織田家

佐久間信盛~織田家筆頭家老として30年間織田家に身を粉にして仕えるも追放される。

刈谷城跡 亀城公園



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佐久間信盛

佐久間 信盛(さくま のぶもり)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将です。
織田氏の宿老、鳴海城主でした。
平手政秀自害から
主君の織田信長による折檻状
織田氏を離れるまでの約30年間、
織田氏家臣団の筆頭家老として
家中を率いました。
尾張佐久間氏の当主。
通称は出羽介、右衛門尉。
子に信栄・信実がいます。
従兄弟に佐久間盛次
佐久間盛政・佐久間安政・
柴田勝政・佐久間勝之の父)がいます。

【生誕】
大永8年/享禄元年(1528年)?

【死没】
天正10年1月16日
(1582年2月18日)

【改名】
牛助(幼名)、信盛、夢斎定盛(号)

【別名】
通称:右衛門尉、半羽介、半介

【渾名】
退き佐久間

【墓所】
京都府紫野大徳寺高東院
奈良県十津川村武蔵

【主君】
織田信秀織田信長

【氏族】
桓武平氏良文流三浦氏系和田支流佐久間氏

【父】
佐久間信晴

【兄弟】
信盛、信辰、僧明嶽

【妻】
前田種利の娘

【子】
信栄、某(兵衛介)、
信実、安見右近大夫妻、
福島正頼室、佐々氏妻

【生涯】
尾張国愛知郡山崎
(現在の名古屋市南区)に生まれ、
織田信秀に仕えました。

【ご先祖に和田義盛
佐久間氏は、
三浦義明の三男である義春の四男の
家村が安房国平群郡狭隈郷
(現在の千葉県安房郡鋸南町下佐久間・上佐久間)
を領したことに始まります。
家村の養子とされる
朝盛(和田義盛の孫)は
鎌倉幕府に仕えていましたが、
建暦3年(1213年)の
和田合戦に敗れ、
越後国奥山荘(現在の新潟県胎内市)
に逃れました。
その子である家盛が
承久の乱の功績により
上総国夷隅郡
(現在の千葉県勝浦市、御宿町)
と尾張国愛知郡御器所
(ごきそ、現在の愛知県名古屋市昭和区御器所)
を恩賞として賜り、
そこにその子孫が定住しました。
盛通(与六)は家村の
十世(あるいは十三代)の孫と
伝わっており、、
その子孫は御器所、
山崎城ほか4家
(久六盛重・盛次系、河内守系、
奥山氏系、信晴・信盛系)に
分かれたとのことです。
和田屋敷周辺

【織田信長の重臣として】
佐久間信盛はその後、
幼少の織田信長に
重臣としてつけられ、
織田信秀死後の家督相続問題でも
一貫して織田信長に与し、
織田信長の弟である信時を
守山城に置くよう進言し、
城主だった織田信長の
叔父・織田信次の家臣であった
角田新五らを寝返らせ、
織田信長の弟・信行の
謀反の際も稲生の戦い
織田信長方の武将として戦いました。
その功により以後家臣団の
筆頭格として扱われ、
「退き佐久間」
(殿軍の指揮を得意としたことに由来)
と謳われました。
ただし、佐久間信盛の撤退戦での
具体的な活躍を記した記録や
史料は一切ないとのことです。
むしろ織田軍の先鋒としての
侵攻戦での手柄のほうが
多く記録されています。

【各地を転戦】
織田信長に従って各地を転戦し、
織田家の主だった合戦に参戦しました。
永禄3年(1560年)の
桶狭間の戦いでは善照寺砦を守備し、
戦後に鳴海城を与えられました。
鳴海城跡公園
永禄10年(1567年)、
柳生宗厳に対し織田信長が上洛次第、
松永久秀と連携して
織田軍を差し向けることを
約束したことからこの頃は
大和方面を担当していたと
見られています。
永禄11年(1568年)、
近江国の六角義賢・義治父子との
観音寺城の戦いでは
箕作城を落とすなどの
戦功をあげています。




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【吏僚としての活動】
吏僚としての活動も見られ、
永禄10年(1567年)に
徳川家康の長男である松平(徳川)信康に
織田信長の娘・徳姫が嫁ぐ際に
岡崎城まで供奉、
徳川家康の領地と接する
西三河を任されています。
岡崎城 天守
翌永禄11年の織田信長上洛後には
畿内の行政担当者の1人に選ばれ、
大和国の松永久秀を
交渉で味方に付けています。
浅井長政が織田信長に敵対した直後の
元亀元年(1570年)5月、
近江永原城に配置され、
柴田勝家と共に南近江を平定し
(野洲河原の戦い)、
姉川の戦い、志賀の陣にも
出陣しています。
姉川の古戦場

【交渉役としても活躍】
元亀2年(1571年)8月、
松永久秀が白井河原の戦いで
敗死した和田惟政の居城・高槻城
接収しようとしましたが、
佐久間信盛が交渉を行い
撤兵させています。
9月、比叡山焼き討ち
武功を上げ、知行地として
近江国栗太郡を与えられました。
11月には松永久秀と争っていた
筒井順慶の帰順交渉も担当し、
松永久秀と筒井順慶を
和睦させたということです。
比叡山 階段

【連戦・転戦】
元亀3年(1572年)4月、
三好義継と松永久秀・久通父子が
畠山昭高の交野城を攻囲したため、
交野城の救援として派遣され
敵勢を退散させています。
7月には小谷城の城下町を攻撃。
10月、武田信玄が織田家への敵対を
露わにした際には、
岐阜城に2千余りの兵と共に
留守居として入り
美濃の守備を固めています。
岐阜城(稲葉山城)

三方ヶ原の戦い
11月には平手汎秀・水野信元と共に
3千の兵を率い、徳川家康軍8千の援軍に
派遣されましたが、
佐久間信盛は戦場となった
三方原で2万7千の武田軍を
目の当たりにして、
徳川軍に勝ち目はないと判断し
ほとんど戦わないまま
三方原南方の
浜名湖の今切まで退却しています。

【名代として将軍との和睦交渉】
天正元年(1573年)4月、
織田信長の名代として
織田信広細川藤孝と共に
二条御所に派遣され、
将軍である足利義昭
和睦の交渉を行いました。
同月、柴田勝家、丹羽長秀
蒲生賢秀と共に、
六角義治が籠城する
鯰江城攻めを命じられ、
四方に付城を築いて攻囲しました。




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【信長に根を持たれる】
8月、一乗谷城の戦いの直前、
戦場から離脱する朝倉義景軍の
追撃を怠った織田家臣団の面々は
織田信長の叱責を受けるます。
その際、佐久間信盛は思わず
涙を流しながら
「そうは言われましても
我々のような優秀な家臣団を
お持ちにはなれますまい)」旨の
口答えをしたために
織田信長をさらに怒らせ、
所領没収の厳罰を
下されそうになったのでした。
他の家臣達の取りなしで
その場では辛うじて
処罰は免れたのですが、
織田信長からは
相当根に持たれる事となり、
後に突きつけられた
折檻状の19ヶ条の中に
上記の一件も
加えられているとのことです。
一乗谷城付近と上城戸

【若江城の戦いと信長の蒸し返し】
その後は六角氏の菩提寺城を攻略、
続いて六角義賢が籠る
石部城を包囲のち
攻略するなどの戦に赴きます。
11月には第一次織田包囲網が瓦解し
逃亡した足利義昭を匿った
河内若江城主・三好義継を攻め、
自害に追い込む戦果を上げ、
織田家の畿内制圧に貢献します。
このことで先の失言の一件は
一先ず免ぜられる事には
なりましたが、
織田信長からは根に
持たれる事となり、
後に突きつけられた
折檻状の19ヶ条の中に
上記の一件を
蒸し返されています。

【対武田氏・六角氏・長島一向一揆
天正2年(1574年)2月、
武田勝頼が軍勢を率いて
明知城を包囲した際には、
尾張・美濃衆を率いて
援軍として派遣されています。
この時期、佐久間信盛は
対武田氏における司令官
であったと考えられています。
4月、前年から包囲を続けていた
六角義賢の石部城を攻略、
佐久間信盛の軍勢が入城しました。
7月には長島一向一揆攻めに参陣、
松之木の渡しを押し渡り、
馬上から数多くの一揆勢を
切り捨てたのでした。

【重臣としての働き】
天正3年(157年)3月、
徳川家康のもとへ派遣され、
長篠城等の武田・徳川領国の
境目の城々の検分を行いました、
月末には吉田兼見から
扇を送られます(兼見卿記)。
長篠城 堀

【高屋城の戦い】
4月、織田信長に従って
三好康長が籠る高屋城や
新堀城を攻撃し、
降伏に追いこみました。

長篠の戦い・調略】
5月には武田方へ虚偽の内通を行い
油断させ設楽原におびき寄せ
長篠の戦いの勝利に貢献しました。
(武家事紀)

岩村城攻め】
6月、奥三河の武節城を陥落させ、
奥平定能・信昌父子に
城を預けて織田信忠の岩村城攻めに
援軍として加わっています。

【越前一向一揆】
8月には転戦して
越前一向一揆征伐に参加しました。

安土城築城の構想】
11月、嫡男・信忠に家督と
岐阜城を譲った織田信長を
自らの館へと迎え入れ、
この際に新たな居城築城
(のちの安土城)の構想を
織田信長から打ち明けられ、
助言を求められたとされています。
安土城 石垣

水野信元を暗殺させる】
12月、佐久間信盛は与力の水野信元が、
前月に降伏して処刑された
武田氏の秋山虎繁と内通し、
兵糧を密かに秋山虎繁が籠っていた
岩村城に流していたとして
織田信長に訴えたとされています。
織田信長はこれに怒り、
水野信元の甥である徳川家康に
水野信元を殺すように命じました。
これにより水野信元は
石川数正に三河大樹寺に誘い出されて
平岩親吉によって
養子の信政共々暗殺されてしまいます。
こうして水野信元の居城であった
刈谷城と所領の西三河は
佐久間信盛の直轄領に
組み込まれたのでした。




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【織田信忠を補佐する立場】
天正4年(1576年)1月、
織田信忠が千秋季信に
熱田大宮神職を与えた文書に
息子の信栄と連署で
副状を発給しています。
ほかに同様の事例が
見られないことから当時、
織田信忠を補佐する立場に
あったことが指摘されています。

【石山合戦・天王寺の戦い】
5月には石山合戦の一環であった
天王寺の戦いで
石山本願寺攻略戦の司令官である
塙直政が戦死、天王寺砦が包囲されて
嫡子である佐久間信栄を含む
籠城衆は窮地に陥りました。
救援に向かった織田軍と
本願寺勢の戦いは
織田信長が負傷するほどの
激戦となりましたが、
佐久間信盛も先陣を務めて奮戦し、
本願寺勢を打ち破って
籠城衆の救援に成功しています。
石山本願寺 推定地

【本願寺司令官】
戦後、佐久間信盛はその与力衆を率いて
天王寺砦に城番として入城、
塙直政の後任の対本願寺司令官
(のちに畿内方面軍に改編)に就任しました。
三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・
紀伊といった7ヶ国の与力をつけられた
佐久間信盛配下の軍団は
当時の織田家中で最大規模でしたが、
佐久間信盛は積極的な攻勢に出ず、
戦線は膠着しました。
ただこの間も対本願寺戦に
専従していたわけではなく、
織田軍の部将として
各所への出陣を繰り返しています。

【雑賀攻め】
天正5年(1577年)2月からの
雑賀攻めに参陣します。
羽柴秀吉荒木村重別所長治
別所重宗堀秀政と共に
紀伊国へ進軍して諸所を焼き払いました。

【松永久秀の謀反】
閏7月下旬には再び
雑賀衆が蜂起したため、
筒井順慶と共に鎮圧に向かっています。
8月17日には、
石山本願寺包囲のために
天王寺砦に詰めていた
松永久秀・久通父子が退去して
謀反を起こしました。
これにより一族の佐久間与六郎が
人質として預かっていた久通の子供2人は
京都へ連行され、処刑されています。
その後佐久間信盛は織田信忠に従って
松永久秀討伐に加わり、
羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀と共に
信貴山城を攻め落としました。
信貴山城跡と朝護孫子寺

【毛利攻め出陣】
天正6年(1578年)4月、
毛利氏が大軍を擁して
播磨国へ進軍したとの報を受けますと、
織田信長は自身が出馬して
直接決着をつけることを表明しました。
けれども佐久間信盛をはじめ滝川一益
蜂屋頼隆明智光秀
丹羽長秀が懸命に諫め、
一同の出陣と引き換えに
何とか思いとどまらせたということです。
翌5月1日、織田信忠、織田信雄
織田信包織田信孝、細川藤孝と共に
尾張・美濃・伊勢3か国の軍勢を率い、
毛利氏との対決のため播磨国へ出陣しました。

6月27日、神吉城の戦いの際には、
信忠、信孝、林秀貞、細川藤孝と共に
城の周囲に幾重にもわたり
陣を布いて包囲網を形成しています。
西の丸の守将・神吉藤大夫が
降参してきた際には、
これを織田信長に仲介して
赦免の許可を取り付けています。




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【別格の扱いで茶会に席入り】
9月30日、織田信長は堺に赴いて
九鬼嘉隆が建造した大船を見物し、
その帰りに津田宗及邸での茶会に参加。
佐久間信盛は近衛前久、滝川一益、
松井友閑と共に織田信長の相伴に
あずかって席入りしています。
御供衆として供奉した重臣・側近ら
(細川信良、津田信澄、細川藤孝、
佐久間信栄、筒井順慶、荒木村次
万見重元、堀秀政、矢部家定、
菅屋長頼、長谷川秀一、大津長昌、
河尻秀隆、三好康長、若江三人衆)
とは別格の扱いを受けています。

高山右近の調略】
10月、荒木村重が謀反を起こした際には、
荒木村重に与した高山右近の
切り崩しを担当しました。
織田信長から右近説得の命を受けて
高槻城に向かう
宣教師・オルガンティノに同道し、
また決断を早めるために
捕らえられた他の宣教師らを
永原へ連行し、
佐久間与六郎の監視下に置きました。
さらに自身も高槻のキリシタン武士に対して
説得成功の暁には16000俵の報酬を
約束して高山右近の調略を試みています。
最終的に高山右近は宣教師の説得に応じて
佐久間信盛の陣営へと出頭しました。
11月には織田信長が
佐久間信盛の下で鷹狩を行っています。
有岡城の石垣

【三木城攻めの加勢】
12月には三木城攻めの最中の
羽柴秀吉の加勢として
明智光秀、筒井順慶と共に
播磨国に向けて出陣しています。
途中、摂津国・三田城に対して
道場河原と三本松の二か所に
付城を普請し、
羽柴秀吉の軍勢を入城させています。
さらに三木城の付城に
兵糧・鉄砲・弾薬の補給し、
付城の補強も行った上で帰還しています。

【三箇頼照・頼連父子を救う】
この年、与力の若江三人衆・多羅尾綱知が
三箇城主の三箇頼照・頼連父子が
毛利氏に通じて
謀反を企んでいるとの噂を広めました。
これを知った織田信長は激怒して
三箇頼連を捕縛させましたが、
佐久間信盛がその無実を訴えたため
三箇頼連は許されました。
けれども多羅尾綱知は執拗に
三箇父子を讒言したため、
織田信長は佐久間信盛に三箇頼連を
誅殺するよう命じたということです。
この時も佐久間信盛が
織田信長を直接説得して
翻意させたため三箇頼連は救われました。
三箇城址の碑

【本願寺との戦いに終止符】
天正8年(1580年)3月1日、
朝廷より本願寺へ派遣された
講和の勅使(近衛前久、勧修寺晴豊、庭田重保)
の目付として松井友閑と
共に同行を命じられています。
同月10日、
小田原城主である北条氏政から
織田信長へ送られた献上品の
披露を担当しています。
また滝川一益、武井夕庵と共に
北条氏の使者の取次役も務めています。
8月2日、教如の本願寺退去を検視する
勅使に松井友閑と共に再び同行しています。
こうして本願寺との10年続いた戦に
終止符が打たれたのでした。




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【最大規模の軍団を統括】
この時点まで佐久間信盛は
近畿の地に織田家中で
最大規模の軍団を統括していたのでした。

【折檻状を突きつけられる】
同月25日、織田信長から
19ヶ条にわたる折檻状を
突きつけられ、
佐久間信盛は畿内方面軍軍団長と
筆頭家老の地位を捨て織田家を離れました。
この佐久間信盛の決断は
実質的に追放という形となり、
嫡男の信栄と少数の郎党達らと共に
高野山へと上っていきました。
その後、高野山にすら
在住を許されずに
さらに南に移動したと伝えられ、
郎党達も佐久間信盛父子を見捨てて
去っていったとのことです。
高野山に落ちる時は
つき従う者は2~3名、
熊野に落ちる時は1名だったということです。
なお、この最後まで付き従った者は、
後に信栄が赦されて帰参が叶った時、
その忠誠心を賞されて
小者の身分から士分に
抜擢されたということです。
信長公記」はこの間の
佐久間父子の凋落を
あわれみをもって
記しているとのことです。
竹藪

【後任は明智光秀】
佐久間信盛退任後の
畿内方面軍軍団長に
就任することになったのは
明智光秀でした。
蜂屋頼隆が引き継いだ和泉を除き
旧佐久間軍団は
本能寺の変
実質的実行部隊となりました。
明智光秀のイラスト

本能寺の変への布石?】
明智軍記には佐久間らへの
情け容赦ない処分を引き合いに出して、
明日はわが身と家中が
反乱に傾いたという記述もあり、
これが事実であれば
動機面での影響も
あったことになります。

【高野山での余生】
なお、佐久間信盛自身の書状や
「多聞院日記」の記述から、
佐久間信盛が高野山で
平穏に余生を送ったことが
わかるため、
高野山から追い出されたというのは、
「信長公記」の誤謬だともされています。

なお高野山在住時、
山岡景友が平井阿波入道と共に
佐久間信盛を訪ねてきたことが
あったということです。
佐久間信盛はこれに感激し、
涙を流して喜んだと伝えられています。




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【最期とその時期】
天正10年(1582年)1月16日、
紀伊国熊野あるいは高野山にて死去しました。
享年は55歳でした。
また、天正10年1月24日、
十津川で没という説、
はたまた
「没年齢不詳、
天正9年(1581年)7月24日、
十津川で没」と、
没年日には異説もあるとのことです。

法名は洞無桂巌または宗佑。
直後に信栄は織田信忠付の家臣として
帰参を許されました。

<ひとりごと>
表向きは「追放」ですが、
実際は・・・・働きすぎて心身ともに疲れ果て、
今でいう「早期退職」が真相だったり・・・
することはないのでしょうかねぇ。
でもほかの家臣の手前、堂々と
「早期リタイアさせてください」とは言えず・・。
高野山ライフは穏やかだったとのこと。
佐久間信盛死去の後に
息子が許されているので・・。

まあ、力を持ち、権力が
増したので警戒されての
追放でしょうね。
暗殺されずに済んでよかったです。
上杉氏の家老の太田道灌
暗殺されてしまったので。

2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では
立川 談春(たてかわ だんしゅん)さんが
演じられます。

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鳴海城~築城は足利義満の時代、戦国期は織田信秀から今川義元直轄となり、織田信長が手にする。

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松永久秀~三好長慶に忠義を誓った人物~官僚であり武将として時代の中心で活躍するも信貴山城にて死す。

荒木村重と残された女性や家臣たちの悲惨な最期~有岡城の戦い~

石山本願寺~11年にも及んだ石山合戦~織田信長VS本願寺顕如及び浄土真宗

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