城跡

新井城址・相模三浦氏とは?伊勢盛時から3年間持ちこたえた断崖の要害

新井城址碑




【新井城址】

新井城(あらいじょう)は、
神奈川県三浦市三崎町小網代(こあじろ)に
所在する日本の城跡です。
別名は荒井城・小網代城・三崎城とも称されます。
相模三浦氏の本拠地とされています。

【別名】
荒井城、小網代城、三崎城

【城郭構造】
平山城

【築城主】
三浦氏

【築城年】
不明

【主な城主】
三浦義同・三浦義意

【廃城年】
天正18年(1590年)頃とされる

【遺構】
土塁、曲輪、堀切

【新井城跡の範囲】
城跡は、三浦半島の西岸、小網代湾と
油壺湾の間に突出する
標高26メートルの岬状の高台に位置しています。
現在は東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所の
敷地となっている付近が本曲輪とされています。
なお、三浦市の遺跡地図では、
油壺の岬部分から三崎町小網代地区の内陸部まで、
極めて広大な範囲を「新井城跡」としているとのことです。

<小網代湾>
三浦半島 小網代湾

<胴網海岸 海水浴場>
胴網海岸 海水浴場

<胴網海岸~がけ下を歩く>
三浦半島の海と太陽です。
胴網海岸~崖沿い

<新井城址の崖の下>
天然の要害です。
新井城址の崖の下

<新井城址の崖下の海辺>
磯遊びができそうですね。
新井城址の崖下の海辺

<新井浜海水浴場>
残念ながら、撮影場所から新井浜へは
通行禁止の為、行けません。
少し深くなっているので、
戦国時代、緊急用の船の発着場としては
用途があったかもしれません。
新井浜 海水浴場

新井城の南東2キロメートルの三浦市役所付近には、
同じく三浦氏の居城と言われ、
後に小田原北条氏の城となった三崎城があります。
これまでは、小田原北条氏関連の史料などから
新井城と三崎城は別の城と考えられてきました。
けれども近年では、相模三浦氏時代には
「三崎城」として単一の城を構成しており、
小田原北条氏が同城南部の海側部分を改築した時に、
旧城である新井城と、
新城である三崎城に分けられたと
考えられているということです。
なお、同市遺跡地図上では
新井城と三崎城は別個の遺跡となっています。

<新井城址 入り口(陸)>
新井城址入り口(陸)

<新井城址 説明板>
新井城址 説明板

【新井城の戦い】
戦国時代初期の明応3年(1494年)に
三浦時高と三浦高教の親子から
新井城を奪った三浦義同(道寸)・義意でしたが、
永正9~13年(1512年⇒1516年)、
小田原の伊勢盛時(北条早雲)に城を囲まれました。
3年にわたる篭城戦を繰り広げましたが、
ついに陥落して相模三浦氏は滅亡したのでした。
この時三浦一族の血で、
海が油の壺のように真っ黒に染まったことから、
今の地名油壺の呼び名がついた、とされています。

その後、豊臣秀吉小田原征伐後に廃城となりました。





【遺構】
東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所の
敷地周辺に堀切や土塁と見られる遺構が残っています。
同実験所の新研究棟建設地で、
城の主郭と目されていた範囲が1992年(平成4年)に
発掘調査されました。
発掘の結果、大型の掘立柱建物跡や
多数のピット、空堀、土坑が見つかり、
16世紀代の陶磁器類が出土しました。
特に長辺2メートル×短辺1メートル×
深さ5.9メートルにもなるSK08土坑内からは、
底の方から大量の人骨が出土し、
明応3年(1494年)または
永正9年⇒永正13年(1512年⇒1516年)の
戦闘での死者を遺棄した遺構ではないかと
報告されました。

<遺構>
新井城址 遺構

【所在地】
所在地: 〒238-0225 神奈川県三浦市三崎町1024

【交通アクセス】
京浜急行・三崎口駅より京急バス・油壺バス停下車

【駐車場】
◆油壷マリンパーク(有料駐車場)<夏季は値上がります>
◆市営駐車場(有料駐車場)※トイレ有り。
<夏季は午前8時には満車になるそうです>
所在地: 〒238-0225 神奈川県三浦市三崎町1228

<新井城址周辺>
新井城址 周辺の地図

【相模三浦氏】

相模三浦氏(さがみみうらし)は、
中世に活躍した武家の一族です。
三浦氏宗家滅亡後に
相模国三浦郡に拠って勢力を伸ばしました。
鎌倉時代の宝治元年(1247年)に
勃発した宝治合戦で、
執権北条氏に御家人三浦氏一族は滅ぼされました。
その後、三浦氏傍流である
佐原氏出身の三浦盛時により
家が再興され、
執権北条氏の御内人として活動しました。

時は鎌倉時代末期の元弘年間、
足利尊氏鎌倉幕府に対し兵を挙げる(元弘の乱)と、
時の三浦氏当主三浦時継は
子である三浦高継と共に足利方について戦います。
鎌倉幕府が滅び、建武政権が成立した後は
三浦時継は相模国・武蔵国などの地頭となりました。
しかしながらその後、三浦時継は
中先代の乱(建武2年(1335年))において
北条方について処刑されました。
子である三浦高継は足利尊氏の下に残り、
中先代の乱鎮圧後も足利尊氏に付き従って、
箱根・竹ノ下の戦いや
多々良浜の戦い(建武3年(1336年))で
戦功を上げました。





南北朝の分裂以降は
関東においても地域を二分する争いが頻発し、
混沌とした時代となったのでした。

その中で三浦高継と三浦高通父子は、
南朝方の北畠顕家の軍勢によって
鎌倉を追われた足利尊氏の子である
足利義詮を保護するなど
(延元3年(1338年))
基本的に北朝方について活動し、
一連の戦功によって相模国守護に任じられます。
しかしながら、三浦高通は観応の擾乱
(観応2年(1351年))において足利直義方に属します。

【武蔵野合戦】
更に足利直義が滅ぼされた後も
新田氏らと結んで鎌倉府を脅かしました。

【相模守護職のはく奪と追放】
そのため、翌年鎌倉を奪回した足利尊氏は
三浦高通から相模守護職を剥奪したうえで追放しました。
これによって三浦氏は一旦は没落しました。

【再び相模守護へ】
足利尊氏没後の貞治3年(1363年)に
鎌倉公方の足利基氏によって
足利直義方の重鎮であった
上杉憲顕が赦免されると、
三浦高通も赦されて再び
相模国の守護に任じられました。
三浦高通の後は子の三浦高連が継ぎ、
天授3年(1377年)から
応永9年(1402年)までの
25年間にわたり相模守護を務めました。

【上杉禅秀の乱】
しかし室町時代中期
三浦高連の子にあたる三浦高明の代に
上杉禅秀の乱(応永23年(1416年))に
加担した事を理由に
鎌倉公方足利持氏により
相模守護職を奪われてしまいます。
三浦氏一族はこれを深く恨みます。

【永享の乱】
永享10年(1438年)に永享の乱が勃発。
三浦高明の子である三浦時高(義高)は
足利持氏を裏切って鎌倉府を攻め滅ぼし、
新しく守護となった扇谷上杉氏の勢力下に入りました。

その後の享徳の乱に始まる関東の争乱では、
三浦時高は扇谷上杉家の重臣として活躍し、
三浦郡・鎌倉郡などを支配して
相模国内に大きく勢力を拡げたのでした。

【三浦氏の滅亡】
三浦時高は長らく嗣子に恵まれませんでした。
そこで主君である扇谷上杉持朝の
次男である高救を養子としていました。
けれども後年、実子の三浦高教が誕生します。
そして高救やその子である
三浦義同(みうらよしおき、三浦道寸)と対立。
やがて両者を追放したのでした。
明応3年(1494年)9月23日、
三浦時高・高教父子は大森氏の支援を受けた
高救・義同に居城新井城を攻められて滅亡し、
三浦義同(三浦道寸)が三浦氏の家督を奪ったのでした。
ただし異説として、三浦時高が高教に
家督を継がせて病死した後、
高教が若年の当主であったことに
追放されていた義同らが付け込み、
三浦氏の家督を奪った、との説があります。

【扇谷上杉三浦氏】
晴れて三浦氏の当主となった三浦義同(三浦道寸)は
関係が悪化していた扇谷上杉朝良と和睦し、
伊豆から日の出の勢いにあった
伊勢盛時(後の北条早雲)と対抗します。

【伊勢盛時との対峙】
扇谷上杉家の重臣である大森氏が、
伊勢盛時によって小田原城から追放されると
三浦義同は大森氏を保護して伊勢宗瑞と戦います。
しかし、伊勢盛時の提案によって
伊勢-扇谷上杉の間に和解が成立すると、
三浦義同も一旦は伊勢盛時と和睦します。
けれども立河原の戦い(永正元年(1504年))以降、
伊勢盛時と扇谷上杉朝良は再び対立を起こし、
扇谷上杉朝良の傘下にあった
三浦義同も必然的に伊勢盛時と争うようになったのでした。





【扇谷上杉相模三浦氏の滅亡】
永正10年(1513年)、
伊勢盛時は遂に三浦氏を討つべく
大軍を以って攻勢を仕掛けました。
これに対して三浦軍は防戦しましたが、
住吉城・岡崎城が相次いで陥落するなど奮わず、
さらには頼みの綱であった(?)
扇谷上杉家の援軍も悉く伊勢軍に遮られ(いつも)
徐々に新井城に追い詰められていったのでした。
そして永正13年(1516年)、
三年間の長期にわたる籠城戦の末に三浦義同は自刃。
子の三浦義意は戦死しました。
これによって(扇谷上杉流)相模三浦氏は滅亡し、
相模は伊勢盛時により平定されたのでした。

<三浦義同(三浦道寸)公の供養墓>
三浦義同(三浦道寸)公の供養墓

<三浦義同(三浦道寸)公の説明>
三浦義同(三浦道寸)公の説明

<三浦義意(みうらよしおき)公の供養墓>
三浦義同(三浦道寸)公の嫡男です。
一説では身長が227mもあったとか。
<三浦義意(みうらよしおき)公の供養墓>

<三浦義同・三浦義意親子の供養墓の行き方>
油壷マリンパークの奥、
小網代湾方面にあります。
やや右手を行くと三浦義意公の供養墓と「新井城碑」があり、
左手の坂の下、胴網海岸方面に下ると
三浦義同公のお墓があります。
明るいうちに行くことをお勧めします。

【三浦氏庶流の可能性】
なお、安房里見氏重臣・正木通綱を
三浦時高あるいは三浦義同の遺児とする説があります。
けれども近年では
別の三浦氏庶流の出身であるとも言われています。 

【江戸時代の三浦氏】
また、江戸時代に3代にかけて
江戸幕府に仕えた三浦氏があります。
相模三浦氏との関係は不詳ですが、
三浦義周(娘は安祥院)、義如、義和と続いたとのことです。

大田和城址~大多和氏は三浦一族

和田城址~和田義盛の居城跡~三浦半島にある平城

和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる

竹之下合戦古戦場~足利尊氏が新田義貞に大勝した地~時代は南北朝へ!

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