鎌倉殿の13人

三浦義明と衣笠城合戦~長老は自らの命を盾に三浦一族の未来を守りました。

三浦義明公



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三浦義明

三浦 義明(みうら よしあき)は、
平安時代末期の相模国三浦郡衣笠城の武将です。
三浦荘(現神奈川県横須賀市)の在庁官人でした。
桓武平氏の平良文を祖とする
三浦氏の一族です。
相模介・三浦義継の子です。
和田義盛三浦義村の祖父となります。

三浦義明公 墓所入り口

【時代】
平安時代末期

【生誕】
寛治6年(1092年)、
延慶本平家物語によると
康和4年(1102年)
あるいは永長2年か承徳元年(1097年)。

【死没】
治承4年8月27日(1180年9月18日)

【別名】
大介(仮名)

【墓所】
横須賀市大矢部 満昌寺(まんしょうじ)

横須賀市大矢部 満昌寺

【官位】
三浦介

【幕府】
鎌倉幕府

【氏族】
桓武平氏良文流、三浦氏

【父】
三浦義継

【母】
笠間常宗の娘

【兄弟】
三浦義明、津久井義行、蘆名為清、
岡崎義実、大友経家室、中村宗平室

【妻】
秩父重綱の娘

【子】
杉本義宗、三浦義澄、大多和義久
佐原義連、多々良義春、長井義季、
杜重行、源義朝側室、畠山重能正室
金田頼次室、長江義景室、大河戸広行室

【生涯】
世襲の官である三浦介を号して
天治年間(1124年⇒1126年)国務に参画し、
三浦半島一帯に勢力を扶植しました。
多くの子女に恵まれました。

【子供たち】
長男の杉本義宗は和田氏の祖、
次男の三浦義澄は父の後嗣となり、
また娘の一人は都から東国に進出した
源義朝の側室となったということです。
以降、相模国における三浦義朝の
覇権確立の有力な後ろ盾となり、
久寿2年(1155年)に源義朝の長男である
源義平が叔父の源義賢と戦った大蔵合戦では、
後方からこれを支援したとされています。
一説では源義平の母は
三浦義明の娘とも言われています。

源頼朝公 お手植えつつじ>
満昌寺にあります。
源頼朝公 お手植えつつじ

【最期】
治承4年(1180年)に源義朝の遺児である
源頼朝が挙兵すると、
一族挙げてこれに合流しようと
居城の衣笠城から出陣します。
けれども、途中で石橋山の戦いにおける
源頼朝の敗戦を聞き、
引き返して篭城の柵をとります。
ほどなくして敵方に参加していた
畠山重忠率いる軍勢と衣笠城合戦となり、
一族郎党を率いて奮戦しました。
けれども、最終的には刀折れ矢尽き、
三浦義澄以下一族を安房に逃した後、
独り城を守って戦死しました。
享年は89歳でした 。

衣笠城跡

なお、敵将の畠山重忠の母は
三浦義明の娘であり、
三浦義明から見ると外孫でした。
このため畠山重忠は衣笠城攻撃を行うのは
本意でありませんでしたが、
父の畠山重能が大番役で在京していたため、
平家方として働かざるを得なかったとされています。
なお、畠山重忠については異説があります。

【史跡】
衣笠城合戦に敗れた三浦義明は
松の木の下で自害したと言われ、
横須賀市大矢部の「腹切松公園」内に
史跡が設けられています。

腹切松公園

【衣笠城合戦】

衣笠城合戦(きぬがさじょうかっせん)は、
治承4年8月26日(1180年9月17日)、
相模国衣笠城(現神奈川県横須賀市衣笠町)
で起こった秩父氏(平家方)と
三浦氏(源氏方)による戦いです。
平安時代末期の内乱である
治承・寿永の乱の合戦の一つとされています。

衣笠城跡

【小壺坂合戦、小坪合戦】
治承4年(1180年)8月17日の
源頼朝の挙兵に対し、
源氏方に付いた三浦氏は22日に三浦を出発。
けれども大雨のため頼朝軍と合流出来ず、
23日の石橋山の戦いでの
源頼朝軍敗北により三浦に引き返しました。
一方、平家方の武将である
武蔵国の畠山重忠は
源頼朝挙兵の報を受けて
家子・郎党を率いて出陣し、
23日夜に金江河(現平塚市花水川)に
陣をとっていました。




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24日、三浦一族は鎌倉の由比ガ浜で
平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇します。
和田義盛が名乗りをあげて、
双方対峙となりました。
同じ東国武士の見知った仲で縁戚も多く、
和平が成りかかりましたが、
遅れて来て事情を知らない
和田義盛の弟である
和田義茂が畠山勢に討ちかかってしまい、
これに怒った畠山勢が応戦。
和田義茂を死なすなと
三浦勢も攻めかかって
合戦となってしまったのでした。
双方に少なからぬ討ち死にしたものが出ました。
停戦がなり、双方が兵を退いたとのことです。

由比ヶ浜

「源平盛衰記」によりますと、
三浦側は小坪の峠に300騎、
畠山側は稲瀬川(由比ガ浜西部)の辺りに
500騎で対陣したということです。
畠山重忠は郎従50名余りの首を取られて退却、
三浦氏は死者を出しながらも
本拠地の三浦にたどり着いたのでした。

26日、畠山重忠は同じ秩父氏で
総領家である河越重頼に加勢を呼びかけ、
河越重頼は同族の江戸重長と共に
数千騎の武士団を率いて畠山重忠軍に合流し、
三浦氏の本拠地である衣笠城を攻撃します。
「吾妻鏡」によりますと、
三浦方は東木戸口を三浦義澄・佐原義連、
西木戸口を和田義盛・金田頼次、
中の陣を長江義景・大多和義久が守ったのに対し、
攻める畠山方には河越重頼・中山重実・
江戸重長・金子氏他の村山党が参陣したとのことです。

先の合戦で消耗していた三浦氏側は
夜になって衣笠城を放棄して脱出し、
源頼朝軍と合流するべく安房国へ向かい、
27日、衣笠城は秩父軍によって
攻め落とされました。
落城の際、89歳の老齢であった
三浦一門の当主である三浦義明が城に残り、
外孫である畠山重忠らによって討たれました。
「吾妻鏡」では三浦義明は
「我は源氏累代の家人として、
老齢にしてその貴種再興に
めぐりあうことができた。
今は老いた命を武衛(頼朝)に捧げ、
子孫の手柄としたい」とし、
壮絶な最期を遂げたとしていますが、
「延慶本平家物語」では三浦氏の軍勢が
城を脱出する際に、老齢の
三浦義明が足手まといとなって
置き去りにしたとされています。

<今では英雄>
・・・この時代の武士は生きることが最優先で
そのためには非情なくらいの現実主義ですから
そういった見方は確かにあるかもしれません。
けれども、老齢の長が残り、
一族が生き残って未来につながっていったので
今では英雄として祀られています。
横須賀の地を訪れてそれがよくわかります。




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【三浦一族と合流した源頼朝】
安房国で三浦一族と合流した源頼朝軍は、
房総半島の二大勢力である
千葉常胤・上総広常を傘下に加え、
大軍となって再挙し、10月2日に武蔵国へ入ると、
4日に畠山重忠・河越重頼・江戸重長ら
秩父一族は長井の渡で源頼朝に帰伏しました。
「吾妻鏡」では、源頼朝は
「重長らは源家に弓を引いた者であるが、
このように勢力の有る者を
取り立てなければ目的は
成し遂げられないであろう。
憤懣を残してはならない」と
三浦一族に言い聞かせ、
三浦氏は異心を抱かないとして、
畠山重忠らとお互いに目を合わせ、
納得して席に並んだということです。

【畠山重忠の行動について】
「源平盛衰記」によりますと、
当初畠山重忠が源頼朝と敵対したのは、
当主の畠山重能が
大番役として在京していたためであり、
畠山重忠は三浦を攻撃するつもりはなく、
由比ヶ浜では双方の行き違いによって
突発的に合戦となったと見られています。
けれども武蔵国の河越重頼や
江戸重長が畠山重忠の加勢に
すぐに応じられたのは、
平家方の大庭景親の動員に応じて
相模に来ていたためで、
衣笠城落城後にすぐに大庭軍が
数千騎を率いて攻め寄せてきている事から、
三浦攻めは畠山重忠の平家への義理や
外聞のための通り一遍のものではなかったと
考えられるようになりました。

【畠山重忠は養子説】
また、近年になって肥後国小代氏に伝わる
「小代系図」(「肥後古記集覧」所収)の
蓬莱経重の項目にある
「母江戸四郎平重継女也
経重者畠山庄司次郎重忠一腹舎兄也」
という記事が注目されているそうです。
蓬莱経重は系図上は児玉党の
秩父行俊の子とされていますが、
同党の通字である「行」の字を名乗っておらず、
このことから他氏からの養子とみられています。
(あくまでも目安であり、100%ではありません)

畠山重能の正室は三浦義明の娘でしたが、
子供に恵まれず、江戸重継の娘を側室として
畠山重忠ら兄弟を生み、
後に嫡男である畠山重忠は
正室(三浦義明の娘)の養子とされ、
蓬莱経重は児玉党系秩父氏へ
養子に出されたとみる意見があります。
更にこれを裏付けるものとして
「源平盛衰記」「衣笠合戦」(巻22)で
三浦義明が畠山重忠を「継子孫」
と呼ぶ部分が存在しているとのことです。

この説が正しいとするならば、
形の上では三浦義明と畠山重忠は
外祖父と外孫ですが、
実際には血縁関係はなく、
畠山重忠が敵方であった
三浦氏を攻撃することを
制約する要素はなかったとみられています。

また、江戸重長は実の甥である
畠山重忠支援のために援軍を派遣したとも
解釈されるとの事です。

相模を手に入れるべく
正に秩父・武蔵の武士団として合戦に臨んだ、とのことですね。

【史跡】
合戦の舞台にほど近い
JR衣笠駅バスターミナル前に、
この戦で没した者達を慰霊する碑が
昭和30年代に地域の有志により作られ、
現在も参拝者が絶えないとのことです。
また他にもこの戦の慰霊碑など
当時を物語る遺跡が現在も
いくつか残っているとのことです。




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衣笠城址にほど近い横須賀市大矢部では、
三浦義明が落ち延びる際に
今まで決して止まることがなかった愛馬が、
ある一本の松の木の下で止まり、
動かなくなったことにより、
三浦義明はそれを天の意思と受け止め、
その場で切腹して果てたという伝承があります。
その後、その松は腹切り松と呼ばれ、
現在は場所を移し、
児童公園「腹切り松公園」の一角に
保存されています。

腹切り松

<腹切り松・説明>
腹切り松・説明

【所在地】
横須賀市大矢部5-18

【交通アクセス】
満昌寺前バス停・
大矢部3丁目バス停下車徒歩5分程度

【伝三浦義明公廟所】
伝三浦義明公廟所(墓所)

<伝三浦義明公廟所・説明>
伝三浦義明公廟所・説明

<木像 三浦義明坐像・説明>
(国指定重要文化財)
木像 三浦義明坐像・説明

<三浦義明坐像・説明(英語付)>
三浦義明坐像・説明(英語付)

【満昌寺・所在地】
〒238-0024 神奈川県横須賀市大矢部1丁目5−10

【満昌寺・交通アクセス】
(電車・バス)
<1>
JR横須賀線「衣笠駅」⇒
駅から右手300mほど先、
京急バス「衣笠十字路」バス停より乗車⇒
「YRP野比駅 ゆき」で6分
「満昌寺」下車

<2>
「三崎東岡・三崎港 ゆき」で5分
「衣笠城址」下車、徒歩5分
<3>
京急線「北久里浜駅」から
「大矢部団地循環」で8分
「大矢部三丁目」下車、徒歩10分

(車)
横浜横須賀道路「衣笠IC」下車⇒
久里浜方向へ約3~5分程度。

【駐車場】
参拝者用の駐車場があります。
(普通乗用車のみ)

【衣笠城址】

永承6年(1051年)から
康平5年(1062年)にかけての
前九年の役での戦功により
源頼義から相模国三浦に領地を与えられ、
当地の三浦氏の祖となったとされる
三浦平大夫為通が、康平5年(1062年)、
衣笠山山麓に作った居館が
衣笠城の始まりであるとされています。
のちにこの城は三浦氏の本拠地となり、
三浦氏が勢力拡大するにあたって
増築されていくことになります。

衣笠城址

治承4年(1180年)、
源頼朝が伊豆で打倒平家を掲げて挙兵すると、
三浦氏の4代目当主の三浦義明は
源頼朝を支援しましたが、
源頼朝は石橋山の戦いで敗れ
房総半島へ逃げ延びます。
源頼朝軍と合流できずに引き返した三浦一族は
平家方の畠山重忠軍と衣笠城合戦に及び、
衣笠城は落城し、
城主である三浦義明は討ち死にし、
三浦一族は房総半島に逃れたのでした。

衣笠城跡 物見台

衣笠城址には
城郭遺構(土塁・堀切・壁(切岸)など)が
確認できませんが、
築城・籠城の準備する時間が
なかったことによるものと考えられています。

衣笠城跡

「吾妻鏡」の記述では、
8月24日に三浦軍は畠山軍を破って
三浦に引き上げたものの、
8月26日に畠山軍が
秩父兵士の応援を経て三浦氏討伐に向かい、
三浦氏は衣笠山に籠りましたが、
その間わずか1日程度しかなく
籠城の準備がまったく
できなかったと推測されています。




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その後鎌倉幕府が成立すると
この城は再び三浦氏の本拠となります。
しかしながら鎌倉時代の宝治元年(1247年)、
宝治合戦で三浦党が没落すると廃城となりました。

衣笠城跡 入り口

【城郭構造】
山城とされていますが異説があります。

【天守構造】
なし

【築城主】
三浦平大夫為通

【築城年】
康平5年(1062年)

【主な城主】
三浦氏

【廃城年】
宝治元年(1247年)

【遺構】
井戸、堀跡

【指定文化財】
横須賀市指定史跡

【衣笠城の範囲について】
2020年現在、
衣笠城跡と呼ばれる衣笠山には
小規模な公園が整備されています。

横須賀風物百選 衣笠城址

当時を思わせる遺構としては、
わずかに井戸、堀跡が残るのみです。

<物見台>
衣笠城跡 物見台

<遺物発掘の場所>
物見台の下にあります。
衣笠城跡 遺物発掘の場所

けれども城山を境内とする大善寺
三浦義明の墓所である満昌寺など、
城跡周辺の寺には三浦一族や
衣笠城を偲ばせる事跡が残されています。

<大善寺>
大善寺 衣笠城

<大善寺と不動井戸>
大善寺と不動井戸

<大善寺と不動井戸・説明>
大善寺と不動井戸・説明

また平作川に沿って
下流の久里浜までのあいだには、
衣笠城の支城とされる
平作城、大矢部城、小矢部城、
佐原城、怒田城などの遺構が残されています。

現在衣笠城は、衣笠山一帯にあった
山城と見なされていますが、

大善寺・衣笠城の道路

「玉葉」中の「鎌倉城」などのような、
中世前期の史料に見える「城」の
語の示す範囲についてですが、
分析した専門家の見解では、
当時(中世前期)の「城」とは
武家が自身の屋敷や
一族の墓地・寺社・庶子の屋敷などを構えて
日常生活の場とした
「武家の本拠地」を表す
広い空間的概念であるとし、

衣笠山 平地部分

衣笠城合戦当時の「衣笠城」も
山城ではなく
旧三浦氏居館群(滿昌寺や薬王寺など)や
墓地(深谷やぐら群)などがある、
三浦氏が本拠とした
谷戸全域を示しているとのことです。
なお、衣笠山では大正年(1919年)に
経塚と見られる遺構が発見されています。

衣笠城 物見台

【観光地として】
衣笠城跡と谷をひとつ隔てた
隣の山である衣笠山公園は桜の名所として知られ、
日本さくら名所100選のひとつに選ばれています。
衣笠山公園から衣笠城跡を経由して
大楠山へのハイキングコースにもなっています。
往復で2時間程度かかると口コミでありました。
城山への道を先に進むと、
大楠山山頂に至る登山道となっています。

衣笠城跡 案内図

【交通アクセス】
<1>
JR横須賀線「衣笠」駅下車⇒徒歩10分⇒
衣笠十字路バスターミナルより京浜急行バス⇒
衣笠城址バス停下車⇒徒歩20分程度。

<2>
京浜急行電鉄本線「横須賀中央」駅下車⇒
横須賀中央駅バス停4番・5番のりばより
京浜急行バス⇒衣笠城址バス停下車⇒徒歩20分程度。

<3>
横浜横須賀道路「衣笠」IC⇒
衣笠城址前交差点左折
本丸跡は大善寺の裏手です。
地図に記された衣笠城の位置とは
しばしばずれがあるとのことです。

【所在地】
〒238-0025 神奈川県横須賀市衣笠町29−1162

【大善寺・所在地】
横須賀市衣笠町29-1

【駐車場】
大善寺の参拝者用の駐車場があります。
規模は土地柄上決して広くはないです。
ご利用は短時間に留めてください。
無断駐車は原則禁止です。
大善寺 駐車場

<走行時の注意>
道は勾配のかなりきつい坂道で
カーブも多々あり
道幅もあまり広くはないので
十分な注意を払って走行してください。

三浦義澄~源頼朝を支えた宿老の一人で13人の合議制のメンバーで相模守護。三浦一族の栄枯盛衰。

大田和城址~大多和氏は三浦義明の三男である大多和三郎義久が築城しました。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

佐原義連と相模・佐原城、一ノ谷の合戦「鵯越の逆落とし」一番乗りの武勇で有名、会津・蘆名氏の祖です。

矢部禅尼~三浦義村の娘で北条泰時の正室、子供達は相模三浦氏や戦国大名の蘆名氏につながる。

会津若松城(鶴ヶ城)~日本100名城、蘆名氏が築城、伊達・上杉・蒲生・加藤・保科・松平と続いた天下の名城。

石橋山の戦い~源頼朝旗揚げの地!300VS敵3000!大敗するも真鶴から安房へ逃れて再挙を図る。

しとどの窟(湯河原)・(真鶴)、隠れながら追手をかわして岩海岸から安房国へ船出しました。

和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる

三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家

伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。

曽我兄弟の縁の地・富士宮市~井出の代官屋敷・曽我八幡宮・曽我兄弟の供養塔・曽我の隠れ岩・音止の滝 

曽我兄弟の縁の場所(富士市)~化粧坂少将(姫宮神社)・曽我寺・曽我八幡宮・五郎の首洗い井戸

菅谷館跡と鶴ヶ峰・二俣川の古戦場散策~畠山重忠公の足跡を訪ねて。

江戸太郎重長と武蔵江戸氏について~武蔵国の武家で秩父氏一族であり所領のあった場所が東京の地名に今も残っています

岡崎義実~代々源氏の家人で特に忠義心厚い人物。三浦一族だが中村党とも深い関係で真田与一の父親です。

金子家忠~大剛勇の強者として活躍した武蔵七党・村山党の金子一族で入間に墓と屋敷跡があります。

鐙摺山(鐙摺城址)とは?小坪合戦(畠山VS三浦)・伊東祐親終焉の地・亀の前居住・源実朝が一句・三浦道寸が物見

新井城址・相模三浦氏とは?伊勢盛時から3年間持ちこたえた断崖の要害

芦名城~戦国大名・蘆名氏の発祥の地であり、三浦一族の本拠地である衣笠城の支城でした。

平作城~衣笠城の支城、三浦義明の弟の孫である平佐古(蘆名)為重の所領でした。

怒田城・大矢部城・小矢部城~三浦一族の本拠地である衣笠城の支城です。

小田山城~蘆名氏が築城し詰城として数百年機能、戊辰戦争時には会津若松城への砲撃場所となりました。

向羽黒山城(続100名城)~蘆名盛氏が築き、上杉景勝・伊達政宗・蒲生氏郷も改修した東北最大級の要害です。

猪苗代城 ~三浦一族で蘆名氏と同族の猪苗代氏が築城し約400年間支配、江戸時代は会津藩の重要拠点でした。

会津新宮城跡~三浦一族の佐原盛蓮の六男である新宮氏が築城、国の史跡です。

藤倉舘~三浦一族の佐原盛蓮の三男・藤倉盛義の居館と伝えられています。

会津・北田城跡~三浦一族・佐原盛蓮の次男の佐原広盛が築城し、北田氏を名乗り7代続きました。

浦賀城~東叶神社境内、安房里見軍に備えて小田原北条氏が水軍を配置、浦賀水道から房総半島が一望できる。

ペリー上陸記念碑の建設とペリー一行が久里浜に上陸した経緯について~ペリー公園。

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