史跡・城跡

苗木城と苗木遠山氏~天然の巨岩を配し木曽川を従える天空の山城~遠山七頭

苗木城跡・石碑



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苗木城

苗木城(なえぎじょう)は、
岐阜県中津川市にあった日本の城。
別名は霞ケ城とも称されました。
木曽川の右岸にそびえる
城山(432m)に築かれていました。
苗木藩の藩庁が置かれました。
1981年(昭和56年)、
国の史跡に指定されました。
苗木城跡・空撮

2017年(平成29年)4月6日、
続日本100名城(142番)に選定されました。
スタンプ設置場所は苗木遠山史料館です。

【所在地】
岐阜県中津川市苗木

【別名】
霞ヶ城
赤壁城
【形態】
山城
【天守構造】
不明
【築城主】
遠山正廉
【主な城主】
遠山氏
森氏
川尻氏
【廃城年】
明治4年(1871年)
【遺構】
石垣、堀、井戸、門部材
【指定文化財】
国の史跡
【再建造物】
天守建物(柱組)

【遺構の説明】
本丸・二の丸・三の丸などの石垣
大矢倉跡・風吹門跡・綿倉門などの門跡、
堀が残っています。

尚、苗木城の石垣は下記の6種類が確認できるそうです。
A:野面石乱層積み
B:打込石乱層積み
C:打込石整層積み
D:切込石整層積み
E:ノミ切加工整合積み
F:谷積み技法を用いた石垣
苗木城・6タイプの石垣

<石垣FD>
苗木城・石垣FD

<かつての苗木城>
かつての苗木城

<風吹門跡>
苗木城・風吹門

<大矢倉><石垣:B>
苗木城・大矢倉

<綿蔵門跡>
苗木城・綿蔵門跡

<二の丸跡>
苗木城・二の丸跡

<坂下門跡>
苗木城・坂下門跡

<菱櫓門跡>
苗木城・菱櫓門跡




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天守台や大矢倉の石垣、馬洗岩など
巨大な自然石が複数箇所で
利用されているのが大きな特徴です。

<巨石>
苗木城・巨石

菱櫓台の下に千石井戸と呼ばれる井戸が残っています。
<千石井戸>
苗木城・千石井戸

大手口道は長さ500m、高低差150mあり、
「四十八曲り道」といわれています。
苗木城・四十八曲がり

建築物としては、大手門の扉と柱が残り、
苗木遠山史料館にて展示されています。

<下から見た天守展望台>
苗木城・下からみた天守展望台

<天守展望台から見た絶景>
苗木城・絶景

<馬洗岩>
苗木城・馬洗岩

【城の歴史】
【遠山氏の苗木進出】
鎌倉時代初期に岩村城を本拠地として、
恵那郡を統治した地頭遠山氏の初代、
遠山景朝の長男遠山景村が、
仁治2年(1242年)
木曽川北部の所領確立のため、
木曽川左岸の西山戸から右岸の那木津戸に進出。
那木津戸が当時、那木(苗木)と呼ばれた所で、
遠山氏による木曽川北部進出の
始まりとなりました。

<苗木城・遠景>
苗木城・遠景

【元弘年間(1331年~1334年】
遠山一雲入道、遠山景長親子が、
高森山(現在の中津川市苗木町)に砦を築きます。

【元弘~建武年間(1334年~1336年)】
遠山景利が恵那郡福岡村植苗木に
広恵寺城を築き宗良親王を迎えます。

【文明5年(1473年)10月】
小笠原家長と木曾家豊が
伊那谷と木曽谷から東濃に侵攻してきます。

【大永4年(1524年)3月】
小笠原定基の家臣高柴景長が
神明神社(苗木字日比野)の造営を行ないました。

【大永6年(1526年)】
遠山一雲入道昌利が
植苗木から高森山に館を移しました。




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【天文3年(1534年)】
松尾小笠原氏の本拠松尾城が陥落、
小笠原定基が甲斐の武田氏のもとに逃れてます。

【天文11年(1542年)11月】
遠山景安が笠木社に梵鐘を寄進しました。

【城の攻防】
【天文年間(1532年~1555年)】
遠山正廉が高森に苗木城を築きます。

<木曽川対岸からの苗木城>
木曽川対岸からの苗木城

【天文24年(1555年)】
木曾氏が甲斐の武田氏に降ります。

【永禄3年(1560年)5月】
苗木勘太郎(直廉同一人物説有り)が
桶狭間の戦いに出陣します。

【永禄8年(1565年)】
苗木勘太郎の娘(織田信長の養女)が
武田勝頼(武田信玄二男)に嫁ぎます。 

【永禄12年(1569年)6月18日】
雲岳宗興大禅定門(遠山正廉)死去。
同年6月遠山直廉、広恵寺に禁制を下します。

【元亀3年(1572年)5月18日】
雲嶽宗高大禅定門(遠山直廉)死去。
武田氏からの指示により飛騨国益田郡竹原へ侵攻し、
三木氏と戦い大威徳寺を焼きましたが、
その時の矢傷が元で後に死去したとされています。
織田信長の命令で遠山左近の死去により、
飯羽間遠山氏の遠山友勝苗木遠山氏を相続します。

同年12月、武田家臣秋山虎繁
上村合戦にて遠山景行、苗木勘太郎、
串原右馬介経景、小里内記を破ります。

【天正年間前半(1573年~1582年)】
遠山友勝死去。

<笠置矢倉から見た絶景>
苗木城・笠置矢倉・絶景

【天正元年(1573)8月】
木曾義昌が河折籠屋を攻め落とし、
苗木を攻めます。

【天正2年(1574年)2月】
武田勝頼が東美濃に侵攻し、
先ず高山城、苗木城を落とし、
更に支城16箇所を全て落とします。

【天正3年(1575年)】
織田信忠が岩村城を落とし、
東濃諸城を奪還します。

【天正10年(1582年)】
可児郡の金山城主であった
森長可が苗木を攻めます。

【天正11年(1583年)】
金山城主の森長可が再び苗木地方を攻め
苗木城が落城します。
遠山友忠遠山友政父子は
徳川家康を頼り浜松に走ります。

<天守台と馬洗岩の間の通路>
苗木城・天守台と馬洗岩

【安土桃山期】
【慶長4年(1599年)】
森氏が信濃川中島に移封されます。
川尻直次が苗木城主となり、
関治兵衛が城代となります。

【慶長5年(1600年)】
遠山友政は徳川家康の命を受け
苗木城を攻略し、
徳川家康から苗木領を安堵され、
後に苗木藩が成立します。

<前から見た天守展望台>
苗木城・天守展望台・前

【明治以降】
【明治2年(1869年)】
苗木藩主の遠山友詳(友禄)が
版籍奉還により藩知事となります。




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【明治4年(1871年)】
廃藩置県により苗木藩は廃藩となり、苗木県となります。

【明治17年(1884年)7月7日】
華族授爵ノ詔勅により、遠山友詳(友禄)は子爵になります。

【伝説】
「赤壁城」の別名がある通り、
城の壁は白漆喰ではなく
赤土がむき出しになっていたと伝えられています。
その理由については、
木曽川に住む竜が白い色を嫌い、
何度漆喰を塗り直しても、
嵐を起こしてはぎ取ってしまったという話が
残されています。
また、中部日本新聞(後の中日新聞)夕刊に、
1960年代前半に掲載されていた
「ふるさとの童話」という記事にも
同じような物語が紹介されていました。
苗木城は美しい白壁の城として
完成したものの、一夜明けると
漆喰が全部落ちて赤土が露出していました。
何度塗りなおしても、
朝になると同じことでした。
殿様は、犯人を見届けてやろうと、
一人で夜の天守閣で見張っていました。
すると、夜空が掻き曇って
雨風が出て来たかと思うと、
恐ろしい大きな竜が現われ、
熱い息を城に吐きかけると、
たちまち壁が落ちてしまったということでした。

【伝説の裏話】
実際には、苗木藩が経済的に弱体で
漆喰を塗る経費が捻出できなかったと
見られています。
何故なら幕末期に、1万石で城持ちの藩は
苗木藩だけであったからです。
逆に言うと、それでよく藩政を行ったと思います。

<天守展望台からの眺め>(動画)

【交通アクセス】
【車】
<名古屋方面から>
中央自動車・中津川IC⇒
国道19号を国道257号へ向かって北東⇒
城山大橋経由、看板を右折

<下呂方面から>
国道41号線南下⇒国道256号および2577号経由⇒
城山病院を越えて、交差点を左折
※カーナビの設定は「苗木遠山史料館」を設定してお越しください。

【バス】(2019年8月現在)
JR中津川駅前より
「北恵那交通バス」をご利用ください。
乗り場⇒1レーン
<路線>
<付知峡線> 
「付知峡倉屋温泉」行き または 
「加子母総合事務所」行き
下車⇒「苗木」(中津川駅前より6つ目のバス停)
乗車時間⇒約12分、バス停より徒歩約20分
料金⇒390円

【期間限定!直行バスのお知らせ】
季節によって期間限定の直行バスが運行されるそうです。
お問合せは下記の中津川観光情報サイトへどうぞ
電話:0573-66-1111
FAX:0573-66-0634

【駐車場】
あり。
苗木城案内図

【トイレ】
男女別の綺麗な水洗トイレがあります。

【苗木遠山史料館】
岐阜県中津川市苗木2897-2

【電話】
0573-66-8181

【開館時間】
午前9時30分から午後5時まで
(入館は午後4時30分まで)

【休館日】
毎週月曜日(月曜日が祝日等にあたる場合はその翌日)、
12月27日~1月5日
令和元年7月より休館日にも
トイレ等の無料スペースを一部開放しています。      
<開放時間>
午前9時30分から午後3時30分
ただし、冬季の12月、1月、2月は開放しません。

【入館料】
一般:320円・ 団体(10名以上)270円
中学生以下: 無料

【苗木遠山氏】

苗木遠山氏(なえぎとおやまし)は、
利仁流加藤氏一門美濃遠山氏の一派です。

【美濃遠山氏】
美濃遠山氏の祖は、
藤原利仁の子孫加藤景廉だそうです。
加藤景廉は源頼朝の重臣として功績を残し、
文治から建久(1185年⇒1198年)の頃に、
遠山荘を与えられました。
現在の岐阜県恵那市・中津川市・瑞浪市の一部となります。
最も、加藤景廉本人は源頼朝とともに、
鎌倉におり、
実際に遠山荘に赴任はしなかったそうです。

【遠山姓を名乗る】
承久の乱が始まって程なく加藤景廉が死去。
遠山荘の地頭職は
長男の加藤景朝が受け継ぎました。
この後、遠山景朝は、
遠山荘にちなんで遠山に改姓して
遠山氏の初代となりました。




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【室町時代へ】
元弘3年(1333年)の建武の新政により、
土岐氏が大きく勢力を伸ばして
美濃守護となり、
遠山氏もこの勢力下に入ったそうです。
遠山氏の勢力は、本拠地である、
岩村城の岩村遠山氏の他、
明知、安木、飯間、櫛原、馬籠、神野を有し、
康正2年(1456年)に、
造内裏段銭として12貫225文を
室町幕府に収めた
遠山左近亮が遠山氏の総領格であったと
推測されています。

【戦国時代の遠山氏】
戦国時代の遠山氏の宗家は、
岩村城主の岩村遠山氏でした。
遠山一族は美濃国恵那郡およびその周辺に勢力を持ち、
「遠山七家(遠山七頭)」と称されたそうです。
その内の岩村遠山氏・明知遠山氏・苗木遠山氏を、
「三遠山(遠山三頭)」と呼んだとも言われています。

長享2年(1488年)の「蔭涼軒日録」には、
「遠山には三魁がある。
第一は苗木、第二は明智、第三は岩村といい・・・」と、
信濃国と尾張国を結ぶ
木曽川の流通を抑える
苗木遠山氏の隆盛を伝えています。

<木曽川>
木曽川(苗木城より)

【遠山七頭】
岩村(いわむら)・明知(あけち)・苗木(なえぎ)
飯羽間(いいば)・串原(くしはら)・明照(あてら)・安木(あぎ)の
7家で七遠山と称されるそうです。
安木(阿木)の代わりに
大井が入る場合や、明照(あてら)に代わって
馬籠(まごめ)を入れる説もあるそうです。

【1】【岩村遠山氏】
惣領家。遠山景朝の子である遠山景員が祖。
岩村城主。
戦国時代に遠山景任の死で断絶し、
天正3年に岩村城が落城して滅亡しました。

【2】明知遠山氏
明知城主。遠山景朝の子である遠山景重が祖。
江戸時代は旗本として存続しました。
末裔に遠山景元(遠山の金さん)がいます。
なお途中で土岐明智氏が
名跡を継いだとする異説が存在しています。
従って明智光秀の出目の説もあります。

【3】【苗木遠山氏】
苗木城主。祖は諸説あり、
遠山景利・遠山景長父子の系統とする
説もあるそうです。
南北朝時代に活躍した遠山五郎がいます。
室町時代に土岐氏から、
戦国期に飯羽間遠山氏から、
それぞれ養子を迎えています。
江戸時代には苗木藩主となりました。

<苗木城跡>
苗木城跡・看板

【4】【飯羽間遠山氏】
飯羽間(飯場、飯間)城主。
宗家の遠山景明の子である景義が
飯間姓を初めて名乗っています。
戦国期には苗木遠山氏の名跡を継承しています。
遠山友信のとき苗木から分かれますが、
武田の攻撃で落城・降伏します。
武田滅亡後に遠山友信が
織田信長に処刑され滅亡しました。

【5】【明照遠山氏】
明照(阿寺、阿照、阿照羅)城主。
飯羽間遠山友忠が長子の遠山友信に
飯羽間城を譲ったのち城主となりました。
のちに遠山友忠の次子である
遠山友重が継ぎましたが、
天正2年、武田の攻撃で落城しました。

【6】【串原遠山氏】
串原城主。
上村合戦時は遠山右馬助とその子である遠山五郎経景がいました。
武田氏による串原城落城後は、
明知遠山氏に仕え、
明知遠山氏が江戸幕府の旗本(交代寄合)に
就任後は家老となり、明治に至りました。

【7】【安木遠山氏】
安木(阿木、安城)城主。
遠山景員の次男である遠山景賢が祖だということです。

【8】【馬籠遠山氏】
馬籠城主。
遠山馬籠左馬介、
遠山馬籠右馬介らが知られているそうです。




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【苗木遠山氏】
遠山昌利が、広恵寺城から、
美濃国恵那郡高森に館を移し、
恵那郡の木曽川以北と
加茂郡の東部を支配したのが
始まりとされていますが、
遠山昌利の子である
遠山景徳に世継ぎが居なかったため、
遠山氏の本家岩村遠山氏から、
遠山直廉を養子として迎えたそうです。
遠山直廉は苗木城を築き活躍しましたが、
死後は飯羽間遠山氏から
遠山友勝を養子に迎えます。
一度は苗木城は奪われましたが、
取り戻して江戸時代を迎えます。
遠山友勝の孫である
遠山友政(とおやまともまさ)が
初代苗木藩主となります。
子孫は大名として存続し、
明治になって子爵となりました。

美濃金山城跡~森蘭丸の生誕地~森可成・森長可・森乱丸(蘭丸)・森忠政と斎藤正義

土岐高山城跡(土岐高山城跡の森)・甲斐や尾張との境界を巡っての攻防の地

五番領城~高島七頭・山崎氏(愛智氏系)の城~

妻木城と士屋敷と崇禅寺~明智光秀の正室・煕子の出身と妻木築城主の明智(土岐)頼重とは?

明智城址と天龍寺と明智一族、築城主の明智頼兼(土岐頼兼)とは?

加藤景廉~頼朝挙兵以来の側近で承久の乱まで生き残る。長男は遠山氏の祖で有名となった子孫あり!

武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。

武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。

木曾義昌(木曽義昌)~妻は信玄の娘、武田勝頼を裏切った代償、やがて木曽から下総国阿知戸へ行きます。

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