鎌倉殿の13人

牧の方~北条時政を操り?陰謀を巡らせジャマな将軍や御家人たちを消したヤバすぎる人

修善寺 竹林




【牧の方】

牧の方(まきのかた、生没年不詳)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の女性です。
鎌倉幕府の初代執権・北条時政の継室でした。
牧宗親の娘とも、妹ともされています。
子は北条政範、平賀朝雅室、三条実宣室、宇都宮頼綱室。

【牧の方の年齢】
夫である北条時政とはかなり年齢が離れていたそうです。
その仲は睦まじかったと言われています。
ちなみに一説には政子とほぼ同い年であったとか・・。
うーん・・・・。
それだけでも火種になりそうな気配です。

【亀の前騒動】
寿永2年(1182年)11月、
産後の継娘・政子に夫である源頼朝の浮気を伝え、
政子が牧の方の父宗親に命じて
源頼朝の愛妾・亀の前の屋敷を打ち壊させる
騒動を引き起こしています。

畠山重忠の乱と実朝暗殺計画】
元久2年(1205年)6月、
北条時政による畠山重忠の乱が起こります。
これはそもそもは娘婿に当たる平賀朝雅が
畠山重忠の嫡子である
畠山重保のことを牧の方にありもしない悪口を言い、
それを聞いた牧の方が北条時政に、
他人をおとしいれるため、目上の人や主人に、
ありもしない事を告げたためだと
言われています。
さらに同年7月、牧の方は北条時政と共謀して
源実朝を殺害し、
さらには娘婿の平賀朝雅を新将軍として
擁することで幕政の実権を掌握しようと
計画したとのことです。
けれども、この計画を知った北条政子・義時姉弟による
反撃を受けて、閏7月20日に北条時政と共に出家し、
その後、北条義時の手によって伊豆国に幽閉されたのでした。





【牧の方は贅沢三昧でついには批判される】
その後、平賀朝雅の妻だった娘は
公家の権中納言・藤原国通に再嫁します。
牧の方は京都の娘夫妻の元に身を寄せ、
何とも贅沢に暮らしていたということです。
嘉禄3年(1227年)3月に藤原国通の邸で
夫であった北条時政の13回忌を行ないましたが、
一族を引き連れて諸寺詣を行っている様子が
「明月記」に記され、
筆者の藤原定家は
この時の牧の方の振る舞いを批判しているとのことです。

【牧氏事件】

牧氏事件(まきしじけん)は、
鎌倉時代初期の元久2年(1205年)閏7月に
起こった鎌倉幕府の政変です。
牧氏の変ともいわれています。

【始まり】
正治元年(1199年)に源頼朝が死去した後、
源頼朝の妻である北条政子の実父の北条時政は、
有力御家人である梶原景時
源頼家の外戚である比企能員一族を滅ぼして、
北条氏の地位を一段と高めていきます。
そして遂には建仁3年(1203年)、
源頼朝の嫡男で二代将軍の源頼家でさえも
廃して弟の源実朝を新将軍として擁立し、
自らは執権となったのでした。

【畠山重保との言い争いと政範の死】
元久元年(1204年)、
京の平賀朝雅邸で、三代将軍である
源実朝の妻である坊門信清の娘(信子)を迎えるために
上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が行われました。
その席で北条時政の後妻・牧の方の娘婿である
平賀朝雅と北条時政の前妻の娘婿である
畠山重忠の嫡子重保との間で言い争いとなりました。
周囲の取りなしでその場は何とか収まりましたが、
畠山重保と共に上洛していた
北条時政と牧の方の子である政範が
何と病で急死したのでした。
そして政範の埋葬と、
畠山重保と平賀朝雅の争いの報告が同時に鎌倉に届きます。

元久2年(1205年)、
この畠山重保と平賀朝雅の対立を契機として、
北条時政は畠山氏の討滅を計画します。
なお、「吾妻鏡」によりますと
このとき、北条時政の息子である北条義時は、
あまりに強引な畠山氏排斥を唱える
父の北条時政に対して反感を抱いたとあります。
北条義時にとっては、
畠山重忠とは義兄弟かつ友人関係であるからです。
けれどもまだこの時は、父の命令に逆らえず、
武蔵二俣川にて畠山重忠一族を討ち滅ぼしたのでした。
けれども、人望のあった畠山重忠を強攻策をもって
殺したことは、北条時政と牧の方に対して
不信と反感を抱かせることとなりました。

【実朝の排除を企てる】
同年閏7月、北条時政と牧の方は源実朝を廃して、
源頼朝の猶子である平賀朝雅を
新将軍として擁立しようと画策します。
政権を牛耳るためとはいえ、
北条時政と牧の方のこのような
あまりにも強硬且つ一方的な策は
一族の北条政子・北条義時らの更なる反感を招きます。

19日に政子・北条義時らは、
政子・義時の実の妹で実朝の乳母であった阿波局の
実朝の危険である旨の伝言より、
結城朝光や三浦義村、長沼宗政らを遣わして、
北条時政邸にいた源実朝を北条義時邸に迎え入れています。

その時、北条時政側についていた
御家人の大半も北条義時に味方したため、
陰謀は完全に失敗したのでした。
なお、北条時政本人は
自らの外孫である源実朝殺害には消極的で、
その殺害に積極的だったのは
牧の方であったとする見解もあるとのことです。
(・・・というかそうだったのでは??)

【鎌倉からの追放】
幕府内で完全に孤立無援になった
北条時政と牧の方は閏7月20日に出家し、
翌日には鎌倉から追放され
伊豆国の北条へ隠居させられることになったのでした。
閏7月26日には平賀朝雅も京都守護として
滞在していた京で幕府の命によって殺害されました。





【史料から読み解く牧氏事件】
この事件に関しては「六代勝事記」では
北条時政が陰謀の計画を企てた、
「北条九代記」では北条時政の謀計、
「保暦間記」では北条時政及び牧の方による
源実朝殺害が成功直前だったとしています。
畠山重忠殺害に関して
反対の立場であった北条義時は
北条時政との対立を深めており、
時政と政子・北条義時らの政治的対立も
背景にあったと推測されています。

牧の方にとっては先妻・先々妻の子、
となるわけですからね。
特に牧の方にとっては、
北条義時は最も排除すべき者、であったと思います。
頼りの嫡子も娘婿もいなくなってしまった後では
より一層その考えが強くなっていったのではないでしょうか。

【その後の鎌倉幕府】
北条時政はその後、二度と政界に復帰することなく
建保3年(1215年)、
腫物のため北条の地で亡くなりました。
また、牧の方も夫の死後は
平賀朝雅の元妻で公卿の
権中納言・藤原国通に再嫁した娘を頼って上洛し、
京都で贅沢三昧の余生を過ごしたのことです。

北条氏の第2代執権には北条義時が就任し、
(ただし、承元3年(1209年)就任説もある)
北条義時のもとで北条氏は幕府内における地位を
盤石なものにしていくのです。

そしてこの事件は、
後に北条氏内部で起こる執権職をめぐっての
内紛の先駆けにもなったのでした。

【牧の方が本当に愛したもの】
牧の方の生涯をざっと調べてみますと、
牧の方が本当に愛していたのは「権力」なんですね。
そして自分が常に陰でトップに立つこと。
それを邪魔する者は手段を選ばす徹底的に排除する・・・。
自分の愛するものを与えてくれる人間は
決して離さず、自分の虜にさせて
いう事を聞かせる・・・そうそんな気質は
限りなくサ〇コパ〇スですね。
海外ではそうした権力を持つ女性がいましたが
日本でも実在していましたね。
今も昔も最も注意すべき人物ですね。

頭はかなり良く、容姿もそれなりに美しかったことでしょう。
そうした女性と命を懸けて争ってきた政子。
「尼将軍」にはなるべくしてなったのですね。
頼朝の度々の浮気なんて・・・牧の方の存在や
振舞いに比べたらカワイイものですな。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では
宮沢(みやざわ)りえさんが演じられます。

源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。

亀の前~頼朝が流人時代から寵愛していた女性~そして政子の諸事情について

菅谷館跡と鶴ヶ峰・二俣川の古戦場散策~畠山重忠公の足跡を訪ねて。

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