鎌倉殿の13人

秋山光朝~加賀美遠光の長男、甲斐源氏の勢力拡大を恐れた源頼朝に疎まれ謀殺されます。

中野城・雨鳴城(遠景)



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【秋山光朝】

秋山 光朝(あきやま みつとも)は、
平安時代末期の武将。
秋山氏の祖です。

甲斐源氏の加賀美遠光の長男として誕生しました。
秋山氏は甲斐国巨摩郡秋山村に
光朝が居住して「秋山太郎」を名乗ったことが
始まりとされています。
治承4年(1180年)4月、
源頼朝挙兵後、源義経の指揮下に加わり、
屋島の戦い、壇ノ浦の戦いに参加しました。
西上遠征の途中、平重盛の娘を室に迎えています。

平家滅亡後、鎌倉に加賀美一党の館を構え
源頼朝警護の役職に就きましたが、
甲斐源氏の勢力拡大を恐れる
源頼朝に疎まれ謀反の罪で鎌倉において
処刑されてしまいました。
別の説では雨鳴城にて
自害したとも云われています。

【生誕】
不明

【死没】
文治元年(1185年)

【別名】
太郎

【主君】
源頼朝

【氏族】
甲斐源氏秋山氏

【父】
加賀美遠光

【兄弟】
秋山光朝、小笠原長清、南部光行
加賀美光経、於曽光俊(経行)、大弐局

【妻】
平重盛娘

【子】
光定、光季、経明、長信

【秋山光朝亡き後の秋山氏】
鎌倉時代には、
承久3年(1221年)の
承久の乱において武田信光に従い
後鳥羽上皇方と戦った功によって、
秋山氏は名誉を回復しました。

秋山光朝の次男である光重は下山氏を称し、
4男光経と5男光俊は東郡の
於曽郷(山梨県甲州市)を領して
於曽氏を称しました。
南アルプス市の秋山経塚からは
光経が奉納した建久8年銘をもつ
経筒が出土しています(個人所蔵)。

秋山光朝の嫡男である秋山光季は
弘安年間に幕府の命により
讃岐国に移住しています。
これは甲斐から安芸国へ移住した
安芸武田氏と同様に
元寇に対する防衛であったと
考えられています。
讃岐へ移住した秋山氏については
元徳3年(1331年)12月
「秋山源誓置文」(矢野家文書)があり、
秋山源誓から子泰忠に
讃岐国高瀬郷(香川県三豊市)の
地頭職が伝領されています。
建武3年には領家職も獲得しており
(「建武3年2月15日足利尊氏下知状写」、矢野家文書)、
戦国期に至るまで
高瀬郷の在地土豪として存在が見られます。




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【戦国時代の秋山氏】
戦国期には守護武田氏において
内訌が発生し甲斐の国衆は
双方に荷担して乱国状態となっていました。
武田宗家の武田信直(信虎)と
武田信直の叔父にあたる
油川信恵の対立において
秋山新左衛門(信任)は
武田一族の岩手縄美、
郡内領主小山田氏や国中の
国衆栗原氏らと油川信恵方に荷担しましたが、
永正2年(1505年)の合戦において
油川信恵方が族滅規模の大敗をすると
甲斐は武田信直により統一され、
秋山氏も武田信直に従うようになりました。

武田信玄の時代】
武田晴信(信玄)期には、
「甲斐国志」によりますと
新左衛門の子とされる
秋山虎繁(信友、善右衛門尉、伯耆守)が
信濃国大島城の城代となり、伊那郡代となります。

【秋山虎繁】
秋山虎繫は駿河侵攻にも携わり、
武田信玄後期の元亀3年(1572年)には
対峙していた尾張国の織田信長との
最前線にあたる美濃国岩村城を任されます。
次代の武田勝頼期には
天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦い
織田・徳川連合軍に敗れた後、
美濃における武田氏の影響力が弱まると
岩村城は落城し、秋山虎繁も処刑されました。

【金丸氏と秋山氏】
秋山虎繁は金丸筑前守(虎義)の子である
秋山昌詮を養子としています。
天正7年(1579年)7月23日に
秋山昌詮が病死すると、
筑前守の七男・秋山源三郎を養子に迎えています。
秋山源三郎は天正10年(1582年)3月に
武田勝頼が織田軍に追いつめられた際に
兄の土屋昌恒・金丸助六郎らとともに
武田勝頼に従い、
武田勝頼が自害した際に殉死しています。

【秋山虎繁の弟と子供】
天正10年(1582年)、
秋山虎繁の弟である秋山信藤と
秋山虎繁の次男秋山長慶は、
武田勝頼の遺児千徳丸を
武蔵国瓦曽根に匿ったとされていますが、
千徳丸は間もなく病で早世したとのことです。
それを哀れみ秋山長慶は剃髪して
照蓮院の住持となり菩提を弔ったとのことです。
秋山信藤は、長男である秋山虎康の長男、
つまり孫となる秋山昌秀のもとに引き取られています。




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【徳川家に仕えた秋山氏】
江戸時代初期・近世期には
武田遺臣としての秋山一族が存在していました。
秋山昌秀は徳川家康に仕え、
下総国小金領(千葉県松戸市)1,000石を賜ります。
秋山昌秀の妹は徳川家康の側室となり
下山殿(おつまの方、妙真院)として、
武田信吉を生んでいます。
また秋山昌秀の子の秋山正重は
徳川秀忠に仕えたのち、
将軍徳川家光の時代には
大目付を務めてるなど加増を重ね、
秋山家は4千石の
大身旗本(旗本寄合席)となっています。

【山形秋山氏】
譜代大名水野氏に仕えた
山形秋山氏は「秋山伯耆守(虎繁)の子孫」
という由緒を持ち、
宝永6年(1704年)の先祖書に拠りますと、
伯耆守の子民部右衛門を祖とし
(「甲斐国志」では式部右衛門としています)、
民部右衛門の孫秋山平太夫が
水野家に仕えたとしています。

この他、越後長岡藩の藩儒である
秋山朋信(景山)も祖先は武田遺臣ということです。

武田義清(源義清 (武田冠者))~常陸国出身で配流となった先の土地に根差して甲斐源氏の祖となりました。

中野城・雨鳴城~秋山光朝築城の連郭式山城で、悲劇の武将の物語が今も残っています。

武田信義~甲斐源氏であり武田氏の初代当主となり、武田信玄の遠いご先祖様です。

加賀美遠光~甲斐源氏で武田信義の叔父又は弟、小笠原氏・奥州南部氏の祖でもあります。

小笠原長清~弓馬四天王と称され、武家の有職故実を伝える小笠原一族の始祖です。

大弐局 ~加賀美遠光の娘で兄弟には小笠原氏・南部氏がおり、源頼家・源実朝の養育係を務めた女性です。

小田野城(小田野山城)(甲斐国)~甲斐源氏である安田義定が築城したと伝わる山梨県内最古の部類の山城。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

平維盛~平清盛の嫡孫で桜梅少将と称される美貌の貴公子でしたが、最期は自ら散ります。

甲斐・上野城(甲斐・椿城)~築城は小笠原氏の子供の上野氏でその後に秋山氏、大井氏の居城となります。

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