鎌倉殿の13人

天野遠景~工藤氏の一族で天野氏の祖~初代の鎮西奉行に就任。子孫が各地で根付き繁栄します。

東伊豆の海 豆州



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【天野遠景】

天野 遠景(あまの とおかげ)は、
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将でした。
藤原南家工藤氏の一族で、
吉川氏と同族です。
伊豆国田方郡天野に住して、
その地名を取り天野氏と称しました。

【時代】
平安時代末期 – 鎌倉時代初期

【生誕】
不詳

【死没】
不詳

【改名】
遠景、蓮景

【別名】
天野藤内、伊豆藤内

【戒名】
泰栄寺贈三品蓮景大宝

【墓所】
静岡県伊豆の国市天野 東昌寺

【官位】
内舎人、左兵衛尉、民部丞

【幕府】
鎌倉幕府 鎮西奉行人

【主君】
源頼朝、頼家

【氏族】
藤原南家工藤氏、天野氏

【父】
藤原景光

【兄弟】
遠景、光家

【妻】
狩野茂光の娘

【子】
政景

源頼朝の伊豆時代から交流】
永治元年(1141年)に
鎌倉の亀谷で生まれたとする文献があります。
平家の家人でしたが、天野郷が
蛭ヶ小島に近かったこともあり、
仁安2年(1167年)頃、
伊東祐親の下で
幽閉生活を送っていた源頼朝と
狩や相撲を通じて交流を持ち、
親交を深めていました。
そのため源頼朝の挙兵当初から
付き従うこととなったのでした。

蛭が小島

石橋山の戦いに参戦】
天野氏は狩野川河口を中心に
駿河湾で活動する存在だったと
見る説もあります。
治承4年(1180年)、
石橋山の戦いに息子である
天野政景とともに参戦しましたが
敗北となってしまいます。

【伊東祐親を捕縛】
その後は伊豆国内で平氏方と交戦。
同年10月の富士川の戦いの後、
平氏軍に合流しようとした
伊東祐親を捕縛しました。

平家越

【木曾(源)義高を人質にする】
寿永2年(1183年)には
信濃国を中心として
勢力を拡大する木曾義仲への
使者を務め、
木曾(源)義仲の嫡子である木曾義高を
人質とすることに成功しました。

源(木曽)義高 石碑

【甲斐源氏の一条忠頼を暗殺】
元暦元年(1184年)には
源頼朝の命を受け、
甲斐源氏の一条忠頼を謀殺。
なお、治承4年(1180年)10月の
伊東祐親を捕縛記事以降、
元暦元年(1184年)の
一条忠頼殺害事件まで「吾妻鏡」には
天野遠景は一切登場していないこと、
またその頃の伊豆国や
東駿河は源頼朝の支配する地域と
甲斐源氏の支配する地域とは
境目にあった為、
天野遠景は源頼朝と
甲斐源氏有力者双方に
名簿を提出して
二つの主君に仕えて
二股を掛けた可能性があるともされています。

【鎮西奉行に】
同年8月、源範頼の平家追討軍に従い
周防国から豊後国へ渡ります。
文治元年(1185年)3月11日には
平家追討に大功のある12人のうちの一人として
源頼朝より感状を受けました。
同年末には追放された源義経の探索と、
鎮西における鎌倉幕府勢力の確立を
目的に創設された九州惣追捕使に補任されます。
なお、文治2年(1186年)12月10日に
初代の鎮西奉行になったとする
文献があるとのことです。

【九州・大宰府で実権を握る】
律令制度上の鎮西統治機関である
大宰府の機構に関与して
その実権を握りました。
肥前国での豪族の狼藉の停止や、
宇都宮信房と鬼界ヶ島の
平家残党を征伐するなど、
天野遠景は九州・大宰府方面で
10年近くの長きに渡って活躍しました。

【鎮西奉行を解任される】
けれども鎮西御家人らの協力は
得られませんでした。
また天野遠景の鎮西における
新儀非法に対する寺社や
荘園領側の抵抗も激しく、
天野遠景は
建久5年(1195年)頃までには
奉行職を解任され、
鎌倉及び本貫の地である
豆州天野郷に帰ったとされています。




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【出家後も活躍】
建久10年(1199年)正月の
源頼朝死去に伴い、
出家して蓮景と号しました。
その後の梶原景時の変や
建仁3年(1203年)9月の
比企能員暗殺にも関与しています。

妙本寺 境内の道 階段

【晩年と恩賞】
没年は不明ですが、
死期が近いとされている
承元元年(1207年)6月2日、
治承4年以来の
勲功11ヶ条を挙げて
恩賞を望んでいました。
晩年は不遇であったと見られています。
「幕府諸家系譜」では
承元2年(1208年)8月15日に
63歳で死去とあります。
一方「萩藩閥閲録」では、
貞応元年(1222年)12月27日に
死去したとされています。

【恩賞としての所領について】
宝治年間に天野遠景の子供である
天野政景の遺児(天野遠景の孫の世代)が
所領争いを起こした時に
問題とされた所領のほとんどが
天野政景が恩賞として
与えられたものでした。
天野遠景が平家追討の功績などで
与えられた所領のほとんどが
荘園領主との対立などが原因で
その存命中に収公された
形跡がみられています。
本領とされる伊豆国天野ですら、
天野政景以後の領有の形跡が
みられないということです。

【天野氏の子孫が多くの所領を得る】
天野遠景の子である天野政景は
承久の乱で活躍し、
長門守護職に任命され、
遠江国周智郡山香荘
(現・静岡県浜松市)を始め、
信濃国、相模国の各地に
多くの所領を得ることになります。
その後、天野政景の曾孫となる
天野経顕(周防七郎左衛門)が
遠州山香庄に入って
遠江守護今川氏に属します。
そして遠江守護となった今川氏と結び、
国人勢力として遠江にて
共に力を拡大していきます。
以後、天野経顕の系は北遠で勢力を広げ、
元弘3年(1333年)の
新田義貞の鎌倉攻めに天野経顕は
子の天野経政とともに新田勢に参陣します。
これを契機に天野経顕の一族は
建武政権に属したのでした。

また、遠江国のほか、天野氏の支流が
駿河国・相模国・三河国・
尾張国・甲斐国・安芸国・能登国等に
拡張していきました。
天野遠景の願いが
子孫の代で叶っていったわけですね。

【南北朝の天野氏】

新政権への不満から
足利尊氏後醍醐天皇に反旗を翻すと、
同様に不満を持っていた天野経顕は
足利尊氏に従って行動しました。
一方、天野経顕の弟の天野景光の子である
天野政貞は南朝方の新田義貞に従い、
義貞・義宗・顕政と
新田氏三代に属して
南朝に忠節を尽くしました。
また、天野経顕の嫡孫である
天野景隆(経政の子)も
磐田郡の秋葉山に城を構えて
南朝の宗良親王を守りました。
けれども、経政と景隆は翻身して
北朝方となり、
遠江守・下野守に任ぜられています。
その孫となる天野景政が
遠江国犬居の地頭となり、
犬居城を築いて居城とし、
こうして犬居天野氏の祖となったのでした。




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その後天野氏は南北朝の中期には
一族が南朝と北朝に分裂して
争うようになりました。
犬居の天野氏の本宗は
今川氏に属して北朝に味方します。
一方、その分家である
久頭郷城主天野氏は南朝に属しました。
秋葉城主の天野景顕は
北朝方今川範国に属しましたが、
その子遠幹(民部少輔)と
孫の遠貞はともに南朝方になりました。

【戦国時代の天野氏】

この分裂抗争は戦国時代も継続しました。
そうした中、秋葉城主景顕の曾孫の
天野景貞の系統から天文期(1532年 -1555年)に
天野虎景(小四郎)が今川義元に属しました。
その跡職は藤秀(宮内右衛門)が相続。
一方、犬居の本領3ヶ村は
嫡流の天野景泰(安芸守)が相続し、
今川義元の三河・尾張遠征軍の将として
派遣され武功を賞されましたが、
永禄6年(1563年)に
今川氏に背いて所領を没収され、
一族の藤秀に犬居の跡職が配されました。

天文23年(1554年)には
甲斐国の武田氏が
信濃伊那郡を制圧し、
この頃には武田氏と接触しています。

【今川氏の滅亡と武田と徳川の抗争】
永禄11年(1568年)に
今川氏真駿府城を放棄して
掛川城に逃亡及び、翌年の今川氏の滅亡を契機として
天野氏は武田氏・徳川氏の抗争に
巻き込まれていきます。
天野氏の支配地には、
信濃と遠江を結ぶ街道が通過し、
尚且つ遠江と駿河を結ぶ交通の要衝であったため、
武田、徳川両陣営にとって
天野氏の去就は注目の的であったのでした。

駿河湾(十国峠より)

当時の犬居城主だった天野景貫(宮内左衛門)は、
甲斐の武田氏と結託する密約が存在しています。
多くの遠江北辺の郷士が
武田信玄に従属することになります。

【遠江天野氏の滅亡】
武田勢力が遠江に及んできた
元亀2年(1571年)、
徳川氏を離反した形で武田勝頼に従属。
徳川家康から、
何度も居城の犬居城を攻撃され、
犬居城から退去し、
甲斐国の武田氏を頼ります。
こうして300に渡って
遠江北部を支配した、
遠江天野氏は滅亡したのでした。

武田氏滅亡後の天野氏】
その後、天正10年(1582年)3月、
甲州征伐により武田氏は滅亡します。
天野景貫は相模国小田原北条氏を頼り、
佐竹氏との戦いに従事しましたが、
その没年は不明です。
その後、天野氏一族は離散します。
同族の安芸天野氏は毛利氏に、
三河天野氏は徳川氏に従って
家臣として存続しました。
また故郷の遠江国や由来のある
伊豆国・相模国・甲斐国では
帰農し郷士となった者もいます。
なお徳川氏に従った者の末裔には、
江戸時代中期尾張藩に仕えた
歴史学者の天野信景がいます。

【三河天野氏】

天野景貫には天野正貫という兄がいました。
その系統が三河国で勢力を拡大しました。
また天野正貫、天野景貫兄弟の
大叔父に天野定景という人物がおり、
その子孫に「どちへんなき(慎重でそつが無い)」
の天野康景が出ました。
天野康景は徳川家康の家臣として活躍し、
興国寺城主となり大名になりましたが、
1607年に家臣をかばって逐電しました。
その後は息子が旗本となり、家系は続きました。

【安芸天野氏】

鎌倉時代に安芸国に下向し、
国人勢力に成長した安芸天野氏でしたが、
その勢力は大きく2つの流れに分かれていました。
金明山天野氏と生城山天野氏です。

【金明山天野氏】

天野政貞から始まる天野氏です。
天野政貞と生城山初代の天野顕義は
従兄弟でした。
天野政貞は南北朝の争乱では
新田義貞に従って北朝と戦いました。
南朝の勢力が衰えると、
一族の所領があった安芸国堀荘に下向し、
金明山城を居城としました。




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その後も南朝方として活動。
しかし天野顕元の代に北朝に転じて、
大内氏傘下の安芸国国人として
勢力を拡大しました。
後に生城山天野氏からも養子を迎え、
その天野元貞は1512年、
毛利興元の呼び掛けによって、
石見国・安芸国の国人高橋元光や吉川元経、
近隣の平賀弘保、小早川弘平、
安芸国南部の阿曽沼弘秀や
矢野城主で水軍を抱える野間興勝、
そして生城山天野氏の天野興定と
国人一揆契約を結びました。

石見国の湾 外ノ浦など(浜田城より)

【長州藩士として】
天野元貞の子には月山富田城代として
尼子再興軍から城を守った天野隆重や、
その弟で1551年の大寧寺の変で、
大内義隆を最後まで守って討死した
天野隆良がいます。

月山富田城跡

天野隆重の子である天野元明の家は、
天野元明末弟の天野元信が継ぎましたが、
天野元信は1605年に
萩城築城の遅れの責任を取らされ、
岳父の熊谷元直と共に処刑されました。
天野隆重のもう一人の子、
天野元祐は、毛利元就の命で
天野隆良の養子となり、
月山富田城や備中松山城を守りました。
天野隆重が死去すると、
家督は天野元嘉が継ぎました。
関ヶ原の戦いの後、
毛利氏が防長2国に移封されると、
それに従い長州藩士として
江戸時代まで続きました。

【生城山天野氏】

天野顕義の時に
安芸国志芳荘(旧志和町、現東広島市)
に下向して米山城を築いて居城としました。
生城山天野氏は鎌倉時代から
室町時代にかけて同地を中心に勢力を拡大し、
1462年には天野家氏が
8代将軍の足利義政の命を受け
河内国に出陣する等、
活発な軍事行動により
安芸国内での勢力を伸ばしていきました。
そして大内氏に従って
安芸国の国人として勢力を
拡大させていったのです。

1467年から始まる応仁の乱では、
大内政弘に従って山名宗全軍に参加。
大内氏に従属する立場ではありましたが、
徐々に安芸国人としての意識が
強くなっていたようで、
当主の天野興定は先述のように
1512年に安芸国人で
一揆契約を結んでいます。

【毛利元就と生城山天野氏】
出雲国の尼子経久が大内領であった
備後国・安芸国に進出してくると、
国人一揆衆の多くは尼子氏に従いました。
けれども、この背反を快く思わない
大内義興・大内義隆親子は安芸に出陣し、
天野興定の居城の米山城に
陶興房の軍勢を差し向けて、
包囲攻撃などしました。
そうした中、天野氏の苦境を察した
毛利元就が大内義興に和睦の仲介を行い、
開城して降伏の運びとなりました。
後に天野興定は米山城に復帰して、
1540年には毛利元就が籠もる
吉田郡山城を攻撃する尼子氏に対抗すべく、
援軍として出陣しています。
翌年の1541年に天野興定は死去して、
子の天野隆綱が家督を継ぎました。




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【毛利氏が養子となり江戸時代まで続く】
大寧寺の変で大内義隆が自害すると、
天野隆綱は陶隆房の傀儡当主である
大内義長に従いました。
しかし1555年の厳島の戦いにでは
毛利元就に従って活躍しましたが、死去。

厳島神社

陶隆綱には子が無く、
弟の天野元定が天野氏を継ぎましたが、
天野元定も、1569年に病死。
天野元定にも男子がなく、
結局は毛利元就の七男である
毛利元政が婿養子として迎えられ
天野氏を相続し、天野元政を名乗りました。
天野元政は後に毛利に復姓し、
右田毛利氏の祖となりました。
天野氏は毛利元政の子が継ぎ、
江戸時代も続いたのでした。

天野政景、承久の乱で活躍し、遠江・武蔵・安芸国・信濃国等の各地に多くの所領を得ます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

石橋山の戦い~源頼朝旗揚げの地!300VS敵3000!大敗するも真鶴から安房へ逃れて再挙を図る。

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

北条義時~鎌倉幕府2代執権~冷酷無情・現実を客観視して行動できる理想家なのか?

伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。

一条忠頼~甲斐源氏棟梁である武田信義の長男、駿河を掌握するも源頼朝の命を受けて誅殺された。

源(木曽)義高~大姫の婚約者~幼くも純粋な愛を育むが源頼朝により命を散らす

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

比企能員~源頼朝を支え有力御家人として権勢を握るも北条氏に嵌められ1日で滅ぶ。

今川義元~祝・生誕500年~足利一門の名門・海道一の弓取りと称された東海の覇者!

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

興国寺城~国指定史跡~(伝)伊勢盛時の旗揚げの城であり今川・小田原北条・武田・豊臣・徳川と領地争奪戦の城。

通化寺~天野隆重夫妻の墓・天野元嘉の墓・繁沢元氏の墓(毛利元氏の墓)及び天野氏館跡

能登・野崎城(野崎砦)~天野氏が築城~能登天野氏とは?先祖は承久の乱で活躍した天野政景。

中村宗平~中村党の祖で源頼朝を支えてきた武士団で、鎌倉党とは大庭御厨を巡る対立がありました。

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