織田家

聖衆来迎寺・森可成の墓~織田家の重臣で森乱丸(森蘭丸)の父~

聖衆来迎寺 表門




聖衆来迎寺
聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)は、
滋賀県大津市比叡辻にある天台宗の寺院。
山号は紫雲山、本尊は阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来の三仏。
開基(創立者)は最澄と伝えられています。
比叡山の東麓、琵琶湖岸に近い比叡辻に位置しています。
表門は坂本城の城門を移築したものと伝わります。
自然の道 歴史の道 聖衆来迎寺

<聖衆来迎寺開山堂>
聖衆来迎寺 開山堂

<聖衆来迎寺開山堂・説明札>
聖衆来迎寺 開山堂 説明札

<聖衆来迎寺客殿>
聖衆来迎寺 客殿

<聖衆来迎寺客殿・説明札>
聖衆来迎寺客殿 説明札

森可成(よしなり)の墓】
聖衆来迎寺が織田信長の焼き討ちをまぬがれたのは、
信長の家臣・森可成(もりよしなり)の墓所がこの寺にあったためでした。
森可成は数々の武功を立て、織田信長の信頼が厚い武将でした。
比叡山焼き討ちの前年にあたる元亀元年(1570年)、
可成は信長の命で宇佐山城(現・大津市近江神宮付近)を築き、
信長に敵対する浅井・朝倉連合軍に対峙しましたが、
可成は聖衆来迎寺付近の比叡辻で戦死しました。
比叡山系の僧兵らが信長の敵である浅井・朝倉側についたことが、
翌年の比叡山焼き討ちの原因をつくったとされています。
聖衆来迎寺は、比叡山との関係から言って、
浅井・朝倉側に味方すべき立場でしたが、
当時の住職・真雄は、
敵方の大将である森可成の遺骸を夜間密かに運び込み葬ったとのことです。

森可成の墓





【森可成】
森可成(もり よしなり)は、戦国時代の武将。
土岐氏、後に織田氏の家臣。美濃国金山城主。
可成の家系は頼定の次男・森定氏の子孫が
美濃に住んで代々土岐氏に仕えました。
なお、庶流には明智光秀浅野長政・土岐定政らがいます。
可成の弟として可政がいます。
子宝に恵まれ、生まれた六男三女とも正室えいとの間の子供であり、
愛妻家であったそうです。

<子供>
男子:
可隆(手筒山城攻めで討死・享年19初陣)
長可(小牧・長久手合戦で即死享年27)
蘭丸(成利)(本能寺の変で討死享年18)
坊丸(長隆)(本能寺の変で討死享年17)
力丸(長氏)(本能寺の変で討死享年15)
忠政(美作津山藩初代藩主)
女子:
娘(青木秀重室)
娘・うめ(木下勝俊室)
娘・碧松院(関成政室)

<生い立ち>
大永3年(1523年)、森可行の子として
尾張国葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)に生まれます。
美濃国の守護大名である土岐氏に仕え、
斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後の
天文23年(1554年)には尾張国で織田信長に仕えました。
信長の家督相続と尾張国統一に尽力した生涯でした。
織田家においては柴田勝家より以前に信長に仕えた年長組で、
美濃衆として活動していました。
槍の名手で、関兼定銘の十文字槍の使い手でした。
武勇の誉れ高く「攻めの三左」という異名を誇ったとも。
数多くの武勇伝が伝わっていますが、
信長の上洛後は京都周辺の寺社や堺の会合衆などに宛てて
非常に多くの文書を発給しており、
織田家の重臣として政務にも大きく関わっていたと推測できます。

<参加した主な合戦>
★信長による清洲城攻め
★長良川の戦い
★稲生の合戦
★浮野の合戦
桶狭間の戦い
★森部の戦い
観音寺城の合戦
★金ケ崎合戦
★姉川の合戦

<宇佐山城の合戦・志賀の陣>
宇佐山城(うさやまじょう)は滋賀県大津市南滋賀町に残る、
中世の日本の城(山城)跡。
湖西周りで京都に向かうには避けては通れない位置にありました。
朝倉義景浅井長政の南進に備えるべく、
琵琶湖と北国街道の押さえとして
織田信長に命じられ、森可成が近江滋賀郡に築きました。
宇佐山城は、信長が安土城より以前に
近江で最初に石垣による築城を行った貴重な城郭でした。
石垣の存在から宇佐山城は陣城ではなく、
恒久性を志向したものであると考えられています。
元亀元年(1570年)9月、
宇佐山城に在った可成は
浅井長政・朝倉義景の連合軍出撃の知らせを受けて
進軍を妨害する為に宇佐山城より出撃して
坂本に陣取り街道を封鎖。
石山本願寺法主・顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も連合軍に加わり、
同年9月20日にはさらに数の膨らんだ連合軍の侵攻で
先鋒の朝倉景鏡を押し返すなど健闘しますが、
浅井対馬、玄蕃の2千に側面から攻撃を仕掛けられ、
さらに朝倉中務、山崎吉家、阿波賀三郎の隊に加え
浅井長政本隊もこれに加わり、
信長の弟・織田信治、
近江の国人・青地茂綱と共に討死しました。
享年48。





<比叡山焼き討ちと森家の因縁>
討ち死にしたものの坂本で数日間に渡り、
浅井・朝倉連合軍を近江に釘付けにした為、
連合軍は信長の背後を突くことは出来ませんでした。
宇佐山城も家臣の各務元正、肥田直勝などが奮戦、落城を免れます。
信長は可成の死を深く悲しみ、
直後に弔い合戦として浅井・朝倉軍に協力した
比叡山延暦寺を焼き討ちすることになる原因の1つとなります。
この比叡山焼き討ちにおいてですが、、
森家の血筋は祖先・源義隆が
比叡山の僧兵の矢に倒れたという因縁があります。
可成討死の要因をも作った比叡山とは
やはり積年の因縁で結びついていたのでした。

<その後の宇佐山城>
比叡山焼き討ち前には、明智光秀がこの城を拠点に
高島七頭など土豪の懐柔策を進めており、
湖西地区の重要な役割を果たしていました。
比叡山焼き討ちで武勲をあげた光秀は坂本の地を与えられ、
坂本城を築いて移ったため
宇佐山城は役目を終えて廃城となったと推測できます。

<地図>駐車場は20台。

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