城跡

蜷川館跡~蜷川氏の発祥の地~蜷川氏とはアニメ「一休さん・蜷川新右エ門」のモデル、明智光秀の家臣など。

蜷川氏館跡(最勝寺)



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蜷川氏の館跡】

蜷川館跡は、現在の最勝寺境内となっている
一帯に築かれていたとのことです。 
方形単郭の居館様式の縄張りで、
寺の境内の周囲には土塁が残存しており、
特に南~西面にかけて残っているそうです。
蜷川館の築城年代や築城者は
定かはありませんが、
室町時代には蜷川氏は居城し、
越中守護畠山氏に従っていました。 
戦国時代の永正2年(1505年)、
蜷川治部少輔は月岡野で
戦死したと伝えられています。
永正3年(1506年)、
守山城主の神保氏に攻められ
蜷川城は落城したと伝えられています。

最勝寺は蜷川五郎親綱が、
父である蜷川親直の菩提を弔う為に
黒崎の地に建立したのがはじまりと云われ、
蜷川氏代々の菩提寺でした。

蜷川館は南北二郭であったそうです。
南郭が現在の最勝寺境内、
北郭は富山県健康増進センターになっています。

【地】
平地、標高24m

【遺構】
曲輪、土塁、堀

【規模】
250m×110m

【所在地】
〒939-8222 富山県富山市蜷川377

【駐車場】
なし

【屋敷跡の近くで出土品】
2019年のニュースです。
富山市埋蔵文化財センターが
発掘調査する同市黒崎の
黒崎種田遺跡で、
鎌倉後期~室町期とみられる遺構から、
井戸の跡13基と、
金付き土器や漆器など
約千点が発見されたとのことです。
調査地南側には、
室町期の足利将軍に仕えた
有力武士である蜷川氏の発祥地である
蜷川館跡が隣接しており、この
黒崎種田遺跡は北側に位置しています。
井戸の整備技術と経済力を
兼ね備えていることから、
蜷川氏一族か家臣の居住地とみて
調査を進めるとのことです。
これまで蜷川館跡では、
発掘調査は行われておらず、
蜷川氏関連の発掘調査は
黒崎種田遺跡が県内初となるそうです。

最勝寺(蜷川氏館跡)

黒崎種田遺跡の発掘調査は、
2019年7月22日に始まり、
785平方メートルの敷地から
13基の井戸跡が発見されたそうです。
直径は約1.13m~2.2m、
深さ56cm~1.1mとのことです。
造りは石組み、木組み、素掘りと
さまざまあるそうです。
遺跡の北西から南東に
ほぼ一直線上に等間隔に並び、
地下の水脈に沿って
何世代にも渡り、
井戸を造り続けたとみられているそうです。

遺跡からは当時貴重だった
金付き土器の破片や、
漆塗りの刀の鍔(つば)、
珠洲焼や青磁、木製品が出土したそうです。




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一部の石組み井戸跡では、
井戸の埋め戻しの際に
祭祀が行われていたことが判明しました。
また出土品から、
漆器皿と箸2本を組み合わせて
供えられていたことが分かりました。
埋蔵文化財センターによりますと、
漆器皿と箸の組み合わせは、
蜷川氏の家紋の一つである
「合子(ごうす)に箸」を連想させるとのことです。

【蜷川氏】

蜷川氏は物部氏を祖とする
山城国氏軍の大領であった
宮道(みやじ)氏の一族の後裔と言われ
治承4年(1180年)に
荘園開拓のため
越中国砺波郡・新川郡を領し、
新川郡蜷川郷に住んで
蜷川氏を称したとされています。
祖は蜷川親直です。

【蜷川氏について】
室町幕府においては、
政所執事を世襲した
伊勢氏の家臣でありました。
やがて、伊勢氏を介して、
足利尊氏に仕えるようになった
蜷川親心とその子である
蜷川親行と蜷川親朝。

また、蜷川氏は、
丹波国船井郡も所領としていたから、
蜷川親朝が蟠根寺城を築き、この一族が
伊勢氏に仕えていました。
その蜷川親朝から
数えて3代目にあたる
蜷川親当(後の智蘊)の頃より、
政所代を世襲することとなりました。

<蟠根寺(ばんこんじ)城>
【所在地】
〒622-0024 京都府南丹市園部町千妻

室町時代末期、
主君である第13代将軍の足利義輝
失った蜷川親世は零落し、
出羽国村山郡で没したとされています。
嫡子である蜷川親長を始めとする
一族の多くは、
土佐国の長宗我部元親のもとへ
落ちのびたとされています。
なお、長宗我部元親の正室となった
石谷氏が蜷川親長の従兄弟でした。
そして石谷氏は、
明智光秀重臣の斎藤利三の妹でありました。

足利義昭に仕えた蜷川親貞は、
足利義昭が毛利氏を頼った後に家臣化し、
蜷川秋秀、蜷川元親、蜷川元勝と続き、
長州藩士として続いたとされています。

また、蜷川氏は、
丹波国船井郡を所領としていたから、
蜷川親朝が蟠根寺城を築き、この一族が
伊勢氏に仕えていました。

蜷川親朝の孫にあたる人物が、
アニメ「一休さん」に登場する
蜷川新右衛門のモデルとされている
蜷川親当です。

そして、戦国時代、
子孫である蜷川親世と蜷川親長父子が
居城し、第13代将軍である
足利義輝に仕えました。
しかしながら、
伊勢貞孝・貞良父子氏が三好氏に敗れ、
戦死し、更に永禄の変で足利義輝が暗殺されると
蜷川親世と蜷川親長父子は
蟠根寺城を去っていきました。
其の後は同族である蜷川貞周が在城しました。
伊勢貞良の子である
伊勢貞興がやがて明智光秀の家臣となり、
明智光秀の丹波攻略が進められていくと、
蜷川貞周の子である蜷川貞栄と
その子である蜷川貞房父子等の一族が
明智光秀に仕えたとされています。




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山崎の戦いでは、
蜷川貞栄と蜷川貞房父子等の一族は
揃って出陣し、討ち死にしました。
明智氏が滅亡した後は、
長宗我部元親のもとへ
落ちのびた一族もおり、
丹波で暮らし続けた一族もいたとのことです。

長宗我部氏滅亡後、
蜷川親長は徳川家康
御伽衆として仕えました。
その後、蜷川氏は旗本として続き、
明治維新に至っています。

【蜷川新右衛門について】
蜷川氏の当主は代々、
新右衛門(しんえもん)と名乗っています。

蜷川新右衛門といえば、
テレビアニメ「一休さん」
(1975年⇒1982年)に
足利義満の側近で
寺社奉行の武士である
蜷川新右エ門が登場します。
そのモデルとなったのが
蜷川親当((ちかまさ)(智蘊))とのことです。

【史実と架空】
けれども史実では異なっています。
まず蜷川親当(智蘊)が仕えたのは
3代将軍の足利義満ではなく、
その足利義満の子供で
6代将軍の足利義教でした。
そもそも室町幕府に
寺社奉行はありませんでした。
けれども一休さんこと、
一休宗純との師弟関係は事実です。
ですが、実際のところ一休宗純との
師弟関係は、蜷川親当が出家して
智蘊と名乗ってからのことでした。

蜷川親当の嫡子である
蜷川親元が記した「親元日記」や
一休が記した「狂雲集」には
蜷川親当(智蘊)と
一休の交流(禅問答など)が
綴られているとのことです。

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