明智家

明智城址と天龍寺と明智一族、築城主の明智頼兼(土岐頼兼)とは?

明智城 石碑






明智城(明智長山城)】

明智城(あけちじょう)は、
岐阜県可児市瀬田長山にあった日本の城です。
張り出した尾根や谷などの
自然地形を生かした
典型的な中世の山城でした。
可児市指定史跡。
康永元年(1342年)、
美濃源氏の流れをくむ土岐頼兼(下野守)が
「明智」と改名してこの城を築き、
その後約200年の間、
明智氏代々の居城として栄えたといいます。
明智城 新しい石碑

別名として長山城または
明智長山城と称されています。

<明智城址・散策マップ>
明智城址・散策マップ

【所在地】
〒509-0213 岐阜県可児市瀬田1238−3

【別名】
長山城、明智長山城

【形態】
連郭式山城

【天守構造】
建造されず

【築城主】
明智頼兼

【築城年】
康永元年(1342年)

【主な城主】
明智氏

【廃城年】
伝・弘治2年(1556年)

【遺構】
曲輪、土塁

【指定文化財】
可児市指定史跡

【交通アクセス】
【電車】
名鉄広見線「明智」駅より徒歩25分程度

【車】
<中央道>「多治見」IC⇒国道248号線⇒県道341号線

【駐車場】
明智城 駐車場





【概要】
「美濃国緒旧記」には
「明智城は可児郡明智庄長山城のことである。
明智城は土岐美濃守光衡により五代目にあたる
頼清(民部大輔頼宗)の次男、
明智次郎頼兼が康永元年三月、
美濃国可児郡明智庄長山に
初めて明智城を築城し、
光秀の代まで居城した」

との記述が見られており、
故に明智光秀の出生の地とされています。
明智城は2つあり、
恵那市明智町城山の
明知城・落合砦(多羅砦)」と
可児市瀬田長山にある「明智城」です。

どちらが明智光秀出生の城なのか、
それを裏付ける資料は他にはありません。
尚、「明知城」は「明知遠山氏」の領地
或いは勢力だったのに対して、
もうひとつの明智光秀の出生地とされる
恵那市明智町にある落合砦(多羅砦)は、
領地或いは勢力は
「土岐明智氏」とする見解があります。

【光秀の産湯の井戸の伝承】
明智城のあった現在の「瀬田」地区にも
明智光秀の産湯の井戸跡とされる井戸が
かつてはあったそうです。
明智荘及び産湯の井戸

<明智光秀のぼり>
明智光秀 のぼり

【歴史】
土岐明智二郎下野守頼兼が、
康永元年(1342年)、
美濃国可児郡明智庄長山に
明智城を築城したといわれています。

【戦国時代、明智城落城】
弘治2年(1556年)9月19日、
稲葉山城斎藤義龍の攻撃を受け、
明智城代明智光安(宗宿)は、
弟で明智光久と一族の溝尾庄左衛門、
三宅弐部之助、藤田藤次郎、肥田玄蕃、
池田織部、可児才右衛門、森勘解由ら
870余人を集めて籠城したといいます。
けれども斎藤義龍軍は3700余の軍勢で
2日間にわたり攻撃を行ったとされています。
明智光安は明知光秀に明智家再興を託し、
弟の明智光久と自刃し、
妻妾も落城前に自刃したと言われています。

明智一族の苦しい立場】
斎藤道三は明智一族を重んじていたとされています。
一方、嫡子の斎藤義龍にも義があるとして、
道三と義龍の争いに関して、
どちらの勢力にも加担しないことを
決断したとされています。
けれども、明知光秀一人を斎藤義龍のもとに
遣わしたと伝えられています。
そして弘治2年(1556年)4月、
斎藤道三は長良川の戦いで討ち取られ、
斎藤義龍の勝利で決着はつきました。

【義龍に従うか?道三への義理か?】
斎藤道三の正室である小見の方は、
明智の出であり、明智光安とは兄妹です。
従って、斎藤道三方となります。
更に、明智光安は斎藤義龍へ
付き従うかを明らかにすることはなく、
斎藤道三への義理を貫くという
態度をとったのでした。

【明智城落城す】
同年9月、斎藤義龍指揮下の元、
長井道利が大将となって
明智城を攻め滅ぼします。
ちなみに、長井道利は、
明智一族を滅ぼした後、
明智荘の代官となっています。

【明智光安の遺言】
明智光安は自害して果てる前に、
明智光秀に対して
「落ちて存命なし、
明智の家名をたてらえ候へ」
と明智家の再興を託したとされています。
こうして明智一族は明智光秀と
そして一説には、明智光安の子供とされている
明智秀満と共に明智荘を脱出したそうです。





【戦死者の碑】
明智城跡には、
この際の戦死者を弔ったという七ツ塚や、
ひそかに村人が建立したと伝わる
六親眷属幽魂塔(ろくしんけんぞくゆうこんとう)が
残されています。
六親眷属幽魂塔は、明智一族の供養塔とされています。

<七ツ塚>
石碑の背後にある丸い花壇のようなものが塚です。
明智城落城の際、
討たれた7人の武将を葬ったとされています。
明智城 七ツ塚

織田信長時代】
後に、明智荘一帯が織田信長の領地となった時、
先祖代々の旧跡として明智光秀の所領となったそうです。
代官として、石森九郎左衛門が置かれたと伝わっています。

【現在】
当時城の縄張りが残るのは僅かですが、
本丸跡や曲輪・土塁などの遺構は
比較的綺麗に残っています。
可児市指定史跡(長山城跡)となっており、
明智城址散策道として整備され、
春から秋にかけては
ハイキングコースとして楽しめます。
また、
東出丸・搦手曲輪・二の曲輪・三の曲輪・
西出丸・乾出丸と伝わる場所があります。

<本丸跡>
明智城 本丸跡

<二の丸跡>
明智城 二の丸跡

<ききょうさか>
明智城 ききょうさか

<西出丸曲輪方面>
明智城 西曲輪方面

【明智荘(あけちのしょう)】
現在の可児市北東部から
御嵩町西部にかけて存在した荘園で、
以前は「明知八郷」と呼ばれた地域でした。
平安時代、
醍醐天皇の頃に明智荘と定められたと言います。
今から1100年以上の前の事です。
10世紀に入り、
当時の最高権力者である藤原氏の荘園となります。
12世紀には石清水八幡宮の御領所になります。
瀬田村・石井村・石森村・平貝戸村・
淵之上村・顔戸村・古屋敷村・柿田村
を指して明智八郷と呼び、
この明智八郷の田を今でも
「明智とうもん」と言っています。
「美濃国諸旧記」は、
初代の土岐頼兼(明智頼兼)から、
明智光秀に至るまで、
可児郡の明智荘に
土岐明智氏が住んだと記されています。
近年では瀬田地区の狭い地域に、
寺院が集中している点や、
「東屋敷」「西屋敷」「大屋敷」
といった地名が残っていることから、
この地区に有力な武士層が居住していた
可能性があるとの推定をしています。
明智荘





また2020年1月には臨時駐車場の傍のある
「花フェスタ公園」に「大河ドラマ館」がオープンします。
(2021年1月くらいまで)

天龍寺

青雲山天龍寺は曹洞宗の寺院です。
寺院によれば伝龍寺という廃寺の後に
建立したと伝わっています。
そこには明智一族歴代の墓所があり、
日本一大きな明智光秀の位牌もまつられています。
明智一族とかかわりが深い寺院として、
例年6月には「光秀供養祭」が行われています。
毎月最終金曜日は
金の御朱印を授かることができます。
300円とのことです。

<天龍寺>
天龍寺 門

<明智光秀公のご位牌と木坐像>
天龍寺 明智光秀公の位牌 木坐像

<ご位牌と木坐像(アップ)>
天龍寺 位牌と木坐像(アップ)

<木坐像>
明智光秀公 木坐像

<明智一族の墓>
明智一族の墓

<天龍寺・入り口>
天龍寺 入り口

【所在地】
〒509-0213 岐阜県可児市瀬田1242

【交通アクセス】
【電車】
名鉄広見線明智駅から徒歩15分
【車】
東海環状自動車道 可児御嵩ICより10分

【駐車場】
参拝者用の無料駐車場あり。

<場所>

【太元神社】
天龍寺にほど近い場所にある神社です。
土岐明智氏の祖は清和天皇の嫡流であるとされています。
また、石清水八幡宮の御領所であったこともあり、
石清水八幡宮を勧請して代々崇敬してきました。
妻木城、明智城、久々利城、羽崎城など
土岐家一門の城下に八幡社が祀られているのはこの為、
とのことです。
<天龍寺と太源神社の鳥居>
天龍寺と太元神社の鳥居

可児市による明智光秀の誕生の地の公式サイトはこちらです⇓⇓
【公式】明智光秀誕生の地 岐阜県可児市

【明智荘・散策マップ】
明智荘・散策マップ

【土岐頼兼】

「土岐頼兼」(ときよりかね)は3人存在したと言われています。
【1人目】
【土岐頼兼】
土岐頼兼⇒ 美濃国守護の土岐頼貞の10男。
通称は十郎。
【兄弟】
頼直・高頼(妙光)・乾頼里(道謙/周済)・
舟木頼衡・墨俣頼連(周崔)
・頼清(頼宗)・頼遠・頼仲・長山頼基の弟、
頼明・徳山貞信室の兄とされています。
鎌倉時代後期の元亨4年9月(1324年10月)に起きた
「正中の変」で、
後醍醐天皇日野資朝・俊基を中心とした
倒幕に加わりましたが、
従兄の舟木頼春(頼玄/頼員)が、
そのことを妻に漏らしたために、
六波羅探題に露見されて、
一族の多治見国長と、
おなじ美濃源氏の
加茂氏の当主の加茂貞親(重成)とともに奮戦して、
戦死或いは自刃を遂げる結果となりました。





【2人目】
【明智頼兼】
通称は明智次郎。
明智の祖とされています。
土岐頼貞の6男である土岐頼清(頼宗)の子です。
頼康の弟、頼雄・久々利康定(康貞)・
頼直(よりただ)・直氏(ただうじ)
・頼忠の兄です。
惟任光行の父親になります。
但し惟任光行は早世しています。
明智氏の祖で、妻は豊後大神氏の娘とされています。
嗣子の光行が早世したために、
従弟の頼重(頼助)(長山頼基の子)を養子に迎えて、
明智姓を名乗らせその後を継がせました。

【3人目】
【土岐頼兼】
土岐頼貞の6男である土岐頼清(頼宗)の
更に6男である土岐頼忠の三男と言われています。
土岐頼忠は美濃守護となっています。
【兄弟】
光忠(月海入道)・頼益の弟、
頼音(よりおと)・鷲巣之康・光兼・頼錦(よりかね)
頼郷・大桑頼名・頼長の兄です。
生母は徳山貞信の娘とされています。

明智城築城主は【2人目】の「土岐頼兼」である「明智頼兼」ですね。

亀山城(丹波国)~明智光秀の丹波経営の拠点~やがて本能寺へ向かう

福知山城~初代城主は明智光秀~領民に慕われた証の御霊会、城代は婿で重臣の明智秀満

明智光秀の墓所~京都府~

明智光秀の墓と産湯の井戸~桔梗塚~もう一つの光秀生存説、生誕地伝説と土岐四郎元頼(基頼)

明智神社と称念寺~あけっつぁまと妻の黒髪~明智光秀の越前時代の居住地

妻木城と士屋敷と崇禅寺~明智光秀の正室・煕子の出身と妻木築城主の明智(土岐)頼重とは?

光秀の妻・明智煕子と明智一族の墓がある西教寺~互いを支え合い深い絆で結ばれた夫婦~

お妻木~明智光秀の妹(義妹の説あり)~明智光秀と織田信長を結んでいた女性とは?

細川ガラシャ(明智玉(珠))~父は明智光秀~聡明で気高く、愛と信仰に殉じた細川忠興の正室

土岐頼武・土岐頼純VS土岐頼芸~美濃守護土岐氏~度重なる家督争いで衰退し、斎藤道三に乗っ取られる!

大桑城~美濃国守護である土岐氏の最後の居城~

斎藤道三~晩年の足跡~鷺山城址・道三塚・常在寺、そして斎藤義龍

苗木城と苗木遠山氏~天然の巨岩を配し木曽川を従える天空の山城~遠山七頭

濃姫(帰蝶)~織田信長のナゾ多き正室で明智光秀の従兄妹~

藤田行政(藤田伝吾)~明智五宿老の一人~常に明智光秀に寄り添い、やがて散る

溝尾茂朝~明智五宿老~またの名を三沢秀次?最期まで光秀を支えて介錯をする

福知山城~初代城主は明智光秀~領民に慕われた証の御霊会、城代は婿で重臣の明智秀満

稲葉良通~稲葉一鉄・頑固一徹の語源である西美濃三人衆~多才な人物で信長に好かれる

岸信周・岸信房父子~中濃衆~妻も勇猛で往年の女武将の如く・堂洞城を枕に壮絶に散る

長井道利~中濃衆~義龍に父との決別を促し明智を滅ぼす・出目も最期もナゾ残す人物

氏家直元(氏家卜全)~西美濃三人衆~美濃国人衆の中で最大の勢力、次男は家康に惜しまれながらも大坂夏の陣で果てる

安藤守就~西美濃三人衆~娘婿は竹中半兵衛、最期は稲葉一鉄に滅ぼされる

不破光治・不破直光(不破彦三勝光)親子~戦国の世をしぶとくゆったりと生き抜く~

佐藤忠能・佐藤忠康父子と娘の八重緑と加治田城攻防~織田信長の東美濃攻略~琵琶湖・百足退治も

久々利城跡~土岐久々利氏・遺構がわかりやすい土の城~斎藤正義を暗殺するもその孫に謀殺された久々利頼興

長良川鵜飼~岐阜の長良川~1300年続く幽玄の伝統漁法

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