明智家臣

一色義定と一色義道・義清~かつての幕府の四職~明智光秀に味方し丹後一色氏は散りゆく

弓木城・一色氏



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一色義道

一色義道(いっしきよしみち)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将及び大名。
丹後国守護及び加佐郡建部山城主。

【経歴】
丹後国の戦国大名
第15代一色家当主の一色義幸の子として誕生しました。
なお、一色義幸は元々は一色家の本家ではありませんでした。

一色氏はかつては室町幕府の四職((ししき/ししょく))
に数えられる名家でした。
けれども戦国時代には没落していき、
丹後守護職の名分も宿敵であった
若狭武田氏に奪われてしまいます。
但し、長らく続いたかつての守護家の権威で
丹後の実効支配を続ける状態でした。

永禄元年(1558年)、
父である一色義幸の隠居により家督を継承します。
加佐郡の八田守護所及び建部山城に入り、
実弟の一色義清を吉原城に配して
丹後奥三郡を治めさせます。
同じく弟の一色昭辰(あきたつ)には
「辰」の字を与え、
同じく15代将軍である足利義昭より
偏諱を受けその奉公衆として将軍家に近侍させています。

一色義道は弟である一色昭辰を介して
毛利輝元とも親交を深めていき
戦国武将としての地位を確立しました。
また、越前一向一揆もしくは朝倉攻めの際に、
その討伐戦に参加するなどして
織田信長とも親交を深めていったとされています。
織田信長が擁立した将軍・足利義昭から
丹後一国を正式に安堵されています。




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しかしながら、元亀2年(1571年)の
比叡山焼き討ちで追われた延暦寺の僧を匿うなどして
織田信長と対立することになります。
天正6年(1578年)には
織田家の重臣である明智光秀
長岡藤孝(細川藤孝)によって
丹後国へ侵攻され攻撃が始まってしまいました。

翌年の天正7年(1579年)、
この窮地に多くの丹後国人が織田方へ寝返り、
丹後守護所の詰城である建部山城も落城してしまいます。
一色義道は但馬国の山名氏を頼ろうとして
亡命して、途中の中山城に身を寄せましたが、
中山城の城主である沼田幸兵衛が
織田方に内応したために、
行き場を失って、同行していた部下と共に
自害して果てたと伝わっています。
享年は47歳でした。
この時同行していた部下は38騎とも言われています。

なお、自害する前に、
嫡男である一色義定に家督を譲っていたそうです。
また、丹波国人の相次ぐ寝返りは、
一色義道自身にも原因があったとされています。
一色義道は領内に悪政を敷いたため、
人望に乏しく、
やがてそれが国人の相次ぐ寝返りに
繫がってしまったということです。

【四職(ししき)】

守護大名の赤松氏(あかまつし)・一色氏(いっしきし)
京極氏(きょうごくし)・山名氏(やなまし)の4氏を指します。
この4家と並んで土岐氏(美濃守護)と今川氏(駿河守護)も
しばしば侍所頭人に任じられており、
これも含んで「六職」と見なす考えもあります。
けれども、相伴衆に列する4家に比べて、
国持衆に過ぎない土岐氏及び今川氏の両家は
明らかに家格が劣ることになります。
従って「四職」とは、侍所頭人に就任する
相伴衆のことを指していた可能性があるそうです。
いずれも源氏を本姓とする家系でした。
ちなみに清和源氏が4氏、
村上源氏が1氏、宇多源氏が1氏、です。




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四職は、応永5年(1398年)に
室町幕府3代将軍足利義満により制定され、
伊勢氏、上杉氏、土岐氏を加えて「七頭」と称します。
三管領家(細川氏、斯波氏、畠山氏)と並び、
幕府の宿老として中央政治に参与しています。
また、京都の警察権を担うため、
山城守護を兼帯することが多かったそうです。
永享12年(1440年)以降、
山名宗全、京極持清、
一色教親が侍所頭人に就任しています。
応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)まで
続いた応仁の乱には、四氏のうち
西軍が山名宗全・一色義直、
東軍が京極持清・赤松政則に分かれました。

文明3年(1471年)、
赤松政則が侍所頭人に就任します。
文明17年(1485年)に
京極材宗が侍所頭人に就任しましたが、
明応2年(1493年)の明応の政変以降、
畿内の争乱や守護の在国化等のため
侍所頭人は空席となりやがて自然消滅となりました。

それ以後、四氏は四職時代のような
勢力を持つことはありませんでしたが、
一色氏を除く山名氏、京極氏、赤松氏の三氏は、
明治時代まで家を存続させて、華族となっています。

一色義定

一色義定(いっしき よしさだ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、
及び丹後国守護で弓木城主でした。
呼び名がいくつかあり、
一色満信・一色義有・一色義俊とも
称されていたようです。

【生誕】不明
【死没】
天正10年9月8日(1582年9月24日)

【経歴】
剛勇に優れ、父である一色義道と共に
織田信長配下の細川藤孝(長岡藤孝)の
奥丹後攻撃を退けたと伝わります。
天正7年(1579年)に
一色義道が自害する直前に
一色家の家督を継承しており、
弓木城で残党を率いて織田方に抗戦しました。
織田信長の意向もあって、
一色方の抗戦に手こずった細川藤孝(長岡藤孝)は、
明智光秀の助言及び発案により、
結婚によって和議を結びます。
結婚というのは、
一色義定の処へ、
細川藤孝(長岡藤孝)の娘である伊也
嫁がせる、ということでした。
以後、丹後を北を一色氏が統治し
南を長岡氏(細川氏)が統治する
分割統治となりました。
なお、細川藤孝(長岡藤孝)の
嫡男である細川忠興は、
「単なる人質だ」として
この結婚に対して異議を唱えていたとも
伝えられている説があるそうです。




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もしかしたら、
いずれにせよ、
細川藤孝と細川忠興は、
一色氏を攻撃する予定で、
その機会を待っていたのかもしれませんね。
それ故、忠興は妹の婚姻に際して
異議を唱えたのかもしれません・・・。。
あくまでも憶測ですが。

さて、分割統治となった丹後ですが、
一色義定は、北半分とされる中郡・竹野郡・熊野郡、
いわゆる奥丹後(現在の京丹後市)を領有しました。
一方、長岡氏(細川氏)は加佐郡・与謝郡を領有しました。

これ以降、一色義定は、
織田政権の丹後守護として天正9年(1581年)の
京都御馬揃えにも参加しています。
織田氏による甲斐の武田征伐にも
細川氏(長岡氏)と共に参戦しています。
隣国である但馬国の山名堯熙(氏政)とも親しく、
旧守護家同士ということで親交を深めていました。
姻戚関係にあったとも言われています。

細川家(長岡家)から嫁いできた伊也とも
仲は良好であったと伝わっているそうです。

また国許においては弓木城を居城にして、
城下町を形成し丹後北半国を統治しました。
こうして、一色義定の統治は良好なものでありました。

【明智光秀に味方する】
その状況が一変したのは、
天正10年(1582年)の山崎の戦いで、
直接の上役である明智光秀に味方したことでした。
一方、細川氏(長岡氏)は明智光秀には味方しませんでした。
明智光秀は山崎の戦いに惨敗して敗死となりました。
これがその後の一色義定の立場を致命的なものにしてしまった
要因となったのでした。

【妻の実家で討ち取られる】
戦後、天下を掌握しつつあった
羽柴秀吉は、明智光秀に味方した一色義定に対して
疑いをかけて謀反を企てたとして、
妻の実家の南丹後の細川氏(長岡氏)によって、
細川氏(長岡氏)の居城である
宮津城内で謀殺されてしまいました。
一色義定を謀殺したのは、
妻である伊也の兄である
細川忠興(長岡忠興)であるとされています。
その際、城内の家臣や城下の雑兵100人も
松井康之、米田求政率いる軍勢に
討ち取られてしまいました。
やがて弓木城も降伏となりました。




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なお、妻である伊也は降伏した際に、
一色勢の残党から救い出されていましたが、
兄である細川忠興との対面時において
細川忠興に懐剣で襲い、
忠興に一生残る傷痕を負わせています。
一色義定の位牌が上宮津にある盛林寺にあります。
なお、一色義定が謀殺された日について、
「一色軍記」では本能寺の変以前の
2月に殺害されたと記されていますが、
「丹州三家物語」においては
9月に殺害されたと記されているそうです。
また、上宮津盛林寺の「一色満信」の位牌には
9月8日と記されているとのことです。

<一色氏の供養塔・盛林寺>
一色氏の供養塔

盛林寺には、明智光秀の首塚がありますが、
お寺にある一色義定の位牌には、明智光秀の名前も
記されていることから、
首塚は、一色義定の墓ではないか?という見方もあるそうです。

<盛林寺・古墓配置図>
盛林寺・古墓配置図

<盛林寺の説明看板>
盛林寺説明看板

<盛林寺>
盛林寺・門

一色義清(越前守)】

一色義清(いっしきよしきよ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
丹後一色氏の最後の当主です。
一色義清 (左京大夫)⇒ 戦国時代初期の人物。
一色義清 (越前守)⇒ 安土桃山時代の人物。

【死没】
天正10年(1582年)
【父】
一色義幸
【兄】
一色義道
一色昭辰
【生涯】
丹後国の吉原城を領し、
当初は姓を吉原義清と称していました。
しかしながら、天正10年(1582年)に
甥で一色氏の当主であった一色義定が
細川藤孝に謀殺されたため、
弓木城において一色氏の家督を継ぎ再興しました。
けれども、細川方の追討軍により一色軍は壊滅します。
一色義清は細川軍の本陣に斬り込みをかけて、
下宮津の海辺で壮烈な最期を遂げたと伝わります。

一色義清の死により、
室町幕府における四職の一角である
丹後守護家一色氏は滅亡しました。

<一色義清の終焉の地>
一色義清終焉の地

<一色稲荷>
一色義清公終焉の地にあるお稲荷様
一色稲荷

<一色稲荷の説明>
一色稲荷の説明

【一色氏】

一色氏(いっしきし)は、日本の氏族(武士)。
清和源氏義国流で足利氏の一門です。

【発祥は三河】
足利泰氏の子である一色公深(いっしき きみふか/こうしん)は、
三河国吉良荘一色(愛知県西尾市一色町)
を本拠地とし、一色氏を名乗りました。

室町幕府が開かれた当初は、
九州探題職として筑前国でしたが、
後には侍所所司に任ぜられる四職の筆頭となり、
また若狭国・三河国・丹後国などの
守護職を世襲するようになりました。

【一色氏の始まり】
始祖である一色公深と
その子である一色頼行(いっしき よりゆき)は
御家人として鎌倉幕府に仕えていました。
一色頼行と異母弟である一色範氏(いっしき のりうじ)、
更にその子一色直氏(いっしき なおうじ / ただうじ)は
鎮西管領(後の九州探題)に任ぜられましたが、
九州においては菊池氏などの
南朝方が強かったこともあって、
足利尊氏派の一色氏は劣勢でした。

【関東の祖】
一色直氏はやがて関東の所領に下り、
鎌倉公方に仕える宮内一色氏の祖となりました。




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【初めは苦労した若狭守護】
肥前国の守護だった
一色範光(いっしき のりみつ)は、
父である一色範氏や
兄の一色直氏とともに九州から敗退しました。
しかしながら、
斯波義種が失脚した後の若狭国の守護に任じられ、
守護大名として家勢を回復していくきっかけをつかみます。
けれども、当初は難題だらけでした。
ます、守護でありながら、
所領が殆ど無い状態でした。
その理由は、南朝方だった山名時氏を帰参させるため、
山名氏に所領を与えたために、
所領が殆どなかったのでした。
更に、それまでの守護の任期が短く、
しかも短期間で何人もコロコロと変わっていたため、
国人たちは守護に従わずに
反抗的な行動を取っていたのでした。

そうした中、やがてチャンスが訪れます。
子の一色詮範(いっしき あきのり)が明徳の乱の戦功で、
今富名(若狭の荘園)を回復し、
漸く若狭支配は軌道に乗ることができたのでした。

【四職になり最盛期】
更に一色範光は、若狭支配の展開と並行して
三河国の守護にも任じられます。
さらに四職家として幕政に参与する重要な家の1つとなり、
最盛期を迎えることとなりました。
更に子供の一色詮範は、
それに加え尾張の知多・海東2郡の守護に任じられ
一色詮範の息子である
一色満範(いっしき みつのり)は、丹後国を与えられました。
加佐郡八田に守護所、
その後背にある建部山に建部山城を築いて
領国経営に務めていきます。

その後の一色氏は、
一色満範の3人の息子の家に分かれていきます。

【一色持範】
長男である一色持範(いっしき もちのり)は嫡流でしたが
三河・伊勢へと退きました。

【一色義範(義貫)】
次男である一色義範(義貫)(いっしき よしつら)は、
惣領(丹後・若狭守護)の地位を譲り受けました。

【一色持信】
三男の一色持信(いっしき もちのぶ)ははじめ、
次兄である一色義範の代官の地位に
甘んじていましたが、
後に幕臣として子どもである
一色教親(いっしき のりちか)と共に
6代将軍である足利義教に重用されました。
三河・伊勢に退いた一色持範の子の時代に、
一色氏はさらに枝分かれして、
一色式部少輔家と一色右馬頭家が興ります。




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【関東の一色氏】
関東においては、宮内一色氏の一色持家(時家)が
鎌倉公方足利持氏に信任され、
相模守護に任じられたことが判明しています。
しかしながら、この任命は幕府の許可を取ることなく、
鎌倉府が勝手に行った人事であるため、
のちに、永享の乱と呼ばれる政変の一因ともなったそうです。

【次男の一色義範(義貫)死す】
丹後・若狭守護の次男の一色義範(義貫)は、
宿老の1人として幕政に参与していましたが、
6代将軍足利義教の代になると次第に将軍の足利義教と対立し、
永享12年(1440年)、永享の乱で幕府に敗れた
鎌倉公方持氏の残党(一色持家ら)を匿った罪で
追討を受け、大和国信貴山で自害しました。

【次男の一色義貫の遺児・一色義直】
6代足利義教の近習であった三男の一色持信の子供である
一色教親が家督を継ぎ丹後守護となったものの、
一色氏は三河と若狭の守護職を
細川持常・武田信栄に奪われ、
一時勢力を縮小させてしまいます。
けれども、子のなかった一色教親の後を
次男の一色義貫の遺児である
一色義直(いっしき よしなお)が継ぐと、
丹後及び伊勢半国の守護となり、
三河渥美郡・若狭小浜も知行地として手に入れていきます。
また御相伴衆にもなり、
8代将軍足利義政の信任を受けていきました。

【応仁の乱以降】
応仁元年(1467年)に起こった応仁の乱で、
確執のあった隣国若狭の守護である武田信賢が
東軍側となったことに対抗して、
一色義直は西軍に属して京都の戦で活躍します。
けれども、8代将軍足利義政が東軍側であったので、
丹後・伊勢守護職を解かれてしまいました。
文明6年(1474年)4月、
両軍の間に和議が成立します。
それを受けて一色義直は、東軍に帰順及び隠退を示して、
一色義直の嫡男である一色義春が、
幕府に出仕して丹後守護を回復させました。
しかし、嫡男の一色義春(いっしき よしはる)は
文明16年(1484年)に19歳の若さで亡くなり、
丹後守護職は再び一色義直に与えられました。

明応2年(1493年)に丹後で起きた叛乱は鎮圧しましたが、
その後も国衆の叛乱が相次ぐようになりました。
一色義春が19歳で亡くなり、
継承した弟の一色義秀(いっしき よしひで)は、
明応7年(1498年)に国衆に攻められて自害しています。
こうして時代は戦国の世へと移っていきます。




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【戦国時代】
自害した一色義秀には男児がいませんでした。
一説によりますと、分家(知多一色家)の
一色義遠の(いっしき よしとお)の嫡男である
一色義有(いっしき よしあり)が
家督を継承したとされています。
応仁の乱以来、
敵対関係にあった管領細川氏の政略で、
丹後守護の名目が若狭武田氏に奪われてしまい、
一色家の求心力は落ち、
国人の離反を招いていたのでした。

家督を継承した一色義有は
拠点を与謝郡今熊野城に移し、
以後は本格的に丹後に本拠を構えました。
この判断の結果、領国統治が確実になり、
府中の街はたいへん栄えたということです。

<今熊野城・遠景>
向かって右は「傘松公園」。
今熊野城の下には、かつて国分寺が置かれていました。
今熊野城・遠景

一色義有の跡は
一色義清(いっしき よしきよ)が
継承したと伝わっていますが、
史料が無く続柄や経緯はよく分かっていません。
一色義清は京都の室町幕府にも出仕し、
将軍家からも認められていましたが、嗣子がなく、
やがて一色氏嫡流は絶えました。
但し、この「絶えた」説は、
一色義幸(いっしき よしゆき)が一色義有の子供でなく、
養子とする説での場合、ということです。

【一色氏の衰退と一色義幸の登場】
丹後守護の座をめぐって、
若狭武田氏との抗争が激しさを増す一方、
国内においては反乱・下克上が続発し、
一色氏の勢力は更に衰退していきました。

【一色義幸の功績】
そうした混乱の中で、一色氏一門庶家のうちから
一色義幸が宗家を継承しました。
一説によりますと、一色義幸は、
一色教親の末裔といわれているそうです。
一色義幸は、若狭武田家の勢力を若狭へ押し返し、
加佐郡の八田守護所及び建部山城を奪還して
一色氏を中興した武将でした。
守護代延永氏との仲も良好に保ち、
若狭武田家家臣である逸見氏が
丹後に亡命した際には、
これを保護し領地を与え家臣に加えています。

【一色氏の滅亡】
一色義幸の子である一色義道の時代には、
織田信長の命令を受けた
明智光秀・細川藤孝(長岡藤孝)の攻撃により
拠点を加佐郡中山城に移します。
この間も丹後の国人の離反が相次いで、
一色義道は天正7年(1579年)に
自害とも殺害ともされ、死去します。
一色義道の子である一色義定は、
織田信長にその実力を認められて
一色氏を復興させました。
けれども、本能寺の変後に、
一色義定は明智光秀の味方をしたために、
羽柴秀吉に嫌疑をかけられ、
義理の兄である細川忠興(長岡忠興)に殺されます。
其の後、一色義定の叔父である一色義清が
家督を継ぎましたが、最終的には自刃させられ、
丹後における一色氏はここに完全に滅亡しました。




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【関東の一色氏のその後】
関東には鎌倉公方の御一家とし、
て幸手一色氏がいました。
(一色直氏の孫の一色長兼・一色直兼の一族)
古河公方の終焉まで仕え、
江戸時代に入ると旗本(寄合)や
喜連川藩の家老として続きました。

【甲斐の一色氏】
戦国時代、
甲斐国守護武田氏に仕えていた
一色土屋氏は武田氏滅亡後、
土屋忠直が徳川家康に召出されて
上総久留里藩主となりました。

【一色丹羽氏】
織田氏・豊臣氏両家に仕えた
一色丹羽氏の丹羽氏次は、
江戸時代に三河伊保藩の藩祖となりました。
ちなみに、同姓で同時代に有名な丹羽長秀
その一族とは家系が異なります。
何故なら、丹羽長秀の祖は平氏とされているからです。

【建部山城】

建部山城(たけべやまじょう)は
丹後国加佐郡(現在の京都府舞鶴市下福井)に
室町時代から戦国時代に存在していた日本の城です。
室町幕府の重鎮として栄えた有力守護大名である
一色氏の根拠地である八田守護所の背後にあった詰城。
八田城、田辺城とも称されています。

【形態】
山城

【遺構】
曲輪跡・土塁が僅かに残っている

【築城】
一色範光及びその子である一色満範が築城したと
伝わりますが、別の説では、時代が少し遡り、
南北朝時代の1336年(建武3年)に
南朝に味方した豪族によって
築城されたとの伝承も残っています。

【建部山城の歴史】
観応騒動の時に足利軍によって、
北朝側の拠点になりました。
丹後国の守護として
足利氏の一門であった一色範光が入ると、
建部山の麓にある八田に丹後守護所を構えて
一色氏代々の居所と定めました。
また八田の守護館の背後にたつ建部山に
建部山城を築き、
戦時の際の城として守りを固めていきました。

一色氏当主が、室町幕府の重職に任命されて
(侍所長官・山城守護)
不在の時は、一門の者が留守を預かって、
これを重臣が補佐していました。

戦国時代に入っても一色氏代々の居城としていました。
しかしながら、1579年(天正7年)に
織田信長の命を受けた織田家重臣の
明智光秀・細川藤孝(長岡藤孝)が丹後を攻撃して、
各地で敗れていった一色勢は、
建部山城に篭城しましたが、
明智・細川(長岡)軍の猛攻や、
相次ぐ国衆の裏切りなどによって崩壊します。
丹後守護一色義道は、近くの中山城(舞鶴市)に移りましたが、
中山城主である中山幸兵衛(別名:沼田勘解由)
の裏切りにより自害して果てました。
(別の説には殺されたとも病死とも伝わっています)

其の後、一色義道の子である
一色義定が当主となりましたが、
居城は弓木城に移りました
けれども、本能寺の変後に、
一色義定は細川藤孝の居城である
宮津城に誘い出されて暗殺されました。

豊臣秀吉によって
丹後全域統治を任された細川藤孝は、
良港を抱える宮津城を本拠とする一方で、
加佐郡における拠点としては
平地部にあった八田守護所を改修して
田辺城を築城しました。
よって山城である建部山城は廃城となりました。

【現在の建部山城】
ごく一部遺構が残っているそうです。
建部山自体が標高315メートルと周囲の山よりもやや高く、
同時に「田辺富士」「丹後富士」
と呼ばれる独立峰で優美な形をした山です。
山頂から眺める舞鶴湾などの景色は絶景との評判で、
地元の方々のハイキングスポットとなっています。




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明治時代、天然の良港であった舞鶴港には、
日本海軍の基地が設置されました。
そのために、建部山には堡塁が築かれたため、
幅3m程のジグザグに繋がる道路が約2.4キロあり、
頂上は平坦に削られ、改良されました。
そして、舞鶴港防衛のために、砲台が設置されました。
昭和の時代に入り、太平洋戦争が勃発すると、
建部山の山頂には更に、
高射砲も設置されました。
現代でも、山頂には
旧陸軍舞鶴要塞の砲台跡などが残っています。
中世史だけではなく、近代史の探訪も兼ねることができます。
なお、現在では山名を「たけべさん」と訓むのが
一般的とのことです。

【交通アクセス】
JR舞鶴線「西舞鶴」駅からバス
バス停「大和工芸前」下車

【駐車場】
府道601号線建部山の東側の団地の西にあります。
しかし、夏場は草がかなり成長して生い茂り、
駐車しにくくなっています。
駐車場スペースの処に案内板は設置してあります。

【登城】
麓からは徒歩で60分~70分程かかります。
夏場は炎天下の為、あまりお勧めできません。
携帯電話の電波は繋がるので、
グーグルマップを閲覧できます。

<建部山城・全景>
建部山城・全景

<建部山城・登城口>
建部山城の登城口

<場所>
青印は「建部山砲台登り口」付近。
その近くに駐車スペースと案内板があります。

稲富祐直~百発百中の砲術家~細川ガラシャをおいて逃げたけど、やがては徳川幕府の鉄砲方に!

細川忠興~正室は明智光秀の娘・ガラシャ~文武両道のハイスペック武将で何事にも極め人。

織田信長・天下の奇祭「左義長まつり」がある日牟禮八幡宮、近江八幡の古社

並河易家~明智光秀の家臣~またの名を明智掃部、交通事情に詳しく、光秀をナビする

松田政近~明智光秀の家臣~山崎の戦いでは並河易家と共に戦う・丹波国とは?

細川藤孝(細川幽斎)~武道・文芸・芸術・コミュ能力と多才多芸な武将~巧みに世を渡り、運も引き寄せる

天橋立~九世戸~明智光秀が細川藤孝・細川忠興の招きで訪れた日本三景、同行者には愛宕百韻の里村紹巴も

明智光秀の墓所~京都府~

明智光秀について~駆け足で手短にわかる明智光秀の生涯~

山崎の戦い(天王山の戦い)、天下分け目の山崎合戦で明智光秀は何故敗れた?

小栗栖の地~明智藪~明智光秀終焉の場所と小栗栖城について

菊丸の正体とは?~滝川一益?服部半蔵?石川五右衛門?~いろいろ考えてみました。

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