平安時代

藤岡城~平将門が弟に築かせ、藤姓足利氏の始祖・足利成行が再興したとのことです。

藤岡城(下野国)



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【下野・藤岡城 

藤岡城は平将門が弟の将頼に築かせた
花岡館がそのはじまりとされています。
その後、寛仁2年(1018年)に
足利成行(藤姓足利氏の始祖)が
中泉城として再興しました。
そして一族の佐貫太郎重光を
置いたとのことです。
後に足利成行の孫となる
足利俊綱の三男忠行が城主となり、
房行、房綱と代々続いたとのことです。
その後、藤姓足利氏の一族が
城主となって藤岡氏を称し
城の名称も藤岡城と呼ばれるようになり
代々続いたとのことです。

戦国時代の頃には
北条氏の城として、
宇都宮氏や佐竹氏に対する
最前線の城として機能していました。
唐沢山城佐野宗綱と争奪を
繰り返しましたが、
天正5年(1577年)、
藤岡佐渡守清房のとき、
唐沢山城主佐野宗綱との争いに
敗れて自刃しました。
藤岡氏の後は家老の茂呂弾正久重が
城主となりました。
天正18年(1590年)の
豊臣秀吉による「小田原征伐」で、
豊臣方についた佐野氏によって攻められ
落城しました。現在城址に
遺構は残っていませんが、
本丸跡に祀られたという三所神社に
案内板が設置されているとのことです。
ただし今回は未確認でした。
藤岡城(下野国)

【所在地】
〒323-1104 栃木県栃木市藤岡町藤岡

【交通アクセス】
(電車)
東武日光線「藤岡」駅から徒歩約5分
(車)
東北自動車道「佐野藤岡」ICから約20分弱
東北自動車道「館林」ICから約20分

【足利氏(藤原氏)】

足利氏(あしかがし)は、
平安時代の関東北部の豪族。
下野国足利荘(現栃木県足利市)を
本拠としていました。
藤原秀郷の後裔で、
源姓足利氏との弁別のため
藤姓足利氏とも呼ばれています。
「数千町」を領掌する郡内の棟梁で、
同族である小山氏と勢力を争い
「一国之両虎」と称されましたが
(「吾妻鏡」養和元年閏2月23日条、9月7日条)、
源頼朝に滅ぼされました。

【出自について】
藤原秀郷の子孫は代々
坂東各地の国司や
鎮守府将軍を歴任していました。




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【足利成行】
淵名兼行の代に上野国に土着し、
その子である成行は
下野国足利郡を本拠として
足利と名乗ったとのことです。
ただし、兼行・成行は
系図以外の史料では
確認はできないとのことです。

足利成綱足利家綱
確実な史料に現れるのは
足利成行の子供とされる
足利成綱、さらにその子とされる
足利家綱からとのことです。
京で行われる相撲節に
相撲人としてたびたび
参加していました。
天永2年(1111年)の相撲節で
足利成綱は「奈波四郎」と呼ばれており
(「長秋記」8月21日条)、
上野国衙の近隣である那波郡
(現在の群馬県伊勢崎市)を
拠点としていました。
藤姓足利氏の分流である
大胡・那波・佐位・佐貫・薗田は
上野東部の地名であり、
天仁元年(1108年)の
浅間山噴火で荒廃した
上野国東部の再開発を担って
勢力を扶植したと推測されています。

【足利家綱】
足利成綱の子の足利家綱も
上野国との関係が深く、
永久2年(1114年)8月、
国衙領の雑物を押し取ったとして、
上野国司が足利家綱を
検非違使庁に告発しています。
(「中右記」8月16日条)。

【河内源氏との主従関係】
足利家綱の在地における勢威が
国司にも対処できない程
であったことがうかがえますが、
この時に郎党の監督責任を巡って
源為義と源義国(源姓足利氏・新田氏の祖)が
争論しているので、足利家綱は
河内源氏と主従関係を結んでいたと
見られています。

【足利家綱と源義国の争い】
康治元年(1142年)、
開発領主である足利家綱と
院北面として中央に人脈を有する
源義国の連携により、
安楽寿院領足利荘が立券。
足利家綱が現地を管理する下司、
源義国が上位の預所として
利益を分配したと見られていますが、
両者の協力関係は翌年には
早くも綻びを見せ始めたのでした。
足利荘の南にある簗田御厨は
足利家綱が荒木田利光を口入人として
成立させた伊勢神宮内宮領でしたが、
康治2年(1143年)に源義国が介入して、
内宮の口入人を荒木田元定、
外宮の口入人を度会彦忠とする
二宮領として再寄進したのでした。
これを不服とした足利家綱は
源義国と争論しますが、
鳥羽院の裁定により
源義国が勝訴して「本領主」と認められ、
足利家綱は簗田御厨の権益を
奪われてしまったんでした。
もっとも両者の関係が
すぐに破綻した訳ではないとのことです。
保元の乱では足利家綱の子・俊綱が
下野国から八田知家と並んで
源義朝配下として参戦しています。

【源義国流との競合】
しかし、新田義重が
保元2年(1157年)、
金剛心院領新田荘の下司に
任じられて在地への関与を強めますと、
藤姓足利氏と義国流は
競合することになるのでした。
新田荘の開発には
藤姓足利氏も関わっていたと
推測されるのですが、
新田義重の下司補任により
荘内から排除されます。
新田庄遺跡

【足利荘の危機と対立】
源義国流による圧迫はついに
足利荘にも及び、
仁安年間(1166年 ~1169年)、
足利俊綱はある女性を
凶害したことで足利荘領主職を得替となり、
平重盛が新田義重に
足利荘を賜うという事態と
なってしまいます。
足利俊綱の愁訴により
足利荘改替は何とか回避されましたが、
新田氏との対立は決定的となったのでした。




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【一門内部分裂の萌芽】
治承4年(1180年)5月の
以仁王の挙兵では、足利俊綱の
嫡子である忠綱が
平家軍に加わり宇治川
先陣で渡河して敵軍を討ち破る
大功を立てました。
足利忠綱は勧賞として
足利俊綱のかねてからの望みであった
上野十六郡の大介任官と
新田荘を屋敷所にすることを
平清盛に願い出ました。
しかし他の足利一門が
勧賞を平等に配分するよう
抗議したため撤回となったのでした。
この勧賞撤回騒動は
藤姓足利一門の
内部分裂の萌芽とみられています。
やがて、競合する
源姓足利義兼・新田義重との角逐や
一門の分裂などで
藤姓足利氏を取り巻く情勢は
厳しいものとなり、
内乱の過程で源頼朝に滅ぼされました。
大胡・佐野・阿曾沼のなどの一門は
源頼朝に帰順し、鎌倉御家人として発展したのでした。

平将門~困っている人を放っておけない面倒見の良い大将は東国に新国家を創ろうとした。

藤原秀郷公墳墓と藤原秀郷~関東武士の憧れであり平将門の乱を平定した人物です。

唐沢山城~藤原秀郷の築城と伝わる「関東一の山城」と称される関東七名城。

不摩城(下野・秋葉城)について~戸矢子有綱が築城したと伝わる古城~藤姓足利氏と源姓足利氏。

赤見城~藤姓足利氏である足利俊綱が平安時代末期に築城、戦国期は赤見氏の城で400年の歴史があります。

小山城~小山氏の始祖である小山政光が平安時代に築城、下野国最大の武士団を率いていました。

足利義兼~足利宗家2代目で足利尊氏のご先祖様さま、源頼朝の門葉で妻は北条時子で足利公方邸を構えました。

北条時子~足利義兼の正室で北条政子の同母妹、身の潔白の為に自害。お腹が膨れた原因は寄生虫の可能性あり。

大胡城跡~上杉氏と小田原北条氏の攻防、そして徳川家康の天下の狭間で紡ぐ歴史

館林城~戦国時代は北条氏が支配、江戸時代は守りの城沼に浮く「将軍の城」となりました。

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