城跡

赤見城~藤姓足利氏である足利俊綱が平安時代末期に築城、戦国期は赤見氏の城で400年の歴史があります。

赤見城(栃木県佐野市)



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【赤見城】

赤見城跡は、赤見町(町屋)に所在する平城跡です。
「野州安蘇郡根古屋唐沢丑ケ城東西南北目付」
(唐沢山神社文書)によりますと、
城の規模は東西約450m、
南北約360mに及び、
さらに複数の曲輪が築かれていた様子が
記されているとのことです。
現存しているのは本丸跡のみですが、
貴重な史跡として市の文化財に
指定されています。

【縄張形態】
平城

【築城主】
足利俊綱

【築城年】
安元元年(1175年)

【廃城年】
慶長19年(1614年)

【主な城主】
足利俊綱、戸賀崎義宗、
赤見氏佐野氏

【遺構】
曲輪、土塁、堀
赤見城(栃木県佐野市)
遺構

【指定文化財】
市史跡

【城のあらまし】
【平安時代末期】
築城は平安時代末の
治承2年(1178年)に
足利俊綱によるとされています。
源平合戦において、
源頼朝と叔父の志田義広が戦った
志田義広の乱
(寿永2年(1183年))では
志田方の城として戦い
足利俊綱はその家臣に殺害され、
その子の足利忠綱もその後
飛駒で討たれ足利氏は滅びました。
が、足利俊綱の弟である
佐野成俊・戸矢子有綱がそのあとを継ぎ、
佐野氏が興隆することになりました。
なお、戸矢子有綱は
文治2年6月1日
(1186年6月19日)、
源姓足利氏の足利義兼と
赤見山(佐野市赤見町)で戦い、
負傷し、後に自害しています。
赤見城(栃木県佐野市)

【足利俊綱亡き後の赤見城】
赤見城は佐野基綱を頼って
落ち延びたと称する
源義仲の子とされる
岩崎義基の所領となって、
建仁元年(1201年)より、
その家臣である
戸賀崎義宗・荒川満氏・戸賀崎清氏・
荒川氏重・同詮長・赤見仲村・
同義重等が約200年間
居城したとのことです。




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【岩崎義基】
ちなみに岩崎義基は
木曽義仲の嫡子の義高ともいわれる
若き武将です。
源頼朝と対立し逃げてきた
木曽義高を佐野氏が匿い、
名を義基とさせたという伝承があります。
源(木曽)義高の墓 常楽寺

【室町時代】
室町時代、
赤見氏の名前がたびたび
見られるようになります。
赤見氏は佐野一族であるとのことです。

享徳の乱
享徳3年(1454年)において
古河公方関東管領上杉氏が
対立した享徳の乱では
古河公方方の城として
戦いの舞台となっています。
1471年4月、
山内上杉氏の家宰である
長尾景信を総大将とし
古河を攻撃するために出陣し、
上杉軍は八椚城、赤見城、
館林城を攻め落とし、
古河まで攻め込んで
足利成氏を古河から追い落としています。

【赤見氏が居城】
永正12年(1515年)から
赤見六郎左衛門が居城し
約30年間その勢力を保持しました。

【戦国時代】
戦国時代に入り
永禄2年(1559年)に
赤見伊賀守が佐野泰綱に背くと、
佐野泰綱により城を追われ
佐野氏の支配下に置かれますと、
佐野氏の本拠である唐沢山城と、
足利長尾氏の足利城の
中間地点にあることから
佐野領防衛の重要地点となりました。
以後は唐沢山城の支城として、
足利長尾氏に対する
備えの役割を担うことになります。
唐沢山城 四つ目堀

【隠居所】
天正18年(1590年)、
豊臣秀吉の小田原・北条氏攻めの時、
豊臣秀吉の側近となっていた
佐野天徳寺宝衍が、
北条方から唐沢山城を
奪還することに成功した後、
天正20年(1592年)に
隠居する際には赤見城を
隠居所と定めて一時期居住しています。

【城の歴史に幕を閉じる】
その後、慶長19年(1614年)の
佐野家改易とともに廃城となり、
400年以上続いた歴史は
終わりを迎えたのでした。
赤見城(栃木県佐野市)

【現況】
現在城址は本丸跡が
市立赤見城保育園の敷地となっています。
正門脇に石碑と標柱があります。
また保育園の周囲には
土塁と堀が良好な状態で残っています。
保育園は閉園となりました。
登り口には立派な
城址碑(表面に縄張り図、
裏面には解説が書かれています)があります。
ただし、春から秋ころまでは
草が伸びて土塁に上がる階段が
埋もれてわからない様子になっています。




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【交通アクセス】
(電車)
JR両毛線「佐野」駅からタクシーで約20分弱。
(車)
北関東自動車道「佐野田沼」ICから約12分程度。

【駐車場】
専用の駐車場は
見当たりませんでした。
1台程度ならば
城跡前の道路に停車できます。
赤見城(栃木県佐野市)
周辺道路

【所在地】
〒327-0104 栃木県佐野市赤見町

【足利俊綱】

足利 俊綱(あしかが としつな)は、
平安時代末期の武将。
鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする
藤姓足利氏4代当主です。
下野国足利荘を本拠としていました。

【死没】
治承4年6月15日(1180年7月9日)
または養和元年(1181年)9月
または寿永2年(1183年)9月

【別名】
太郎

【墓所】
栃木県佐野市浅沼町の安蘇沼騎明院

【官位】
従五位下

【氏族】
藤姓足利氏

【父】
足利家綱

【兄弟】
俊綱、山上高綱、
佐野成俊、戸矢子有綱

【子】
忠綱、赤堀康綱

【出自】
藤姓足利氏は下野足利荘を本拠として
「数千町」を領掌する郡内の棟梁で、
同族である小山氏と勢力を争い
「一国之両虎」と称されました。
安楽寿院領足利荘の立券は
開発領主である藤姓足利氏と、
院北面として中央に人脈を有する
源義国一族との連携によるものであり、
藤姓足利氏が現地を管理する下司、
義国流源氏は上位の預所として
利益を分配していたと見られています。

【生涯について】
散位・藤原家綱の子として誕生。
足利俊綱も当初は源氏と
協力関係にありました。
保元の乱では下野から
八田知家と並んで
源義朝配下として参戦しています。
けれども新田義重が金剛心院領新田荘の下司に
任じられて在地への関与を強めますと、
藤姓足利氏と義国流は
競合することになるのでした。
仁安年間(1166年~1169年)、
足利俊綱はある女性を凶害したことで
足利荘領主職を得替となり、
平重盛が新田義重に足利荘を賜うという
事態となりました。
足利俊綱の愁訴により
足利荘改替は何とか回避されましたが、
新田氏との対立は決定的となったのでした。
赤見城(栃木県佐野市)
足利俊綱は権益保持のため、
平重盛の家人で同じ
秀郷流藤原氏の伊藤忠清に
接近したと推測されています。
治承4年(1180年)5月の
以仁王の挙兵では、
足利俊綱の嫡子である
足利忠綱が忠清の軍に加わり
宇治川を先陣で渡河して
敵軍を討ち破る大功を立てました。
足利忠綱は勧賞として
足利俊綱のかねてからの望みであった
上野国十六郡の大介任官と
新田荘を屋敷所にすることを願い出ます。
けれども他の足利一門が
勧賞を平等に配分するよう
抗議したため撤回となりました。
藤姓足利氏は足利荘を
本拠としながらも
本来の地盤は上野であり、
一門を束ねる権威として
上野大介の地位を望んだと
見られていますが、
この勧賞撤回騒動は
藤姓足利一門の内部分裂の
きっかけとなりました。
なお、藤姓足利氏は
終始平家政権側だったするのが
一般的な解釈でがありますが、
平家に対する恩賞の不満から
一時的に源頼朝に
帰順していたとする見解も
あるとのことです。




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野木宮合戦
寿永2年(1183年)2月、
足利忠綱は志田義広の蜂起に同意して
野木宮合戦で源頼朝方と戦ったが敗北し、
上野山上郷龍奥に籠もりました。
同年9月、源頼朝は和田義茂に
足利俊綱追討を命じ、
足利義茂は三浦義連・葛西清重・
宇佐美実政と共に下野に下っています。
足利俊綱は追討軍が到着する前に
家人であった桐生六郎に裏切られて
殺害されました。
源頼朝は桐生六郎を
「譜第の主人を誅すこと、
造意の企て尤も不当なり」
として斬首しました。
足利俊綱の遺領は没収され、
足利荘は足利義兼が
一元的に管理することになりますが、
足利俊綱の子息兄弟や
郎従眷属でも帰順した者には
処罰を禁じ、妻子らの本宅や
資財も安堵しました。
藤姓足利氏の嫡流は
ここに途絶えますが、
一門の多くは御家人として存続し
鎌倉政権に組み込まれることになるのでした。

藤岡城~平将門が弟に築かせ、藤姓足利氏の始祖・足利成行が再興したとのことです。

藤原秀郷公墳墓と藤原秀郷~関東武士の憧れであり平将門の乱を平定した人物です。

唐沢山城~藤原秀郷の築城と伝わる「関東一の山城」と称される関東七名城。

不摩城(下野・秋葉城)について~戸矢子有綱が築城したと伝わる古城~藤姓足利氏と源姓足利氏。

館林城~戦国時代は北条氏が支配、江戸時代は守りの城沼に浮く「将軍の城」となりました。

古河公方館跡~古河公方の存在とは?関東における戦国時代の幕開けの存在でした。

小山城~小山氏の始祖である小山政光が平安時代に築城、下野国最大の武士団を率いていました。

八田知家~小田氏の始祖であり十三人の合議制の一人で源氏4代に仕えた人物です。

源(木曽)義高~大姫の婚約者~幼くも純粋な愛を育むが源頼朝により命を散らす

足利義兼~足利宗家2代目で足利尊氏のご先祖様さま、源頼朝の門葉で妻は北条時子で足利公方邸を構えました。

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