駿河大納言と
呼ばれるようになりました。
この際、豊臣秀吉から
羽柴の名字を下賜されました。

【駿府左大将】
同年12月3日、豊臣政権より
関東・奥両国惣無事令が出され、
徳川家康に関東・奥両国(陸奥国・出羽国)
の監視が託されることになりました。
12月28日、
豊臣秀吉の推挙により
さらに朝廷から左近衛大将および
左馬寮御監に任ぜられたとのことです。
このことにより、
このころの徳川家康は
駿府左大将と呼ばれたとのことです。

【家康、北条氏政・氏直父子に恭順を促す】
徳川家康は北条氏と
縁戚関係にある経緯から、
北条氏政・氏直父子宛ての
5月21日付起請文で、
以下の内容で北条氏に
豊臣秀吉への恭順を促しました。

徳川家康が北条親子の事を讒言せず、
北条氏の分国(領国)を一切望まない。
今月中に兄弟衆を京都に派遣する。
豊臣家への出仕を拒否する場合
娘(氏直に嫁いだ督姫)を離別させる。

小田原征伐
徳川家康の仲介は、北条氏政の弟であり
徳川家康の旧友でもある北条氏規を
上洛させるなど
ある程度の成果を挙げたのですが、
北条氏直は豊臣秀吉に
臣従には応じませんでした。
天正18年(1590年)1月、
徳川家康は嫡男とみなされていた
三男の長丸(後の徳川秀忠)を上洛させて
事実上の人質とさせることで改めて
豊臣秀吉への臣従の意思を明確にして
北条氏とは事実上の断交となりました。
これを受けた豊臣秀吉は北条氏討伐を開始。
徳川家康も豊臣軍の先鋒を務めると共に
自分の城を提供し、
4月には吉川広家が豊臣家の城番として
岡崎城に入城しています。

【五ヶ国総検地】
小田原征伐の前、
天正17年(1589年)7月から翌年にかけて
「五ヶ国総検地」と称せられる
大規模な検地を断行しています。
これは想定される北条氏討伐に対する
準備であると同時に、
領内の徹底した実情把握を
目指したものであるとのことです。
最も、この直後に豊臣秀吉によって
関東へ領地を移封されてしまい、
成果を生かすことはできなませんでした。
けれどもここで得た知識や方法や経験は
新領地の関東統治に生かされていくことになります。

【関八州に移封となる】
天正18年(1590年)7月5日
の北条氏降伏後、
豊臣秀吉の命令で、
駿河国・遠江国・三河国
甲斐国・信濃国(上杉領の川中島を除く)
の5ヶ国を召し上げられ、
北条氏の旧領であった
武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国
下総国・下野国の一部・常陸国
の一部の関八州に移封されました。
徳川家康の関東移封の噂は実は、
小田原征伐の前からあったそうで、
徳川家康も北条氏との交渉で、
自分には北条領への野心はないことを
弁明していましたが、
結局は北条氏の旧領国に
移されることになりました。

浜離宮 風景

【移封の拒絶が出来ない理由】
豊臣秀吉は関東・奥羽の惣無事という
目的を達成するために
徳川家康に関東の安定と奥羽の抑えを
期待したと考えられています。
一方、徳川家康は豊臣政権から
政治的・軍事的保護を得ている以上、
移封を拒絶することは出来なかったのでした。
最も、関東移封に関しては流動的な側面があり、
その後も奥羽情勢の悪化に伴って
陸奥国への再移封の噂が
徳川家中に流れでたとも
記述されている史料もあるそうです。

【移封で得たもの、失ったもの】
この移封によって数字の上では
三遠駿と甲信(上杉の北信を除く)
119万石から関東250万石への
類を見ない大幅な加増を受けたことになります。
けれども、徳川氏に縁の深い三河国を失い、
さらに当時の関東には
北条氏の残党などによって
不穏な動きがありました。
しかも北条氏は四公六民という
当時としては極めて低い税率を採用しており、
これをむやみに上げるわけにもいかず、
石高ほどには実収入を見込めない状況でした。
従って、この移封は豊臣秀吉の徳川家康に対する
優遇策か冷遇策かという議論があります。

古河公方以来の役割を家康に担わせる?】
一説には、鎌倉幕府の成立以来、
西国政権が東国を一元支配した例は無く、
古河公方の断絶とともに機能停止していた
室町幕府の鎌倉府と同様の役割を
東国に通じた徳川家康に担わせようとしたと
する説もあります。

古河公方館跡

【家康、武蔵江戸城へ】
この命令に従って関東に移り、
北条氏が本城とした相模小田原城ではなく、
武蔵江戸城を居城としました。
なお、小田原合戦中に秀豊臣秀吉が
自らの「御座所」を
江戸に設ける構想を示しており、
江戸城を徳川家康の本拠地としたのも
豊臣秀吉の積極的な意向が
あったとのことです。





【家康、関東の統治へ乗り出す】
江戸へ入府した徳川家康は、
関東の統治に際して、
有力な家臣を重要な支城に配置したとともに、
直轄地には大久保長安伊奈忠次・長谷川長綱
彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら
有能な家臣を代官に抜擢することで難なく統治し、
関東はこの後、現在に至るまで
大きく発展を遂げていくことになります。
ちなみに、関東における四公六民という
北条氏の定めた低税率は、
徳川吉宗の享保の改革で
引き上げられるまで継承されました。

【奥州再仕置軍】
天正19年(1591年)6月20日、
豊臣秀吉は奥州での一揆鎮圧のため
号令をかけて豊臣秀次を総大将とした
奥州再仕置軍を編成しました。
徳川家康も豊臣秀次の軍に加わり、
葛西大崎一揆和賀・稗貫一揆
仙北一揆、藤島一揆、九戸政実の乱などの
鎮圧に貢献しました。

【朝鮮出兵時には家康、渡海せず】
文禄元年(1592年)から
豊臣秀吉の命令により朝鮮出兵が開始されました。
が、徳川家康は渡海することなく
名護屋城に在陣しただけでした。
「家忠日記」によりますと、この時に
伊達政宗南部信直・上杉景勝・佐竹義宣
徳川家康の指揮下あったと記されているそうです。

【豊臣秀次事件がもたらしたもの】
文禄4年(1595年)7月、
「秀次事件」が起きました。
豊臣政権を揺るがす大事件となりました。
そこで豊臣秀吉は諸大名に上洛を命じ、
事態の鎮静化を図ります。
徳川家康も豊臣秀吉の命令で上洛しました。
これ以降、開発途上の居城・江戸城よりも
伏見城に滞在する期間が長くなりました。
豊臣政権における徳川家康の立場が
高まっていたのと同時に、
徳川家康自身も、
政権の中枢に身を置くことにより
中央政権の政治構造を
直接学ぶ機会ともなったとのことです。

【江戸の内府】
慶長元年(1596年)5月8日、
豊臣秀吉の推挙により内大臣に任ぜらました。
これ以後は江戸の内府と呼ばれることとなります。

【再びの朝鮮出兵も渡海せず】
慶長2年(1597年)、
再び朝鮮出兵が開始されました。
日本側は前回の反省を踏まえ、
初期の攻勢以降は前進せず、
朝鮮半島の沿岸部で地盤固めに注力しました。
このときも徳川家康は渡海しませんでした。

【五大老・五奉行の制度】
慶長3年(1598年)、
豊臣秀吉は病に倒れました。
そのため自身没後の豊臣政権を磐石にするため、
後継者である豊臣秀頼を補佐するための
五大老・五奉行の制度を7月に定め、
五大老の一人に徳川家康を任命しました。
8月に秀吉が死ぬと五大老・五奉行は
朝鮮からの撤退を決め、撤退しました。
結果的に徳川家康は兵力・財力などの消耗を免れ、
自国を固めることができたのでした。
けれども渡海を免除されたのは
徳川家康だけではなかったのでした。
一部の例外を除くと東国の大名は名護屋残留でした。





【秀吉死後は五大老筆頭】
豊臣秀吉の死後、
内大臣の家康が朝廷の官位でトップになり、
また豊臣秀吉から
「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」
という遺言を受けていたため、
五大老筆頭と目されるようになりました。
また生前の豊臣秀吉により
文禄4年(1595年)8月に禁止と定められた、
大名家同士の婚姻を行いました。
その内容は次の通りです。
なお婚約した娘は、全て徳川家康の養女となりました。

伊達政宗の長女・五郎八姫=
徳川家康の六男・松平忠輝

松平康元(徳川家康の甥)の娘=
福島正之(福島正則の養子)。

蜂須賀至鎮蜂須賀家政の世子)=
小笠原秀政の娘(徳川家康の外孫で養女)。

水野忠重(徳川家康の叔父)の娘と加藤清正

保科正直の娘・栄姫(徳川家康の姪で養女)=
黒田長政(黒田孝高の嫡男)。

【「専横」対策】
このころより徳川家康は、
細川忠興島津義弘増田長盛らの屋敷にも
頻繁に訪問するようになりました。
こうした政権運営をめぐって、
大老である前田利家や五奉行の石田三成らより
「専横」(わがままで横暴な振舞い・態度)
との反感を買い、
慶長4年(1599年)1月19日、
徳川家康に対して三中老の堀尾吉晴らが
問罪使として派遣されましたが、
逆に堀尾吉晴らを恫喝して
追い返したとのことです。
前田利家らと徳川家康は
2月2日には誓書を交わし、
前田利家が徳川家康を、
徳川家康が前田利家を相互に訪問。
さらに徳川家康は向島へ退去することで
この一件は和解となりました。

【石田三成屋敷の襲撃事件】
3月3日の前田利家病死直後、
福島正則や加藤清正ら7将が、
大坂屋敷の石田三成を殺害目的で
襲撃する事件が起きました。
石田三成は佐竹義宣の協力で大坂を脱出して
伏見城内の治部少丸に逃れましたが、
徳川家康の仲裁により
石田三成は奉行の退任を承諾して
佐和山城に蟄居することになりました。
退去の際には護衛役として
徳川家康の次男である
結城秀康があたったとのことです。

【徳川家康への高評価】
結果として石田三成を失脚させ、
最も中立的と見られている
北政所の仲裁を受けたことにより、
結論の客観性(正当性)が得られ、
徳川家康の評価も高まり、
同時に石田三成を生存させることによって
豊臣家家臣同士の対立が
継続することになりました。
もっとも、徳川家康と石田三成は
対立一辺倒ではなく協調を模索する時期もあり、
徳川家康は中立的な立場からの解決して
双方の均衡を保とうとしましたが、
それが却って政争を悪化させたとする
見方もあるとのことです。

石田三成公

【石田三成邸に宿泊】
9月7日、
「増田・長束両奉行の要請」として大坂に入り、
石田三成の大坂屋敷を宿所としました。
9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、
重陽の節句における祝意を述べました。
9月12日には三成の兄・石田正澄の
大坂屋敷に移り、
9月28日には大坂城・西の丸に移り、
大坂で政務を執ることになりました。

【前田家が徳川家の支配下に】
9月9日に登城した際、
前田利長浅野長政大野治長・土方雄久の
4名が徳川家康の暗殺を企んだと
増田・長束両奉行より密告があったとして、
10月2日に浅野長政を隠居の上、
徳川領の武蔵府中で蟄居させ、
大野治長は下総国の結城秀康のもとに、
土方雄久は常陸国水戸の
佐竹義宣のもとへ追放としました。
さらに前田利長に対しては
加賀征伐を企図しましたが、
前田利長が生母である芳春院を
江戸に人質として差し出し、
出兵は取りやめとなったのでした。
これを機に前田氏は完全に
徳川家康の支配下に組み込まれたと
見なされたのでした。





【諸大名への加増】
またこのころ、
豊臣秀頼の名のもとで
諸大名への加増を行っています。

対馬国の宗義智に1万石を加増。
その家臣の柳川智永を
従五位下豊前守に叙任(豊臣姓)。
遠江国・浜松12万石の堀尾吉晴に
越前国・府中5万石を加増。
美濃国・金山7万石の森忠政
信濃国・川中島13万7000石に加増移封。
丹後国・宮津の細川忠興に
豊後国・杵築6万石を加増。
薩摩国・大隅の島津義久に5万石を加増。

【ウィリアム・アダムス(三浦安針)との出会い】
慶長5年(1600年)3月、
豊後国に南蛮船(オランダ船)の
リーフデ号が漂着。
徳川家康はリーフデ号を大阪へ移し、
航海長のウィリアム・アダムス(後の三浦安針)や
船員のヤン・ヨーステンは
徳川家康に厚遇され、
外交上の諮問にこたえるようになりました。
特にウィリアム・アダムスは
航海や水先案内の技術だけでなく、
数学と天文学も得意としていたことから
徳川家康にヨーロッパの科学知識や
技術を伝えたり、
西洋船を作ったりして、
徳川家康から特別に大切にされたのでした。

関ヶ原の戦い
【上杉の不穏な動き】
慶長5年(1600年)3月、
越後国の堀秀治から会津の
上杉景勝の重臣である直江兼続
越後にあった年貢の下半期分まで
持ち出された訴えを、
出羽国の最上義光らからは
会津の軍備を増強する
不穏な動きがあるという
知らせを受けました。
更に上杉氏の家臣で
津川城城代を務め、
徳川家康とも懇意にあった
避戦派の藤田信吉、栗田国時の二人が、
会津から江戸の徳川秀忠の元へ
上杉の行動に関する
釈明をしようとする途中で、
直江兼続の仕向けた使者達に襲撃され、
栗田国時が殺害される
事件まで起きたのでした。

【上杉氏征伐へ】
これに対して徳川家康は、
伊奈昭綱を正使として
上杉景勝の元へ問罪使を派遣しました。
ところが、
既に徳川との一戦を固めていた直江兼続が、
「直江状」呼ばれる挑発的な文書を記した
書簡を返書として
送ったことから徳川家康は激怒。
上杉景勝に叛意があることは
明確であるとして
会津征伐を宣言したのでした。
これに際して後陽成天皇から
出馬慰労として晒布が下賜され、
豊臣秀頼からは黄金2万両、
兵糧米2万石を下賜されました。
これにより、朝廷と豊臣氏から
徳川家康の上杉氏征伐は
「豊臣氏の忠臣である家康が謀反人の景勝を討つ」
という大義名分を得た形となったのでした。

【遅い進軍】
6月16日、徳川家康は
大坂城・京橋口から軍勢を率いて
上杉氏征伐に出征し、
同日の夕刻には伏見城に入りました。
ところが、6月23日に浜松、
6月24日に島田、6月25日に駿府、
6月26日に三島、6月27日に小田原、
6月28日に藤沢、6月29日に鎌倉、
7月1日に金沢、7月2日に江戸という、
遅い進軍を行ったのでした。

伏見城の戦い
このような遅い出兵の理由として
徳川家康に反感をもつ石田三成らの挙兵を
待っていたとの見方があるとのことです。
実際、7月に石田三成は大谷吉継とともに挙兵し、
徳川家康によって占拠されていた
大坂城・西の丸を奪い返し、
増田長盛、長束正家ら奉行衆を
説得するとともに、
五大老の一人・毛利輝元を総大将として擁立。
「内府ちかひ(違い)の条々」という
13ヶ条に及ぶ徳川家康の弾劾状を
諸大名に対して公布しました。
石田三成が挙兵すると、
徳川家康古参の重臣である
鳥居元忠が守る伏見城が
4万の軍勢で攻められ、
鳥居元忠は戦死し伏見城は落城しました。

<伏見城>
伏見城

小山評定
さらに石田三成らは
伊勢国、美濃国方面に侵攻しました。
徳川家康は下野国小山の陣において、
伏見城の鳥居元忠が発した使者の報告により、
石田三成の挙兵を知ったのでした。
徳川家康は重臣たちと協議した後、
上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、
「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」
として、上方に反転すると告げました。
これに対し、福島正則ら石田三成に反感をもつ
武断派の大名らは徳川家康に味方し、
こうして徳川家康を総大将とした
東軍が結成されていったのでした。

【東軍の編成】
東軍は、徳川家康の徳川直属軍と
福島正則らの軍勢、
合わせて10万人ほどで編成されていました。
そのうち一隊は、
徳川秀忠を大将とし
榊原康政大久保忠隣、本多正信らを付けて
宇都宮城から中山道を進軍させ、
結城秀康には上杉景勝、佐竹義宣に対する
抑えとして関東の防衛を託し、
徳川家康は残りの軍勢を率いて
東海道から上方に向かったのでした。
それでも徳川家康は、
動向が不明な佐竹義宣に対する危険から
江戸城に1ヶ月ほど留まり、
その間160通近い書状を
諸大名に回送しています。

岐阜城の攻略】
福島正則ら東軍は、清洲城に入ると、
西軍の勢力下にあった美濃国に侵攻し、
織田秀信が守る岐阜城を落としました。
このとき徳川家康は
織田信長の嫡孫であるとして
織田秀信の命を助けています。

<岐阜城>
夕方の岐阜(稲葉山)城

杭瀬川の戦い
9月、徳川家康は江戸城から出陣し、
11日に清洲、14日には美濃赤坂に着陣しました。
前哨戦として石田三成の家臣である島左近
宇喜多秀家の家臣である明石全登が奇襲し、
それに対して東軍の中村一栄、
有馬豊氏らが迎撃しましたが敗れ、
中村一栄の家臣である
野一色助義が戦死しています。





関ヶ原での東西両軍の決戦開始】
9月15日午前8時頃、
美濃国関ヶ原において
東西両軍による決戦が繰り広げられました。
開戦当初は高所を取った
石田三成ら西軍が有利でしたが、
正午頃かねてより懐柔策をとっていた
西軍の小早川秀秋の軍勢が、
同じ西軍の大谷吉継の軍勢に
襲いかかったのを機に形成が逆転したのでした。
さらに脇坂安治朽木元綱赤座直保小川祐忠らの
寝返りもあり、大谷隊は壊滅し、
西軍は総崩れとなったのでした。
戦いの終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ
島津義弘の軍が、
徳川家康の本陣目前にまで
突撃してきましたが、
東軍の完勝に終わったのでした。

【石田三成の処刑と戦後処理】
9月18日、
石田三成の居城である
佐和山城を落として近江国に進出。
9月21日には戦場から逃亡していた
石田三成を捕縛。
10月1日、
小西行長安国寺恵瓊らと共に
六条河原で処刑されました。
その後大坂に入った徳川家康は、
西軍に与した諸大名を
ことごとく処刑・改易・減封に処し、
召し上げた所領を東軍諸将に加増分配する傍ら
自らの領地も250万石から400万石に加増。

石田光成 辞世の句

【秀頼と淀に対して】
豊臣秀頼、淀殿に対しては
「女、子供のあずかり知らぬところ」
として咎めず領地もそのままでしたが、
論功行賞により各大名家の領地に含めていた
太閤蔵入地(豊臣氏の直轄地)は
諸将に分配されました。
その結果、豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国の
3ヶ国65万石の一大名となり、
徳川家康は天下人としての立場を確立したのでした。
けれどもまだ西国大名は、
新年の挨拶に大坂城に伺候し
豊臣家が西国を支配する
二重公儀体制との説があります。

<豊臣秀頼公の像>
豊臣秀頼公の像

【徳川氏の系図の改姓】
関ヶ原の戦いの戦後処理を終わらせた
慶長5年(1601年)3月23日、
徳川家康は大坂城・西の丸を出て
伏見城にて政務を執り、
征夷大将軍として幕府を開くため、
徳川氏の系図の改姓を行っています。

【関白職】
慶長5年(1601年)12月19日、
文禄4年(1595年)に
豊臣秀次が解任されて以来、
空いたままになっていた関白に
九条兼孝が徳川家康の奏上により任じられました。
このことにより、
豊臣氏による関白職世襲を止め
旧来の五摂家に関白職が戻ったのでした。

【徳川氏の領域拡大】
慶長7年(1602年)、
関ヶ原の戦いの戦後処理で唯一、
処分が決まってなかった常陸国水戸の
佐竹義宣を出羽国久保田に減転封しました。
代わりに佐竹氏と同じく源義光の流れをくむ
武田氏を継承した
五男である武田信吉を水戸に入れました。
これによって確定した徳川氏の領域は、
一門・譜代大名の所領も含めると、
東は岩城領から関東一円、
北は南信濃から美濃国・越前国、
西は近江国・山城国・大和国と
北伊勢の桑名領を
ほぼ一円支配するものとなりました。
但し、秋田氏や里見氏などの
小規模な外様大名の支配地は除きます。

【征夷大将軍に任命】
慶長8年(1603年)2月12日、
後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として
伏見城に派遣します。
朝廷より六種八通の宣旨が下り、
徳川家康を征夷大将軍、
右大臣、源氏長者、
淳和奨学両院別当に任命しました。

【将軍拝賀の礼と饗応】
同年3月12日、伏見城から二条城に移り、
3月21日、衣冠束帯を纏い
行列を整えて御所に参内し、
将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述べました。
3月27日、二条城に勅使を迎え、
重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行いました。
4月4日から3日間、
二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗応したのでした。





【第2代将軍は徳川秀忠】
慶長10年(1605年)4月16日、
将軍職を辞するとともに朝廷に
嫡男である徳川秀忠への将軍宣下を行わせました。
将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」
ことを天下に示したのでした。
同時に豊臣秀頼に新将軍である
徳川秀忠と対面するよう要請しましたが、
豊臣秀頼はこれを拒絶。
結局、六男である松平忠輝を大坂城に派遣し、
事は収まったのでした。
なお、このとき次世代の家臣である
井伊直孝と板倉重昌も叙任されたのでした。

【大御所政治】
慶長12年(1607年)には駿府城に移って、
「江戸の将軍」に対して
「駿府の大御所」として実権を掌握し続け、
幕府の制度作りに努めています。

同年、朝鮮通信使と謁見し、
文禄・慶長の役以来断絶していた
李氏朝鮮との国交を回復しました。

【オランダとの貿易】
慶長14年(1609年)、
オランダ使節と会見。
オランダ総督・マウリッツからの
親書を受け取り、
朱印状による交易と
平戸にオランダ東インド会社の
商館の開設を許可しました。

慶長16年(1611年)3月20日、
9男・徳川義利(義直)、
10男・頼将(頼宣)、
11男・鶴松(頼房)を叙任させました。

3月22日には、
自らの祖先と称する新田義重に鎮守府将軍を、
実父・松平広忠には権大納言を贈官しました。

【豊臣秀頼との会見】
同年3月28日、
二条城にて豊臣秀頼と会見しました。
当初、豊臣秀頼はこれを
徳川秀忠の征夷大将軍任官の際の要請と同じく
拒絶する方向でいたとのことでしたが、
徳川家康は織田有楽を仲介として上洛を要請し、
淀殿の説得もあって、
ついには豊臣秀頼を上洛させることに成功しました。
この会見により、天下の衆目に、
徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを
明示したとする見解があります。

【徳川公儀による天下支配の成立】
4月12日に西国大名らに対し、
三カ条の法令を示し、
誓紙を取ったことで、
徳川公儀による天下支配が
概ね成ったともいわれています。

【イギリス商館の開設】
慶長18年(1613年)、
イギリス東インド会社のジョン・セーリスと会見。
イングランド国王である
ジェームズ1世からの親書と
献上品を受け取り、
朱印状による交易と平戸に
イギリス商館の開設を許可しました。

【大坂の陣】
【豊臣氏の存在】
最晩年を迎えていた徳川家康にとって
豊臣氏は最大の脅威であり続けた存在と言えます。
一大名の位置に転落したとはいえ、
なお特別の地位を保持しており、
実質的には徳川氏の支配下には
編入されてはいませんでした。
西国に配置した東軍の大名は
殆ど豊臣恩顧の大名でした。
また、徳川家康の将軍宣下時には、
豊臣秀頼が同時に関白に任官されるとの風説が
当然のこととして受け取られており、
徳川秀忠の将軍宣下時の官位は
内大臣でしたが、
豊臣秀頼は徳川家康の引退で空いた
右大臣を譲られており、徳川秀忠を上回っていたのでした。

【徳川家が抱える内部の問題】
さらに徳川氏は内部に問題を抱えていました。

【1.秀忠と忠輝の不仲と伊達氏】
将軍である徳川秀忠と
その弟である松平忠輝の仲は険悪でした。
また、松平忠輝の義父でもある伊達政宗は
未だ天下取りの野望を捨ててはおらず、
松平忠輝を擁立して
反旗を翻すことも懸念されていました。

【2.家光と忠長の家督問題】
また将軍家でも、徳川秀忠の子である
竹千代(後の段3代将軍の徳川家光)と
国松(後の徳川忠長)のどちらが
次の将軍になるかで対立していたのでした。

【3.キリシタンの動向】
さらに禁教としたキリシタンの動向も
無視できない存在でありました。

もしこれらが豊臣氏と結託して
打倒徳川家で立ち上がれば、
幕府にとっては大きな脅威となる
危険性があったのでした。

【豊臣氏への対策の変化】
徳川家康は当初、
徳川氏と豊臣氏の共存を
模索しているような動きがあったのでした。
そのため、諸寺仏閣の統制を
豊臣氏に任せようとしていた兆候もありました。
また、豊臣秀吉の遺言を受け、
孫娘である千姫を豊臣秀頼に嫁がせています。
けれども、豊臣氏の人々は
政権を奪われたことにより
次第に徳川家康を
警戒するようになっていました。
さらに豊臣氏は、
徳川氏との決戦に備えて
多くの浪人を雇い入れていたのです。
それが天下に乱をもたらす
準備であるとして一層、
幕府の警戒を強めていったのでした。





【豊臣恩顧の有力大名の度重なる死去】
そうした状況の中、
慶長1212年(1607年)には結城秀康、
慶長16年(1611年)には
加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、
慶長18年(1613年)には
浅野幸長池田輝政など、
豊臣恩顧の有力大名が次々と死去し、
次第に豊臣氏は孤立を深めていきました。

また、慶長17年(1612年)には
佐々成政の外孫である鷹司信尚を関白に推挙しています。

そして、慶長19年(1614年)、
方広寺鐘銘事件をきっかけに、
豊臣氏の処遇を決するべく、動き始めたのです。

【方広寺鐘銘事件】
「国家安康」「君臣豊楽」
豊臣氏は徳川家康の勧めで
慶長19年(1614年)4月、
方広寺を再建しています。
8月3日には大仏殿の開眼供養を
行うことになっていました。
ところが幕府は、方広寺の梵鐘の銘文中に
不適切な語があると供養を差し止めたのでした。
問題とされたのは「国家安康」で、
大御所・徳川家康の諱を避けなかったことが
不敬であるとするものでした。
「国家安康」を
「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし、
「君臣豊楽・子孫殷昌」を
豊臣氏を君として子孫の殷昌を楽しむとし、

さらに「右僕射源朝臣」については、
「家康を射るという言葉だ」
と非難したということでした。
但し、「右僕射源朝臣」の本来の意味は、
右僕射(右大臣の唐名)源家康という意味であって、
これは後世の俗説でということです。

8月18日、京都五山の長老たちに
鐘銘の解釈を行わせた結果、
五山の僧侶たちは
「みなこの銘中に国家安康の一句、
御名を犯す事尤不敬とすべし」
と返答したということです。

【独り言】
うーん・・・これはいちゃもんの域ですが、
大義名分にするなら何でもつつけ、ということですかね?
確かに豊臣サイドの脇は甘かったかもしれないですが・・。
「言葉」ってとても大切です。

最近は、発言の一部を切り取って、
報道する局の都合のいいように
異なる解釈でのニュースも多いので
出来るだけ発言の全てを聞いてから
判断するようしています。
「言葉」「文言」は本当に怖いです。
先日の大河ドラマ「麒麟がくる」でも
斎藤道三が「言葉は刃物ぞ」というセリフが
出てきましたが本当にその通りです。

【豊臣氏の弁明】
これに対して豊臣氏は、
家老・片桐且元と鐘銘を作成した
文英清韓を駿府に派遣し弁明を試みました。
ところが、徳川家康は会見すら拒否し、
逆に清韓を拘束し、
片桐且元を大坂へ返しました。
片桐且元は、豊臣秀頼の大坂城退去などを
提案するなど妥協を図りましたが、
豊臣氏はこれを拒否。
逆に、豊臣氏が9月26日に片桐且元を
徳川家康と内通しているとして追放。

【家康、宣戦布告す】
徳川家康は豊臣氏が浪人を集めて
軍備を増強していることを理由に、
豊臣氏に宣戦布告したのでした。

【鐘の現在】
その後も鐘は
太平洋戦争中の金属供出を免れ、
鋳潰されることもなく
方広寺境内に残されており、
重要文化財となっています。

【大坂冬の陣】
慶長19年(1614年)11月15日、
徳川家康は二条城を発して
大坂城攻めの途につきました。
そして20万人からなる大軍で
大坂城を完全包囲しました。
けれども、力攻めはせずに
大坂城外にある砦などを攻めるという
局地戦を行うに留めました。
徳川軍は木津川口・今福・鴫野・博労淵などの
局地戦で勝利を重ねましたが、
真田丸の戦いでは大敗をとなりました。
が、戦局を揺るがすほどの敗戦ではなく、
徳川軍は新たな作戦を始動します。
午後8時、午前0時、午前4時に
一斉に勝ち鬨をあげさせ、
さらに午後10時、午前2時、午前6時に
大砲(石火矢・大筒・和製大砲)を放たせて城兵、
特に戦慣れしていない淀殿らを脅そうとしました。
この砲撃作戦は成功し、
落城の恐怖に怯えた淀殿は
和睦することを申し出て、
徳川家康もそれを了承しました。
強固な城郭を武力で落とすことに固執せず、
淀殿や女官を心理的に疲弊させる
策略を用いることで
「本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、
外堀を埋める」
という徳川に有利な条件での
和睦にもち込んだのです。

和睦の締結後、
徳川方は和睦の条件に反して
内堀までも埋め立てたため、
慶長20年(1615年)1月中旬までに
大坂城は本丸だけを残す
無防備な裸城となり果てたのでした。





【大坂夏の陣】
豊臣氏は主戦派と穏健派で
対立していました。
主戦派は和議の条件であった
総堀の埋め立てを不服とし、
内堀を掘り返す仕儀に出たのでした。
そのため幕府は
「豊臣氏が戦準備を進めている」
と詰問し、大坂城内の浪人の追放と
豊臣氏の移封を要求しました。
さらに、徳川義直の婚儀のためと称して
上洛するのに合わせ、
近畿方面に大軍を送り込みます。
そして、豊臣氏に要求が拒否されると、
再度侵攻を開始したのでした。

これに対して豊臣氏は
大坂城からの出撃策をとりましたが、
兵力で圧倒的に不利でした。
塙直之、後藤基次、木村重成、薄田兼相らが戦死。
けれども、天王寺・岡山の戦いにおいて
徳川軍は大軍ゆえの連携の拙さなどから、
豊臣軍の真田信繁隊に本陣にまで突入され、
毛利勝永隊4000には、
これに当たった6万もの幕府軍が、
あっという間に敗退・四散しました。
一時は本陣の馬印が倒れ、
徳川家康自身も自害を覚悟するほどの
危機にも見舞われましたが、
やがて態勢を立て直した徳川軍により
真田信繁は戦死、
毛利勝永は豊臣秀頼を守るために
軍をまとめてなんとか大坂城に退却しました。

<真田信繁(幸村)の終焉の地>
真田信繁(幸村)の終焉の地

けれども、攻め寄せる15万の幕府軍を支えきれず、
ついに大坂城は落城したのでした。
5月8日、豊臣秀頼と淀殿、
その側近らは毛利勝永の介錯により自害。
そして毛利勝永自身も自害しました。
ここに豊臣宗家は滅亡したのでした。

<豊臣秀頼と淀殿の自刃の場所>
豊臣秀頼と淀殿の自刃の場所

大阪城の埋め立てと再建】
その後、大坂城は完全に埋め立てられ、
その上に徳川氏によって
新たな大坂城が再建されて、
豊臣秀吉へ死後授けられた
豊国大明神の神号が廃されました。
豊國神社と豊臣秀吉の廟所であった
豊国廟は閉鎖・放置されています。

時は流れて明治維新の後に
豊国大明神号は復活し、
東照宮にも織田信長や豊臣秀吉が祀られました。

<現在の大阪城からの眺め>
現在の大阪城からの眺め

【日本全域支配の実現】
慶長20年(1615年)6月28日、
後陽成天皇の第八皇子である
八宮良純親王を猶子とします。
元和元年(1615年)7月17日、
禁中並公家諸法度17条を制定して、
朝幕関係を規定しました。
また、諸大名統制のために
武家諸法度、一国一城令が制定されました。
こうして、
徳川家による日本全域の支配を実現し、
徳川家264年の天下の礎を築き上げたのです。

浜離宮とビル

【最晩年】
元和2年(1616年)1月21日、
病のため鷹狩に出た先で倒れました。

3月21日、朝廷から太政大臣に任ぜられました。
これは武家出身者としては、
平清盛、源義満(足利義満)、豊臣秀吉に次いで
史上4人目でした。

4月17日巳の刻(現在の午前10時頃)、
徳川家康は駿府城において
75歳(満73歳4ヶ月)で死去しました。
即夜、久能山に遺体は移されました。

【辞世の句】
「東照宮御実記」によりますと、
以下の2首を辞世として詠んでいるとのことです。

「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」

【死因について】
徳川家康の死因として、最も
有力であるのは、
現在では胃癌説であるとのことです。
「徳川実紀」によりますと、
徳川家康の病状について
以下の記述があるそうです。

「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、
腹にできた大きなシコリは、
手で触って確認できるくらいだった」とのこと。

および、係る症状が胃癌患者に
多く見受けられるものである事実が、
その論拠となっているとのことです。

【墓所・霊廟・神社】
久能山東照宮
日光東照宮
大樹寺
高野山

現在も久能山東照宮の神廟を
徳川家康の墓所としています。
他の霊廟としては日光東照宮において
墓所を象った神社としての奥宮、
松平氏の菩提寺である
愛知県岡崎市の大樹寺や
高野山にある徳川氏霊台の安国院殿霊廟、
また各地の東照宮に祀られています。
また、臨済宗の寺院としては、
東福寺の塔頭である南明院が
徳川家牌所となっています。

【徳川家康の人となり】

【身長】
家康着用の辻ヶ花染の小袖は、
身丈139.5cm、
背中の中心から袖端まで
59cmの長さがあるため、
身長は155cmから160cmと
推定されているとのことです。

【武術の達人】
剣術、馬術、弓術、鉄砲などを得意としたそうです。

【実学を好む】
家康は実学を好み
「論語」「中庸」「史記」「貞観政要」「延喜式」
「吾妻鑑」「論語」「中庸」「史記」
「貞観政要」「延喜式」「吾妻鑑」
などを特に好んで学んだとの事です。

【多趣味】
鷹狩と薬作りが徳川家康の趣味として
特に有名とのことですが、
他にも非常に多くの趣味があったとのことです。
猿楽(現在の名称は能)、囲碁、将棋、香道など。
なお、茶道は積極的には行いませんでしたが、
お茶を飲むことは健康管理の観点から
好んでいたそうです。

【天下人の必須?やっぱり新しいもの好き】
南蛮胴、南蛮時計など新しい物好きでした。
日光東照宮には、
関ヶ原の戦いに行くまでの道中で
着用したとされる南蛮胴具足が、
紀州東照宮には防弾性能を試したらしい
弾痕跡が数箇所ある
南蛮胴具足があります。
渡辺守綱や榊原康政には
南蛮胴を下賜し伝世しているとのことです。
晩年の徳川家康は、
日時計、唐の時計、砂時計などを
コレクションしており、
時計が好きだったと伺えます。
遺品として、けひきばし(コンパス)、
鉛筆、眼鏡、ビードロ薬壺などの舶来品が現存し、
徳川家康が理系的資質を
持っていたとも推測できます。

【独り言2】
織田信長も豊臣秀吉も新しいものを好んでましたが、
徳川家康もやはり、そうでした。
天下人になるには必須のことかもしれませんね。
柔軟な思考を持ち、仕組みを理解・把握・探求し、
良いと判断したものは、
積極的に取り入れていこうとする考えが大切、
ということかもしれませんね。

【家康が尊敬していた人物】
徳川家康は、中国の人物として
劉邦、唐の太宗、魏徴、張良、韓信、
太公望、文王、武王、周公を尊敬していたとのことです。
すべて周・漢・唐時代の人物で、
前王朝の暴君を倒して長期政権を樹立した王(皇帝)と
その功臣の名という点です。
日本の人物では源頼朝を尊敬していたそうです。

【師は武田信玄】
武田信玄に大いに苦しめられた
徳川家康でしたが、
施政には軍事・政治共に
武田家を手本にしたものが多かったのでした。
軍令に関しては重臣だった石川数正の出奔により
以前のものから改める必要がありました。

天正10年(1582年)の
武田氏滅亡・本能寺の変後の天正壬午の乱を経て
武田遺領を確保すると、
武田遺臣の多くを家臣団に組み込んでいます。
また自分の5男である信吉に「武田」の苗字を与え、
武田信吉と名乗らせ水戸藩を治めさせています。

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風間俊介(かざましゅんすけ)さんが演じられます。

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