【金子家忠】
金子家忠(かねこ いえただ)は、
平安時代末期・鎌倉時代初期の
武蔵国入間郡の武将です。
武蔵七党村山党・金子氏の一族。
父は金子家範です。
兄弟に金子親範がいます。
【生誕】
保延4年(1138年)
【死没】
建保4年2月17日(1216年3月6日)
【別名】
十郎
【墓所】
瑞泉寺跡
(埼玉県入間市大字木蓮寺874)
【幕府】
鎌倉幕府御家人
【氏族】
桓武平氏村山党金子氏
【父】
金子家範
【兄弟】
親範、家忠
【妻】
畠山重忠の姉・重子
【子】
家高、多賀谷家政、家広、家親
【生涯について】
19歳の時、保元の乱が起こり初陣します。
同じ村山党の仙波家信らと共に
後白河天皇方の源義朝に従い、
源為朝が守る白河の御殿を攻め、
高間兄弟を一騎討ちで倒しました。
平治の乱では源義平のもとで活躍しました。
治承4年(1180年)には
衣笠城合戦に平家方として
畠山重忠などとともに参加し、
21本の矢を受けましたが
一歩も退かずに戦い、
敵の三浦義明も感嘆したということです。
けれども和田義盛に
あごの下を射られ退却しました。
その後は源頼朝に従い、
源義経の平氏追討軍に属しました。
その功績により武蔵国金子や
伊予国新居や播磨国鵤荘
ほかの地頭となりました。
上段中央に金子十郎家忠の印号法名、
右に弟親範、三男高範、
左に長男家広、嫡男家繁、
下段には家忠の妹のほか高範を除く
4人の夫人の法名が記されているとのこと。
またそれぞれの名の右には
没年と俗名と続柄が記されています。
<金子家忠公屋敷跡>
瑞泉院の南側約300mの一帯
である模様です。
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【瑞泉院】
金子家忠の正室は、
秩父庄司・畠山重忠の姉「重子」でした。、
建仁元年(1201)3月23日死去。
それで妻のために寺院を建立。
「木蓮院殿標室榜大姉」の院号により、
開基当初は「木蓮寺」と称していましたが、
建保4年(1216)2月17日
金子家忠が死去します。
「瑞泉院殿翁道英大居士」の院号により、
寺の名を「瑞泉院」と改めたとのことです。
また、木蓮寺は地名として残っているとのこと。
瑞泉院は
天明(1781~1789)と
元治(1864~1865)の
2回にわたり大火に見舞われ、
七堂伽藍がことごとく焼失となりました。
現在は寺院の建物はありません。
入間霊園となっています。
【交通アクセス】
(電車)
JR八高線「金子」駅より徒歩20~25分程度。
(電車・バス)
西武池袋線「入間市」駅より
西武バス「入市32」河辺駅北口行
「入間霊園」バス停下車(20分程度)
JR青梅線「河辺」駅より
西武バス「入市32」入間市駅行
「入間霊園」バス停下車(15分程度)
(車)
国道16号線「富士原」から8分程度。
国道299号線「小谷田」から10分程度。
圏央道「青梅」ICより5分程度。
【駐車場】
入間霊園の駐車場があります(無料)。
【トイレ】
男女別の水洗トイレがあります。
【金子氏】
金子氏(かねこし)は、
平安時代後期から鎌倉時代・
室町時代にかけて
武蔵国(現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部)
を中心として近隣諸国にまで
勢力を伸ばしていた武蔵七党の
村山党から派生した支族です。
桓武平氏の流れをくみ、
武蔵国入間郡金子
(現在の埼玉県入間市金子)
を拠点にその周辺地域を領しました。
武蔵国多摩郡村山を領した
平頼任が村山党の祖となり、
その孫の家範が入間郡金子に住み
金子を名乗ったのが始まりとなります。
現在でも埼玉県入間市から
東京都清瀬市周辺にかけて
金子の姓が多く見られるとのことです。
金子家範の子である金子家忠は
保元の乱・平治の乱などで活躍し、
その功績により伊予国新居
(現在の愛媛県新居浜市)等の
地頭となりました。
豊臣秀吉の四国征伐に抵抗して
名を馳せた金子元宅など、
金子家忠の孫である
金子家広の子孫は
伊予金子氏として
約300年もの長きにわたり繁栄しました。
【武蔵金子氏】
金子氏嫡流はそのまま
代々入間郡金子を領しました。
南北朝時代、武蔵平一揆が起こると
金子家祐は河越氏に従い敗北します。
その後は関東管領上杉氏家臣の
武蔵守護代大石氏に従いました。
戦国時代になり、
河越夜戦で上杉氏が小
田原北条氏に敗れ没落すると、
金子家長は逸早く
天文15年(1546年)には
北条氏康に属しました。
以後は八王子城の北条氏照に従い
下野国進出などで活躍しました。
天正18年(1590年)の
小田原征伐で前田利家・上杉景勝の
軍勢が攻めてくると、
松山城留守居を勤めていた
金子家基は城代の山田直安以下
難波田憲次・若林氏らと共に
前田・上杉勢に降伏しました。
金子家基は直江兼続軍の
先兵となって八王子城を攻めました。
小田原北条氏が滅亡すると
金子政熙はその後も
上杉景勝に属しましたが、
慶長5年(1600年)の
徳川家康による会津征伐によって、
上杉景勝の領地が削減されたとき
浪人の身となりました。
その後は京都所司代板倉勝重に仕え、
子の金子政景は板倉氏の老臣として
重用されましたが、後に自害しました。
金子政景の妻は長州藩士の
宍戸元真(毛利氏一門宍戸氏)
の娘であったため、
子どもを連れて実家のある長州藩へ戻り、
子ども達は長州藩士として仕えたということです。
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【伊予金子氏】
伊予金子氏(いよ-かねこ-し)は、
金子家忠の保元の乱・平治の乱
などでの功績による恩恵を受け、
建長年間に金子氏祖である
金子家範の曾孫である
金子広家が伊予国新居郡の
領地に移り住んだことに始まります。
金子広家は領地を金子と名付け、
平野を遠く見渡せる
丘陵地(金子山)に
金子城を築いてその基礎を固めました。
新居一帯は伊予国の有力豪族河野氏と
讃岐国の細川氏がせめぎ合う激戦地でした。
南北朝時代に将軍 足利義満によって
和睦が成立し、
金子氏は細川氏配下になったと
見られています。
その後、戦国時代になると
石川氏が新居・宇摩を治めるようになり、
金子氏はその有力武将として
石川氏を支えて発展したということです。
戦国時代後期に
土佐の長宗我部元親が
四国制覇に乗り出した時には
石川氏は弱体化して名目上の領主でしかなく、
金子元宅(金子備後守元宅)が
事実上の支配者であったものと
見られています。
長宗我部元親は
金子元宅を通じて石川氏と結び
この一帯の覇権を手にしました。
けれどもそれも束の間で、
羽柴秀吉による
全国統一へ向けた四国攻めが開始。
天正13年(1585年)秀吉配下の
小早川隆景率いる毛利軍は
瀬戸内海を渡り新居に上陸し、
これを金子元宅は配下の武将を従えて
迎え撃ちますが(天正の陣)、
圧倒的な兵力の差の前に
野々市ヶ原の戦いで討ち死にしました。
弟の対馬守元春に託された
金子城も落とされ、
約330年にわたる
伊予金子氏の新居郡における歴史は
幕を閉じたのでした。
金子氏居館跡には元和4年(1618年)に、
天正の陣を生き延び出家した
金子元春により
歴代城主や武将を弔う菩提寺として
慈眼寺が建立され、
今に至るまで守られ続けています。
また僅かに残った一族は
長宗我部元親に保護され、
徳川幕府による大坂夏の陣において
豊臣方につきましたが敗れ、
その後は九州天草の地に
根付いたとも云われています。
また、土佐山内氏に仕え、
後に商人となった一族の末裔に
鈴木商店の番頭として
辣腕を振るった金子直吉が出ているとのことです。
【村山党】
村山党(むらやまとう)とは、
平安時代から鎌倉時代にかけて、
武蔵国多摩郡村山郷
(現在の狭山丘陵付近)に
勢力のあった武士団の事です。
武蔵七党の一つであり、
野与党と同族であるとのことです。
【村山党の歴史】
平安時代、平頼任が北多摩郡村山に住み、
村山氏と名乗ったと言うことです。
村山頼任の子孫とされる
一族を村山党と呼びます。
主な一族には金子氏、宮寺氏、
山口氏、仙波氏などがあります。
子孫は狭山丘陵の北部の
武蔵野の台地上に広がっています。
金子十郎・山口六郎は
共に台地上の畑地を占め、
仙波七郎の居も川越市仙波で
台地上で前面には
荒川の低地の水田が広がっています。
三条町の条里地域の
西北方約十キロメートルの地点となります。
条里の遺構は不明瞭です。
彼らの名字の地(本貫)は
現在でも地名として入間市金子、
入間市宮寺、川越市仙波、
所沢市山口などに残っています。
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【鎌倉幕府樹立前後】
保元の乱では後白河天皇方として
金子家忠や仙波家信が活躍しました。
治承・寿永の乱では、
当初村山党は他の
武蔵の武士団のほとんどと同じく
平家方でした。
吾妻鏡によりますと、
治承4年、
武蔵の平氏方の中心的存在である
秩父党畠山氏の畠山重忠に従い、
村山・金子氏の一党も
相模国の三浦氏を攻撃しています
(衣笠城合戦)。
その後畠山氏と同じく
源頼朝の傘下に入ったのでした。
【鎌倉時代】
鎌倉時代以降、村山党には
金子氏や仙波氏など
伊予国を初めとする西国に
所領を得たものも多かったのですが、
武蔵では秩父党棟梁の
河越氏に従っていました。
鎌倉時代末期には
河越高重に従い
新田義貞の倒幕軍に加わり、
分倍河原の戦いなど
倒幕の原動力となりました。
【室町期】
室町幕府が成立すると、
鎌倉公方や関東管領の支配が強くなり、
応安元年(1368年)1月、
河越直重を中心に武蔵平一揆を
起こしましたがあえなく鎮圧されました。
山口高清などは自害し
村山党諸氏は没落しました。
以降村山党諸氏は
関東管領上杉氏家臣の大石氏に従います。
【戦国時代~江戸時代】
戦国時代になり上杉氏が
小田原北条氏に敗れ没落しますと、
主家を失った大石定久は
北条氏康の三男である
北条氏照を娘婿に迎えて家督を譲りました。
以降、小田原北条氏の支配下となりました。
小田原征伐で小田原北条氏が滅亡し
徳川家康が関東に入ると、
その支配体制に組み込まれていきます。
村山党の子孫の一部は、
徳川氏の旗本となって存続したのでした。
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