明智家臣

山崎の戦い(天王山の戦い)、天下分け目の山崎合戦で明智光秀は何故敗れた?

山崎合戦古戦場



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山崎の戦い

山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受け、
6月13日(西暦7月2日)に
摂津国と山城国の境に位置する
山崎(京都府長岡京市乙訓郡大山崎町)において、
備中高松城の攻城戦から
引き返してきた羽柴秀吉軍と、
織田信長を討った明智光秀の軍勢が激突した戦いです。

古来、天王山の戦いと
呼ばれてきた合戦の現代的表現で、
山崎合戦とも呼ばれています。

山崎合戦の古戦場は、
現在は高速道路の下となっており、
「天王山夢ほたる公園」となっています。
天王山夢ほたる公園

<場所>

【合戦までの流れ】
天正10年6月2日の本能寺の変勃発時、
織田家中の主要な武将ならびに
同盟者である徳川家康の動静は
次の通りだったそうです。

柴田勝家
越中魚津城で上杉勢と合戦中
(魚津城の戦い)

滝川一益
上野厩橋城で北条勢を牽制

丹羽長秀
大坂・堺で四国征伐待機中

<羽柴秀吉>
備中高松城近辺で毛利勢と合戦中
(中国攻め、備中高松城の戦い

<徳川家康>
堺で近習数名と見物中
(帰国途路の飯盛山(四條畷市)付近で知る)




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【羽柴秀吉の現状】
羽柴秀吉は高松城に篭る毛利軍を包囲していました。
守将・清水宗治の申し出を受諾し、
近日中に高松城は清水宗治の自刃によって
開城されるはずでした。
けれども羽柴秀吉は6月3日には
本能寺の変の報を入手したとのことです。
そのため、
ただちに毛利軍との和議を結んだとされています。
更に羽柴秀吉は4日に
堀尾吉晴蜂須賀正勝を立会人にして
清水宗治の自刃の検分を行い、
翌5日から6日にかけて撤兵すると、
6日に沼(岡山城東方)、7日に姫路城
11日には尼崎(尼崎市)に達し、
いわゆる「中国大返し」と言われる機敏さで
畿内へ急行していったのでした。

【羽柴秀吉の作戦】
その際の羽柴秀吉の懸念材料は、
京都への進路上に勢力を張る
摂津衆の動向であったとされています。
もし彼らが明智光秀方に与し
足止めを受ければ、
短期決戦に持ち込みたい
羽柴軍の思惑に狂いが生じます。
本能寺の変報を入手した摂津衆の一人である
中川清秀から書状が舞い込み、
羽柴秀吉は、織田信長と織田信忠
無事であるという虚報を出しました。
明智光秀が大坂方面を
重要視しなかったこともありましたが、
これで中川清秀・高山右近を始めとする
摂津衆の多くが羽柴秀吉軍に味方したのでした。
四国の長宗我部征伐のために
大坂に集結していた神戸信孝(織田信孝)・丹羽長秀は
徳川家康の接待のために軍を離れており、
本能寺の変の噂を伝え聞いた
雑兵の多くは逃亡しましたが、
何とか数千の兵をまとめて合流し、
最終的に羽柴秀吉軍は2万を超えたとのことでした。

【総大将は羽柴秀吉】
羽柴軍は12日に富田で軍議を開き、
羽柴秀吉は総大将に丹羽長秀、
次いで織田信孝を推しました。
しかし両者から望まれて、
名目上の総大将は織田信孝でしたが、
羽柴秀吉自身が事実上の盟主となったのでした。
そして山崎を主戦場と想定した
作戦部署を決定したのでした。

津田信澄を死に追いやる】
なお、丹羽長秀と織田信孝は軍議に先立ち、
明智光秀に内通の疑いがあった
明智光秀の娘婿である津田信澄を
自刃とも暗殺したともいわれていますが、
迅速に死に追いやったのでした。、

【明智光秀の行動】
明智光秀は
本能寺の変後の京の治安維持に当たった後、
武田元明京極高次らの軍を近江に派遣し、
京以東の地盤固めを急いでいました。
これは明智光秀の居城である坂本城
織田家の本拠地であった
安土城の周辺を押さえると共に、
当時の織田家中で最大の力を持っていた
柴田勝家への備えを
最優先したためと考えられています。
数日内に近江は瀬田城、
日野城(蒲生賢秀・賦秀父子居城)
などを残し平定されました。

【山崎の地について】
京都の山崎の地は、
天王山と淀川に挟まれ、
狭まった土地でありました。
山と川、そして沼地や湿地があり、
幅200m程の地が「大山崎」でした。
一方で交通の要所でもあり、
古くから賑わい、
大山崎として発展してきた地域でした。
明智光秀は、町衆を安心させ、また味方につけるべく、
本能寺の変の翌日には「禁制」を出して、
大山崎を保護する目的で
大山崎での略奪行為や破壊行動を禁止しています。
そのことが逆に明智光秀の
敗因の一つとなった要素であったかもしれません。




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【味方を拒んだ細川・筒井】
その傍ら、有力組下大名に加勢を呼びかけましたが、
縁戚であった細川藤孝・忠興父子は
「喪に服す」として剃髪、中立の構えを見せ、
事実上拒んだのでした。
奥丹後の領主・一色氏は、
明智光秀に味方したので、
南丹後の細川氏は軍勢を動かせない状態でした。
また、筒井順慶はこれに応じ配下を
山城に派遣していましたが、
秘密裏に羽柴秀吉側に寝返り、
9日までに居城の大和郡山城
籠城の支度を開始したのでした。

【光秀の誤算、秀吉の超高速進軍】
こうした状況下で明智光秀は
10日に羽柴秀吉接近の報を受け、
急いで淀城・勝龍寺城の修築に取り掛かり、
男山に布陣していた兵を撤収させました。
けれども、明智光秀は予想を越える
羽柴秀吉軍の進軍に態勢を十分に整えられず、
一説には2倍から3倍とされる
兵力差のまま決戦に
臨むこととなってしまったのでした。

【明智光秀本陣跡】
【恵解山古墳(明智光秀本陣跡)】
(いげのやまこふん)
2011年(平成23年)に
長岡京市埋蔵文化財センターが
発表した内容によりますと、
火繩銃の玉や、
兵が駐屯するために
古墳を平らに整形した曲輪の跡が見つかったほか、
幅4~5m、深さ約2mで、
49mにわたる堀跡が確認されています。

【所在地】
〒617-0836 京都府長岡京市勝竜寺30
※駐車場はありません。

恵解山古墳(明智光秀本陣跡)

<説明看板>
恵解山古墳(明智光秀本陣跡)説明板

実際に古墳の上に登って周囲を眺めてみると、
見晴らしが良いことがわかります。

<恵解山古墳についての説明>
恵解山古墳についての説明

<場所>

【地の利の「大山崎」を活かせなかった理由】
「大山崎」の地に明智光秀が布陣して、
羽柴軍を迎え撃てば、
いかに羽柴勢が大軍といえども、
その先頭は狭い地域での戦いとなり、
限られた兵士の数での戦いとなるので、
大軍である利を生かすことが出来ません。
兵力の差で劣る明智軍にとっては、
この大山崎の地で合戦を行うことが
勝利につながったともいえるのですが、
明智光秀は「禁制」を重んじて、
あえてこの地には布陣せずに、
円明寺川(小泉川)東側に布陣したのでした。

【合戦経過】
両軍は12日頃から
円明寺川(現・小泉川)を挟んで対陣しました。
羽柴軍は前夜に中川・高山らの摂津衆が
山崎の集落を占拠し最前線に着陣しました。
池田恒興らが右翼に、
黒田孝高、羽柴秀長
神子田正治らが天王山(標高270m)山裾の
旧西国街道に沿って布陣し、
羽柴秀吉の本陣はさらに後方の宝積寺に置かれたのでした。

一方の明智軍は御坊塚の明智光秀の本陣の前面に
斎藤利三阿閉貞征(貞秀)、
河内衆、旧幕府衆らが東西に渡って
防衛線を張るように布陣し、
迎え撃つ構えを取ったとされています。
また当時の山崎には沼地が広がっていたため
大軍が通過できるのは
天王山と沼の間の狭い空間に限られており、
明智軍がその出口に蓋をした形となっていたのでした。

<境野一号墳>
(従来伝えられてきた明智光秀の本陣跡)
境野一号墳と案内板

【両軍の動き】
局地的な戦闘はあったものの、
雨天であったと伝わる
翌13日も対峙は続いたのでした。
情勢の変化があったのは同日午後4時頃でした。
天王山の山裾を横切って
高山隊の横に陣取ろうと移動していた中川隊に
斎藤隊の右側に布陣していた
伊勢貞興隊が襲い掛かり、
それに呼応して斎藤隊も高山隊に攻撃を開始し、
戦端が開かれたのでした。
斎藤・伊勢隊の攻撃を受けた
中川・高山両隊は窮地に陥りますが、
羽柴秀吉本隊から堀秀政の手勢が
後詰に到着したことで
持ちこたえたということです。
天王山麓に布陣していた
黒田・秀長・神子田らの部隊は前方に展開し、
中川・高山両隊の側面を突くべく
天王山中腹を進撃してきた
松田政近並河易家両隊と交戦し、
攻防が続いたのでした。

<天王山>
天王山




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【戦局の大きな変化】
戦局が大きく動いたのは一刻後、
淀川(旧流域)沿いを北上した
池田恒興・元助父子と
加藤光泰率いる手勢が、
密かに円明寺川を渡河して
津田信春を奇襲したことからでした。
津田隊は三方から攻め立てられ、
雑兵が逃げ出したこともあり混乱に陥ります。
また、池田隊に続くように
丹羽隊・信孝隊も右翼から一斉に押し寄せ、
明智光秀本隊の側面を突くような形となったのでした。

【明智軍の総崩れ】
これを受けて苦戦していた
中川・高山両隊も斎藤・伊勢両隊を押し返し、
動揺が全軍に広がった明智軍は
やがて総崩れとなったのでした。
御牧兼顕隊は
「我討死の間に引き給え」
と明智光秀に使者を送った後、
勢いづく羽柴軍を前に壊滅したのでした。
明智光秀は戦線後方の勝竜寺城
退却を余儀なくされました。
主力の斎藤隊が壊走し戦線離脱、
黒田孝高らの隊と交戦していた松田政近、
殿を引き受けた伊勢貞興らが
乱戦の中で討死するなど
打撃を受けてしまいました。

<勝竜寺城>
勝竜寺城・細川忠興

一方の羽柴軍も前線部隊の消耗が激しく、
日没が迫ったこともあって
追撃は散発的なものに留まったとのことです。

双方の軍の死者はそれぞれ3000とも言われており、
羽柴軍も明智軍と同様にダメージを受けたのでした。

【両軍の参戦武将、兵力など】
【羽柴軍(約4万)】
高山右近・木村重茲:2000
中川清秀:2500
池田恒興・池田元助・加藤光泰:5000
丹羽長秀:3000(秀吉本隊に含まれる可能性あり)
織田信孝:4000(秀吉本隊に含まれる可能性あり)
秀吉本隊:20000
(羽柴秀長・黒田孝高・蜂須賀正勝・堀秀政・
中村一氏・堀尾吉晴・神子田正治・蜂屋頼隆など)
秀吉本隊中には他に直番衆として
加藤清正福島正則大谷吉継山内一豊
増田長盛仙石秀久田中吉政もいたとのことです。

【明智軍(約16000)】※「太閤記』」より
美濃衆 斎藤利三・柴田勝定:2000
近江衆 阿閉貞征・溝尾茂朝(明智茂朝):3000
山城・丹波衆 松田政近・並河易家:2000
旧足利幕臣 伊勢貞興・諏訪盛直・御牧兼顕:2000
河内衆 津田正時:2000
光秀本隊(藤田行政など):5000

小川祐忠進士貞連可児吉長
津田信春(=津田平蔵とする説あり)などが
参加していたとのことです。
明智光秀の従兄弟の明智光忠が、
二条城攻撃時の負傷のため
合戦に参加できなせんでした。

【他の諸将の動き】
【柴田勝家】
上杉対策を前田利家佐々成政らに託し
京に向かいましたが、
越前・近江国境の柳ヶ瀬峠に到達したところで
合戦の報が入り、そのまま清洲城に向かったのでした。

【滝川一益】
織田信長・信忠の死に乗じて
北条軍が上野に侵攻し、
神流川の戦いに至りました。
第一次合戦で北条勢を退けましたが、
第二次合戦で大敗し、
碓氷峠から本拠地・伊勢に7月に帰還しました。
清洲会議にも参加できず、
以後零落の一途をたどることになります。

【徳川家康】
有名な「神君伊賀越え」を経て、
岡崎城から明智光秀討伐に向かいましたが、
鳴海(一説に熱田。酒井忠次は北伊勢まで進出していた)
に到達したところで合戦の情報が入り反転しました。
以後、空白地帯となった甲斐・信濃の領土化を目指し、
同じく甲斐・信濃の領土化を目指した
北条氏と天正壬午の乱で戦うことになりました。

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