城跡

相模沼田城~波多野氏の一族の沼田氏が築城し、後に大森氏の所領となる。

相模・沼田城跡入り口




【相模沼田城(さがみぬまた)】
箱根外輪山東麓に位置する独立した丘陵に築かれた城です。
昭和48年に地元の旧家より城の古地図が発見されました。
城山と称される丘陵からは本郭の中堀や南や北の大堀、
見張り台跡など発見され、城郭全体が判明しました。
山麓には「水の手」と呼ばれる湧水が南北に各一ヶ所、
東側にも二ヶ所あり、
その一つが現在でも水をたたえている
八乙女神社の池、とのことです。
お城はかつて湿田に囲まれていたとの事です。
その面影として「森と水の公園」とのことです。

この城は平安時代に波多野氏の一族で、
のちに土着した沼田氏によって築かれたとのことです。

沼田氏は応永23~24年(1416~1417年)にかけて
起こった「上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)」で
南関東の領主とともに、
関東管領である上杉氏憲(禅秀)に味方したために、
所領を取り上げられて没落しました。
その後、
足利持氏の重臣であった大森氏の所領となりました。
なお大森氏は駿河大森氏で静岡県御殿場辺りが本拠地でした。

その大森氏も
明応3年~明応4年(1494年~1495年)、
北条早雲(伊勢 宗瑞)によって、
敗れて小田原城から追われました。
そのため、近世の枡形を思わせる
形の虎口などの遺構もあり、
小田原北条氏の利用の形跡もうかがえます。

【所在地】
〒250-0115  神奈川県南足柄市沼田

【交通アクセス】
【電車】
伊豆箱根鉄道大雄山線「相模沼田」駅から徒歩10分





【車】
東名高速大井松田ICから20分

※駐車場はありません。

【上杉禅秀の乱】

上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)とは、
室町時代の応永23年(1416年)に
関東地方で起こった戦乱です。
前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が
鎌倉公方の足利持氏に対して
起した反乱です。
なお、禅秀とは上杉氏憲の法名です。

鎌倉府とは?】
鎌倉府は南北朝時代に室町幕府が
関東統治のために設置した機関です。
鎌倉公方は関東管領によって補佐され、
管領職は上杉氏による世襲状態でした。

【乱を起こすまでの経緯】
応永16年(1409年)、
3代鎌倉公方足利満兼が死去すると
足利満兼の子の足利持氏が新公方となりました。
当初、山内上杉家の上杉憲定が
関東管領の地位にありましたが、
応永18年(1411年)に上杉憲定が失脚。
代わりに山内上杉家と対立関係にあった
犬懸上杉家の上杉氏憲が関東管領に就任しました。
上杉氏憲は持氏の叔父にあたる
足利満隆、満隆の養子で
足利持氏の弟である足利持仲らと接近し、
若い足利持氏に代わって
鎌倉府の実権を掌握しようとしたのでした。

【反乱、勃発する】
ところが、応永22年(1415年)4月25日の評定で
上杉氏憲と足利持氏が対立。
5月2日に上杉氏憲は関東管領を更迭され、
18日には後任の管領として
山内上杉家の上杉憲基(憲定の子)が管領職に就任。
上杉氏憲は足利満隆・持仲らと相談し、
上杉氏憲の婿にあたる
岩松満純、那須資之、千葉兼胤、長尾氏春、
大掾満幹、山入与義、小田持家、三浦高明、
武田信満、結城満朝、蘆名盛政や
地方の国人衆なども加えて
翌年の応永23年(1416年)に
足利持氏への反乱を起こしたのでした。

【乱の収束】
幕府の命を受けた
今川範政・上杉房方・小笠原政康・
佐竹氏・宇都宮氏の兵が
足利満隆・上杉氏憲討伐に向かいました。
このため、上杉氏憲らは駿河を攻めましたが、
今川氏に敗れ、更に上杉氏らに押された
江戸氏・豊島氏ら武蔵の武士団が呼応して
武蔵から上杉氏憲勢力を排除したのでした。
翌年の応永24年(1417年)元日、
世谷原の戦いで上杉氏憲軍が
江戸・豊島連合軍を破り、
押し返しましたが、
その間隙を突いて今川軍が相模に侵攻。
1月10日に上杉氏憲や足利満隆、足利持仲らが
鎌倉雪ノ下で自害した事で収束したのでした。
また、乱で敗北した事により
犬懸上杉家は滅亡となりました。
最も、上杉氏憲の子の何人かは
出家することにより存命し、
幕府の庇護を受けています。
また、武田信満は追討軍によって
自領・甲斐まで追い詰められて自害。
岩松満純は捕らえられて斬首されました。

【乱のその後の波紋】
室町幕府では乱に際して、
室町幕府の4代将軍の足利義持は
足利持氏を支援しましたが、
一方では足利義持の弟である
足利義嗣が出奔する事件が起こり、
足利義嗣は捕縛されて幽閉。
しかし、幕府内で上杉氏憲と内通していたと
疑惑を持たれる人物の名前があがりました。

室町幕府のこの反乱に対する立場は、
足利義嗣や南朝との連携を危惧して
上杉氏憲討伐に乗り出したのであり、
本心から鎌倉公方である
足利持氏を支持していた訳ではありませんでした。

足利持氏も幕府中央の混乱に乗じて、
幕府府中央の権威を否定する動きを
以前から見せていました。





室町幕府から追討を受けている筈の
上杉氏憲の遺児が実は、
幕府に保護されていたという事実は、
足利持氏が幕府に対して
反抗する事態を考慮したからでした。
鎌倉府と敵対的でありながら
室町幕府の意向を受けて
上杉禅秀討伐に加わった
下野国の宇都宮持綱が乱後に、
上総国の守護に任じられたり、
足利氏ゆかりの足利荘が
鎌倉府から室町幕府の直接管理に
移されたりしたのも、
足利持氏に対する牽制の可能性がありました。

上杉氏憲の死の翌年には、
その旧領であった上総において
上総本一揆と呼ばれる旧臣である
国人達を中心とした一揆が発生しています。
更に上杉禅秀方についた大名らは
足利持氏からの報復を危惧して
鎌倉への出仕を取りやめる者が相次ぎました。

足利持氏も、
岩松氏や佐竹氏(山入氏系)などの
上杉氏憲の残党狩りや
京都扶持衆の大名など関東における
反対勢力の粛清などを行うと同時に
自立的行動を取りはじめます。
その一方で、
奥州南部の統治のために派遣されていた
叔父の篠川公方足利満直は
犬懸上杉家との関係が深く、
乱後の足利持氏との関係の悪化とともに
鎌倉府からの自立を図るようになります。
やがて、守護任命などを巡り、
幕府は鎌倉公方を警戒し、
鎌倉公方と関東管領との意見対立も続き、
永享10年(1438年)の永享の乱、
永享12年(1440年)の結城合戦などに
引き継がれていくのでした。

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