城跡

青木城跡~横浜市街地にある「多米氏」の城。権現山城と併せて訪れたい街中の城跡。

青木城跡 横浜



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【青木城跡】

青木城(あおきじょう)は、
神奈川県横浜市神奈川区高島台にあった
16世紀の日本の城です。
現在の本覺寺付近とされ、
小田原北条氏被官であった
多米氏の居城とされています。

【城郭形態】
平山城

【天守構造】
なし

【築城主】
多米氏(多目氏)か?

【築城年】
大永年間(1521年⇒1528年)か?

【主な城主】
多米元興(周防守)、
多米新左衛門

【廃城年】
小田原北条氏討伐の頃か?

【遺構】
破壊された可能性あり

【場所や地形】
京急本線神奈川駅北側に位置する
「高島台」の丘陵は、
2020年現在は京急本線やJR線、
国道1号により寸断されています。
かつては線路を隔てた東側の
「権現山」と尾根伝いに繋がっており、
権現山側に権現山城、
高島台側に青木城があったとされています。

【歴史】
永正7年(1510年)、
扇谷上杉氏の被官である上田政盛が、
関東進出を狙う伊勢盛時(のちの北条早雲
と通じて上杉氏に謀反し権現山城で挙兵しました。
上杉朝良(扇谷上杉氏)と上杉憲房(山内上杉氏)が
これを攻め「権現山の戦い」が勃発しました。
両上杉氏は権現山城を落とし、
援軍に駆けつけた伊勢(小田原北条)軍をも
撃破して勝利しましたが、
この戦いの際、伊勢側の援軍が
「本覺寺の地蔵堂」を根城(本城)として
立て籠ったとされており、
現在青木城と呼ばれている
本覚寺付近も
既に城郭の一部として使われ始めていました。

<本覺寺への道>
本覺寺への道

この戦いには破れたものの、
その後も伊勢氏(小田原北条氏)の進出は止まらず、
権現山はやがて小田原北条氏が掌握して
対上杉氏の前線となり、
大永年間(1521年-1528年)に
多米元興(周防守)が青木城主として配置されました。

以上の事から、
青木城の正確な築城年代は明らかではありませんが、
「日本城郭大系」によりますと、
権現山城が先に築城され、
大永年間ごろに発展・拡大的に
青木城が成立したと考えられています。




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その後も青木城は多米氏の管轄下にあり、
永禄2年(1559年)成立の
「小田原衆所領役帳」によりますと、
当時は「多米新左衛門」
(多米周防守と同一人物かは不明)
が領有していたとのことです。

<本覺寺 境内>
本覺寺 境内

永禄12年(1569年)に
武田信玄が小田原を攻撃した際、
多米周防守は青木城を捨て、
北条氏綱の娘婿である
吉良頼康の居城である
蒔田城(横浜市南区蒔田町)の
守備にあたったということです。

【廃城へ】
廃城年代も明らかではありませんが、
天正18年(1590年)、
多米氏は小田原征伐の際に
討たれたとのことです。

文政13年(1830年)成立の
「新編武蔵風土記稿」では
「さして今は城塁の跡の残りたるも見えず。」とあり、
江戸時代後期までには既に
痕跡も判然としなくなっていたようです。

【城跡】
権現山城のあった権現山は、
幕末に神奈川台場造成のための
土取り場として削られました。
更に明治時代以降は鉄道等によって
開削されるなど地形の変形が著しいです。
また青木城のあった高島台側も
本覚寺のほか住宅地化しており、
遺構は破壊されたと考えられています。

【アメリカ領事館跡】
なお、本覚寺は
幕末の1859年7月15の横浜が開港した際に、
これに伴って7月4日(旧暦6月5日)、
横浜港が一望できることから、
初めての在横浜アメリカ領事館が置かれました。
期間は関内の外国人居留地に移る
文久3年(1863年)まで
当地に駐在していたとのことです。

本覺寺 アメリカ領事館跡

【所在地】
〒221-0833 神奈川県横浜市神奈川区高島台1−2 本覺寺

【最寄り駅】
京浜急行「神奈川」駅
徒歩3分以内

【多米(多目)氏】

多米氏は、小田原北条氏の古参の重臣の家柄です。
初代・伊勢盛時(北条早雲)からの
北条氏の協力者であり、
小田原北条氏初期の家臣団である
御由緒六家」及び「草創七手家老」の家系です。

【出自】
三河国八名郡多米(ため)(愛知県豊橋市多米町)を
本貫の地とする多米氏
(多目氏。平氏系)の一族であったそうです。

多米元益は伊勢盛時(北条早雲)と意気投合して
伊勢盛時の大志に協力した人物であったそうです。
それゆえ、多米氏は小田原北条氏より
「御由緒家」という別格の扱いを受けていたのでした。
多米元益の子である多米元興も家臣として
活躍して青木城主でもありましたが、
剃髪して隠居し、
多米周防守元興は父親の追善供養のため、
本興寺(静岡県湖西市)の末寺として
三河国多米の地に本顕寺という寺を建立したとのことです。
後に武蔵国久良木郡三沢に本顕寺を移転し、
法照山豊顕寺と名を改めたそうです。
現在の所在地は、
神奈川県横浜市神奈川区三ツ沢西町16番地-1
です。

天正18年(1590年)、
豊臣秀吉小田原城)攻めで、
多米氏の多くは小田原北条氏と共に
歴史から消えたということです。




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【御由緒六家】
御由緒六家(ごゆいしょろっけ)は、
戦国大名の後北条氏に仕えた
大道寺氏、
多目(多米)氏、
荒木氏、
山中氏、
荒川氏、
在竹氏ら6名の重臣のことです。
「北条五代記」や「鎌倉九代記」「名将言行録」
によりますと、
若き日の伊勢盛時(北条早雲)の駿河下向の際、
大道寺太郎・多目権兵衛・荒木兵庫頭・
山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛尉ら6人と、
伊勢で神水を酌み交わし、
「この中の誰か一人がいち早く大名になったら、
他の者はその家臣になろう」
と誓い合ったという逸話が残っているそうです。
その後、伊勢盛時は伊豆討ち入り、
小田原城奪取を果たし戦国大名となると、
彼ら6人は小田原北条家(当時は伊勢氏)に仕え、
御由緒六家として家中で重きをなしたと言われています。

実際、小田原北条家中には
「御由緒衆」と呼ばれる家臣団が存在しており、
その中に大道寺氏、多目氏が名を連ねています。
この御由緒衆からは
大道寺政繁多目元忠といった
武将が活躍しています。

【草創七手家老】
なお、御由緒六家に相模の土豪である
松田氏を加えたものを
「草創七手家老」
(そうせいしちてかろう/そうそうしちてかろう)
というそうです。
当時、伊勢盛時(北条早雲)に従ったのは
松田盛秀(初名は顕秀)で、
彼の嫡男が松田憲秀(北条氏康三家老)であります。

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