城跡

奥平貞勝と亀穴(滝山)城~松平氏・今川氏・織田氏・徳川氏・武田氏と戦国の世を渡り歩き84歳まで生きた。

亀穴城址(滝山城址)と宮崎神社



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【奥平貞勝】

奥平 貞勝(おくだいら さだかつ、永正9年(1512年)⇒
文禄4年10月9日(1595年11月10日))は
日本の戦国時代の武将です。
三河作手地方の国人奥平氏当主で
奥平貞昌の子です。
正室は水野忠政の妹です。
後室は菅沼定継の妹です。
奥平定能、奥平常勝、奥平貞治の父親で
定勝とも称していました。
通称、九八郎、監物。
晩年に出家し、道文入道と号しました。

松平氏今川氏織田氏・徳川氏への転属】
享禄3年(1530年)5月、
徳川家康の祖父である
松平清康が八名郡の宇利城を攻めると、
これに従軍しました。
搦手門から攻め入り、功を挙げたということです。
その後、松平清康の横死(森山崩れ)で
弱体化した松平氏から今川氏に転属しました。

<松平清康公の墓所(大樹寺)>
松平清康公の墓所(大樹寺)

けれども当初は、
今川氏の影響力も不安定で
天文6年(1537年)の
河東一乱では、奥平貞勝は
北条氏綱の調略の対象になっていました。
天文11年(1542年)、
織田信秀戦の小豆坂合戦では
岡崎勢の与力に付けられました。
天文16年(1547年)には
今川氏と対立していた
松平氏領の山中を
嫡男の仙千代と弟の貞友に与えるという
今川義元の判物を与えられましたが、
翌年には貞友が今川氏への反乱を起こして
所領を没収されて奥平貞勝に与えられています。

弘治2年(1556年)、
前室の縁で水野信元からの
織田家への誘いを受けると、
これに応じ、今川氏を離反します。
さらに縁戚の田峯菅沼氏まで
誘って蜂起しました。
同年2月15日、
自領から岡崎方面にある
今川方・秦梨城への先制攻撃を敢行。

【日近合戦】
秦梨城主・粟生将監永信を
退散させた事に端を発し、
鎮圧に派遣されてきた
今川方の東条松平勢を
奥平貞勝の弟である久兵衛貞直が
日近城での籠城の末に撃退しました。
ひとまず優位に立っていた
奥平貞勝でしたが、
今川義元の軍令を受けた
菅沼定村や本多忠俊といった
東三河の諸将によって
本格攻勢を受ける羽目になります。




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【雨山合戦】
同年8月には日近とは別方面で
宝飯郡との郡境に近い
雨山城への攻撃を防ぎ得ず、
失陥してしまいました。
織田氏の援軍を満足に得られずに
蜂起から半年程度で鎮圧されて、
今川氏再属を余儀なくされたのでした。
再属に際し、弟・貞直を
処分する事で離反の罪を赦免されています。

桶狭間の戦い
永禄3年(1560年)5月、
今川義元の尾張侵攻に参戦しました。
松平清康の孫である松平元康(後の徳川家康)
の与力として、大高城への兵糧運び入れを
支援しましたが、同月19日に
今川義元の本隊が崩れると自領に退却しました。

その後、東三河の諸家が挙って
松平氏へ転属する事となっても
事態を静観していました。
けれども、宝飯郡で最後まで抵抗していた
牧野氏でさえ転属するなど、
今川氏の三河支配権回復が
見込めない事態になったところで、
ようやく徳川家康へ転仕しました。
永禄11年(1568年)12月、
徳川家康の遠江侵攻では、
嫡子・定能に参戦させています。

【徳川氏から武田氏へ、そして隠棲】
武田軍が三河に侵攻してきた
元亀2年(1571年)以降には、
これまで通り徳川家康服属を説く
嫡子である奥平定能を制して、
武田氏服属を決定するなど、
隠居でありながら
家中での発言力を保持していたことがうかがえます。
天正元年(1573年)8月21日、
奥平定能が孫の信昌ばかりか
末子・貞治ら家中の大半を引き連れて
武田氏を離反し徳川氏に再属した際には、
奥平貞勝は次子・常勝など
少数派とともに武田方に留まりました。
長篠の戦いに参戦した模様でしたが、
やがて同合戦で勝利した奥平貞能が
徳川氏・織田氏の後押しで勢力を伸ばすと、
菅沼氏一族とともに
三河の所領を放棄して、甲斐に移住しました。

その後、武田の滅亡で
甲斐に留まれなくなった奥平貞勝は、
子の奥平定能を頼って三河額田郡に隠棲しました。
本来、武田滅亡後に徳川家康への再属を願い出た
三河出身者には、厳しい処分が待っており、
次子・常勝などは殺されましたが、
老齢であった奥平貞勝は咎められませんでした。
おそらく奥平定能らの嘆願が
在ったものと考えられています。
文禄4年(1595年)に没しました。
享年は84歳でした。

【奥平九八郎貞勝の墓】
奥平貞勝の墓

<奥平久八郎貞勝の墓・説明札>
奥平久八郎貞勝の墓・説明札

【亀穴城(滝山城)】

【別名】
滝山城

【形態】
山城

【遺構等】
曲輪、堀切、碑、説明板

【築城年】
永禄年間(1558年⇒1570年頃)

【築城者】
奥平貞勝

【目印】
宮崎神社
<宮崎神社の所在地>
愛知県岡崎市明見町田代89

宮﨑神社と亀穴城(滝山城)

【亀穴城の歴史】
永禄年間(1558年~1570年)、
滝山(標高380m、比高240m)山頂に
築いた城とされています。
1573年武田軍三河侵攻の際、
亀山城主であった
奥平定能、信昌父子は
武田から離反して亀山城から
亀穴城(滝山城)へ移りました。
武田勢5000の兵は
亀穴城南麓の「万足平」に押し
寄せたとのことですが、
城は堅固であり、
徳川家康の援軍に包囲された為、退却。
奥平勢はこれを追って田原坂で
激戦に及んだのでした。

亀穴城(滝山城)説明札

【亀穴城の登城口】
宮崎神社裏手、明見集会場、
奥平九八郎貞勝の墓の前。
登城口から南の郭まで
約40~50分かかるそうです。

【所在地】
〒444-3611 愛知県岡崎市宮崎町堂庭

亀山城~群馬からやってきた奥平氏が築城し、やがては山家三方衆と呼ばれる有力土豪になった。

石橋城(慈昌院)~石橋奥平氏の居館跡で奥平貞勝に対して謀反を企むも逆に討ち取られる。

塞之神城~古宮城に隣接する山城で築城は奥平氏とも奈良時代の米福長者とも武田氏とも云われています。

古宮城 (日本続100名城)~武田信玄が三河侵攻の拠点として築城させ、徳川・奥平氏によって 攻められ落城。

織田信秀とは 織田信長の父親~配下の清洲三奉行から戦国大名となり、信長に託す!

水野信元~徳川家康のかなり頼れる伯父だが、最期は織田信長から殺害命令が下る。

長篠城 (日本100名城)~城をめぐる激しい攻防戦で有名、国の史跡に指定されています。

武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。

山県(飯富)昌景~武田家重臣の筆頭格で部隊の軍装「赤備え」が有名です。

今川義元~祝・生誕500年~足利一門の名門・海道一の弓取りと称された東海の覇者!

大樹寺~徳川将軍家及び松平氏の菩提寺で歴代将軍の位牌が安置、岡崎城と大樹寺を結ぶビスタラインが有名です。

三河黒川城~熊谷氏が築城したと伝わる古城跡で、麓には国指定重要文化財である熊谷家屋敷があります。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

長篠・設楽原の戦いの古戦場~織田・徳川連合軍と武田軍の決戦の地です。

大高城~松平元康(徳川家康)が兵糧を届け守備につき、本多忠勝が初陣及び元服しました。

亀姫(徳川家康の長女)、母は築山殿で夫の奥平信昌との間には4男1女を授かりました。

北条氏綱~小田原北条2代目~北条氏を名乗り、小田原北条氏の礎を築き、先進的な領国経営をした当主。

井田城~徳川四天王の一人である酒井忠次の出生の城で、酒井氏の先祖は松平氏です。

桶狭間古戦場公園~桶狭間の戦いの中心地の一つ、合戦当時の地形、城、砦がジオラマ化されています。

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