城跡

平作城~衣笠城の支城、三浦義明の弟の孫である平佐古(蘆名)為重の所領でした。

平作城 城の腹堰の石碑



スポンサーリンク



【平作城】

【築城者】
平佐古為重か?

【交通アクセス】 
JR横須賀線「衣笠」駅よりバス
「しょうぶ園」バス停下車

【駐車場】
しょうぶ園の有料駐車場があります。

平作川の源流は大楠山にあり、
その大楠山の山脈沿いの30m程の丘陵に
平作城はあったと伝わっております。
場所的は、衣笠・大矢部の搦手にあたり、
西へ行けば芦名へとつながっています。
現在はしょうぶ園となっている場所です。
4月から6月頃のしょうぶのシーズン以外は
入園料は無料です。

横須賀 しょうぶ園

いまでもその辺りの地名は
横須賀市平作です。
最も正確な城の位置はよくわかっていません。
元々は「平佐古」という地名があり、
そこに三浦義明の弟である芦名為清と
孫の蘆名為重が所領をもらって、
平佐古氏」を名乗ったと言われてます。

横須賀 しょうぶ園 池
「城の腹堰」の石碑は池の向こう側にあります。

「城の腹堰」

城山の山頂と思われるところには
妙昭寺があります。

【平佐古為重】
「吾妻鏡」治承四年八月廿日条によりますと
源頼朝の挙兵に従い、
石橋山の戦いにはせ参じています。
衣笠城の合戦では平作城に戻って
守備していたとの事です。
連絡係を務めていたかもしれませんね。

系図を見ると相模蘆名氏となっています。
平佐古為重の祖父である芦名為清の子供である
芦田為景のさらに子供の為久は石田姓を名乗り、
石田為久と名乗っていたそうです。
そして「石田為重」なる人物の名があり、
蘆名為清の孫であり
石田為久とは従兄弟となっています。
この「石田為重」とは
「平佐古為重」と同一人物なのでしょうか?
相模蘆名氏はこのあと、
木曾義仲を討ち取った褒章として
近江の近江国石田村を与えられ、
一族はその地へ移住したとあります。
「平佐古為重」及び「平佐古」氏の
足跡は現段階では不明です。
共に近江の石田に移住したのか、
宝治合戦で三浦宗家と運命を共にしたのかも
不明です。
現在では「平佐古」から転じた
「平作」の地名のみが
残っています。

三浦義明と衣笠城合戦~長老は自らの命を盾に三浦一族の未来を守りました。

三浦義澄~源頼朝を支えた宿老の一人で13人の合議制のメンバーで相模守護。三浦一族の栄枯盛衰。

三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家

芦名城~戦国大名・蘆名氏の発祥の地であり、三浦一族の本拠地である衣笠城の支城でした。

佐原義連と相模・佐原城、一ノ谷の合戦「鵯越の逆落とし」一番乗りの武勇で有名、会津・蘆名氏の祖です。

怒田城・大矢部城・小矢部城~三浦一族の本拠地である衣笠城の支城です。

大田和城址~大多和氏は三浦義明の三男である大多和三郎義久が築城しました。

浦賀城~東叶神社境内、安房里見軍に備えて小田原北条氏が水軍を配置、浦賀水道から房総半島が一望できる。

ペリー上陸記念碑の建設とペリー一行が久里浜に上陸した経緯について~ペリー公園。

関連記事

  1. 小館稲荷神社(黒川西館) 黒川西館~会津若松城下町の発祥の地にあった伊達政宗が母と弟に毒殺…
  2. 熊野城跡(島根県) 熊野城~尼子十旗のひとつで月山富田城の防衛の要
  3. 金井城址(北金井城址) 三重県いなべ市 金井城(北金井城)~種付千代次秀信の居城、遺構が良好に残っていま…
  4. 腰越城(比企郡小川町腰越) 腰越城~上田直朝の重臣を務めた山田氏が城主、山城の特徴が凝縮され…
  5. 設楽城跡 設楽城跡~鎌倉時代初期に設楽氏が築城した愛知県で最も古い城跡であ…
  6. 十神山城跡 十神山城 、中海の水軍を抑える要害~尼子十砦~
  7. 采女城(三重県四日市市) 釆女城 ~伊勢平氏の流れをくむ後藤氏15代居城で300年の栄華を…
  8. 常滑城跡 常滑城~常滑水野氏の代々の居城、後に大目付の起源の惣目付に水野守…



スポンサーリンク




コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

おすすめ記事

  1. 真岡城~宇都宮氏の家臣であった芳賀氏の居城、江戸時代には陣屋がありました。 真岡城跡 城山公園

ピックアップ記事

  1. 疋田城跡
  2. 設楽城跡
  3. 長宗我部元親の像
  4. 聖眼寺(厚木市三田) 安達盛長屋敷跡
  5. 岩出城(三重県)
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
PAGE TOP