鎌倉殿の13人

伏見広綱~源頼朝の有能な右筆、のハズが頼朝の兄嫁への恋文の使いと亀の前を匿って遠江に流罪となりました。

逗子



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【伏見広綱】

伏見 広綱(ふしみ ひろつな)は、
平安時代末期の人物です。
源頼朝の右筆でした。
伏見冠者藤原広綱と呼ばれていました。
なお、右筆(ゆうひつ)とは、
貴人のそばに仕える書記、また後世の武家で、
文書や記録をつかさどる職の人のことです。
時代が進むにつれて公文書や
記録の作成などを行い、
事務官僚としての役目を
担うようになっていきました。
源頼朝鎌倉幕府を発足させた時に、
京都から下級官人を招いて
事務的な業務を行わせましたが、
その初期に右筆を務めていたのが
大江広元です。
後に大江広元が公文所政所において
行政に専念するようになると、
平盛時(政所知家事)・
藤原(伏見)広綱・藤原邦通らが
右筆を務めるようになりました。

伏見氏は本姓は藤原氏で、
遠江国佐野郡の豪族です。
伏見広綱も同郡掛河
(現在の静岡県掛川市)の出身でした。

鎌倉に幕府を構えた源頼朝が、
文筆に秀で、
朝廷の事に通じている者を
探していた所を
安田義定の推挙を受けて、
寿永元年(1182年)5月12日、
鎌倉に参じて源頼朝の右筆となりました。
そして、初業務(?)なのか
その直後に源頼朝が
源義重の娘である祥寿姫に宛てた
艶書(恋文)を届ける使いをしています。
なお安田義定とは、
甲斐源氏の祖とされる
源義光の孫である
源清光の子(清光の父義清の子とする説もある)です。

寿永元年(1182年)11月10日、
源頼朝の愛妾亀の前
飯島(逗子市)の自邸に匿っていた事で、
源頼朝の妻である北条政子の怒りを買い、
北条政子の命を承けた牧宗親
邸を破壊されてしまいました。
伏見広綱は亀の前を連れ、
命からがら大多和五郎義久(三浦義明の子)の
鐙摺(葉山町)の邸に逃れました。
12日、源頼朝は牧宗親を伴って
鐙摺を訪れ、伏見広綱に事の経緯を聞き、
牧宗親を問いただしたのでした。
それに対して牧宗親は
言葉もなく平伏しましたが、
源頼朝は牧宗親の髻を切って
恥辱を与えたのでした。
同年12月16日、
伏見広綱は北条政子の怒りによって
遠江に流罪となったのでした。
鎌倉に来てようやく半年、という時でした。

お気の毒な方ですな・・・。
しかし源頼朝は・・
兄のお嫁さんにまで・・・。
祥寿姫は何歳くらいだったのかしら?
面倒を見なきゃ!と思ったのも。
同じ河内源氏で源義家の曾孫ですし。
決して好きだ!妾にしたい!
だけではなかったと思いますが。
新田氏への政治的な思惑とも思うのです。
あとお綺麗な方だったのでしょう。




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【祥寿姫】
祥寿姫(しょうじゅひめ、生没年不詳)は、
平安時代末期の新田氏一族の女性でした。
源義重の娘であり、源頼朝の義母兄である
源義平の正室でした。
実名は不明です。
祥寿姫の名は菩提寺である
群馬県太田市の
祥寿山曹源寺の寺伝によります。
法名は妙満尼とも伝わっています。

【祥寿姫の生涯】
夫であり源頼朝の異母兄の源義平は
平治元年(1159年)12月の
平治の乱で敗れたのち、
翌年1月に捕らえられて斬首されました。
享年は20歳でした。、
祥寿姫は未亡人となりました。
平治の乱から20年後の
治承4年(1180年)8月、
源義平の異母弟である源頼朝が挙兵し
東国の主となると、
去就を迷っていた祥寿姫の父親である
源義重は参陣が遅れ
12月になって鎌倉を訪れたため、
源頼朝の不興を買ったとのことです。

「吾妻鏡」寿永元年
(1182年)7月14日条によりますと、
源頼朝は伏見広綱に命じて、
密かに兄の未亡人である祥寿姫に
艶書を送っていたとのことです。
けれども祥寿姫は
全く受け入れる気配がなかったとのことです。
そこで源頼朝は直接祥寿姫の父親である
源義重に申し入れたところ、
源頼朝の妻である
北条政子の怒りを畏れた
源義重は祥寿姫をすぐさま
師六郎に嫁がせたとのことです。
やがてそのことで源義重は
源頼朝の勘気を被り、
この事が源頼朝による
後の新田氏冷遇に繋がったと
見なされているということです。
勿論、これだけが原因ではなく、
治承・寿永の乱に際して
猶子であり娘婿でもある
矢田義清が木曾義仲に与したことも、
源頼朝の反感を買った要因の一つとされており、
そのことから諸々積み重なって
新田氏が冷遇されていったのかもしれません。

祥寿姫のその後は不明です。
曹源寺の寺伝によりますと、
文治3年(1187年)に
源義重は祥寿姫の菩提寺として
建立した六角堂が曹源寺の起源となったといい、
父に先立って死去したものと見られています。

【危険予知】
祥寿姫サイドから見れば、
諸々のトラブルに
巻き込まれたくなかったのでしょうね。
予測される最悪の事態としては
命を落とし、
お家が滅亡してしまいますから。
事実、今後北条氏による粛清の嵐が
吹き荒れましたし。
特に源頼朝近親の源氏一門は
相次いで粛清されていきます。
更に北条時政の娘婿たちも
滅ぼされていきます。
危険予知、ということでしょう。
北条政子の妹の北条時子を
嫁にした源頼朝の門葉である足利義兼も
出家して鎌倉から離れましたし。
しかも足利義兼は幼い時に父親を亡くし以後、
伯父である源義重の軍事的庇護を
受けていたとされているので、
伯父からいろいろと
アドバイスをうけていたことでしょう。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

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