鎌倉殿の13人

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

源頼朝公の像



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源頼朝

源頼朝(みなもと の よりとも)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の
日本の武将、政治家です。
鎌倉幕府の初代征夷大将軍です。

【生誕】
久安3年4月8日
(ユリウス暦1147年5月9日、
先発グレゴリオ暦1147年5月16日)

【死没】
建久10年1月13日
(ユリウス暦1199年2月9日、
先発グレゴリオ暦1199年2月16日)
享年53歳(満51歳没)

【改名】
鬼武者・鬼武丸(幼名)、頼朝

【別名】
通称:三郎、佐殿、武衛、鎌倉殿
源二位、右大将軍(右大将)、右幕下

【戒名】
武皇嘯厚大禅門

【墓所】
法華堂跡(神奈川県鎌倉市西御門)
源頼朝の墓(法華堂跡)

白旗神社(鶴岡八幡宮境内)
白幡神社(鶴岡八幡宮)

矢ノ森八景(岩手県一関市東山町河津矢ノ森)

【官位】
正二位、権大納言、右近衛大将、征夷大将軍
【幕府】
鎌倉幕府 初代征夷大将軍
(在任:1192年 -1199年)

【氏族】
清和源氏頼信流河内源氏

【父】
源義朝

【母】
藤原季範の娘(由良御前)

【兄弟】
義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼
全成、義円、義経、坊門姫、他女子

【妻】
前妻?:八重姫
正室:北条政子
妾:亀の前、大進局、利根局?

【子】
千鶴丸?大姫、頼家、貞暁、三幡、実朝

【大まかな源頼朝の一生】
清和源氏の一流たる
河内源氏である源義朝の三男として生まれました。
父親である源義朝が平治の乱で敗れると
伊豆国へ配流されます。
その後20年の歳月を経て
伊豆で以仁王の令旨を受けると
北条時政北条義時などの坂東武士らと
平家打倒の兵を挙げ、
鎌倉を本拠として関東を制圧していきます。
弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、
戦功のあった末弟である源義経を追放の後、
諸国に守護と地頭を配して力を強め、
奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼします。
建久3年(1192年)に
征夷大将軍に任じられました。

これにより、朝廷と同様に
京都を中心に権勢を誇った
平家政権とは異なる、
東国に独立した武家政権が開かれ、
後に鎌倉幕府と呼ばれました。
源頼朝の死後、御家人の権力闘争によって
源頼朝の嫡流は断絶し、
その後は、北条義時(得宗家)系統が
鎌倉幕府の支配者となったのでした。

【出生は尾張国】
久安3年(1147年)4月8日、
源義朝の三男として
尾張国愛知郡熱田
(現在の愛知県名古屋市熱田区)の
熱田神宮西側にあった
神宮大宮司・藤原季範の別邸
(現在の誓願寺)にて生まれました。
幼名は鬼武者、または鬼武丸でした。

【源氏嫡流の御曹司として】
父祖は清和天皇の孫で臣籍降下した源経基です。
多田源氏の祖の源満仲、
河内源氏の祖の源頼信、
前九年の役の源頼義、
後三年の役の源義家、
源義親、祖父の源為義。
母は藤原季範の娘の由良御前です。
乳母は比企尼、寒河尼、山内尼。
母親の家柄が高いことから、
源頼朝が三男でしたが、
源義朝の後継者、
嫡男として待遇されていたとみられています。

比企尼~源頼朝の乳母~ずっと支え続けた偉大なゴッドマザーで鎌倉幕府創立の陰の功労者。

比企掃部允~比企尼の夫、ナゾ多き人物で居住していた三門館跡にもナゾがあります。

比企朝宗~比企一族で源頼朝と朝廷に仕えており才色兼備である姫の前の父親です。

寒河尼(網戸尼)~源頼朝の乳母で結城朝光の母、女地頭となり長寿を全うしました。

【保元の乱】
保元元年(1156年)、
父の源義朝は保元の乱で、
後白河天皇側で平清盛らと共に戦勝し、
崇徳上皇側の父の源為義の助命を
自身の戦功に替えて願いましたが
許されず、父兄弟を斬首し
左馬頭に任ぜられました。

平清盛~平家の黄金期を築いた棟梁~先見性と革新的思考で時代を切り開き後世に託す。

八田知家~小田氏の始祖であり十三人の合議制の一人で源氏4代に仕えた人物です。

金子家忠~大剛勇の強者として活躍した武蔵七党・村山党の金子一族で入間に墓と屋敷跡があります。

【源頼朝の早い昇進】
保元3年(1158年)、
源頼朝は後白河天皇准母として
立后した統子内親王の皇后宮権少進、
平治元年(1159年)2月に
統子内親王が院号宣下を受けると、
上西門院蔵人に補されました。
上西門院殿上始において徳大寺実定、
平清盛などの殿上人が集う中で
献盃役を務めました。
また同年1月には右近衛将監に、
6月には二条天皇の蔵人にも補任されました。
長兄の源義平は無官とみられています。
また先に任官していた
次兄の源朝長よりも昇進が早いことからも、
源頼朝が源義朝の後継者で、
嫡男として待遇されていたとみられています。
現代の年齢でいえばまだ小学生。
源氏の御曹司、ということですね。




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【平治の乱】
平治元年(1159年)12月9日、
源義朝は藤原信頼と共に
後白河上皇と二条天皇を内裏に捕えます。
14日、13歳の源頼朝は
右兵衛権佐へ任ぜられました。
これにより「鎌倉殿」の呼称が定着するまで
長く「佐殿(すけどの)」と称されました。
又「吾妻鏡」でも
元暦二年に従二位に昇叙するまで
兵衛府の唐名である
「武衛」で記述されています。

けれども26日、上皇と天皇は内裏から逃れます。
27日、官軍となった平清盛らが内裏へと攻め寄せ、
賊軍となった源義朝らは敗れて京を逃れ、東国を目指しました。

寿福寺 説明

上総広常~房総平氏の惣領家で源義朝の郎党~平家政権の打倒よりも関東の自立を目指し殺される

三浦義明と衣笠城合戦~長老は自らの命を盾に三浦一族の未来を守りました。

足立遠元~十三人の合議制のメンバー、平治の乱で活躍し、東国武士ながらも文官の素養を持つ人物でした。

【池禅尼の嘆願により命が助かる】
永暦元年(1160年)2月9日、
源頼朝は近江国で捕えられ京の六波羅へ送られます。
死刑になるところを平清盛の継母である
池禅尼の嘆願などにより
死一等を減ぜられました。
なお、助命嘆願には後白河院、
上西門院の意向が働いていたとの説もあります。
また、平治の乱の本質は
院近臣同士の争いであり、
源義朝は信頼に従属する者の一人に過ぎず、
その子供達の処分が
軽度であったのも当然とする見解も示されています。
そして3月11日に伊豆国へと流刑されました。
なお、 摂津源氏の源仲綱が
伊豆守だったとの説もあります。

【父と兄たちは死去】
けれども、次兄の源朝長は負傷により
美濃国青墓で落命し、
父親の源義朝は尾張国野間にて
長田忠致により謀殺され、
長兄の源義平は、
平清盛を討とうとしたことが発覚して
都で処刑され、
同母弟の源希義は流刑されました。

大御堂寺野間大坊~真言宗豊山派の寺院で野間美浜で最期を遂げた源義朝の墓があります。

源義朝の墓(鎌倉)、忠臣の鎌田政家(政清・政長)と共に眠るもう一つのお墓。

勝長寿院跡、源頼朝が建立した源氏の菩提寺で大御堂といいます。当時の鎌倉の三大寺社の一つでした。

平賀義信~源氏御門葉及び御家人筆頭として権勢を誇る。平賀氏は2つの系統があります。

岡崎義実~代々源氏の家人で特に忠義心厚い人物。三浦一族だが中村党とも深い関係で真田与一の父親です。

【伊豆での流人生活】
伊豆国での流人生活は
史料としてはほとんど残ってはいません。
配流地として
蛭ヶ小島(ひるがこじま)が知られていますが、
この地は北条氏の支配領域で
当初から同地に居住したのかは不明となっています。
伊東にいたとの説もあります。

蛭ヶ小島~源頼朝が20年間過ごし北条政子と夫婦となった配流地~

天野遠景~工藤氏の一族で天野氏の祖~初代の鎮西奉行に就任。子孫が各地で根付き繁栄します。

【源頼朝の側近たち】
周辺には比企尼の娘婿である安達盛長
河越重頼、伊東祐清が側近として仕えていました。、
更に源氏方に従ったため、
所領を失って放浪中の
佐々木定綱ら四兄弟が従者として奉仕しました。
この地方の霊山である箱根権現
走湯権現に深く帰依して読経を怠らず、
亡父の源義朝や源氏一門を弔いながら、
一地方武士として日々を送っていました。
そうした中でも乳母の甥である三善康信から
定期的に京都の情報を得ていたのでした。
また、武芸の一環である巻狩りにも
度々参加していたことが知られています。

安達盛長~源頼朝を流人時代から支え続け厚い信頼を得た人物。

河津三郎祐泰と血塚・伊東祐親の嫡男で曽我兄弟の父親であり曽我兄弟の仇討はここから始まりました。

三善康信~鎌倉幕府の初代問注所執事で母は源頼朝の乳母の妹です。問注所とは裁判機関のことです。

結構自由であり、
穏やかなスローライフを送っていたのですね。

冷川(ひえかわ)不動尊~高源寺の不動院と伝わる場所~優しい雰囲気の滝があります。

高源寺~源頼朝が石橋山合戦出陣旗揚げ及び挙兵の密議をしたという場所

文覚~元は北面の武士だが恋する女性を殺めて19歳で出家、源頼朝に挙兵を促した型破りな怪僧

北条政子との結婚と大姫誕生】
なお、この流刑になっている間に
伊豆の豪族である北条時政の長女である
政子と婚姻関係を結び、
長女である大姫が誕生しています。
この婚姻の時期は、
大姫の生年から
治承元年頃のことであると推定されています。

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

大姫~源頼朝と北条政子の長女~生涯をかけて愛を貫いた儚くも一本気な姫、静御前と心を通わせる

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

北条義時~鎌倉幕府2代執権~冷酷無情・現実を客観視して行動できる理想家なのか?

【八重姫】
なお、フィクション性が高いとされる
「曽我物語」では次のような記載があります。
仁安2年(1167年)頃、
21歳の源頼朝は伊東祐親の下に在りました。
ここでは後に家人となる
土肥実平、天野遠景、大庭景義
などが集まり狩や相撲が催されていました。
伊東祐親が在京の間に、
源頼朝はその三女(四女との説有り)である
八重姫と通じて男の子の千鶴丸をもうけます。
伊東祐親は激怒し、
平氏への聞こえを恐れて
幼い千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投げ捨て、
八重姫を江間小四郎に嫁がせる一方で
源頼朝を討たんと企てました。
伊東祐親の次男である伊東祐清から
それを聞いた源頼朝は
走湯権現に逃れて一命を取り留めたのでした。

伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。

伊東佑清~八重姫の兄で曽我兄弟の叔父、親交のあった源頼朝を父から助けるが平家方につく。

伊豆山神社~頼朝が伊東祐親より逃げ込み、政子との逢瀬を重ねた伊豆の地名の発祥の地

頼朝一杯水~頼朝が伊豆山への逃避中に休息し水を飲んだ場所

音無神社~源頼朝が八重姫との逢瀬を重ねた伝承の地~ひぐらしの森で待ちわびて音無の森で密会♪

日暮八幡神社~源頼朝が八重姫に会うために待ったひぐらしの森~日暮遺跡(弥生時代)の場所でもあります。

真珠院・八重姫御堂~八重姫とは?父親たちの選択によって明暗を分けた娘たち。

【源頼朝の挙兵】
治承4年(1180年)、
後白河法皇の皇子である
以仁王が平家追討を命ずる令旨を
諸国の源氏に発しました。
4月27日、伊豆国の源頼朝にも、
叔父である源行家より令旨が届けられました。
以仁王は源頼政らと共に宇治で敗死しましたが、
源頼朝は動かずしばらく事態を静観していました。
けれども平家が令旨を受けた諸国の源氏追討を企て、
自身が危機の中にあることを悟った
源頼朝はやがて挙兵を決意します。
この挙兵の決意には都の三善康信の知らせや
京より下った三浦義澄、千葉胤頼らの
言葉があったとも言われていると
「吾妻鏡」には記されています。

後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。

阿野全成~源頼朝の異母弟で源義経の同母兄~妻の実家側について甥の源頼家とやがて対立する。

そして坂東の各豪族に
挙兵の協力を呼びかけたのでした。

足利義兼~足利宗家2代目で足利尊氏のご先祖様さま、源頼朝の門葉で妻は北条時子で足利公方邸を構えました。

北条時子~足利義兼の正室で北条政子の同母妹、身の潔白の為に自害。お腹が膨れた原因は寄生虫の可能性あり。

毛呂山城跡(毛呂氏館跡)と毛呂一族の墓~源頼朝に仕えた在地領主で、戦国時代まで存続しました。

なお、平家側の本来の追討目的は
伊豆に潜伏していた源頼政
(清和源氏の嫡流・清和源氏頼光流(摂津源氏))
の孫の源有綱で、
源頼朝が狙われていたというのは誤報であり、
知行国主の交代によって
厳しい立場となった源頼政の家人で
在庁官人の工藤茂光
源有綱の代理として
源頼朝を持ち出したという
見解があるとのことです。

源氏累代の家人からは
挙兵に否定的な態度をとるものが
少なくなかった一方で、
知行国主変更に伴って圧迫を受けた武士、
平家に近い豪族と
対立関係にある武士たちの協力が
見込めそうな状況ではあったそうです。

山木兼隆襲撃】
最初の標的は伊豆国目代・山木兼隆と定められ、
治承4年(1180年)8月17日、
源頼朝の命で北条時政らが
韮山にある山木兼隆の目代屋敷を襲撃して
山木兼隆を討ち取りました。

加藤景廉~頼朝挙兵以来の側近で承久の乱まで生き残る。長男は遠山氏の祖で有名となった子孫あり!

山木判官平兼隆館跡~源氏再興の狼煙はここから始まりました。

【石橋山での敗戦】
伊豆を制圧した源頼朝は相模国土肥郷へ向かいました。
源頼朝らは本拠地三浦を発した
三浦一族と合流する予定でしたが、
三浦一族が大雨により
増水した酒匂川で
足止めされたために合流できず、
その前の8月23日に真鶴付近で
石橋山の戦いに突入することになりました。
源頼朝軍三百騎は平家方の
大庭景親、伊東祐親ら三千余騎と戦って敗北。
土肥実平ら僅かな従者と共に
山中へ逃れたのでした。
数日間の山中逃亡の後、
死を逃れた源頼朝は、
8月28日に真鶴岬(現在の岩海水浴場)から
船で安房国(現在の千葉県南部)へ脱出しました。

石橋山の戦い~源頼朝旗揚げの地!300VS敵3000!大敗するも真鶴から安房へ逃れて再挙を図る。

土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。

大乗院~土屋氏屋敷跡、土屋宗遠を祖とする土屋氏は北条氏・足利氏・武田氏・北条氏政・徳川家に仕えました。

真田城~神奈川県平塚市にある真田の郷、真田與一義忠(佐奈田義忠)について。

しとどの窟(湯河原)・(真鶴)、隠れながら追手をかわして岩海岸から安房国へ船出しました。

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

大庭景親~坂東八平氏の鎌倉氏の一族~最期まで平家に忠誠を尽くした人物です。

山内首藤経俊~源頼朝からは無益な者との評価でも母のお陰で地位は保全されました。

天野政景、承久の乱で活躍し、遠江・武蔵・安芸国・信濃国等の各地に多くの所領を得ます。

曾我城跡~曾我兄弟が育った曽我氏の館。北条氏康に滅ぼされたが嫡流は足利将軍や徳川家に仕え出世した。

三浦義澄~源頼朝を支えた宿老の一人で13人の合議制のメンバーで相模守護。三浦一族の栄枯盛衰。

武田信義~甲斐源氏であり武田氏の初代当主となり、武田信玄の遠いご先祖様です。

小田野城(小田野山城)(甲斐国)~甲斐源氏である安田義定が築城したと伝わる山梨県内最古の部類の山城。

一条忠頼~甲斐源氏棟梁である武田信義の長男、駿河を掌握するも源頼朝の命を受けて誅殺された。

加賀美遠光~甲斐源氏で武田信義の叔父又は弟、小笠原氏・奥州南部氏の祖でもあります。

【坂東平定】
治承4年(1180年)8月29日、
安房国平北郡猟島へ上陸した源頼朝は、
房総に勢力を持つ
上総広常と千葉常胤に加勢を要請しました。
下総国府で千葉一族と合流し、
上総広常が大軍を率いて参上し、
上総・千葉両氏を勢力に加えた
源頼朝は10月2日太井・隅田の両河を渡りました。
武蔵国に入ると足立遠元、葛西清重を加えました。

千葉常胤~桓武平氏の流れをくむ千葉氏の中興の祖~鎌倉幕府成立に大きく貢献した人物です。

滝野川城~豊島氏一族の滝野川氏が築城するも太田道灌によって滅ぼされました。源頼朝の布陣地としても有名です。

【三浦氏と秩父氏の和解】
葛西清重の説得によって
同じ秩父氏一族である
畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも
源頼朝に従うことになったとのことです。

菅谷館跡と鶴ヶ峰・二俣川の古戦場散策~畠山重忠公の足跡を訪ねて。

稲毛重成と枡形城~秩父一族で畠山重忠とは従兄弟、相模川の橋を架橋したと伝わる人物です。

江戸太郎重長と武蔵江戸氏について~武蔵国の武家で秩父氏一族であり所領のあった場所が東京の地名に今も残っています

清光寺~豊島清元(豊島清光)開基で居館が近くにあり豊島氏発祥の地に建つ寺院です。

鐙摺山(鐙摺城址)とは?小坪合戦(畠山VS三浦)・伊東祐親終焉の地・亀の前居住・源実朝が一句・三浦道寸が物見

彼らによって惣領の三浦義明を討たれた
三浦氏一族を源頼朝が説得して、
三浦・秩父両一族を和解させたのでした。
源頼朝の手による
相模の有力武士団である三浦氏と
武蔵の有力武士団である秩父氏の和解は
鎌倉を安定させる上で重要な意味合いを持ったのです。




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【源頼朝、鎌倉へ入る】
10月6日、かつて父の源義朝と
兄の源義平の住んだ鎌倉へ入りました。
鎌倉は後の鎌倉幕府の本拠地として、
発展を遂げることとなるのです。

由比若宮(元八幡)、河内源氏の源頼義が前九年の役の勝利で勧請したお社です。

【黄瀬川での源義経との対面】
東国の反乱の報告を受けた平家は
平維盛率いる追討使を送ります。
源頼朝はこれを迎え撃つべく
10月16日に鎌倉を発し、
途中で従わぬ豪族を制圧しながら
黄瀬川に着陣しました。
10月20日、
甲斐を発して鉢田の戦いに勝利した
武田信義らと共に富士川の戦いに勝利しました。
その後千葉常胤や上総広常らの言を容れ
常陸国の佐竹氏討伐に向かいます。
この最中、奥州の藤原秀衡を頼っていた
異母弟の源義経が参じています。

源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。

秋山光朝~加賀美遠光の長男、甲斐源氏の勢力拡大を恐れた源頼朝に疎まれ謀殺されます。

小笠原長清~弓馬四天王と称され、武家の有職故実を伝える小笠原一族の始祖です。

帰途、相模国府で初めての勲功の賞を行い、
捕えた大庭景親を処刑します。
次いで佐竹秀義を討つべく
常陸国へと進軍し、
戦いは上総広常の活躍により
佐竹秀義を逃亡させ終了。
鎌倉へ戻ると和田義盛を侍所の別当に任命しました。
侍所は後の鎌倉幕府で
軍事と警察を担うこととなる機関です。

和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる

【全国各地の動乱状態と平清盛の死】
治承4年(1180年)末までに、
四国伊予の河野氏、近江源氏、甲斐源氏、
信濃源氏、美濃源氏、鎮西(九州)の豪族らが
挙兵して全国各地は動乱状態となりました。
平家も福原から京都に都を戻して反撃に転じ、
近江源氏や南都寺社勢力を制圧します。
反撃に入った平家でしたが、
養和元年(1181年)閏2月4日、
最高権力者の平清盛が熱病で世を去りました。
全国的な反乱が続く中、
平家は平重衡を総大将として
尾張以東の東国征伐に向かいます。
平重衡は源行家らを墨俣川の戦いにて打ち破り、
美濃・尾張は平家の勢力下に入ります。
源頼朝は和田義盛を遠江に派遣しますが、
平家はそれ以上は東に兵を進めず都に戻りました。

源行家~平治の乱から熊野に隠れて20年、交渉力はあるが戦下手で、武将よりも別の才能があった人物。

平宗盛~最後の平家の棟梁~偉大なる父の跡はいばらの道だらけ、イクメンで家族思いのパパでもありました。

平知盛~入道相国最愛の息子、一門の最後を見届け散り行く様は歌舞伎になりました。

【源義仲と甲斐源氏】
一方、養和元年(1181年)6月の
横田河原の戦いで源義仲が勝利し、
源義仲は勢力を伸ばしつつあった
信濃や上野に加えて越後にも進出します。
また武田信義を中心とする甲斐源氏は、
甲斐、信濃、駿河、遠江を勢力下に置いていました。

木曾義仲(源義仲)河内源氏の一族で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を備えていたが武骨で公家文化には疎かった

【北坂東や奥州への警戒】
この時期、源頼朝は南坂東を
支配下に置いてはいましたが、
北坂東の豪族と争った記録が
「吾妻鏡」に散見されています。
また、常に奥州藤原氏や
佐竹氏残党の侵攻に脅かされていました。

【平家との和睦は拒否される】
養和元年(1181年)7月頃、
源頼朝は後白河法皇に
平家と和睦の書状を送りますが、
平清盛の後継者である
平宗盛は平清盛の遺言を理由に
その和平提案を拒否しています。
一方、平家は都への食糧供給地である
北陸に攻撃の矛先を向けたのでした。

【嫡男の源頼家の誕生】
東海道と東山道の対平家最前線は
甲斐源氏が担っていました。
よって源頼朝がこの時期に
平家と直接対峙することはありませんでした。
さらに翌年の寿永元年(1182年)からは
養和の飢饉により
いずれの勢力も大規模な軍事行動を
行うことができず膠着状態となりました。
そうした中、養和元年(1181年)8月、
北条政子が嫡男の源頼家を出産しています。

源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。

比企能員~源頼朝を支え有力御家人として権勢を握るも北条氏に嵌められ1日で滅ぶ。

比企能員の妻~渋河刑部丞兼忠の娘・「鎌倉殿の13人」では道、二つの渋河氏、比企氏と源氏の深い関係と安房国

大弐局 ~加賀美遠光の娘で兄弟には小笠原氏・南部氏がおり、源頼家・源実朝の養育係を務めた女性です。

北条時房~初代連署で六波羅探題南方、北条義時の弟で甥の北条泰時とは最高の相棒であり好敵手でした。

【政子の安産祈願のためには】
北条政子の安産祈願のために、
鶴岡八幡宮の参道を
御家人らと共に自ら手で築き、
また、伊豆山権現に土肥遠平
筥根権現に佐野基綱、
相模一宮に梶原景高、
三浦十二天に佐原義連、
武蔵六所宮に葛西清重、
常陸鹿島神宮に小栗重成、
上総一宮に上総良常、
下総香取神宮に千葉成胤、
安房東條庤明神に三浦義村
同国洲崎明神に安西景益を祈祷のため
奉幣使として遣わしました。

【で・・・自分は亀の前と密通】
が・・・・政子の妊娠中に
亀の前と密通し、それを知った政子に
亀の前の住む家を破却されています。

亀の前~頼朝が流人時代から寵愛していた女性~そして政子の諸事情について

牧宗親~北条時政の継室である牧の方の兄(もしくは父)、源頼朝と北条時政に仕えており板挟みでツライよ?

伏見広綱~源頼朝の有能な右筆、のハズが頼朝の兄嫁への恋文の使いと亀の前を匿って遠江に流罪となりました。

【坂東豪族の支持固め】
寿永2年(1183年)2月、野木宮合戦で
源義広、足利忠綱らを破り、
これにより坂東で源頼朝に
敵対する勢力は無くなりました。
挙兵直後から源頼朝は
朝廷の従来の枠を外れた方法で、
御家人の所領の保証、
敵方の没収所領の給付を行い、
「本領安堵」「新恩給付」
という豪族たちの
最大の願望を実現していき、
坂東豪族の支持を集めていったのでした。

【源義仲との戦い】
寿永2年(1183)春、
以仁王の令旨を受けて
挙兵していた源義仲が、
源頼朝と対立する叔父の
源義広及び源行家を庇護したことにより、
源頼朝と源(木曽)義仲は
武力衝突寸前となります。
両者の話し合いで
源義仲の嫡子の源義高を
源頼朝の長女の大姫の婿として
鎌倉に送ることで和議が成立したのでした。

源(木曽)義高~大姫の婚約者~幼くも純粋な愛を育むが源頼朝により命を散らす

海野幸氏~弓馬の宗家と讃えられ曾我兄弟の仇討ちの際には源頼朝の護衛役、滋野氏の嫡流の家柄です。

【恩賞第一と合わない位階】
朝廷では平家追討の恩賞に対して、
議論が行われて戦功第一は源頼朝、
次は源(木曽)義仲、
その次は源行家という結論になりましたが、
未だに上洛していない
源頼朝の京官への任命について
上洛後に任じれば良いとする藤原経宗と、
直ちに任命すべきであるとする
九条兼実や藤原長方との意見対立があり、
8月10日に源義仲は従五位下左馬頭越後守、
源行家は従五位下備後守に任じられましたが、
源頼朝については10月9日に
平治の乱で止められた
従五位下の位階に復されたのみでした。




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【朝廷から反感を買った源義仲】
平家との戦いに勝利を続け、
大軍を率いて入京した源義仲は、
後白河法皇から平家追討の命を得ますが、
寄せ集めである源義仲の軍勢は
統制が取れておらず、
飢饉に苦しむ都の食糧事情を悪化させ、
皇位継承への介入などから
院や廷臣たちの反感を買いました。
朝廷と京の人々は源頼朝の上洛を望み、
後白河法皇は源義仲を
西国の平家追討に向かわせ、
代わって源頼朝に上洛を要請します。
10月7日、源頼朝は
藤原秀衡と佐竹秀義に
鎌倉を攻められる虞があること、
数万騎を率い入洛すれば
京がもたないことの二点を理由に、
使者を返して要請を断りました。
前述の通り、朝廷は平治の乱で
止めた源頼朝の位階を復すると、
14日には東海道と東山道の所領を
元の本所に戻してその地域の
年貢・官物を源頼朝が進上し、
命令に従わぬ者の沙汰を
源頼朝が行うという内容の宣旨を下しました
(寿永二年十月宣旨)。

【認められた鎌倉政権】
源頼朝は既に実力で制圧していた
地域の所領の収公や御家人の
賞与罰則を行っていたが、
それは朝廷からみれば非公式でした。
しかし寿永二年十月宣旨により、
当初「反乱軍」と見なされていた
源頼朝率いる鎌倉政権は
朝廷から公式に認められる
勢力となったのでした。

同年12月、
東国自立を主張する
上総広常が
源頼朝の命令で
梶原景時に誅殺されています。

梶原景季~梶原景時の嫡男で治承・寿永の乱や宇治川の先陣争い、箙に梅花の枝など軍記で華やかな逸話がある人物。

【源義仲討たれる】
閏10月15日、
源頼朝の上洛を恐れる源義仲は、
平家追討の戦いに敗れると京に戻り、
源頼朝追討の命を望みましたが許されず、
11月には源頼朝が送った
源義経率いる軍が近江国へと至ります。
平家と源義経に挟まれた源義仲は、
法住寺合戦で後白河法皇を拘束して
源頼朝追討の宣旨を引き出し、
寿永3年(1184年)1月には
征東大将軍に任ぜられました。
20日に源範頼と源義経は
数万騎を率いて京に向かい、
源(木曽)義仲は粟津の戦いで討たれました。

【源義高と大姫の悲劇】
源頼朝は鎌倉に在った源義高の処刑を考えました。
それが大姫の耳に入り、
源義高に伝えたため、
4月21日に源義高は女房に扮して
鎌倉を逃れました。
源頼朝は堀親家に命じて追手を差し向け、
24日に武蔵国入間川原で源義高を討ちました。
これに憤った母の北条政子は
源義高を討った家人を梟首しました。

【甲斐源氏の家人化】
ほぼ同時期に甲斐源氏の
一条忠頼が鎌倉に於いて、
源頼朝の命令で
天野遠景に殺害されています。
またこの時期までに元々は
源頼朝と同格の武家棟梁だった
甲斐源氏の一族それぞれを
家人化させることに成功しています。

【源頼朝への恩賞問題】
朝廷では源頼朝への恩賞問題が再審議されました。
そして正四位下への叙位のみが行われました。
この情報は除目聞書(人事異動の写し)
を持った源義経の使者によって
鎌倉の源頼朝に届けられたのでした。

【平家追討へ】
【源義経を頼朝の代官として】
源義仲を討った源範頼と源義経は、
平家を追討すべく京を発ちます。
元暦元年(1184年)2月7日、
摂津国一ノ谷の戦いで勝利を収め、
平重衡を捕えて京に戻りました。
この戦いの後、源頼朝は
源義経を自らの代官として都に残し、
源義経の差配のもと
畿内の武士たちの掌握を図る一方、
四国に逃れた平家を追討すべく
九州・四国の武士に
平家追討を求める書状を下して、
土肥実平や梶原景時を山陽諸国に派遣しました。

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

【源範頼を大将とする平家追討軍が出陣】
6月5日の除目で、平頼盛が還任、
一条能保(姉または妹婿)、
源範頼、源広綱、平賀義信が国司となりました。
その後8月8日に源範頼を大将とする
平家追討軍が鎌倉から出陣しました。
従わせた家人は
北条義時、足利義兼、千葉常胤、
三浦義澄、結城朝光、比企能員
和田義盛、天野遠景らです。
源頼朝は源範頼に対し京への駐留を禁じており、
追討軍は27日に京へ入ると
29日に平家追討使の官符を賜い、
9月1日には西海へと赴きました。




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政所・問注所を開く】
10月6日、公文所を開き
大江広元を別当に任じました。
公文所は後に政所と名を改め、
後の鎌倉幕府における
政務と財政を司ることになります。
20日には訴訟を司る問注所を開き、
三善康信を執事としました。
この時期になると二階堂行政、
平盛時ら中下級の有能な
官人達が才能を発揮する場を求めて
鎌倉に下向するようになり、
彼らが幕府初期官僚組織を
形成していくのでした。

中原親能~朝廷と幕府の交渉役のエキスパート~実務官吏でありながら戦にも従軍する

大江広元~四男の毛利季光は毛利氏の祖となりやがて戦国大名の毛利氏へと続きます。

二階堂行政、13人の合議制のメンバーで初期の鎌倉政権を支えた実務官僚でした。

相模国大友郷~和田義盛の和田屋敷跡があり、戦国大名の大友氏の発祥の地です。

【源範頼から窮状を訴える書状】
文治元年(1185年)1月6日、
西海の源範頼から兵糧と船の不足、
関東への帰還を望む
東国武士達の不和など
窮状を訴える書状が届きます。
源頼朝は安徳天皇や
建礼門院の無事のため、
軍を動かさず九州の武士から
くれぐれも反感を得ぬように
記した書状を出し、
九州の武士には、
源範頼に従い平家を討つことを求めました。

【源義経、屋島の戦いに勝利】
この状況をみた源義経は
後白河法皇に西国出陣を奏上して
その許可を得ますと、10日に
讃岐国屋島に向けて出陣し、
19日の屋島の戦いで平家を海上へと追いやります。

【平家、壇ノ浦にて滅亡】
26日、九州の武士から
兵糧と船を得た源範頼は、
周防国から豊後国へと渡ります。
3月24日の壇ノ浦の戦いで
平家は滅亡し、平宗盛らを捕らえました。

浅利与一義成(浅利義遠)~甲斐源氏の一族で弓の名手であり武田信義・加賀美遠光とは兄弟です。

【源頼朝、従二位に昇進】
これを受けた後白河法皇は
源頼朝を従二位に叙したいとの
考えを伝えて意見を求めました。
従二位は過分で従三位に進めた上で
官職を与えて不足を補うべきであるとの
愚痴もでたようですが、
4月27日に源頼朝は
平家追討の功により、従二位へ昇ったのでした。

【源義経追放】
文治元年(1185年)4月、
平家追討で侍所所司として
源義経の補佐を務めた梶原景時から、
源義経を弾劾した書状が届きました。
4月15日、
源頼朝は自由任官の禁止令に
違反し内挙を得ずに
朝廷から任官を受けた
関東の武士らの任官を罵り
東国への帰還を禁じました。
しかし同じく任官を受けた源義経には
咎めを与えませんでした。
梶原景時の書状の他にも、
源範頼の管轄への越権行為、
配下の東国武士達への
勝手な処罰など
源義経の専横を訴える報告が入り、
5月、御家人達に
源義経に従ってはならないという
命が出されました。

田代砦と田代信綱~「田代」様発祥の地のひとつともされています。

【腰越状】
その頃、源義経は
平宗盛父子を伴い相模国に凱旋します。
源頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、
平宗盛父子のみを鎌倉に入れたのでした。
腰越に留まる源義経は、
許しを請う腰越状を送りますが、
源頼朝は平宗盛との面会を終えると、
源義経を鎌倉に入れぬまま、
6月9日に平宗盛父子と
平重衡を伴わせ帰洛を命じたのでした。
源義経は源頼朝を深く恨み、
「関東に於いて怨みを成すの輩は、
義経に属くべき」と言い放ったとのことです。
これを聞いた源頼朝は、
源義経の所領を全て没収しました。
延慶本「平家物語」によりますと、
源義経は鎌倉入りを許され
源頼朝と対面し、
慰安されたのち
鎌倉の外れで待機したということです。
(腰越は鎌倉のはずれなのかぁ・・・)

腰越 満福寺

【源義経、行方をくらます】
源義経が近江国で宗盛父子を斬首。
平重衡自身が焼き討ちにした東大寺に本人へ送ると、
8月4日、源頼朝は叔父である
源行家の追討を佐々木定綱に命じましたた。
9月に入り京の源義経の様子を探るべく
梶原景季を遣わすと、
源義経は痩せ衰えた体で
梶原景季の前に現れ、
源行家追討の要請に、
自身の病と源行家が同じ源氏であることを
理由に断ったとあります。
10月、鎌倉に戻った梶原景季からの
報告を受けた源頼朝は、
源義経と源行家が通じているとの判断を下します。
源義経は源頼朝追討の宣旨を再び朝廷に求め、
後白河法皇は源義経に宣旨を下します。
10月24日、源頼朝は源氏一門や
多くの御家人を集め、父親の
源義朝の菩提寺となる
勝長寿院落成供養を行いました。
その日の夜、
朝廷の源頼朝追討宣旨に対抗して
御家人達に即時上洛の命を出しましたが、
その時鎌倉に集まっていた
2098人の武士のうち、
命に応じた者はわずか
58人であったとのことです。
そこで源頼朝は自らの出陣を決め、
源行家と源義経を討つべく
29日に鎌倉を発ちます。
11月1日に駿河国黄瀬川に着陣。
対する源義経は
源頼朝追討の兵が集まらず、
後白河法皇に九州・四国の支配権を
認めさせた後、11月3日、
郎党や源行家と共に戦わずして京落ちします。
海路西国を目指すも途上暴風雨に会い、
船団は難破、
一行は散り散りになり、
源義経は行方をくらませ、
妾の静御前吉野山で捕らえられています。
なお源義経を九州に迎えようと
岡城を築いていた
豊後国の緒方惟栄は
上野国沼田に配流され、
豊後国は一時関東御分国となりました。

吉野 山

【源義経及び源行家追捕の院宣を出させる】
11月8日、
源頼朝は都へ使者を送ると、
黄瀬川を発って鎌倉へ戻ります。
11月上旬、源義経及び源行家と
入れ替わるように上洛した
東国武士の態度は強硬で、
院分国の播磨国では
法皇の代官を追い出して
倉庫群を封印したとのことです。
11日、源頼朝の怒りに狼狽した朝廷は、
源義経及び源行家追捕の院宣を諸国に下しました。
その頃、鎌倉では駿河以西の御家人に書状を送り、
今度の源頼朝の上洛は取り止めたが
なお怠りなく軍備を固めるように命じて、
いざとなれば大挙出兵して
上洛する場合に備えていたのでした。

【守護・地頭の設置の進言】
12日、大江広元は処置を考える
源頼朝に対して「守護・地頭の設置」を進言しました。
これに賛同した源頼朝は、
うろたえている朝廷に対し
強硬な態度を示して圧力をかけたのでした。

【文治の勅許】
北条時政が源頼朝の代官として
千騎の兵を率いて入京し、
源頼朝の憤怒を院に告げて
交渉に入りました。
その後北条時政は吉田経房を通じ
源義経らの追捕のためとして
「守護・地頭の設置」を
認めさせることに成功します。




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【天下の草創】
12月には「天下の草創」と強調して、
院近臣の解官、議奏公卿による朝政の運営、
九条兼実への
内覧宣下といった3ヵ条の
廟堂改革要求を突きつけます。
議奏公卿は必ずしも
親鎌倉派という陣容ではなく、
院近臣も後に法皇の宥免要請により
復権したため、
源頼朝の意図が貫徹したとは言い難いが、
九条兼実を内覧に据えることで
院の自分勝手な行動を
抑制する効果はあったとのことです。

九条兼実~九条流の祖、正しき政治体制を目指した厳格さを持つ人物で「玉葉」の著者。

慈円~歴史書「愚管抄」の著者で九条兼実は同母兄、天台座主を務め小倉百人一首にも選出されています。

【源行家の討死】
文治2年(1186年)3月、
九条兼実を摂政に任命させました。
5月12日には和泉国に潜んでいた
源行家を討ち取りました。

静御前~源義経の愛妾、儚い幸せとその後の寂寞たる足跡は今に語り継がれています。

【追い詰められていく源義経】
源頼朝は捜査の実行によって
源義経を匿う寺院勢力に威圧を加え、
彼らの行動を制限したのでした。
その間に発見された
源義経の腹心の郎党たちを逮捕・殺害すると、
院近臣と源義経が通じている確証を上げます。
11月、源頼朝は
「義経を逮捕できない原因は朝廷にある。
義経を匿ったり
義経に同意したりしている者がいる」
と朝廷に強硬な申し入れを行いました。
朝廷は重ねて源義経追捕の院宣を出すと、
各寺院で逮捕のための
祈祷を大規模に行うことになりました。
京都に見捨てられた源義経は、
奥州に逃れ藤原秀衡の
庇護を受けることとなったのでした。

源頼朝は、諸国から争いの訴えなどを
多く受けるようになり、
また平重衡によって焼かれた
東大寺の再建工事なども手がけていきました。

藤原秀衡~奥州藤原三代当主にて最も平泉を繁栄させ、源義経を二度庇護した人物です。

運慶~日本彫刻史上最も有名な人物でその作風は力強く躍動的で写実的です。

【奥州を討つ】
平家討滅後、源頼朝にとって、
鎌倉政権を安定させるためには、
潜在的脅威である
奥州藤原氏を討つ必要性がありました。
文治2年(1186年)4月、
藤原秀衡に寿永二年十月宣旨で
獲得した東海道東山道支配権を理由に
奥州から都に献上する年貢は
源頼朝が取り次ぐと申し入れ、
藤原秀衡もこれに応じています。

平泉 毛越寺

【藤原秀衡の死】
文治3年(1187年)10月、
藤原秀衡が没します。
更に文治4年(1188年)2月に
源義経の奥州潜伏が発覚します。
源頼朝は藤原秀衡の子息に
源義経追討宣旨を下すよう朝廷に奏上しました。
源頼朝の申請を受けて朝廷は、
2月と10月に藤原基成と藤原泰衡
義経追討宣旨を下します。
文治5年(1189年)閏4月30日、
鎌倉方の圧力に屈した藤原泰衡は
衣川館に住む源義経を襲撃して
自害へと追いやったのでした。

高館

【奥州討伐へ】
6月13日に源義経の首が鎌倉に届き、
和田義盛と梶原景時が首実検しました。

白幡神社(藤沢)・源義経首洗塚・伝義経首洗い井戸・弁慶塚、旧藤沢宿の源義経にまつわる史跡

25日、源頼朝はこれまで
源義経を匿ってきた罪は
反逆以上のものとして
藤原泰衡追討宣旨を
朝廷に求めましたが
勅許は下されませんでした。
そうした中、大庭景義の
「軍中は将軍の令を聞き、
天子の詔を聞かず」という進言で、
7月19日、勅許を待たずに
およそ1000騎を率いて鎌倉を出発し、
藤原泰衡追討に向かったのでした。
源頼朝軍は大した抵抗も受けずに
白河関から奥州南部を進み、
8月7日には伊達郡国見駅に達しました。

神明大神宮 (しんめいだいしんぐう)~懐嶋城址~大庭景義の館址

【藤原泰衡、討たれる】
8月8日、石那坂の戦い(現在の福島市飯坂)で、
源頼朝の別働隊である
伊佐為宗が信夫庄司佐藤基治
(佐藤継信・佐藤忠信の父)を打ち破ります。
同日ごろ、阿津賀志山の戦いにおいて
藤原国衡率いる奥州軍を破った源頼朝は、
藤原泰衡を追って北上します。
22日には平泉を攻略。
藤原泰衡は館に火を放って
逃亡していました。
26日、源頼朝の宿所に
赦免を求める藤原泰衡の書状が
投げ込まれましたが、源頼朝はこれを無視。
9月2日には岩井郡厨河(現在の盛岡市厨川)
へ向けて進軍を開始します。
厨河柵はかつて前九年の役で
源頼義が安倍貞任らを討った地であり、
源頼朝はその佳例に倣い、
厨河柵での藤原泰衡討伐を望んだのでした。
9月3日、藤原泰衡は
その郎従である河田次郎の裏切りにより討たれ、
その首は6日に陣岡にいた
源頼朝へ届けられました。
源頼朝は河田次郎を
八虐の罪(主君への裏切りを含む)
に値するとして斬罪に処します。
前九年の役で祖先の源頼義が
安倍貞任の首を晒した
故事に倣って藤原泰衡の首を晒したのでした。
9日、京都の一条能保から
7月19日付の藤原泰衡追討宣旨が
源頼朝の下へ届いたのでした。

藤原 泰衡~奥州藤原氏最後の当主、源義経や身内の命を犠牲にしても彼が守りたかったものとは何か?

藤原国衡~藤原秀衡の長庶子で藤原泰衡の異母兄、蝦夷の血を引く彼は武勇に優れており家中の期待も高かった。

【戦後処理】
源頼朝は陣岡を出て厨河柵に入り、
降人の赦免や奥州藤原氏の建立した
中尊寺、毛越寺、宇治平等院を模した
無量光院の寺領安堵などの処理を行いました。
平泉に戻って諸寺を巡り
感銘を受けた源頼朝は、
鎌倉に戻った後に
中尊寺境内の大長寿院に模した
永福寺を建立しています。
その後、源頼朝は
奥州支配体制を固めるため
葛西清重を奥州総奉行に任命します。
そして28日に平泉を発ち、
翌月の10月24日に鎌倉へ帰着したのでした。

大宝城(茨城県)~関東最古の八幡宮である大宝八幡宮境内にあり下妻氏によって築城された城です。

【主従関係の強固と内乱の終結】
この奥州合戦には関東だけではなく、
全国各地の武士が動員されました。
また、かつて敵対して
捕虜となった者に対しても、
この合戦に従って
戦功を上げるという
挽回の機会も与えられていたのでした。
さらに、前九年の役の
源頼義の先例
を随時持ち出すことによって、
坂東の武士達と頼朝との主従関係を
さらに強固にする役割も果たしたのでした。

なお、この奥州合戦の終了で
治承4年(1180年)に起きた
治承・寿永の乱から続いていた
内乱も終結を迎えることになったのでした。

【源頼朝、上洛】
文治5年(1189年)11月3日、
朝廷より奥州征伐を称える書状が下り、
源頼朝は按察使への任官を打診され、
さらに勲功のあった
御家人の推挙を促されましたが、
源頼朝は辞退しました。
奥州では、大河兼任の乱が勃発しましたが、
足利義兼や千葉胤正らに出陣を命じ、
文治6年(1190年)3月、
大河兼任は討ち取られました。
伊沢家景を陸奥国留守職に任命し、
在庁官人を指揮させ、
奥州への支配を強化しました。
建久元年(1190年)10月3日、
源頼朝は遂に上洛すべく鎌倉を発ちます。
平治の乱で父が討たれた尾張国野間、
父兄が留まった美濃国青墓などを経て、
11月7日に千余騎の御家人を率いて入京し、
かつて平清盛が住んだ六波羅に建てた新邸に入りました。




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【後白河院との8回の対面】
9日、後白河法皇に拝謁し、
長時間余人を交えず会談したとのことです。
源頼朝は権大納言・右近衛大将に任じられましたが、
辞退しました。
11月9日の夜、
源頼朝は九条兼実と面会して
政治的提携を確認したとのことです。
源頼朝の在京はおよそ40日間だったそうですが、
後白河院との対面は8回を数えたといいます。

【源頼朝の諸国守護権が認められる】
日本国総追補使・総地頭の地位は、
より一般的な治安警察権を
行使する恒久的なものに
切り替わり、
翌年3月22日の建久新制で
源頼朝の諸国守護権が
公式に認められました。
12月14日、
源頼朝は京都を去り29日に鎌倉に戻りました。

【鎌倉、大火災】
建久2年(1191年)3月4日の夜、
鎌倉は大規模な火災に遭い、
大蔵幕府やその周辺の御家人の
屋敷などが多数焼失しました。
頼朝は郊外の甘縄にあった
安達盛長の邸宅に逃れて無事でしたが、
鎌倉の都市計画は修正を余儀なくされました。

【征夷大将軍】
建久3年(1192年)3月に後白河法皇が崩御。
同年7月12日、即位した後鳥羽天皇によって
源頼朝は征夷大将軍に任ぜられました。
それまでは従三位までの
東方軍事司令官でしかなかったこの職に、
あえて左大臣
(元々は常設職としては政権最高位であった)
にも相当する正二位で就いたことは、
軍権に基づく政権担当者という
意味合いが加わり、
以降、江戸幕府の幕末まで
700年近く続く慣例が創始されたのでした。

1分でわかる姫の前~北条義時の正室、源頼朝お気に入りの女官で絶世の美女だが、比企一族の乱で離縁。

源実朝~3代将軍にて天才歌人~繊細で思慮深く秘めた志あり、やがて雪の中に散っていく。

【富士の巻狩】
建久4年(1193年)5月、
御家人を集め駿河国で巻狩を行いました。
この巻狩において12歳の
源頼家が初めて鹿を射止めました。
この後、狩りは中止され、
晩になって山神・矢口の祭りが
執り行われました。
また、源頼朝は喜んで
北条政子に報告の使いを送りましたが、
北条政子は武将の嫡子なら
当たり前のことであると使者を
追い返してしまいました。

曽我兄弟の仇討】
28日の夜に御家人の工藤祐経が
曾我兄弟の仇討ちに遭い討たれました。
更に源頼朝が討たれたとの
誤報が鎌倉に伝わると、
源範頼は嘆く北条政子に対し
「範頼左て候へば御代は何事か候べきと」と慰めました。
この発言が源頼朝に
謀反の疑いを招いたとされています。

工藤佑経~復讐の連鎖の果てに~曽我兄弟の仇討の相手で後見人の伊東祐親に所領と妻を奪われてしまった人

曽我兄弟の縁の地・富士宮市~井出の代官屋敷・曽我八幡宮・曽我兄弟の供養塔・曽我の隠れ岩・音止の滝 

曽我兄弟の縁の場所(富士市)~化粧坂少将(姫宮神社)・曽我寺・曽我八幡宮・五郎の首洗い井戸

御所五郎丸~曽我兄弟の仇討事件で源頼朝の危機を救ったとされている人物です。

【源範頼、謀反の疑いで伊豆へ流罪】
8月2日、源頼朝の元に
謀反を否定する起請文が届きましたが、
「源」の氏名を使ったことに激怒しました。
その後、源頼朝の寝床に潜んでいた
源範頼の間者が捕縛され、
源範頼は伊豆へ流されました。

【甲斐源氏の安田義定を誅す】
建久5年(1194年)には
甲斐源氏の安田義定を
謀反の疑いをかけて殺めました。

【地方支配の強化】
建久6年(1195年)3月、
摂津国の住吉大社において
幕府御家人を集めて
大規模な流鏑馬を催しました。
建久8年(1197年)には、
薩摩国や大隅国などで大田文を作成させ、
地方支配の強化を目指しています。




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【源頼朝・政子・頼家・大姫の上洛】
建久6年(1195年)2月、
源頼朝は東大寺再建供養に出席するため、
北条政子と源頼家と大姫ら
子女達を伴って再び上洛しました。
長女の大姫を後鳥羽天皇の妃にすべく、
娘・任子を入内させている
九条兼実ではなく
土御門通親や丹後局と接触し、
大量の贈り物や
莫大な荘園の安堵などを行って
朝廷工作を図ったのでした。
建久7年(1196年)11月、
九条兼実は一族と共に失脚、
源頼朝はこれを黙認したとされています。

丹後局(高階栄子)~中流官僚の妻から後白河法皇の寵愛を受け、政治家として権勢を振るった美女

土御門通親~村上源氏の嫡流で九条兼実を失脚させ、やがては朝廷政治を掌握します。

【大姫の死去】
建久8年(1197年)7月、
入内計画は大姫の死により頓挫しました。
建久9年(1198年)正月、
源頼朝の反対を無視して
後鳥羽天皇は土御門通親の養女が生んだ
土御門天皇に譲位して上皇となり、
土御門通親は天皇の外戚として権勢を強めました。

【次女の三幡の入内】
源頼朝は朝廷における代弁者であった
一条能保・高能父子が
相次いで病死したこともあり、
遅ればせながら危機感を抱いて
九条兼実に書状を送り
再度の提携を申し入れ、
次女である三幡姫の入内と
朝幕関係の再構築を目指しました。
三幡は女御の宣旨を受けました。

三幡(乙姫)~源頼朝と北条政子の次女、父親と同じ年に14歳にて早世した姫

【源頼朝、体調を崩す】
建久9年(1198年)12月27日、
源頼朝は相模川で催された
橋供養からの帰路で体調を崩します。
原因は落馬と言われていますが
定かではありません。

【「旧相模川橋脚」】
相模川での橋供養
(重臣稲毛重成が亡き妻のために架橋したもの)
の帰路で発病し、のちに死去した源頼朝。
大正12年(1923年)に
関東大震災の液状化現象によって
茅ヶ崎市下町屋1丁目の地中から出現した
「旧相模川橋脚」
(国の史跡および天然記念物)は、
まさにこの橋ではないかと考えられています。

旧相模川橋脚

【源頼朝の死去】
建久10年(1199年)1月11日に出家しました。
1月13日に薨去しました。
享年は53歳で満年齢は51歳でした。

【源頼朝の死因について】
各史料では、相模川橋供養の帰路に
病を患ったことまでは一致していますが、
その原因は定まってはいません。
「吾妻鏡」は「落馬」、「猪隈関白記」は「飲水の病」、
「承久記」は「水神に領せられ」、
「保暦間記」は
「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て
気を失い病に倒れた」と記しています。
死没の年月日については、
それ以外の諸書が
一致して伝えています。




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【落馬説】
建久9年(1198年)、
重臣の稲毛重成が亡き妻のために
相模川に橋をかけ、
その橋の落成供養に出席した
帰りの道中に落馬したということが
「吾妻鏡」に記された死因であり、
最も良く知られた説です。
けれどもその死因が「吾妻鏡」に登場するのは、
源頼朝の死から13年も後のことです。
しかも死去した当時の「吾妻鏡」には、
橋供養から葬儀まで、
源頼朝の死に関する記載が全くありません。
なお、死因と落馬の因果関係によって
解釈は異なります。
落馬は結果であるなら
脳卒中など脳血管障害が
事故の前に起きており、
落馬自体が原因ならば、
頭部外傷性の
脳内出血を引き起こしたと考えられています。
落馬から死去まで
17日あることから、
脳卒中後の誤嚥性及び
沈下性肺炎の可能性があるとのことです。

<落馬の候補地>
源頼朝公 落馬地候補 辻堂

【尿崩症説】
落馬で脳の中枢神経を損傷し、
抗利尿ホルモンの分泌に
異常を来たして
尿崩症を起こしたという説です。
この病気では尿の量が
急増して水を大量に摂取する
(=「飲水の病」)ようになり、
血中のナトリウム濃度が
低下するため、
適切な治療法がないこの時代では
死に至る可能性が高いとのことです。

【糖尿病説】
「猪隈関白記」の「飲水の病」とは
水を欲しがる病であり
糖尿病を指すとしています。
しかしそのような
症状があったという記録はなく、
可能性は低いとのことです。
そもそも糖尿病は
直接の死因となる病気ではなく、
合併症が死因となる病気とのことです。
仮に糖尿病による死であるならば、
当時の人間がそれが死因と認識して
「飲水の病」と記録に残すとは
考えにくいとのことです。

【亡霊説】
「保暦間記」に記されています。
当時は亡霊や祟りが
深く信じられている時代であり、
信心深い源頼朝には
源義経や安徳天皇の亡霊が
見えたのであろうと言うことです。
現代医学でいう意識障害のような
失調症があったと捉えることもできますが、
「亡霊を見た」という記述を
そのまま鵜呑みにするだけでは
学説とは言えないとのことです。
ただし何らかの病気で
意識が混濁した源頼朝が
亡霊を見た可能性も
否定はできないとのことです。

【溺死説】
史料は「飲水の病」「相模川橋供養」
「水神の祟り」「海上に現れた安徳天皇」
など水を連想させる語が多く、
溺れたことが死に繋がったのではと考えられます。
また相模川河口付近は別名として
馬入川とも呼ばれており、
源頼朝の跨った馬が
突然暴れて川に入り、
落馬に至ったことに
由来するとも伝わっています。
ただし、落馬の場所が、
別の場所だとする説もあります。
溺死説の場合、
「飲水の病」は川に落ち溺れ、
水を飲み過ぎたことを
意味するとのことです。
けれども、根拠のない推測にしか
過ぎないとのことです。

【暗殺説】
源頼朝は子の源頼家や源実朝と同じく
何者かに暗殺されており、
その事実を隠すべく
「吾妻鏡」への記載を
避けていたとする説です。
あるいは北条氏に
水銀を飲まされて死んだとも言うことです。
ちなみに伊豆では水銀が
産出されているとのことです。

・・・実のところ、
そうかもしれませんが、
何せ証拠となる史料がありません。
ここは「タイムスクープハンター」の
「時空ジャーナリスト」に取材して頂きたいですね。

【誤認殺傷説】
愛人の所に夜這いに行く途中、
不審者と間違われ斬り殺されたとする説です。
証拠以前に、斬り殺した人間、
遭いに行く予定の愛人が
誰か特定できないことには、
学説として成り立たない、とのことです。

源頼朝はかなりモテたらしいですからね。
御曹司で頭もいいし、武芸もできます。
そして何よりイケメンだったらしいです。

【源頼朝はイケメン】
「平治物語」では「年齢より大人びている」とし、
平治物語絵巻断簡には
源頼朝と見られる
若武者の姿が残っているそうです。
「源平盛衰記」は
「顔が大きく容貌は美しい」
と記されているそうです。
寿永2年(1183年)8月、
鎌倉で源頼朝と対面した
中原泰定の言葉として
「平家物語」に
「顔大きに、背低きかりけり。
容貌優美にして言語文明なり」
とあります。
九条兼実の日記「玉葉」は
「頼朝の体たる、威勢厳粛、
その性強烈、成敗文明、理非断決」
(10月9日条)と書いてあります。
身長は大山祇神社
奉納された甲冑を
元に推測しますと
165センチメートル前後は
あったとされており、
当時の平均よりは
長身であることがわかっています。




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【源頼朝の政治的な功績】
源頼朝の開いた武家政権は制度化され、
次第に朝廷から政治の実権を奪い、
後に幕府と名付けられ、
1868年の王政復古まで、
足掛け約680年間にも
渡って続くこととなるのでした。
源頼朝在世中はまだ
朝廷との二重政府的な要素も強かったのですが、
守護地頭制度によって
東国のみならず全国支配の布石を打っています。
源頼朝は武士の統率、
朝廷との折衝に卓越した政治力をみせ、
武家政権を代表する地位が
征夷大将軍であるという慣習、
源氏がその地位に
就かねばならないという観念、
将軍のみが隔絶して
高貴な身分として
幕臣に君臨するという習慣も
源頼朝よりはじまっています。

以上の事からも武家政権の創始者として
源頼朝の業績は高く評価されています。

【源頼朝の人格評価】
人格は「冷酷な政治家」と
評される場合が多いです。
理由としては、
源頼朝個人は武芸には長けていたと
云われてはいますが、
自ら兵を率いることが少なく、
戦闘指揮官としては
格別の実績を示してはいません。
主に政治的交渉で
鎌倉幕府の樹立を成し遂げました。

また統制の厳格さと
独裁的な傾向がありました。
そして何より源義経や源範頼以下、
多くの同族や兄弟を死に追いやり、
一族の諸将を殺したことが挙げられます。
しかもそれは後に
幕府内部の抗争となって現れ、
源頼朝の死後約20年にして
河内源氏は滅亡しまったのでした。

【墓所・霊廟・神社】
【法華堂】(鎌倉市西御門)
死後、源頼朝の亡骸は彼の持仏堂に葬られました。
持仏堂は正治2年(1200年)から
法華堂と呼ばれ、
多くの法要が営まれてきました。
安永8年(1779年)2月、
薩摩藩主・島津重豪が
現在の石塔を建てました。
明治に入ると廃仏毀釈により
石塔の前に在った法華堂は壊され、
明治5年(1872年)、
その跡に源頼朝を祀る
白旗神社が建てられました。
なお石塔は昭和2年(1927年)に
「法華堂跡(源頼朝墓)」として
国の史跡に指定されています。

【鶴岡八幡宮・白幡神社】(鎌倉市)
鶴岡八幡宮境内にも白旗神社があります。
社伝によりますと北条政子が
朝廷より白旗大明神の神号を賜り
正治2年(1200年)に創建したとされています。
なお、源頼家の創建とも伝わっています。
明治21年(1888年)に
現在地に遷座しました。

【日光東照宮】
明治以降は日光東照宮の相殿にも
祀られています。

【矢ノ森八景】(岩手県一関市東山町河津矢ノ森)
清和源氏の末裔が土着し
源頼朝公を慕って建てたと
伝えられる墓(慕碑)があります。
脇に市指定文化財の大銀杏があります。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
大泉洋(おおいずみ よう)さんが演じられます。

伝源経基館跡、源経基とは経基流清和源氏の初代で孫の代から摂津・大和・河内源氏へと分かれていきます。

河内源氏の栄枯盛衰~形成から興隆、衰退、初の武家政権となった鎌倉幕府と次の室町時代。

宇佐美氏とは?~祖は宇佐美祐茂・宇佐美城と宇佐美一族の墓

丹後局(丹後内侍)~源頼朝の妻妾で比企一族~供養塔が横浜にあります。

阿波局(北条時政の娘)~梶原一族滅亡の火付け役?夫は源頼朝の弟で源実朝の乳母だが姉同様に我が子を失う

北条泰時~道理の人~北条執権政治の中興の祖で御成敗式目を制定した。

矢部禅尼~三浦義村の娘で北条泰時の正室、子供達は相模三浦氏や戦国大名の蘆名氏につながる。

大弐三位(紫式部娘・藤原賢子)~母からは和歌や文才を、父からは明朗で自由快活な気性を受け継ぎ、行動力溢れ長寿を全うしました。

岩殿観音正法寺 ・開基1300年の古刹、源頼朝の庇護の下比企能員が再興し北条政子の守り本尊となる。

日向薬師~日本三大薬師の一つで開山は奈良時代、薬師如来の霊場として信仰を集め源頼朝も自ら参詣しました。

杉本寺(鎌倉)鎌倉最古のお寺で創建は天平時代で源頼朝寄進の十一面観音が安置されています。

海蔵寺(鎌倉)鎌倉奥の静かな佇まいの花と井戸、そして数々の伝説を秘めた寺です。

常栄寺(鎌倉)通称は牡丹餅寺、むかし源頼朝が「千羽鶴の放生会」を展望するための桟敷がありました。

修善寺温泉~伊豆最古の湯治湯で歴史・文学・豊かな自然が調和よくブレンドされた処です。

西山本門寺・織田信長公の首塚~感銘を受けた富士山の麓で眠っています。

富士山本宮浅間大社~全国の浅間神社の総本山で世界文化遺産に登録されています。

誓願寺~創建は源頼朝公で武田信玄が再建したお寺で片桐且元の墓があります。丸子城への登城口があります。

鹿島城(常陸国)~平安時代末期に鹿島氏によって築城されました。築城者の平姓鹿島氏とは?

熊野那智大社~世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部、熊野三山です。

青岸渡寺~世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部で西国三十三所第1番札所です。

那智の大滝・飛瀧神社~滝をご神体とする自然信仰の聖地、日本三名瀑で世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部です。

熊野速玉大社~元宮は巨岩のゴトビキ岩がある神倉神社、境内にはナギの巨木があり世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部です。

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