城跡

興国寺城~国指定史跡~(伝)伊勢盛時の旗揚げの城であり今川・小田原北条・武田・豊臣・徳川と領地争奪戦の城。

興国寺城跡



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興国寺城

興国寺城(こうこくじじょう、根古屋城とも)は、
静岡県沼津市根古屋(駿河国駿東郡阿野荘)
にあった日本の城です(平山城)。
城跡は国の史跡に指定されています。
興国寺城敷地内には穂見神社が存在します。

【別名】
根古屋城

【城郭構造】
連郭式平山城

【天守構造】
不明

【築城主】
不明

【築城年】
15世紀後期

【主な城主】
小田原北条氏武田氏、松平氏
中村氏、天野氏

【廃城年】
慶長12年(1607年)

【遺構】
石垣、土塁、空堀、曲輪、天守台

【指定文化財】
国の史跡

興国寺城跡整備計画図

【地理地形】
興国寺城は静岡県東部の
愛鷹山南麓に位置しています。
愛鷹山南麓の地形は連続した
傾斜面となっていますが、
興国寺城付近は谷底平野を
一部伴った侵食谷によって
ブロック状に緩斜面が分断されています。
また山麓部から低地への移行部には
小扇状地が形成され、
旧浮島ヶ原の低湿地につながっています。
興国寺城の立地は、
城の東西は開析された
侵食谷の深さと谷壁部分の急斜面、
そして南方の浮島ヶ原の低湿地を
天然の要害として利用した、
地形を生かした典型的な城郭の立地といえます。

【交通の要衝地】
愛鷹山麓には東西方向に
根方街道が通っています。
また興国寺城の直下から
浮島ヶ原を通って
千本浜方面へ向かう竹田道があり、
興国寺城は東西方向と
南北方向の道が交わる、
交通の要衝に築城されたのでした。

【地層】
また愛鷹山南麓は
厚いローム層に覆われています。
興国寺城を構成する各曲輪の地表は、
おおむね中部ローム上面、
黒色帯、スコリア層のいずれかとなっています。
これらは硬い地層であるために
地盤改良の必要性が低く、
愛鷹山南麓のローム層の
特徴を生かした築城が行われています。

【城の構造】
興国寺城は北側から北曲輪、伝天守台、
本丸、二の丸、三の丸、
そして東側の清水曲輪によって
構成される連郭式の城です。
江戸時代初期に描かれたと推定される、
興国寺城の最終期のものであると
考えられる絵図面が残されていますが、
絵図面の記載はおおむね現存する
興国寺城に一致してはいますが、
北曲輪、清水曲輪については
記載されておらず、
江戸時代初頭の段階では
北曲輪及び清水曲輪は
使用されなくなっていたものと
考えられています。

興国寺城跡2

【興国寺城で最も古い段階と今川氏
発掘調査の結果、
興国寺城で最も古い段階は
一番南側の根方街道沿いの
三の丸を中心として、
二の丸から本丸南端の虎口付近でまでで
あったと考えられています。
出土した遺物から三の丸は
16世紀半ば頃までに
築城されていたと考えられ、
当時の城は沼地に突き出るような
地形であったと考えられています。
本丸の排水路の石組みからは
宝篋印塔を転用しているのが
検出されており、
今川義元が天文18年(1549年)、
興国寺に移転を命じ、
その跡地に興国寺城を築城したという
記録との関係性が注目されています。

【興国寺城の拡張と武田氏】
その後、興国寺城は
北側に城域を拡大したものと考えられています。
16世紀後半台には城の南限は二の丸、
北限は北曲輪となったものと見られています。
また東側の清水曲輪も
16世紀後半台から
興国寺城の城域となったと
考えられています。
この時期の築城の主体は、
丸馬出し、三日月堀の存在から
武田氏によるものであることが
想定されています。
16世紀後半台、
北条氏との攻防が激化する中で、
防御性を高めるために
山側にシフトした形で
改築されたものと考えられています。

【興国寺城と徳川氏】
続く徳川氏の時代、
三の丸から北曲輪、
そして東側の清水曲輪と、
興国寺城の城域が
最大規模となったと考えられています。
武田氏の滅亡後、
駿河の徳川氏支配が確立すると、
現在の静岡県域では拠点となる城郭に
機能を集中する動きが確認されており、
興国寺城も多くの軍勢が
駐屯可能な徳川氏の拠点の
ひとつとして改修されたと
考えられています。
また大兵力を動員した
小田原攻めが興国寺城の拡張
及び改築に影響した可能性が
指摘されています。

【興国寺城と豊臣家】
その後、豊臣家の支配時代になると、
現在の興国寺城の遺構と同じく、
伝天守台を北限、
三の丸が南限という形となったと
見られています。
この時期には北曲輪、
清水曲輪は城外となりました。
豊臣家の時代は関東に移封した
徳川家康に対する押さえという意味合いで、
興国寺城の存在意義がありましたが、
関ヶ原の戦い後になると興
国寺城の存在意義は小さくなり、
東海道や根方街道から見える場所に
石垣や天守を設けるなど、
見せる城としての様相が
濃くなっていったそうです。
大空濠もこの時期の遺構であると
考えられています。
時の城主であった徳川方の
天野康景の出奔後、
慶長12年(1607年)に
興国寺城は廃城となりますが、
これは興国寺城の重要性が
低下していたことによると
考えられています。




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【城の歴史】
沼津は戦国時代、
今川氏、武田氏、北条氏という
戦国大名による激しい争奪戦が
繰り広げられました。
支配者の交代も頻繁であり、
各勢力の最前線として
多くの城郭が築城されました。
そのような中でも特に
興国寺城は各勢力によって
盛んに改修が行われていったのでした。

伊勢盛時の本拠地として】
「今川記」、「北条記」によりますと、
長享元年(1487年)、
室町幕府官僚であり
今川氏の客将であった
伊勢新九郎盛時(北条早雲)が、
今川氏の家督争いでの活躍により
富士下方十二郷を与えられ、
興国寺城を本拠地としたと
されています。
その後、伊勢盛時(北条早雲)は、
幕府管領・細川政元の足利義澄の
将軍擁立と連動して伊豆に侵入し、
伊豆国を治めていた堀越公方の子である
足利茶々丸を将軍である
足利義澄の母と弟の仇として
討つという大義名分のもとに滅ぼし、
伊豆国の領主となって
韮山城に移ったとしています。

韮山城跡

【伊勢盛時時代の史料が発見されず】
上記のように興国寺城は
長享元年から伊勢盛時(北条早雲)が
伊豆に移るまでの間、
本拠地としていたというのが定説です。
しかしながら伊勢盛時(北条早雲)が
興国寺城を本拠地としていたことを示す
同時代の史料は今のところ見つかってはいません。

【今川義元が命じた文書】
同時代の史料で興国寺城が確認出来るのは、
天文18年(1549年)、
今川義元が駿河国善得寺(富士市今泉)の
末寺である興国寺に、
築城用地とするために
移転を命じた文書が初出となります。

【富士下方十二郷の場所】
また伊勢盛時(北条早雲)が
今川氏から与えられたとされる
富士下方十二郷とは
富士市北東部に当たり、
沼津市の市域となる興国寺城が
その範囲に含まれるか否かは、
はっきりとせず、
興国寺城は伊勢盛時の領地外であった
可能性があるとのことです。
このように長享元年に
伊勢盛時(北条早雲)が
興国寺城に本拠を定めた件については
確証が持てないとのことです。

【伊勢盛時時代の興国寺城の推定地】
専門家の中には、
興国寺城の西隣りにある
方形の遺構を
伊勢盛時(早雲)期の城館と推定し、
更に別の専門家は現城跡のうち
三の丸を除いた部分を
伊勢盛時(早雲)期に
利用していたのではないかと
唱えていています。

【今川・武田・小田原北条の奪い合い】
この城のある駿東郡の地は、
今川・武田・小田原北条各氏が
奪い合った場所でもあります。
天文5年(1536年)、
当時小田原北条氏と敵対関係にあった
武田信虎と今川義元が和睦したことに
不満をもった北条氏綱が駿東郡に進出し、
小田原北条氏の支配下に入っていました。
甲陽軍鑑」では、
翌年の天文6年(1537年)に
興国寺城を守っていた
小田原北条方の城番・青地飛騨が
武田信虎に寝返って同氏の被官となり、
興国寺城はその後行われた
今川義元と武田信虎の娘の婚姻に際して
化粧料として今川方に引き渡された、
とありますが、
築城時期そのものが
不明であるため、
史実か否かの確認はできないとのことです。

河越城の戦い、第2次河東一乱】
天文14年(1545年)、
今川義元は、武田信玄上杉憲政らと連合し、
駿河と武蔵で同時に北条氏に対して
軍事行動を起こしました。
小田原北条氏の駿河の拠点・長久保城を包囲して攻撃し、
武田氏仲介の和睦によって駿東郡を取り戻した。
この間、興国寺城周辺も戦火にさらされたとみられ、
永禄元年(1558年)に
今川義元が興国寺城から
西に1.4km離れた
阿野荘大泉寺(沼津市東井出)に
文書を発給して寺領を安堵していますが、
その中で
「河東一乱の際、大泉寺がたびたび炎上、大破した」
ことに触れています。

大泉寺(沼津市)

【甲相駿三国同盟】
天文18年(1549年)、
今川義元が興国寺及び
周辺の田畑を城地とするため、
同寺に移転するよう命令する
文書を発給しています。
よって少なくともこの時期に
相応規模の城郭の整備がなされたと
考えられています。
この後、天文23年(1554年)、
甲相駿三国同盟が締結され、
興国寺城周辺は緊張状態から脱しました。
最も、同盟交渉自体が
数年前から行われているおり、
興国寺城の改築と同盟交渉が
被ってしまうことからになるため、
両者は関連性があると考える専門家もいます。
更に同盟の交渉が
興国寺城で行われ、
現在では俗説とみなされている
「善徳寺の会盟」が実は
「興国寺の会盟」であった可能性も
あるとも唱えています。




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【北条氏から武田氏に引き渡された興国寺城】
永禄11年(1568年)12月、
武田信玄が甲相駿三国同盟を
破棄して駿河に侵攻し、
北条氏康は今川方の援軍として
興津(静岡市清水区)まで兵を出します。
が、北条氏康はこの際に興国寺城を自領に収め、
垪和氏続(はが うじつぐ)を
城番(のち城主)に任命し、
垪和氏続は城の改修を実施しています。
その後、武田信玄は興国寺城を攻撃しますが、
垪和氏続は守り切ったことが
元亀元年(1570年)1月12日に
北条氏政が発給した文書から確認できます。
元亀2年(1571年)に
甲相同盟が再び成立すると、
興国寺城は武田氏に引き渡されました。

【後方拠点としての興国寺城】
天正7年(1579年)、
武田・北条が再び交戦状況となると、
武田勝頼は北条領との
国境近くの沼津港に三枚橋城を築城し、
城番に重臣の春日信達を配置しました。
興国寺城はその後方拠点という位置付けになりました。

【徳川領となった興国寺城】
天正10年(1582年)3月、
武田氏が滅亡すると興国寺城は徳川領となり、
徳川家康は、はじめ牧野康成、
次いで竹谷松平家の
(松平家の分家では最も古い)
松平清宗を2000貫で配しました。

【駿河の大地震】
天正17年2月5日(1589年3月21日)
申刻(現在の15時~17時)に
駿河国で大地震が発生し、
興国寺城・長久保城・沼津城の塀や
2階門が損壊しました。

【中村一氏の家臣・河毛重次が在番】
天正18年(1590年)に
徳川家康が関東へ入封されると
駿河を所領とした中村一氏の家臣である
河毛重次が在番しました。
河毛重次が大泉寺・愛鷹明神に
所領を安堵した文書が現存しています。

【興国寺藩の立藩と改易】
慶長6年(1601年)、
徳川氏創業の功臣として
興国寺城の城主となった
天野康景が1万石で入封し
興国寺藩が立藩しました。
けれども天野康景は
領内の問題で責めを負い
その裁定に不満を募らせ、
一説では部下を庇ったされて出奔しました。
そのため興国寺藩は改易となり、
慶長12年(1607年)3月に
廃城となりました。




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なおその後の天野康景ですが、
小田原(神奈川県南足柄市)の西念寺に入り、
慶長18年(1613年)2月24日に
同地で死去しました。
享年は77歳でした。
天野康景の子である天野康宗は
寛永5年(1628年)に赦免され、
天野氏は1000石を知行する
中堅旗本として存続を許されています。

【国の史跡となる】
平成7年(1995年)3月17日、
国の史跡に指定されました。
沼津市根古屋にあり、
現在復元工事が行われています。

興国寺城跡3

【日本続100名城(145番目)に選定】
平成29年(2017年)4月6日、
「続日本100名城」(145番)
に選定されました。

<スタンプ設置場所>
◆穂見神社境内(興国寺城跡本丸内)
興国寺城跡では、野外設置のため、
雨天時にはスタンプ帳が濡れる恐れがあります。
また、あとから利用される方のために
スタンプを押した後は、
スタンプ台の入った箱のふたを必ず閉めて下さい。

◆浮島地区センター(浮島市民窓口事務所)
(午前9時~午後8時まで(月曜日は午後5時まで))
※静岡県から新型コロナウイルス感染症
まん延防止等重点措置要請があったため、
令和3年8月8日(日曜日)~
令和3年8月31日(火曜日)の間、
利用時間を午前9時から午後8時までに短縮します。

<所在地>
〒410-0318沼津市平沼375-1
<電話>
055-968-1322

【遺構・遺物】
<伝天守台>
礎石建物跡2棟
◆西棟:2重の石列
◆東棟:外縁南側と西側にL字状に石列、内側にも配石。
瓦は出土してはいません。
◆石垣
形態:野面積み
規模:
天場の長さ約24m、
下端の長さ約13m、
高さ4m(推定)
「城築規範」興国寺城図に描かれています。

<本丸>
◆城門跡:
規模は東西約5.4m
南北3.6メm
東西に幅20mほどの
土塁基底部が確認されています。

◆石組水路:
宝篋印塔の石材転用が確認されています。
石組水路の総延長は約60m。
北側礎石列の外側に約4mの長さの排水溝跡があります。

<土橋・空堀>
◆空掘
規模:
幅約13m、本丸側の深さ7m、
二の丸側の深さ3m
堀底:
薬研堀だが、中段で箱型になっています。
堀底に不整合な部分があり、
改修の跡と推測されています。

◆土橋
構造:
空掘を掘る際に中部ローム層を削り
残して橋としたものです。
規模:
二の丸側幅約7m、本丸側幅5m、長さ約10m

<二の丸>
◆三日月堀
規模:
長さ約37.8m、最大幅約4.3m、
堀底幅約0.8m、深さ約3.8m
堀底:薬研堀
遺物:
大釜第3段階の擂鉢
(1570年代~1590年代生産)、
大釜第1・2段階のもの数点。
大釜第4段階併行期のもの1点。

<三の丸>
◆空堀
構造:
3箇所に屈曲あり、
掘り直しによる2重堀
遺物:
大釜第2段階の丸皿

◆土塁:平行に二列
遺物:
基底部から志都呂擂鉢(16世紀末ころ)[9]
遺物:
擂鉢、かわらけ(16世紀第4四半期)[9]

◆土塁の下層
ピット群
遺物:
大釜前半段階の丸皿などの細片
版築遺構
遺物:灰釉陶器、灯明皿[9]

◆堀状遺構




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<北曲輪>
◆三日月堀
現状:
新幹線によって大部分が破壊。
一部分が残っている。
出土遺物がないため、時期は不明。

◆空掘1
規模:
三日月堀の中心付近と思われる点に土橋。
土橋を挟んで西側は薬研型:
上幅約13m、堀底幅約1m、
深さ約7m(深さ約2m地点で段あり)

土橋を挟んで東側は箱型:
上幅約12m、堀底約1.3m、
深さ約5.4m
(深さ約2m地点で段あり)
土橋・空堀の空堀の形状、
堆積状況に共通点があります。

◆空掘2
規模:
空掘1とほぼ平行。
上幅約10~13m。
堀底までは未堀です。
堆積:
南側からの埋土に、
下部ロームの岩盤屑が含まれています。

<大空堀>
規模:
幅は22~30m、
深さは約15~20mと、一定していません。
構造:
2段構造になっており、
堀底は薬研型、北側に箱堀部分があります。
下部ロームまで掘り込まれており、
古い段階の堀も確認されているため、
現在の堀は掘り直された可能性があるとのことです。

<清水曲輪>
◆堀切
規模:
幅13m、残存する深さは4.5m(薬研掘)ですが、
後に深さ2.8mの箱掘に改修されています。
構造:
2回の「折れ」があります。
古い段階の大空掘とほぼ1直線に並んでいます。

◆ピット群
詳細は不明です。

<出土品>
伝東船着場跡からは
細片の土器片が混合で出土しました。
出土した土器の時代と
形状は以下のものです。

◆縄文土器

◆弥生土器
(弥生時代中期)壺型土器、鉢形土器
(弥生時代後期)壺型土器、甕形土器、土師器

◆古墳時代
(古墳時代初期)
壺型土器、甕形土器、
高坏形土器、長頸壺、平瓶

(古墳時代後期)
坏形土器、甕形土器、坏身、高坏

◆律令時代 
坏型土器、甕形土器、坏、須恵器

◆(時期不明) 
陶磁器、磁器、
陶器(茶碗、壺、摺鉢)、
石器

所要時間:30分~3時間程度

沼津市の興国寺城のガイドブックのサイトです。
興国寺城跡ガイドブック

【交通アクセス】
<徒歩>
最寄り駅であるJR「原」駅(静岡県)より徒歩約30分。

<バス>
◆JR「沼津」駅南口より富士急バスにて
「東平沼」行き・「富士駅」行きで
バス停「東根古屋」下車、徒歩5分程度。

◆JR「原」駅よりミューバス原駅循環東回り
バス停「根古屋」下車徒歩6分

<車>
◆駿河湾沼津スマートIC(下り)⇒
県道22号線⇒左折⇒根古屋交差点直進⇒
東根古屋バス停左折⇒興国寺城跡

◆愛鷹スマートIC(上り)⇒
右折⇒直進⇒県道22号線⇒右折⇒興国寺城跡

【駐車場】
あり

天野遠景~工藤氏の一族で天野氏の祖~初代の鎮西奉行に就任。子孫が各地で根付き繁栄します。

阿野全成~源頼朝の異母弟で源義経の同母兄~妻の実家側について甥の源頼家とやがて対立する。

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伝堀越御所跡~堀越公方が居住していた場所と伝わる。伊勢盛時に攻められる。

江川邸及び旧韮山代官所跡、世襲代官の江川家は900年続く清和源氏で日本の歴史に関わっています。

韮山城跡(伊豆)~小田原北条氏の伊豆支配の中心地、戦国時代の幕開けと終わりを示す城

北条氏綱~小田原北条2代目~北条氏を名乗り、小田原北条氏の礎を築き、先進的な領国経営をした当主。

北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。

北条氏政~小田原北条4代目~最大の領土を築くも、生きた時代と合わなかった慎重派で愛妻家で家族思い。

今川義元~祝・生誕500年~足利一門の名門・海道一の弓取りと称された東海の覇者!

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