明智家

明智光秀について、駆け足で手短にわかる明智光秀の生涯。

伝・明智光秀の肖像画



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明智光秀

清和源氏の土岐氏支流である明智氏に生まれたとされています。
土岐氏は建武の新政から美濃国で200年余り守護を務め、
数十家の支族を輩出しています。
石谷氏、妻木氏、金森氏、原氏、饗庭氏、肥田氏、仙石氏等挙げられます。

父は江戸時代の諸系図などでは
明智光綱、明智光国、明智光隆、明智頼明など諸説あります。
また父親の名前も伝わらない程
低い身分の土岐支流とも言われています。

【いつ生まれたの?】
生年は信頼性の高い同時代の史料からは判明せず、
現在のところは不詳です。
「明智系図」では生年月日が
享禄元年3月10日(1528年3月30日)、
「明智一族宮城家相伝系図書」では
享禄元年8月17日(1528年8月31日)。
これ以外の説には「細川家記」の大永6年(1526年)、
また「当代記」の付記に記された
67歳から逆算した永正13年(1516年)などもあります。
どうやらネズミ年生まれである可能性があり、
1528年か1516年生まれのどちらかであると見方が
現在では主流であるようです。
そして1528年生まれである説が少なくとも2種あり、
大河ドラマでは1528年生まれの説をとっています。
そうなると、明智光秀の享年は55歳となります。

【生まれた場所】
生まれた場所はこれまた複数の説があります。
最も有力とされているのは、
岐阜県可児市広見・瀬田(旧・明智荘)の明智城です。
少なくとも、美濃国(岐阜県南部)あたりで
生まれたことは事実であるとみられていました。
ところが、2020年1月のニュースで
近江国出生説に裏付ける史料が見つかったと
飛び込んできました。

明智城址と天龍寺と明智一族、築城主の明智頼兼(土岐頼兼)とは?

【生まれは近江?】
滋賀県多賀町中央部の「佐目」と明記した
寛文12年(1672年)編さんの古文書
「江侍聞伝録(ごうじもんでんろく)(禄)」です。
この古文書は県立図書館(大津市)で確認されました。
同様の記述は、同一著者とみられる
貞享年間(1684年⇒1688年)の
「淡海温故録(おうみおんころく)」にもありますが、
江侍聞伝録はそれより古く、
調査をした県教育委員会の専門家によりますと
「成立年代がはっきり分かり、
光秀の出生地を記した最も古い史料」とのことです。




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著者は木村重要(生没年不詳)で、
佐目から十数キロ南西部に位置する
近江国神崎郡
(現在の滋賀県彦根、東近江市辺り)の人物らしいとのことです。
江侍聞伝録は全2冊で、
中世の近江国の土豪・地頭の家系を地域ごとに記しています。
自筆とみられ、1冊目に、
明智十左衛門という侍が濃州(美濃国)から
佐目の里に逃れて来て2~3代が住み、
出生年は不明ながら「光秀」が生まれたと書かれているそうです。

【青年期】
青年期の履歴は不明な点が多いです。
一説には諸国を旅して見聞を広げていったとも言われています。
また若き日の明智光秀は大望を抱いていたという逸話もあるようです。

藤田行政(藤田伝吾)~明智五宿老の一人~常に明智光秀に寄り添い、やがて散る

【青年光秀・大望を抱く】
若き光秀はある時大黒天の木像を拾いました。
そして朝夕に大黒天を拝み、
その姿を見た人がこう言いました。
「この神を拝めば千人の部下を得ると言います。
よくよく大切になさい」と。
すると青年・明智光秀は
「たったの千人か。凡人でも千人の部下を持つ人は多い。
これは出世を願って拝む神ではないな」と
大黒天を捨ててしまったとか・・。

其の頃、下記の二人の人物が活躍していました。

細川晴元~名門・細川吉兆家の血筋ゆえに覇権争いの波乱万丈の生涯となる

三好長慶~最初に天下統一を成し遂げた武将~大阪一帯を見渡せる飯盛山城

明智光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族で、
土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えます。

土岐頼武・土岐頼純VS土岐頼芸~美濃守護土岐氏~度重なる家督争いで衰退し、斎藤道三に乗っ取られる!

大桑城~美濃国守護である土岐氏の最後の居城~

弘治2年(1556年)、長良川の戦い
斎藤道三と斎藤義龍(高政)の親子の争いで
斎藤道三方であったために斎藤義龍に明智城を攻められ、
一族が離散したとされています。

斎藤道三~晩年の足跡~鷺山城址・道三塚・常在寺、そして斎藤義龍(高政)

斎藤孫四郎~斎藤道三の次男~斎藤道三が後継ぎにしようとするも兄の義龍(高政)に謀殺される

斎藤喜平次~斎藤道三の三男~斎藤道三に溺愛されるがゆえに兄・義龍(高政)に謀殺される

長井道利~中濃衆~義龍に父との決別を促し明智を滅ぼす・出目も最期もナゾ残す人物

稲葉良通~稲葉一鉄・頑固一徹の語源である西美濃三人衆~多才な人物で信長に好かれる

【鉄砲名人】
「明智軍記」には、明智光秀が
朝倉義景の前で鉄砲の腕前を披露した記述が見られます。
腕前はその記述によりますと、
100発の弾丸のうち、
中心にに68発、残りの32発も的に当てたとか。




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明智光秀は、鉄砲の技術に着目していたとも伝わります。
諸国修行の旅に出たのも、
鉄砲の技術や情報を得るためであるとも
言われています。

大河ドラマでも、主君の斎藤道三に
鉄砲のために諸国修行の旅に出たい旨を
申し出るみたいですね。
そしてその行く先々で様々な人々と出会い、
縁を結んでいくようです。

妻である妻木煕子とは、
明智城が攻められる前に結婚したと見られています。

妻木城と士屋敷と崇禅寺~明智光秀の正室・煕子の出身と妻木築城主の明智(土岐)頼重とは?

その後、明智光秀は土岐氏との婚姻関係でもあった
越前国の朝倉義景を頼ったとされています。

最近の研究では、朝倉氏に直接士官していたわけではないようです。
また越前時代に明智光秀が住んでいたとされる場所は、
一乗谷から遠く、峠を越えたところに位置しています。

明智神社と称念寺(新田義貞公の墓所)~あけっつぁまと妻の黒髪~明智光秀の越前時代の居住地

一乗谷館跡と朝倉氏~一乗谷朝倉氏遺跡・国の三重指定、103年間の栄華の跡

朝倉氏に10年間仕えたとされていますが、
その根拠となった史料は、
越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の、
天正元年8月22日(1573年9月18日)
付け光秀書状です。
その内容は
「朝倉氏滅亡時の混乱の中で光秀と縁の深い、
越前にいた竹という者の面倒を見て命を救った
様子の感謝と服部七兵衛を百石加増した」

とのことでした。

【明智光秀はお医者さん?】
明智光秀の名前が登場する史料上の初見は
「米田文書」(個人蔵)に含まれる「針薬方」です。
これは熊本藩細川家の家臣で医者だった米田貞能の、
熊本市にある子孫の自宅で発見された医学書で、
明智光秀自身が「高嶋田中籠城之時」に語った内容を含んでいます。
作成は永禄9年10月20日(1566年12月1日)に
米田貞能(米田求政)によって作成された写本とのことです。
その後の調査の結果、明智光秀が若き日に語った医学的知識を、
人づてに聞いた米田によりまとめられたものだと推測されています。
出産や刀傷の対処法など、
当時としては高度な医学的知識に関する
記述などが見られるとのことです。

そのため、明智光秀が織田信長に仕える前は
医者として生計を立てていた可能性があることを推測させる
貴重な資料とされています。

近江・田中城、明智光秀・文献初登場の舞台とされる城

足利義昭との出会い】
永禄の政変で
室町幕府第13代将軍・足利義輝が暗殺された後、
足利義昭は姉婿である
若狭国守護・武田義統の下に逃れました。

興聖寺と足利庭園~朽木氏岩神館跡~室町幕府12代将軍義晴、13代将軍・足利義輝の安全地帯

若狭武田氏の本拠地であった後瀬山城~若狭武田氏の始まりと滅亡~

その直後から足利義昭は織田信長を含む各地の武将に
上洛と自身の将軍擁立を促し、
細川藤孝が使者に立ち織田信長は了承していました。
しかし、当時は美濃国平定前でした。
足利義昭側は永禄9年(1566年)4月、
織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせたものの、
織田信長がこれを破る形となりました。
足利義昭は織田信長に不信を募らせて、
いったん見切りをつけました。
そしてさらに各地に援助を求め
朝倉義景を頼ります。
そうした経緯で明智光秀は
足利義昭と接触を持つこととなります。




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【義昭に信長を勧めた光秀】
けれども足利義昭が上洛を期待しても
朝倉義景は抱えている事情の為、動こうとしません。
そこで明智光秀が
「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」
と織田信長を勧めたとあります。
そこで足利義昭は永禄11年(1568年)6月23日、
織田信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、
明智光秀を通じて再度要請したとのことです。
2回目の使者も細川藤孝でしたが、
織田信長への仲介者として
明智光秀が史料にまとまった形で初めて登場します。

織田信長について~駆け足で手短にわかる織田信長の49年~

岸信周・岸信房父子~中濃衆~妻も勇猛で往年の女武将の如く・堂洞城を枕に壮絶に散る

更にこの記述として
明智光秀の叔母は斎藤道三の正室であり、
織田信長の正室である濃姫(道三娘)が
明智光秀の従兄妹であった可能性があり、
その縁を頼ったともされる内容があるとのことです。

濃姫(帰蝶)~織田信長のナゾ多き正室で明智光秀の従兄妹~

小見の方 (おみのかた)  斎藤道三の正室になった明智家の女性

【足利義昭と織田信長の家臣へ】
その後、明智光秀は足利義昭と織田信長の両属の家臣となります。
永禄11年(1568年)9月26日とされている
足利義昭の上洛に加わっています。

【「本圀寺の変」で信長公記」初登場】
永禄12年1月5日(1569年1月21日)、
三好三人衆が義昭宿所の本圀寺を急襲し、
後に本圀寺の変と呼ばれる乱がおこります。
防戦する足利義昭側に明智光秀の記述が見られ、
これが「信長公記」への初登場となっているとのことです。

同年4月頃から木下秀吉(後の羽柴秀吉)、
丹羽長秀中川重政と共に
織田信長支配下の京都と周辺の政務に当たり、
事実上の京都奉行の職務を行うこととなります。

足利義昭・最後の室町幕府将軍、懲りずに粘って兄の分まで生きる!歴代足利将軍の中で最も長生き!

丹羽長秀~米五郎左~及び石田三成が城主となった佐和山城跡・龍潭寺

元亀元年4月28日、
明智光秀は金ヶ崎の戦いで織田信長が浅井長政の裏切りで
危機に陥り撤退する際に池田勝正隊3000人を主力に、
羽柴秀吉と共に殿(しんがり)を務めて防戦に成功します。

織田信長の撤退戦である金ケ崎退き口・古墳もあり平安時代から繰り返す金ケ崎古戦場跡

阿月~浅井家侍女、ある事とは「小豆袋」の逸話か?そして侍女「盛秀」伝説。

またこの頃、足利義昭から所領として
山城国久世荘(現・京都市南区久世)を与えられたそうです。
宇佐山城を任され、
近江国滋賀郡と周囲の土豪の懐柔策を担当したとあります。

猪飼昇貞(猪飼野昇貞)~明智家臣で堅田水軍棟梁~琵琶湖の自治都市・堅田を任される

【織田信長と足利義昭に従軍】
元亀2年(1571年)、
三好三人衆の四国からの攻め上りと同時に
石山本願寺が挙兵すると、
明智光秀は織田信長と足利義昭に
従軍して摂津国に出陣しました。

比叡山焼き討ち
同年9月12日、
比叡山焼き討ちで中心実行部隊として
武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)を与えられ、
坂本城の築城にとりかかっています。

明智光秀・織田家臣初の築城許可の功績~比叡山延暦寺焼き討ち~

坂本城・要所かつ豪壮華麗な明智光秀の居城~琵琶湖の浮城~

【幕臣から織田家の家臣へ】
宇佐山城に入った時点の明智光秀の身分は幕臣でした。
しかし、滋賀郡を与えられたのを機に
織田家の家臣に編入されたと見られています。

【足利義昭と袂を分かつ】
元亀4年(1573年)2月、足利義昭が挙兵します。
そのとき明智光秀は石山城、今堅田城の戦いに
足利義昭と袂を別って信長の直臣として参戦しています。




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【足利義昭の追放と事実上の室町幕府の滅亡】
同年7月にも足利義昭が槇島城で挙兵し、明智光秀も従軍します。
そして足利義昭は降伏後に追放され、室町幕府は事実上滅亡しました。
その際に旧幕臣であった
伊勢貞興ら伊勢一族や諏訪盛直などが明智光秀に仕えました。

槇島城・足利義昭が籠城し、室町幕府の実質的な終焉の地~忘却の城跡~巨船出現す!!

伊勢貞興~名門・伊勢宗家の若き武将で明智家重臣~二条城で織田信忠を攻める

三淵藤英~細川藤孝の異母兄・足利幕府の奉公衆の立場を貫く~

諏訪盛直(諏訪飛騨守)~明智光秀家臣~山崎の戦いでの激闘で華々しく散る!淀古城・京都諏訪氏とは?

【奉行の引継ぎ】
天正元年(1573年)7月に
村井貞勝が京都所司代になります。
けれども実際には天正3年(1575年)前半まで
明智光秀も権益安堵関係の奉行役をしていました。

連名での文書を出し単独でも少数出しています。
また京都と近郊の山門領の寺子銭(税)も徴収していました。
朝倉氏滅亡後の8月から9月まで、
羽柴秀吉や滝川一益と共に越前の占領行政を担当し、
9月末から溝尾茂朝(三沢秀次)、
木下祐久、津田元嘉が代官として引き継いでいます。

溝尾茂朝~明智五宿老~またの名を三沢秀次?最期まで光秀を支えて介錯をする

木俣清三郎守勝 三河出身~明智光秀と徳川家康に仕えた武将、その正体は??

小谷城~浅井家三代~浅井亮政・浅井久政・浅井長政

疋壇城~越前国境守備~刀根坂の戦い 斎藤龍興終焉の地

朝倉義景の墓~義景清水~孤独を纏う朝倉家最後の当主・戦よりも芸事と内政が得意

【惟任日向守】
天正3年(1575年)7月、
惟任(これとう)の賜姓と、
従五位下日向守に任官を受け、
惟任日向守となりました。

長篠の戦い
天正3年(1575年)の高屋城の戦い、
長篠の戦い、越前一向一揆殲滅戦に参加しました。
そして丹波国攻略を任されたのでした。

【丹波攻略】
丹波国は山続きで、その間に国人が割拠しており
極めて治めにくい地域でした。
更に丹波国人は足利義昭派で、
以前は織田信長に従っていましたが
足利義昭追放後は敵に転じていました。
まず黒井城を包囲しましたが、
八上城主・波多野秀治が裏切り、
不意を突かれて敗走しました。

黒井城~丹波三大山城~250年間続いた中世から戦国時代の貴重な城郭

赤井直正~丹波の赤鬼・悪右衛門~光秀を追い詰めた武将、黒井城攻防と丹波平定

並河易家~明智光秀の家臣~またの名を明智掃部、交通事情に詳しく、光秀をナビする

松田政近~明智光秀の家臣~山崎の戦いでは並河易家と共に戦う・丹波国とは?

足立遠元~十三人の合議制のメンバー、平治の乱で活躍し、東国武士ながらも文官の素養を持つ人物でした。

【難航する丹波攻略と妻の死】
天正4年(1576年)4月、
石山本願寺との天王寺の戦いに出陣しましたが、
同年5月5日に逆襲を受けて
司令官の塙直政が討死します。
明智光秀も、天王寺砦を攻めかかられ、
危ういところを織田信長が来援し助かりました。
けれども23日には過労で倒れたため、
しばらく療養を続けました。
同年11月7日(1576年11月27日)には、
正室の煕子が坂本城で病死しました。

光秀の妻・明智煕子と明智一族の墓がある西教寺~互いを支え合い深い絆で結ばれた夫婦~

石山本願寺~11年にも及んだ石山合戦~織田信長VS本願寺顕如及び浄土真宗




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【雑賀攻めと信貴山城の戦い】
天正5年(1577年)、雑賀攻めに従軍します。
同年10月、信貴山城の戦いに参加して城を落としました。
同月に丹波攻めを再開しましたが長期戦となりました。
まず亀山城を落とし、拠点とし、
そして難敵となった八上城を包囲し続け、
その後も丹波攻めと各地への転戦を往復して繰り返しました。

松永久秀~三好長慶に忠義を誓った人物~官僚であり武将として時代の中心で活躍するも信貴山城にて死す。

【毛利攻めや有岡城の戦い】
天正6年(1578年)4月29日(6月4日)、
毛利攻めを行う羽柴秀吉への援軍として播磨国へ派遣。
同年6月に神吉城攻めに加わります。
同年10月下旬、
織田信長に背いた荒木村重を攻めて有岡城の戦いに参加します。

荒木村重と残された女性や家臣たちの悲惨な最期~有岡城の戦い~

【苦労の末、丹波平定】
天正7年(1579年)、
丹波攻めはついに最終段階に入ります。、
同年2月には包囲を続けていた八上城が落城。
同年8月9日(1579年8月30日)、
黒井城を落とし、ついに丹波国を平定したのでした。
さらに、すぐ細川藤孝と協力して丹後国も平定しました。

一色義定と一色義道・義清~かつての幕府の四職~明智光秀に味方し丹後一色氏は散りゆく

細川藤孝(細川幽斎)~武道・文芸・芸術・コミュ能力と多才多芸な武将~巧みに世を渡り、運も引き寄せる

天橋立~九世戸~明智光秀が細川藤孝・細川忠興の招きで訪れた日本三景、同行者には愛宕百韻の里村紹巴も

細川忠興~正室は明智光秀の娘・ガラシャ~文武両道のハイスペック武将で何事にも極め人。

【丹波一国を拝領】
織田信長は感状を出し褒め称え、
この功績で、天正8年(1580年)に
丹波一国(約29万石)を加増されて合計34万石を領します。
さらに、本願寺戦で戦死した塙直政の支配地の南山城を与えられました。

波多野三兄弟と八上城~七度の攻防戦があった城~光秀によって陥落、波多野氏とは?

内藤如安~明智光秀の丹波攻め~ナゾに包まれた八木城と丹波内藤氏の栄枯盛衰

四王天政孝 四王天政実 明智光秀家臣~先祖は武蔵武士団・児玉党の党祖、青木氏から家康次男・結城秀康の家臣となる

【亀山城・福知山城・黒井城】
亀山城・周山城を築城し、
横山城を修築して「福智山城」に改名しました。
さらに黒井城を増築して家老の斎藤利三を入れ、
福智山城には明智秀満を配しました。
同年の佐久間信盛折檻状でも
「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」
と織田信長は明智光秀を絶賛したとのことです。

佐久間信盛~織田家筆頭家老として30年間織田家に身を粉にして仕えるも追放される。

亀山城(丹波国)~明智光秀の丹波経営の拠点~やがて本能寺へ向かう

福知山城~初代城主は明智光秀~領民に慕われた証の御霊会、城代は婿で重臣の明智秀満

海蔵寺・安芸の古刹~山中鹿介次女の盛江,北条氏直,東城浅野家,江戸幕府と長州藩の談判の場所にもなりました。

興禅寺~黒井城の下館~明智光秀の重臣・斎藤利三が治めた春日局の生誕地

【細川藤孝・筒井順慶が寄騎となる】
また丹波一国拝領と同時に丹後国の長岡(細川)藤孝、
大和国の筒井順慶等の近畿地方の織田大名が
明智光秀の寄騎として配属されました。
これにより明智光秀支配の丹波、滋賀郡、南山城を含めた、
近江から山陰へ向けた畿内方面軍が成立したのでした。
また、これら寄騎の所領を合わせると240万石となりました。

筒井順慶・松永久秀のライバルで、与力であり友人でもあった明智光秀に味方しなかった人物

天正9年(1581年)、
安土左義長の爆竹と道具の準備担当をして、
それに続く京都御馬揃えの運営責任者を任されています。

織田信長 人生の結晶~安土城~琵琶湖・水上ネットワークの完成

織田信長・天下の奇祭「左義長まつり」がある日牟禮八幡宮、近江八幡の古社

同年6月2日(1581年7月2日)、
織田家には無かった軍法を、
明智光秀が家法として定めました。
その「明智家法」後書きに

「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を
召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。
一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を
忘れてはならない」

という織田信長への感謝の文を書いています。

なお、本能寺の変が起こる丁度1年前です。

さらに翌年1月の茶会でも
「床の間に信長自筆の書を掛ける」とあり
織田信長を崇敬している様子があったとのことでいした。




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【妹(義妹?)の死去】
天正9年8月7~8日(1581年9月4~5日)、
明智光秀の実妹か義妹の「御ツマキ」が死去しました。
明智光秀は比類無く力を落としたとあります。
このオツマキの死は明智光秀のその後の人生に大きな影を落として、
一説には本能寺の変の遠因であるともいわれているほどです。

お妻木~明智光秀の妹(義妹の説あり)~明智光秀と織田信長を結んでいた女性とは?

【「明智家中法度」5箇条の制定】
天正9年1244日(1581年12月29日)、
「明智家中法度」5箇条を制定します。
大きくなった家臣団へ織田家の宿老・馬廻衆への儀礼や、
他家との口論禁止及び喧嘩の厳禁と
違反者即時成敗・自害を命じているとのことです。

【甲州征伐へ】
天正10年3月5日(1582年3月28日)、
武田氏との最終戦である甲州征伐に織田信長に従軍しました。
但し、先行していた織田信忠軍が戦闘の主力で、
今回は見届けるものであり、4月21日には帰還しました。

【四国討伐の決定】
更にその後、織田信長は
長宗我部元親討伐のために四国攻めを決定。
そして織田信長自身も毛利輝元ら毛利氏討伐のため、
中国地方攻略に赴く準備を進めていました。
明智光秀にとっては面目丸つぶれとなってしまうのです。

元々織田信長は明智光秀に
四国の長宗我部氏の懐柔を命じていました。
明智光秀は重臣である斎藤利三の妹を
長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結びました。
ところが、天正8年(1580年)に入ると
織田信長は羽柴秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、
武力による四国平定に方針を変更してしまいます。
そのため、今まで明智光秀が行ってきたことが
無駄になってしまうのでした。

石谷頼辰とは 明智光秀と長宗我部元親の関係を結ぶキーパーソン

【家康への接待を解かれる】
天正10年(1582年)5月、
徳川家康饗応役であった明智光秀は
任務を解かれてしまいます。
そして羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられ、
同年6月2日(1582年6月21日)早朝に出陣したのでした。

【本能寺の変】
本能寺の変(ほんのうじのへん)は、
天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、
京都本能寺に滞在していた織田信長を
家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件です。

【本能寺の変の直前】
その途上の亀山城内か柴野付近の陣で、
明智光秀は重臣達に
織田信長討伐の意を告げたといわれています。
軍勢に対しては
森蘭丸から使いがあり、
信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」
として京都へ向かったと言われています。
「本城惣右衛門覚書」によりますと、
雑兵は織田信長討伐という目的を
最後まで知らされてはいなかったとのことでした。
本城も織田信長の命令で
徳川家康を討つのだと思っていたとのことです。

【本能寺の変・当日】
明智光秀軍は織田信長が宿泊していた
京都の本能寺を急襲して包囲しました。
明智光秀軍13000人に対し、
近習の100人足らずに
守られていた織田信長は奮戦しましたが、
やがて寺に火を放ち自害したと伝えられています。
織田信長の死体はついに
発見されることはありませんでした。

羽黒城~梶原景時の孫である梶原景親が築城し尾張梶原氏として存続するも「本能寺の変」にて殉じ、滅亡しました。

【嫡男・織田信忠も討ち取られる】
また、二条御所にいた織田信長の嫡男である
織田信忠と従兄弟の斎藤利治
応援に駆け付けた村井貞勝と息子の村井貞成、
村井清次や信長の馬廻りたちが共に討ち取られています。
また津田信澄(信長の弟・織田信行の子)は
明智光秀の娘と結婚していたため、
加担の疑いをかけられ大坂で
神戸信孝らに討たれてしまいました。

大溝城・打下城~城主は津田信澄(織田信澄)、岳父は明智光秀 京極高次とお初の新婚時代

【近江の抑えに手間取る】
明智光秀は京都を押さえると、
すぐに織田信長・信忠父子の残党追捕を行いました。
さらに織田信長本拠の安土城への入城と
近江を抑えようとしましたが、
勢多城主の山岡景隆が瀬田橋と居城を焼いて
近江国甲賀郡に退転したため、
仮橋の設置に3日間もかかってしまいました。

瀬田城~琵琶湖の浮城~甲賀衆を祖とする山岡景隆。本能寺の変後、光秀の行く手を阻む。

阿閉貞征・阿閉貞大父子~元は浅井家の家臣~秀吉への不信感!!光秀に組して秀吉に一族もろとも滅亡させられる

柴田源左衛門勝定~明智光秀家臣~勝定と勝全は同一人物か別人か?柴田氏の出目は尾張?

【金銀を贈る】
明智光秀は、まず坂本城に入り、
同年6月4日までに近江をほぼ平定し、
同年6月5日には安土城に入って
織田信長貯蔵の金銀財宝から
名物を強奪して
自分の家臣や味方に与えるなどしたとあります。
同年6月7日には誠仁親王は、
吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、
京都の治安維持を任せています。

明智光秀はこの後、同年6月8日に安土を発ち、
同年6月9日には宮中に参内して
朝廷に銀500枚を献上しました。
また、京都五山や大徳寺にも銀各100枚を献納、
勅使の吉田兼見にも銀50枚を贈ったとされています。




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【寄騎の細川幽斎は味方せず】
けれども明智光秀寄騎で姻戚関係もある
丹後の細川幽斎と嫡子の細川忠興親子は
織田信長への弔意を示すために髻を払い、
松井康之を通じて神戸信孝に二心の無いことを示しました。
さらに明智光秀の娘で忠興の正室・珠(後の細川ガラシャ
を幽閉して明智光秀の誘いを拒絶しました。

細川ガラシャ(明智玉(珠))~父は明智光秀~聡明で気高く、愛と信仰に殉じた細川忠興の正室

【寄騎の筒井順慶も味方せず】
また、同じく大和一国を支配する寄騎の筒井順慶も
また、明智光秀に味方することなく、
羽柴秀吉に味方しました。
けれども筒井順慶に関しては
羽柴秀吉が帰還するまでは消極的ながらも
近江に兵を出して光秀に協力していました。

【予期しなかった秀吉の引き返し】
羽柴秀吉軍は、本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦。
大急ぎで中国地方から引き返してきます。

この秀吉の迅速さは明智光秀も予期しなかったそうです。
そして、本能寺の変から
11日後の同年6月13日(1582年7月2日)、
天王山の麓の山崎
(現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地域)
で新政権を整える間もなく迎え撃つことになったのでした。

【山崎の戦】
決戦時の兵力は、
羽柴軍2万7千人で内
池田恒興4000人、
中川清秀2500人、
織田信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆ら8000人。
けれども4万人との説もあります。

明智軍1万7千人(1万6千人から1万8千人の説もあります)
兵数は圧倒的に羽柴秀吉軍が勝っていました。

【予想は長引けば明智軍が有利、が??】
けれども天王山と淀川の間の狭い地域であるため、
両軍とも3千人程度しか展開できず、
合戦が長引けば、明智軍にとって
好ましい影響が予想できたとの事です。
まして羽柴軍の主力は、
備中高松城の戦いからの中国大返しで疲弊しており、
高山右近や中川清秀等、
現地で合流した諸勢の活躍に期待する他はありませんでした。

池田恒興~織田信長とは乳兄弟で育ち幼馴染、最古参の家臣となり、長久手にて戦死します。

【兵力の差で羽柴軍の勝利】
羽柴秀吉側3万5千人に対し、
明智軍は各城にも兵を残したため、
実数1万人程度だったともされていました。
当然、兵力の差で劣勢でした。

三箇城~畠山義就が築城されたと伝わる城~河内キリシタン本拠地で明智光秀に味方した三箇氏の居城

【通説での光秀の最期】
同日深夜、明智光秀は坂本城を目指して
落ち延びる途中、
落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて
深手を負ったため自害し、
股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、
その首を近くの竹薮の溝に隠したと伝えられています。
其の後、明智 光秀の首は発見した百姓により翌日、
村井清三を通じて織田信孝の元に届き、
まず本能寺でさらされました。
その後、同月17日に捕まり斬首された
斎藤利三の屍とともに
京都の粟田口(現・京都府京都市東山区・左京区)に
首と胴をつないでさらされた後、
同年6月24日に両名の首塚が
粟田口の東の路地の北に築かれたと
「兼見卿記」には記されています。

更に「太田牛一旧記」によれば、
小栗栖で落ち武者などがよく通る田の上の細道を、
明智光秀ら十数騎で移動中、
小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されたとします。
その際、最期と悟った明智光秀は自らの首を
「守護」の格式を表す
毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)に包んで
知恩院に届けてくれと言い残したということです。

明智光秀の墓所~京都府~

ですが一方で、
「小栗栖で落ち武者などがよく通る田の上の細道」は
くねくねしており大変狭く、
季節によっては見通しがきかない場所であったようです。
また、
「小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺された」
が果たして本当に普通の「百姓」であったかが疑問に残る、
という見解もあるようです。

【通説での明智秀満の最期】
安土城で留守を守っていた明智秀満は、
同年14日に山崎での敗報を受けて残兵とともに
坂本城へ戻るも、多くが逃亡していきました。
やがて坂本城が包囲され、
明智光秀が集めた財宝が失われるのを惜しみ、
目録を添えて包囲軍に渡したとあります。
そして明智光秀と自分の妻子を殺し、
城に火を放って自害したとのことでした。
(明智光秀には煕子亡き後、継室がいたのでしょうか??)

【生存説】
ですが、
明智光秀と明智秀満には生存説があります。
実際に、明智光秀が生き延びて
関ヶ原直前まで生存していたという
伝承もあります。
名前も「荒深小五郎」と改名したとあります。

明智光秀の墓と産湯の井戸~桔梗塚~もう一つの光秀生存説、生誕地伝説と土岐四郎元頼(基頼)

また明智秀満、もしくは明智秀満の子供が生き延びて、
四国に逃れたという説や
あの「南光坊天海」になったともされています。
少し前までは、
明智光秀が「南光坊天海」ともささやかれていましたが、
年代が合わず、けれども「明智」の事をよく知る人物だ、
とされていました。
そこで明智秀満とされ、
或いは2代で「南光坊天海」になったのだとも
ささやかれるようになりました。
元々は明智秀満が「南光坊天海」と
ささやかれていたみたいですね。
そして明治期に入り、明智光秀こそが天海であると
言われ始めたそうです。

源義経」伝説や
薩摩に逃れた「真田幸村」伝説を彷彿とさせます。
そして織田信長にも生存説があり、
実は羽柴秀吉が幽閉したなどの噂があったようです。

また、明智光秀が「本能寺の変」を起こした本当の理由は
一族を滅亡の危機から救うためであるという説もあります。
その説通りならば、娘婿である明智秀満は、
明智の子女らを殺めるはずがありません。
むしろ生き延びさせることでしょう。
また、羽柴秀吉は山崎の戦いの後、
明智の残党狩りを必死に行いましたが、
「明智光秀の子供を捕えて処刑した」
という記録は一切ないそうです。

このように「明智光秀」にはまだまだミステリーがたくさんあるのです。

2023年NHK大河ドラマ
「どうする家康」では
酒向芳(さこう よし)さんが演じられます。

2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では
長谷川博己(はせがわ ひろき)さんが演じられます。




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【徳川家康に仕えた明智氏】
徳川家康の家臣には、実際に明智氏がいました。
明智定政であり、天正10年よりその名前になりました。
永禄7年(1564年)に徳川家康に招聘されて
その家臣となりました。
天正10年までは、母方の菅沼藤蔵を名乗っていました。
そして、土岐家再興のため、
文禄2年(1593年)に土岐定政(ときさだまさ)となりました。

祖父の明智頼明の兄で
大伯父である明智頼典を明智光秀の祖父とされる光継と
同一人物とする説があるそうです。
また明智光秀を伯父(定明の兄)とする説もあり、
真偽の程は定かではありません。
ですが、裏を返せば、
明智光秀の系統と近しい人物であるといえます。

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