城跡

生土城跡~大森氏が築城した支城~鎌倉公方・足利持氏が滞在したと伝わる中世の城。

生土城跡



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【生土城跡】

生土城(いきどじょう)跡とよみます。

築城時期は室町時代前期とされており、
築城主は駿河大森氏と伝わっています。
応永23~24年
(1416年~1417年)にかけて起きた
上杉禅秀の乱では、
鎌倉公方足利持氏が、
大森氏を頼ってこの城に滞在したそうです。
廃城の時期は定かではありません。
大森氏の後にこの一帯を支配した小田原北条氏の
時代に再利用したと見られる遺構は現在の処はないそうです。

【遺構】
堀・井戸・土橋・土塁・郭

【地形と成り立ち】
南は鮎沢川、東は頓沢、西は野澤川に囲まれた
小字城山(標高380m)と称される
山頂部にあります。
その山頂の平たん部を利用して、
長さ500m、幅25~50mの処に
三カ所の郭が構成されていました。
主郭:長さ175m、最大幅50m程。
西に向かって三段の平場があるそうです。
両端には幅6~8mの空堀が見られるとの事です。

井戸跡:北西側の後郭。
三段の平場の最下段部の付け根にあるそうです。

登城口:
西麓にある雲霧神社に案内標識があり、
それに沿って登城するとのことです。

【現在】
生土城跡から金時公園までの
ハイキングコースとなっている模様です。

【所在地】
〒410-1303 静岡県駿東郡小山町生土709

【交通アクセス】
JR東海・御殿場線「駿河小山」駅から徒歩30分程度。

【大森氏】

【駿河大森氏】
大森氏(おおもりし)は
駿河郡藍沢原の古い土豪です。
駿河郡藍沢原とは、
現在の駿東郡小山町、御殿場市、
裾野市、長泉町、沼津市、
三島市を含んだ地域です。

大森氏の庶流として、
大沼・河合・菅沼・
神山・沓間などが知られています。
室町時代になると
箱根別当職を一族から輩出しています。

【出自】
出自を藤原北家伊周流とする説は、
伊周の子である藤原忠頼、孫藤原惟康が、
正一位摂政関白藤原道隆の孫・ひ孫、
正二位伊周の子・孫でありながら、
両者とも詳細が不明な人物です。
なお、出身地は駿河大森とされています。
実際には、駿河大森に古くから住む土豪であり、
勢力を得ると共に藤原氏の子孫を称したとも
されています。




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【大森氏の台頭】
大森氏が台頭するのは
室町時代初期の大森頼春の代からでした。
鎌倉公方に仕え、
上杉禅秀の乱の鎮圧に功績を挙げ、
上杉禅秀方であった土肥氏を滅ぼしました。
そして駿河国に根拠を置いていた大森氏が
土肥氏の勢力圏であった
相模国・伊豆国方面を奪い、
勢力を広げていきました。

【大森氏の小田原進出】
永享の乱では足利持氏方に属して
幕府軍と戦い敗れましたが、
国人領主として勢力を保ちました。
けれども、享徳の乱以降の混乱期において、
大森頼春の子である大森憲頼とその子成頼と
同じく大森頼春の子である大森氏頼・実頼父子の
二系統に分かれ対立となりました。
そして太田道真・道灌の支援を受けた
大森氏頼系が勝利し、
大森憲頼系は箱根山中に逃亡となりました。
其の後大森氏頼系は扇谷上杉家に属し重臣となって、
小田原城を拠点として勢力を広げ繁栄しました。

【小田原城を伊勢盛時に奪われる】
明応4年(1495年)、
伊豆国を支配していた
伊勢平氏流伊勢盛時(伊勢宗瑞・北条早雲)が
大森藤頼(大盛実頼の兄弟)から奪い、
旧構を大幅に拡張しました。
最も、年代については明応4年(1495年)
以後に大森氏が依然として
城主であったことを示すとされる
古文書も存在しており、
実際に伊勢盛時が小田原城に奪ったのは
もう少し後、遅くても文亀元年(1501年)
と考えられています。

【大森藤頼の最期】
また、大森藤頼は勢盛時に
小田原城を奪われた後に
縁戚の三浦義同の支援を受けて
大住郡実田城(真田城、現在の神奈川県平塚市)
に逃れて戦いましたが、
明応7年(1498年)に敗れて
自害した言われています。
しかしながら、
真田城で自害した大森某は大森藤頼であり、
その後も大森藤頼が生きていた
という説があります。
大森氏の菩提寺であった
静岡県小山町の乗光寺の記録では
文亀3年(1503年)没とあり、
こちらもはっきりとは分かってはおりません。

【大森氏一族のその後】
北条家所領役帳には、
北条氏康が作らせた、
一族・家臣の諸役賦課の基準となる役高を記した分限帳。
原題は不明で、「北条家分限帳」、
「小田原北条所領役帳」などとも呼ばれています。全1巻)

「大森殿」と殿付きで呼ばれている人物があり、
大森氏の一族が客分扱いで
小田原北条氏に従属していたと
考えられています。
またこの「大森殿」以外にも
永禄10年11月に北条氏邦から
印判状を与えられた「大森越前守」、
駿河日枝社神主「大森猿千代」、
天正13年に徳川家康の援軍として
北条氏房から派遣された「大森兵衛太夫」、
「小田原合戦」で小田原城に籠城した
「大森甲斐守」が存在しています。
江戸時代に入っても徳川氏に仕え、
江戸幕府の寄合旗本として
存続した者の他、
水戸、備中など各地で
大森氏子孫を名乗る家が存在しました。

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