織田家

不破光治・不破直光(不破彦三勝光)親子~戦国の世をしぶとくゆったりと生き抜く~

不破彦三勝光 賤ケ岳






不破光治

不破 光治(ふわみつはる)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
斎藤氏・織田氏の家臣で不破直光不破彦三勝光)、
不破広綱(源六)の父です。
名称として太郎左衛門尉・河内守と称されていました。

【生涯】
生没年は不詳です。
早くから美濃国の戦国大名である斎藤道三に仕えていました。
斎藤道三に仕える前は土岐頼芸の家臣でした。
稲葉良通安藤守就氏家直元の3人と共に
西美濃四人衆と称されるほどの有力な家臣でありました。
他の3人とは異なり、斎藤氏に最後まで忠節を尽くし、
寝返ることはなかったと伝わっていますが、
斎藤氏滅亡後は他の3人衆と同じく織田信長に仕えました。
美濃西保城主です。
織田家家臣となった後は、
柴田勝家の傘下になり、主に北陸担当となりました。

【出目】
家系には諸説あるとされています。
一つは、不破隼人藤原直家の後裔とする説、
また、清和源氏の棟梁・源為義の後裔とされる
松井蔵人直家の子・直重が
「不破隼人佐」を称したのが始まりとする説、
そして、山城国の南宮神社社家の一である松井直家が
美濃国不破郡府中村に移住して
不破氏を名乗ったとする説等です。

【斎藤道三の家臣】
そのため、代々土岐氏に仕えていたとされ、
斎藤道三が土岐頼芸からの下克上の際には、
斎藤道三の家臣として仕えています。
そして、稲葉良通・安藤守就・氏家直元と共に、
4人で連署した書状が見つかっていることから、
3人と共に並ぶ立場の家老として
西美濃4人衆とも称されていたそうです。

【織田信長の家臣へ】
斎藤道三が子供である斎藤義龍に敗れ、
その義龍が急死すると、
その子である龍興が14歳で家督を継ぎますが、
やがて、織田信長が本格的に美濃侵攻を開始し、
斎藤龍興自身も家臣の信望を得ることができず、
とうとう、永禄10年(1567年)、
西美濃三人衆の稲葉良通や
氏家直元、安藤守就らが織田信長に内通し、
稲葉山城を織田信長によって落とされ、
城下の長良川を船で下り、北伊勢の長島へと亡命しました。
この時、斎藤龍興は20歳でした。
不破光治は、他の3人衆とは異なり、
この戦いで織田信長に内通していたとされる記録はありません。
ですが、稲葉山城陥落後は、織田信長に仕えています。





【お市の婚儀に付き添う】
「浅井三代記」によりますと、
近江の小谷城城主である浅井長政
織田信長の妹であるお市の婚礼に際しては、
浅井氏の家臣である安養寺経世と交渉して、
輿入れの際には内藤勝介と共に、
お市の方に付き添ったとあるそうです。
ただしこの書は、
元禄年間に出版された軍記物であり、
同時代の史料ではないことを記しておきます。

【戦に明け暮れる日々】
織田信長の家臣になってからは、
他の家臣と同様に戦に明け暮れる日々が続きました。
永禄11年(1568年)7月、
織田信長が越前国の朝倉義景に庇護されていた
足利義昭の呼びかけに応じて上洛を決意すると、
和田惟政・村井貞勝・島田秀満と共に
義昭を越前まで迎えに赴き、
上洛戦で江北が平定されたときも、
立政寺で待機していた足利義昭を迎えに
派遣されています。

その後、永禄12年(1569年)8月の大河内城の戦い、
元亀元年(1570年)6月の小谷城攻め、
同年9月の志賀の陣、
元亀2年(1571年)9月の伊勢長島攻め、
元亀3年(1572年)4月の交野城後ろ巻き、
<後ろ巻き⇒味方を攻める敵を、
さらにその背後から取り巻くこと。>
元亀4年(1573年)7月の槇島城の戦い、
天正元年(1573年)8月の
一乗谷城の戦いに参陣しています。
天正2年(1574年)には、
越前の前波吉継桂田長俊)が、
冨田長繁率いる一揆勢に殺害されたのを受け、
羽柴秀吉や丹羽長秀らと敦賀へ出陣し、
同年6月の伊勢長島攻めにも参陣しました。

府中三人衆へ】
天正3年(1575年)8月、
越前一向一揆平定戦に参陣し、
一揆が平定した後は、
越前8郡は柴田勝家に与えられ、
柴田勝家は北ノ庄城に入ります。
不破光治は佐々成政前田利家と共に
同国府中の2郡を治めながら、
柴田勝家に対する目付を務めることになりました。
そして、不破光治・佐々成政・前田利家は
府中三人衆と呼ばれるようになりました。
不破光治は越前の府中城からほど近い
竜門寺城を居城としました。
以後は柴田勝家の与力としても活動するようになります。

<与力>
江戸時代以前には、足軽大将(足軽組頭)などの中級武士が
大身の武士の指揮下に入る事を意味することであったそうです。
戦国時代には、
「寄子」(よりこ=有力武将(寄親)に対する在地土豪)
の意味で用いられることが多くなり、
彼らは下級武士ではなく、在地の領主(在地土豪)でした。
戦国大名は、在地の土豪である寄騎・寄子を
寄親の家臣団に組み込ませると、
寄親の力が大きくなりすぎるため、
謀反の防止には苦労していたそうです。
そこで、寄子たる在地土豪たちを
陪臣(家臣の家臣)とはせずに
直接的に臣従させる一方で、
重臣や有力武将(寄親)に附属させ、
在地土豪の軍事力を効率的に利用したのでした。

現代風に戦国時代の<与力>を訳すならば、
本部からの有能で家柄もそこそこ良い
ヘルプ要員、ということでしょうか?





【加賀国平定】
天正5年(1577年)8月、
柴田勝家を総大将とした加賀国平定戦には、
府中三人衆そろって参陣しました。
天正9年(1581年)2月の京都御馬揃えにも、
柴田勝家に率いられた「越前衆」の一武将として
前田利家らと共に参加していたとありますが、
上杉景勝が越中国に侵入して
小出城を包囲したとの報せが入り、
柴田勝家以下越前衆は
直ちに出陣するよう命じられたとのことです。

【織田信長・羽柴秀吉のヘルプ】
このように、柴田勝家の目付や与力として、
北陸戦線を戦い、政務をこなしていましたが、
その他に織田信長や羽柴秀吉の侵攻や
討伐・征伐にも動員されました。
天正5年(1577年)2月からの雑賀攻め(紀伊雑賀)、
天正6年(1578年)11月からの有岡城の戦い(荒木村重の謀反)、
天正9年(1581年)3月15日の越中・加賀への出陣、
同年9月の伊賀攻め(天正伊賀攻め) にも動員されました。

【最期】
最期は越前国において死去したそうですが、
その年月日には天正8年(1580年)12月14日とも、
天正9年(1581年)11月8日、
天正9年(1581年)以降、
天正11年(1583年)頃と、
いくつかの説があるます。
法名は雲樹道無大居士。
家督は子である不破直光(不破彦三勝光)が後を継ぎました。

【現代の逸話】
歴史ゲームである「信長の野望」内に出てくる
不破光治の設定されている能力値おいて、
「低すぎる・・・!」として
子孫の方からクレームが入ったとか・・??
そのため、その後のシリーズでしばらく
「出演見送り」になったとも?
其の後「創造」で再び「出演」されています。

【美濃・西保城】
美濃西保(みの・にしほの)城。
不破光治の祖父とされる不破道広が築城したと伝わっています。
別名は西保(にしほの)北方城で形態は平城です。
城址碑があります。
【所在地】
岐阜県安八郡神戸町西保
(ぎふけんあんぱちぐんごうどちょうにしほの)
【遺構】
石垣・堀

<城址碑の場所>





【越前龍門寺城】
越前龍門寺城(えちぜんりゅうもんじじょう)
【所在地】
福井県越前市本町9
現在の龍門寺の境内にありました。
寺の山門前に案内板と城跡碑が建てられてあるそうです。
寺の本堂の南にある墓地一帯が堀跡とのことです。
隣のお寺である妙高寺との間は一段低くなっており、
一目で堀跡であるとわかるそうです。

【遺構】
堀跡

【歴史】
天正元年(1573年)の朝倉攻めの時に、
織田信長がこの城に本陣をおいたそうです。

【交通アクセス】
JR北陸本線「武生」駅よりバス
<車>
北陸道「武生」IC⇒国道8号線⇒県道19号線
<駐車場>
龍門寺の参拝者用の無料駐車場

<場所>

【不破直光】

不破直光(ふわなおみつ、
生年不詳⇒ 慶長3年8月15日(1598年9月15日))は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
斎藤氏・織田氏・前田氏の家臣で通称は彦三。
諱は柴田勝家から「勝」の字を与えられ
不破彦三勝光とも称されています。
正室は北畠具教の息女であると伝わります。

【生い立ち】
父・不破光治と共に織田信長に仕えて各地を転戦します。
天正9年(1580年)~天正11年(1583年)頃に
父の不破光治が死去すると、跡を継いで
府中三人衆の一人として政務をこなしたと伝わります。

賤ケ岳の戦い
天正10年(1582年)の本能寺の変後は、
柴田勝家方につき、
賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政に属して、
小谷山砦を築き、林谷山砦も統括する主将として
布陣したと伝わります。
更には、大岩山砦を攻撃するなどして奮戦しました。

不破彦三

賤ケ岳の戦い 砦

柴田勝家が破れ敗戦後は前田利家に仕えます。
前田家の家臣となるに際して、

前田利家から33000石を与えられたと伝わります。
末森城の戦いでは前田軍の先鋒として
府中三人衆であった佐々成政の軍勢と戦い、
前田家家臣である村井長頼と共に功績を挙げたそうです。

慶長3年(1598年)8月15日、金沢にて死去。
法名・諦当院月峰良心居士。

家督は側室である朝倉対馬守息女が産んだ
不破光昌により継承されました。
そして代々「彦三」の名を名乗るようになったそうです。

【前田家重臣へ】
不破光昌の初陣は大坂の陣だったそうです。
特に、大坂夏の陣では不破光昌の家臣が
功績を挙げていったそうです。

また、不破光昌の人となりとして、
何をするにもゆっくり・ゆったりだったとか。
父親である不破直光(不破彦三勝光)は、
「医学天正記」によれば、天正6年(1578年)、
当時二十余歳「肥満上実之人」であったと
記述されているそうです。

・・・今でいうと、メタボ?だったのでしょうか?
体格はたいそうよかったのですね。

父親の不破光治と共に戦の連戦だったようですが、
何事にも動じないゆったりとした性格だったのか、
とても食べっぷりがよく、
また食材もふんだんに手に入っていたのか・・・?

まあ、ゆっくりとした信条は、
もしかしたら父親譲りだったかもしれませんね。

そんなゆっくり・ゆったりとした不破光昌であったため、
「あんまりデキがよくないんじゃないの?」
と批判された事もしばしばだったそうです。





けれどもそうした批判に対して不破光昌は、
きっぱりと反論したそうです。
「父からの教えがある。
人の心に敏感であれ、守るべきは「義」の一文字のみ。
常に武士の道を忘れるな。」と。
そして
「藩の中で人も馬も健やかで立派に揃っている。」と。

このように不破家は加賀藩の代々の重臣として、
重用されていったそうです。

【弟・不破広綱と竹ヶ鼻城の水攻め】

不破直光の弟である不破広網(不破源六)ですが、
小牧・長久手の戦いの頃は、竹ケ鼻城の城主だったそうです。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、
父や兄と同様に長年、織田信長に仕えてきましたが、
羽柴秀吉とも昵懇の間柄だったため、
双方のどちらに付くか城内で大評定を開いた結果、
織田信雄側に付くことに決まりました。
そして竹ヶ鼻城に籠城することになりましたが、
籠城したのは700余騎とも7000余騎とも伝わっています。
この城は東側に木曽川の支流足近川につながる逆川が流れ、
堤防が築かれていました。
そこで羽柴秀吉は、城の北から西、南へかけて、
半円形に約3kmに及ぶ、
高さ約3m、幅約25mの堤を築き、
そこに足近川の水を引き入れて
城を水攻めにすることにしました。
将兵のみならず付近一帯の住民もかり集め、
突貫工事を行いました。
この堤は「一夜堤」と呼ばれていまるが、
実際には5~6日は要したと考えられています。

五月雨により増水した足近川の水により、
町家は約1mあまり浸水し、
城は二の丸まで冠水したそうです。
不破広綱は、織田信雄や徳川家康
救援を要請する使者を送りますが、
本多忠勝織田長益・滝川雄利による援軍は、
羽柴秀吉側に阻まれて途中から引き返してしまったそうです。
けれども、羽柴秀吉も徳川家康や織田信雄が
自ら出陣して来ないのでは
長々と戦いを続けるのも無意味と考え、
城主以下全員の命を助ける条件で
開城するよう勧告したそうです。
これを受け入れた不破広綱は6月10日に、
長島の織田信雄のもとに退去したそうです。
其の後、不破広綱は兄である不破直光(彦三勝光)を頼ったそうです。





【竹ヶ鼻城】
尾張国葉栗郡、
のち美濃国羽栗郡(現・岐阜県羽島市竹鼻町)にあった平城です。
羽島市歴史民俗資料館及び映画資料館前に城碑があります。
不破広綱が降伏した後は、
羽柴秀吉の配下の一柳直末が入城。
一柳直末が大垣城主となると、
池田恒興の配下の伊木忠次、
次に森寺清右衛門が入城しました。

その次の織田秀信配下の杉浦重勝が城主の時代であった
慶長5年8月22日(1600年9月29日)、
関ヶ原の戦いの前哨戦として福島正則によって攻囲され、
二の丸、三の丸に詰めていた援軍の毛利広盛らが
知己であった福島に降伏してしまったため落城し、
杉浦は自害となり果てて後、竹ヶ鼻城は廃城となりました。

【所在地】
岐阜県羽島市竹鼻町2624−1

【遺構】
なし

<場所>

斎藤道三~晩年の足跡~鷺山城址・道三塚・常在寺、そして斎藤義龍

土岐頼武・土岐頼純VS土岐頼芸~美濃守護土岐氏~度重なる家督争いで衰退し、斎藤道三に乗っ取られる!

稲葉良通~稲葉一鉄・頑固一徹の語源である西美濃三人衆~多才な人物で信長に好かれる

氏家直元(氏家卜全)~西美濃三人衆~美濃国人衆の中で最大の勢力、次男は家康に惜しまれながらも大坂夏の陣で果てる

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佐藤忠能・佐藤忠康父子と娘の八重緑と加治田城攻防~織田信長の東美濃攻略~琵琶湖・百足退治も

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