鎌倉殿の13人

平宗盛~最後の平家の棟梁~偉大なる父の跡はいばらの道だらけ、イクメンで家族思いのパパでもありました。

厳島神社 鳥居(周防大島)



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平宗盛

平 宗盛(たいら の むねもり)は、
平安時代末期の平家一門の武将・公卿。
平清盛の三男で母は平清盛の継室・平時子です。
時子の子としては長男であり、
安徳天皇の母である建礼門院は同母妹です。
官位は従一位行内大臣。
通称は屋島大臣など。

【時代】
平安時代末期

【生誕】
久安3年(1147年)

【死没】
元暦2年6月21日(1185年7月19日)
享年39歳

【別名】
右幕下、内府、屋島大臣など

【墓所】
滋賀県野洲市の胴塚

【官位】
内大臣、従一位

【主君】
後白河天皇⇒二条天皇⇒
六条天皇⇒高倉天皇⇒安徳天皇
および治天の君である後白河院

【氏族】
桓武平氏維衡流(伊勢平氏)

【父】
平清盛

【母】
平時子

【兄弟】
重盛、基盛、宗盛、知盛、徳子、盛子
重衡、完子、知度、清房、御子姫君、ほか

【妻】
正室:平清子
継室:不明(能宗母)、平教盛の娘

【子】
清宗、能宗、男児、男児、女子(平通盛室)

【生い立ち】
久安3年(1147年)に生まれたとされています。
この時、父親の平清盛は30歳、
母である平時子は22歳、
長兄の平重盛は10歳でした。
二人とも正室の子として
生まれてはいますが母親は異なり、
また本人たちの年齢も10歳差と
離れていたため、
当初から平重盛と平宗盛の間には
対立の芽が内包されていました。

【時子の子として優遇される】
保元の乱終結後の保元2年(1157年)10月、
信西の主導により大内裏が再建されました。
10月22日には内裏造営の賞として
叙位が行われ、
平重盛・平頼盛・平教盛・平経盛に
それぞれ位階の昇叙がありました。
同日、平宗盛は11歳で
従五位下に叙せられています。
叙爵の年齢は父の平清盛や
長兄の平重盛より早く、
正室・時子の長子として
優遇されていた様子がうかがえます。

【二条親政期】
平治元年(1159年)12月、
平治の乱が勃発し、
二条天皇を内裏から六波羅に
脱出させることに成功します。
官軍の立場を得た平清盛は
藤原信頼・源義朝を打ち破り、
乱は平氏の勝利に終わりました。
12月27日、
乱を鎮圧した勲功を賞する除目が行われ、
平宗盛は遠江守となりました。
前任者の平重盛が伊予守に
任じられたことによる後任人事でした。
翌年の永暦元年(1160年)正月には、
異母兄・平基盛と任国を交代して淡路守となります。
2月には同母弟の平知盛が武蔵守となりますが、
これらの国はいずれも平清盛の知行国でした。

【後白河院院政派VS二条親政派】
11月、鳥羽法皇の遺言で
家長となっていた美福門院が死去し、
後白河院政派と二条親政派の対立が本格化します。
応保元年(1161年)9月に
憲仁親王(後白河上皇の第七皇子、後の高倉天皇)
立太子の陰謀が発覚すると、
二条天皇は院近臣を解官して
後白河上皇の政治介入を停止しました。
二条天皇は親政確立に意欲を見せ、
蔵人頭・中山忠親に対して
直接御前に来て奏上するように命じますが、
その連絡役を務めたのは平宗盛でした。
平清盛は二条親政を支持する姿勢を示すために、
平宗盛を二条天皇の側近として
送り込んでいたものと推測されています。

【馬寮を平家一門で独占】
応保2年(1162年)10月28日、
平宗盛は左馬頭となります。
左馬頭は宮中の軍馬を管理する
馬寮の長官であり、
平治の乱以前は源義朝が務めていました。
軍事貴族にとっては
極めて重要な官職であり、
平治の乱以降は平重盛が任じられています。
この日、平重盛は右兵衛督となっているので、
これもまた、平重盛が
左馬頭を辞任したことによる
後任人事と見られています。
なお、平宗盛が辞任した後の左馬頭は
平重衡であり、
馬寮を平氏一門で独占しようとする
平清盛の強い意思が感じられます。

【後白河上皇を支持】
長寛2年(1164年)4月、
関白である近衛基実と
平宗盛の妹の盛子の婚姻が成立すると
平宗盛は重衡と共に
摂関家政所の別当になりました。
平清盛の意図は二条天皇と
摂関家に接近することで
平家の勢力を拡大することでしたが、
永万元年(1165年)に二条上皇が、
翌年に近衛基実が相次いで死去したことで、
後白河上皇を支持する方針に変わっていきます。
仁安元年(1166年)10月10日、
後白河上皇は憲仁親王の立太子を行い、
翌月には平清盛を内大臣に任じました。
平宗盛は五節の節会において、
平重盛・平知盛とともに舞姫を献じています。




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【建春門院の猶子】
翌年の仁安2年(1167年)5月、
平清盛は太政大臣を辞任し、
平重盛が平氏の棟梁となりました。
8月、平宗盛は位階が上の
叔父の平頼盛を超えて参議に補され、
一門において平重盛に次ぐ地位を確保しました。
翌月、後白河上皇と寵妃平滋子
(建春門院、平宗盛の生母時子の異母妹)は
熊野参詣を行い、平重盛と平宗盛も付き従いました。
この時、平重盛が後白河上皇の供をしたのに対して、
平宗盛は平時忠・平親宗
(ともに時子と滋子の兄弟で、宗盛の伯父)
らと並んで滋子の供をしています。
平宗盛は母・時子との関係から
滋子の猶子となっていました。
滋子が女御・皇太后・女院になった際には、
家司・皇太后宮権大夫・女院別当となるなど
一貫して滋子の側に仕え、
妻に滋子の同母妹の清子
(高倉天皇の典侍、中納言三位)
を迎えています。

【平氏群の中核を担う】
嘉応元年(1169年)12月の嘉応の強訴で、
後白河法皇は防御のために武士を招集。
武士を率いていたのは平重盛・平宗盛・平頼盛で、
兵力の内訳は平重盛が200騎、平宗盛が130騎、
平頼盛が150騎でした。
平宗盛は重盛・頼盛に次ぐ兵力を動員しており、
平氏軍の中核を担うまでになっていたのです。
嘉応2年(1170年)12月、
平宗盛は権中納言に昇進します。
翌年正月の高倉天皇元服の儀式では
装束の奉仕を務めました。

【政権の動揺】
安元2年(1176年)7月、滋子が死去します。
すると今まで隠されていた平氏と
後白河法皇の対立はしだいに
顕在化していきました。
最大の庇護者を失った平宗盛は
年末に権中納言を辞任しますが、
翌年の安元3年(1177年)正月に
平重盛が左大将になったことに伴い、
還任して空席となった右大将に任じられました。
両大将を平氏が独占となりましたが、
平宗盛は滋子の猶子であり
後白河法皇との関係も良好でした。
後白河法皇は2月3日の平宗盛の拝賀に、
殿上人を遣わしている程です。

【鹿ケ谷の陰謀】
3月、後白河法皇が福原を訪れたことで
対立は緩和されたかに見えましたが、
4月になると延暦寺
加賀守・藤原師高の流罪を要求して
強訴を起こします。
後白河法皇は天台座主である明雲を
解任及び配流とするなど、
強硬な態度でした。
この事件で平重盛と平宗盛は、
延暦寺との衝突を何とか回避しようと
懸命になっていたのでした。
5月末に平清盛が上洛して
後白河法皇と会談を行いましたが、
後白河法皇の意思は固く
延暦寺攻撃が決定されました。
その直後の6月1日、
西光・藤原成親らによる
平氏打倒の陰謀が発覚しました。

【平重盛の失脚】
院近臣の中核だった西光・成親が
殺害されたことで、
後白河法皇は
平氏への屈服を余儀なくされます。
平重盛も義兄の藤原成親が
関与していたことで面目を失い、
政治的地位を失墜させました。
平宗盛も後白河法皇とは近い関係にあり、
難しい立場となったことに
変わりはありませんでした。
けれども平重盛が事実上の
失脚状態となったことで
平宗盛は表舞台に立たざるを得なくなり、
翌年の治承2年(1178年)4月、
権大納言になります。

【妻の清子の死】
5月24日、徳子の懐妊が明らかとなり、
翌月には平宗盛の妻である清子が
乳母に選ばれました。
ところが、清子は腫物が悪化して
7月16日に死去してしまいます。
この時、平宗盛は悲嘆のあまり
右大将を辞任しています。
11月に徳子が言仁親王
(高倉天皇の第一皇子、後の安徳天皇)
を出産すると、
ただちに親王宣下と立太子が行われました。
平宗盛は右大将に復帰して
春宮大夫となりましたが、
すぐに大夫の地位を
花山院兼雅に明け渡しました。
妻の死後、平宗盛は政治への意欲を失ったらしく、
翌年の治承3年(1179年)2月には
権大納言・右大将も辞任してしまいます。




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【治承三年の政変】
6月に盛子、7月に平重盛が相次いで
死去したことを契機に、
後白河法皇はその荘園及び知行国を没収します。
さらに平清盛の娘婿である
近衛基通を無視して、
松殿基房の子・師家を権中納言に任じました。
これに激怒した平清盛は、
11月14日に上洛してクーデターを起こします。

【クーデターの後始末】
平宗盛はその直前の11日、
厳島神社へ参詣に向かっていました。
平清盛に対する消極的な批判だったと思われますが、
途中で呼び戻されて同道することになります。
結果は、基房の解任・配流、反平氏公卿・殿上人・
受領の大量解官、後白河法皇の幽閉・院政停止であり、
それらの措置を済ませると平清盛は福原に引き上げました。
京都に残された平宗盛は、相談もなく始まった
クーデターに困惑していましたが
後始末をつけねばならず、
院近臣の追捕・所領の没収を行いました。
そしてこの時に以仁王の所領を没収したことが、
のちの以仁王の挙兵の直接的な原因となるのでした。

【高倉院政】
翌年の治承4年(1180年)2月に
安徳天皇が践祚して、
高倉院政が開始されました。
院庁の執事別当には四条隆季が就任し、
平時忠・藤原長方・吉田経房・土御門通親・
日野兼光など実務に長じた貴族が、
政務に未熟な高倉上皇を
補佐することになりました。
平宗盛は政権に直接的には加わらず、
平知盛が軍事の中枢ともいえる
御厩別当に任じられています。
譲位後の3月、
高倉上皇は厳島神社に御幸しますが、
参詣に反対する園城寺・興福寺・延暦寺では、
僧徒の中に後白河法皇・高倉上皇の身柄を
奪取しようとする動きがあったため、
平宗盛は平知盛・平通盛・
平経正らに命じて警護を厳しくしました。
平宗盛は福原まで供奉しましたが
洛中不穏のため、
平清盛の命により京都へ引き返しました。

【以仁王の謀反】
4月には安徳天皇の即位式が行われた
直後の5月に以仁王の謀反が明らかになりました。
16日、以仁王を匿う園城寺との間で
身柄の引渡し交渉が行われましたが決裂。
平宗盛以下10人の大将による
園城寺攻撃が決定します。
ところがそのうちの一人だった
源頼政が以仁王に合流し、
延暦寺大衆300人の参加、
さらには興福寺の蜂起といった
情報も伝えられるなど、
事態は一挙に深刻になり、
洛中は混乱に陥りました。
26日、平氏軍が以仁王と
源頼政を討ち取ったことで乱は終息しました。

【平家の嫡流は平宗盛】
30日、追討の賞として平宗盛の子である
平清宗が従三位に叙せられました。
平清盛の孫では最初の公卿であり、
年長である平維盛・資盛
(ともに重盛の子)を超えたことで、
平家の嫡流が小松家から
平宗盛に移ったことを示すものとなったのでした。

【福原行幸の強硬】
6月に入ると、平清盛は突如として
福原行幸を強行させます。
平宗盛は四条隆季・藤原邦綱とともに、
高倉・後白河両院の御幸の列に供奉しました。
新都建設計画が
準備不足により難航したため、
反対意見も出されましたが
平清盛に一蹴されてしまいます。




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【還都】
8月から全国各地で反乱の火の手が上がり、
富士川の戦いで追討軍が
大敗したという報告が届くと、
平宗盛は還都を進言して
平清盛と激しい口論となり、
周囲の人々を驚かせたのでした。
従順だった平宗盛までが
反対意見を述べたことで、
今まで押さえ込まれていた
還都論は一挙に再燃したのでした。
平清盛も還都に同意せざるを
得なくなり、23日に一行は福原を出発、
26日に帰京しました。

<平家越(へいけごえ)>
治承4年(1180年)、
源氏と平家の大軍が
富士川をはさんで対陣した折、
アシの中から飛び出した水鳥の羽音を
源氏の攻撃と間違えて
平家軍が敗走した場所と伝えられています。
平家越

<所在地>
静岡県 富士市 新橋町11
※専用の駐車場はありません。

【高倉上皇の崩御と後白河法皇の院政再開】
翌12月から追討が本格化しますが、
近江国で早くも反乱軍に行く手を阻まれ、
苦戦が続きます。
南都焼討により畿内の反平氏勢力は
ひとまず鎮圧されましたが、
翌治承5年(1181年)正月14日、
容態が悪化していた高倉上皇が崩御しました。
幼い安徳天皇は
政務を執ることができないため、
後白河法皇の院政再開は
避けられないものとなりました。

【畿内惣官】
正月19日、高倉上皇の遺言と称して
平宗盛に畿内惣官の宣旨が下ります。
これは五畿内・近江・伊賀・伊勢・丹波の
9ヵ国にまたがる強力な軍事指揮権であり、
軍事作戦遂行のために
必要な諸権限を平氏が
全面的に掌握することを
公的に認めるものでした。
2月7日には丹波国に諸荘園総下司職が
設置されるなど、
反撃の準備が整えられていきました。
翌閏2月には、
関東への追討使として
平宗盛が自ら出馬する予定でしたが、
平清盛の病が
予断を許さない状況となり
派兵は延期となったのでした。

大阪の街

【平清盛の死去】
閏2月4日、平清盛は死去しました。
平清盛の死によって、
平宗盛が平氏の棟梁の座を継ぎました。
平清盛は死の直前、
後白河法皇に平宗盛と協力して
政務を行うよう奏上しましたが、
返答がなかったため、
恨みを残して
「天下の事、偏に前幕下の最なり。
異論あるべからず」
と言い残したということです。

【後白河法皇の院政再開と追討続行】
平清盛の死後、平宗盛は
後白河法皇に恭順する姿勢を示しました。
平宗盛の発言を受けて、
後白河法皇は公卿議定を開いて
追討の中断を決定します。
静憲が平宗盛に議定の決定を伝えると、
平宗盛は追討使として
平重衡を下向させることを理由に、
追討のための院庁下文を
発給することを要求しました。
静憲の抗議に、平宗盛は
「頼盛・教盛等の卿を招き相議し、
重ねて申さしむべし」と返答しました。




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【軍事的な権限は離さず】
後白河院政の再開は認めても、
平清盛が生前に残した惣官体制により
軍事的な権限は依然として
平氏が掌握していました。
3月10日、平重衡率いる追討軍は
墨俣川の戦いで源行家を破り、
美濃・尾張は平氏の勢力下に入りました。
東国の戦況が好転したことで、
平宗盛は鎮西反乱の鎮圧に乗り出します。
4月10日、平宗盛の強い推挙で
原田種直が大宰権少弐に補され、
4月14日には菊池隆直追討宣旨が下されます、

【平氏、次第に劣勢に】
けれども、墨俣川の戦いの直後には
早くも官兵の兵粮は尽き始め、
6月には横田河原の戦いで城助職が惨敗、
7月には北陸道でも反乱が起こり
能登国の目代が逃亡しました。
貴族の所領を奪って
武士に給与するという
非常手段に出ましたが、
違背者が続出して効果はありませんでした。

【和平案に拒否を示す】
このような中で、源頼朝は後白河法皇に
密奏を行ったのでした。
戦乱の長期化は荘園領主にとって
年貢納入の激減となるので、
後白河法皇は平宗盛に和平を打診しました。
平宗盛は後白河法皇が源頼朝
独自に交渉したことを咎めず、
その和平案にも一定の理解を示しながらも、
平清盛の遺言を盾に拒否しています。

【戦線の停滞】
8月になると平宗盛は追討使として
平貞能を鎮西に、
平通盛・平経正を北陸に派遣します。
14日には北陸道追討宣旨が下りますが、
京都にいる兵力だけでは
反乱鎮圧が困難であるので、
藤原秀衡が陸奥守、
城助職が越後守となりました。
現地の豪族が
国司になることは前代未聞のことだったのでした。

【重要な食料補給路である北陸道】
北陸道は平氏の知行国が多く、
京都への重要な食料補給路であり、
兵站地として要確保の地域でした。
けれども平通盛は越前水津で敗れ
越前国府を失陥し、
平経正も若狭国境を越えることができず、
北陸道は反乱軍の手に落ちます。
鎮西に向かった平貞能も
備中に逗留して
兵粮の欠乏を訴える有様でした。




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【実現しなかった大規模遠征】
10月になると平宗盛は、
北陸道に知度・清房(宗盛の異母弟)・
重衡・資盛、東海道・東山道に
維盛・清経(重盛の子)、
熊野に頼盛の子息2名を派遣するという
大規模な遠征計画を立てます。
最も重要な洛中守護は
宗盛・教盛・経盛・頼盛・知盛が担当しました。
この時、平宗盛とともに
洛中に留まった者が
政権中枢にあったと考えられています。
平宗盛の地位を脅かす障害は
平重盛の小松家であり、
小松家は危険な遠征軍として
最前線に送られることになったのでした。
けれども遠征計画は延引を繰り返して
結局は実施されず、
11月には北陸道に派遣されていた
平通盛も京都に引き返したのでした。

【後白河院の動き】
一方、後白河法皇は
平家の傀儡とならないように、
勢力基盤の回復に努めていました。
4月10日に安徳天皇を
八条頼盛邸から閑院に遷し、
11月25日に徳子が
院号宣下を受けると
殿上人を自ら清撰しています。

【息を吹き返した院政派】
上記の目的は天皇と母后を
平氏から引き離す狙いであったと考えられています。
翌養和2年(1182年)3月には、
壊滅状態だった院政派も息を吹き返します。
平宗盛は政治的発言力を高める
後白河法皇への対応に苦慮していたらしく、
平家と後白河法皇の連絡交渉を担当する
平親宗に八つ当たりとも
取れる発言をしているとのことです。

・・・ある意味、日本一の大天狗の犠牲者ともいえます。

【日和見的態度の貴族層】
最も、九条兼実に代表される貴族層は
日和見的態度を取ったので、
後白河法皇も一挙に
主導権を握ることはできませんでした。
この年は養和の飢饉の影響で
大規模な軍事活動は行われず、
内外の情勢は一種の膠着状態となりました。
9月4日、平宗盛は権大納言に還任し、
10月3日には内大臣となります。
11月24日には、
戦乱で延期されていた
安徳天皇の大嘗会が執り行われました。

【北陸追討軍】
寿永2年(1183年)2月21日、
安徳天皇は初めて後白河法皇への
朝覲行幸を行いました。
この時、平宗盛は翌3月に
追討使を発向させることを計画し、
嫡子である平清宗の妻に
平頼盛の娘を迎えることで
一門の結束を図っていました。
2月27日、平宗盛は内大臣を辞任。
辞任の前に時忠・頼盛・知盛・重衡・親宗
が集まっているので、
一門の総意だったと推測されています。

追討使の発向は遅れ、
4月9日にようやく北陸征討が
伊勢以下16社に祈願され、
4月17日、平維盛を総大将とする
10万騎とも言われる大軍が北陸道に下向します。
養和の北陸出兵をはるかに
上回る規模の動員であり、
兵粮徴発の過程で武士の狼藉が多発しました。
狼藉停止の訴えが殺到しましたが、
平宗盛は耳を貸さなかったのでした。




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【北陸追討軍の壊滅】
しかし、平氏が総力を結集して
送り込んだ追討軍は5月11日の
倶利伽羅峠の戦いで壊滅し、
これまで維持されてきた
軍事均衡は完全に崩壊しました。
敗軍は京都に逃げ帰り、
木曾義仲軍は6月13日には
近江に進軍していきました。
平宗盛は鎮西から帰還する
平貞能の軍勢に期待していましたが、
平貞能が京都に引き連れた軍勢は
わずか1000余騎に過ぎず、
これでは戦力にならなかったのでした。

【延暦寺の懐柔に躍起となる】
6月末、京都を守る最後の砦の延暦寺では、
源氏に味方しようとする大衆と
源平両氏の和平を模索する
僧綱の間で対立が起こっていました。
平家は、平宗盛以下公卿10人が
「延暦寺を平氏の氏寺に、
日吉社を氏社とする」
という起請文を連名で出し、
延暦寺の懐柔に躍起となっていました。

比叡山延暦寺

【木曾義仲軍・源行家軍がせまる】
木曾義仲軍が近江勢多に、
源行家軍が伊賀国に到達したため、
平忠度率いる100騎が丹波国に、
平資盛及び平貞能率いる3000騎が
宇治を経て近江に向かいました。

22日になると延暦寺の僧綱が下山して、
木曾義仲軍が東塔惣持院に
城郭を構えたことを明らかにしました。
丹波の平忠度は撤退し、
平資盛及び平貞能は宇治で
源行家軍に行く手を阻まれ、
摂津国河尻では多田行綱が
船を差し押さえ、
平氏の補給路を遮断していました。
平宗盛は一門の中核である
平知盛及び平重衡率いる3000騎を勢多に、
平頼盛を山科に投入しましたが、
もはや京都の防衛は
絶望的な情勢だったのでした。

【後白河法皇の脱出】
平氏が後白河法皇・安徳天皇を擁して
西国に退去する方針は
決定していたと思われます。
西走計画自体は、
かなり早い段階から練られていたようです。
けれども後白河法皇は、
法住寺殿を脱出して延暦寺に向かったのでした。
後白河法皇脱出の報は
寅の刻(午前4時)頃から徐々に流れ、
辰の刻(午前8時)頃には事実と判明しました。
動転した平宗盛は六波羅に火を放ち、
安徳天皇・建礼門院・近衛基通・
一族を引き連れて周章駆け出しました。
しかし、3年前の福原行幸と異なり、
安徳天皇や平家に付き従う者は少なく、
平頼盛や小松家は離脱の動きを見せ、
同行していた近衛基通も途中で引き返しました。
平頼盛と近衛基通は京都に残留し、
小松家は後白河法皇と
連絡が取れなかったため、
やむを得ず平宗盛の後を追ったのでした。

後白河法皇は27日に京都に戻り、
28日に「前内大臣が幼主を具し奉り、
神鏡剣璽を持ち去った」として
平家一門追討宣旨を下します。
ここに平家は賊軍に転落することになり、
味方を集める事が困難となったのでした。

【逃避行】
平宗盛は一門を引き連れて、
福原から海路を西へ落ち延びます。
目指す先は九州の大宰府でした。
大宰府は日宋貿易の拠点として
平氏が勢力を扶植していた地域であり、
平氏の家人・原田種直が
現地の最高責任者である
大宰少弐となっていました。
平家一門は8月中旬には九州に上陸しましたが、
豊後の臼杵、肥後の菊池は
形勢を観望して動かず、
宇佐神宮との提携にも失敗するなど
現地の情勢は厳しいものでした。
特に豊後は院近臣・難波頼輔の知行国であり、
後白河法皇の命を受けた
緒方惟栄が平家追討の準備をして
待ち構えていたのでした。
緒方惟栄が平重盛の家人だったことから
平資盛が説得に赴きましたが、
交渉は失敗に終わったのでした。




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【後白河法皇、黙殺する】
9月、平宗盛は後白河法皇に
事態の打開を図るべく書状を送りました。
しかし後白河法皇は平宗盛の提案を黙殺し、
木曾義仲に平家一門の追討を命じています。
結局、平家一門は10月には
九州の地を追われ、
再び海上を漂うことになったのでした。

【勢力回復】
九州を追われた平家は、
阿波国の田口成良の支援により
四国に上陸します。
この時、木曾義仲軍は
妹尾兼康を討って
備中国まで進出していました。
平宗盛は戦闘を回避するため、
木曾義仲に使者を送りましたが、
木曾義仲は応じませんでした。
閏10月1日、
平氏軍は四国渡海を試みる
矢田義清を水島の戦いで破り、
木曾義仲軍の進撃を食い止めます。
さらに後白河法皇と源頼朝の提携を聞いた
木曾義仲が京都に急遽引き返すという
幸運にも恵まれ、
平宗盛は屋島に内裏を建設して
新たな本拠地としました。
これにより平家は、
東の屋島、西の彦島を押さえて
瀬戸内海の制海権を掌握し、
勢力回復に成功したのでした。

瀬戸内海(周防大島)

平宗盛は木曾義仲軍が撤退すると
反攻に転じ、閏10月中旬には
早くも海を渡って備前国に進出します。

【木曾義仲の敗死】
11月29日には室山の戦いで
源行家を破り、播磨国・室の津を
支配下に置きました。
一方、法住寺合戦で
後白河法皇を幽閉した木曾義仲は、
源頼朝と対決するため
平家一門との和平を
模索するようになっていました。
12月頃から本格化した交渉は、
翌年の寿永3年(1184年)正月には
「和平の事已に一定」という段階まで
漕ぎ着けたのですが、
土壇場で木曾義仲と源行家の素行や
後白河法皇及び平家への仕打ち等が問題となり、
結局は実現しませんでした。
孤立無援となった木曾義仲は、
正月20日、
源範頼及び源義経軍の攻撃により敗死しました。

一ノ谷の戦い
平家は寿永3年(1184年)の正月には
福原に前線基地を設けて
都を伺うまでになっていましたが、
木曾義仲の滅亡により
源頼朝軍と対峙することになったのでした。
21日の公卿議定は、
神鏡剣璽の安全のため
使者を派遣すべきという
意見が優勢でしたが、
後白河法皇の叡慮により
平家追討が決定します。
26日、源頼朝に平家追討宣旨が下され、
源範頼及び源義経の率いる
平家追討軍は正月末に西国へ下向したのでした。

【配備】
福原に陣営を置いた平宗盛は、
東の生田口に平知盛、
西の一ノ谷口に平忠度、
山の手の鵯越口に平盛俊を配備して、
強固な防御陣を構築しました。
福原は北に山が迫り、
南に海が広がるという
天然の要害でした。
東西の守備を固めれば
難攻不落と思われたのです。
2月5日、三草山の戦いで平資盛が敗退すると、
平宗盛は山の手に増援として
平通盛・教経を向かわせて、北の守備も固めました。

【平家の敗北】
けれども2月7日の一ノ谷の戦いは
平家軍の一方的敗戦に終わり、
平宗盛らは命からがら
屋島に落ち延びたのでした。
戦後、後白河法皇は捕虜となった
平重衡を介して平宗盛に
神器の返還を求めていますが、
これに対する平宗盛の返書には
「6日に修理権大夫から和平交渉を
行うという書状が届いた。
合戦してはならないという
院宣を守り使者の下向を待っていたが、
7日に源氏の不意打ちがあった」
という内容が記されていたとのことです。

【平家の大損害】
この戦いで平家は平忠度・清房・清貞・知章・
通盛・業盛・経正・経俊・敦盛・師盛などの一門や、
有力家人の平盛俊を失い、
再起不能とも言える損害を蒙ったのでした。
また、小松家の維盛・資盛も
平家本隊から離脱したのでした。

【最後の和平交渉の打ち切り】
平宗盛は軍事力での
京都奪還を断念したらしく、
神器・天皇・女院の帰京と引き換えに
讃岐国を知行国として
安堵するよう
後白河法皇に嘆願しています。
けれども後白河法皇は
神器よりも平家追討を優先していたので、
全く取り合わなかったのでした。
平重衡が関東に送られたことで、
この最後の和平交渉は打ち切りとなったのでした。




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【屋島の戦い】
一ノ谷の戦いで陸上兵力の大部分を失ったことで、
平家は屋島・彦島の海上基地を
生命線としてひたすら防御を固めました。
9月に源範頼軍が西国に侵攻すると
平家は陸上戦闘を回避し、
水軍により断続的な攻撃を行うことで
戦局を打開しようとします。
源範頼軍は長門国に達しましたが、
水軍力の不足から彦島を攻略できず、
兵粮の欠乏や軍の士気低下に陥ってしまいます。
元暦2年(1185年)正月8日には、
源義経が後白河法皇に
源範頼軍敗退の恐れもあると
奏上するなど、
状況は平家にとって有利に展開していたのでした。

【源義経の奇襲】
しかし、直後の2月に
平家の本拠地である屋島は
背後から義経軍の奇襲を受けてしまいます。
屋島の防備は海上に向けられいる反面、
陸上からの攻撃は想定しておらず、
折りしも田口教能率いる
平家軍の主力は
伊予国の河野通信討伐のため不在であり、
防備は手薄だったのでした。
屋島の内裏は炎上し、
狼狽した平宗盛は海上に逃れます。
海上退避は田口教能が戻るまでの
時間稼ぎだった可能性もあるそうですが、
何と田口教能は戦わずして
源義経の軍門に下ってしまいます。
こうして平家は本拠地だけでなく、
瀬戸内海の制海権も失うことになったのでした。

【葦屋浦の戦い】
また時を同じくして
九州に渡海した源範頼軍に
原田種直が撃破され、
平家は完全に包囲される形となったのでした。

【壇ノ浦での戦い】
平家は彦島に残存兵力を結集して
最後の戦いを挑みましたが、
3月24日、壇ノ浦の戦いで滅亡しました。
平知盛・平経盛・平教盛ら一門が入水する中、
平宗盛は死にきれずに
泳ぎ回っていたところを
息子の平清宗とともに
引き上げられ捕虜となりました。
「愚管抄」は
「宗盛は水泳が上手なため、
浮き上がり浮き上がりする中に、
生きたいと思うようになった」とありますが、
「平家物語」は
「西国で死ぬはずだった身が、
生きながら捕らわれて、
京・鎌倉に恥を晒すのも、
右衛門督のためだった」という
平宗盛の言葉を記しており、
子への愛情が死をためらわせ
る原因だったとしています。

【帰京】
4月26日、平宗盛は
他の捕虜とともに帰京しました。
浄衣を着た平宗盛は、
簾を上げた車に平清宗と同車して、
大路を渡されました。
車は武士(土肥実平・伊勢義盛)
が厳しく警護し、
見物人が群れを成して見送ったということです。

【鎌倉へ】
5月7日、平宗盛と平清宗は
源義経に連行されて鎌倉に向かいました。
平宗盛は輿に、平清宗は騎馬に乗り、
5月16日、鎌倉に入りました。
6月7日、平宗盛は敗軍の将として
源頼朝の前に引き出されました。
源頼朝は勝者として
簾の中から平宗盛を眺め、
比企能員に自らの言葉を伝えさせました。
「吾妻鏡」や「平家物語」によりますと、
平宗盛は卑屈な態度に
終始して助命を乞い、
集まった者から非難・嘲笑されたということです。

【平宗盛の最期】
6月9日、平宗盛は京都に送還され、
21日に源義経の命を受けた
橘公長の手により、
近江国篠原宿で斬首されたということです。
享年は39歳でした。
嫡男の平清宗、次男の平能宗(幼名・副将)、
その他男児二人(名前は不明)も
順次処刑され、これにて平宗盛
の男系血統は途絶えたのでした。
なお「平家物語」では「父子とも野洲で」、
「源平盛衰記」では
「6月22日に父子とも勢多で斬られた」
とも記されています。

【史跡】
滋賀県野洲市(やすし)大篠原の山林には、
平宗盛の胴塚が残されています。
さらに近くには、平宗盛の首を洗ったと伝えられる
「首洗い池」がありましたが
2000年前後の土地開発時に失われたそうです。
2021年には、地元住民有志が
歴史伝承の一環として池を復元したとのことです。




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【平宗盛の人となり】
<平家物語>
「平家物語」での平宗盛は
優れた人物である兄の平重盛と比較して、
愚鈍な上に傲慢な性格で、
思い上がった振る舞いが多く、
そのために他の氏族の
反感を買う行為ばかりしていた
愚かな人物とされています。

けれども処刑の直前の最期の言葉が
「右衛門督(清宗)もすでにか」
と我が子を思うものであるなど、
子への愛情が深い人物でもあったようです。

<吾妻鏡>
「吾妻鏡」では
源頼朝は壇ノ浦の戦いの直前、
弟の源範頼に宛てた書状で、
「極めて臆病で自害などはできない」旨を記している。
鎌倉に護送された際は、
勧められた食事もとらずに
泣いてばかりいて、
源頼朝との対面では
弁明もできずひたすら出家と助命を求め、
これが平清盛の息子かと非難されたとのことです。

<「玉葉」>
「玉葉」では、平清盛没後に、
平宗盛が大食らいのため
腹の病になった噂があったり、
安徳天皇の大嘗会御禊行幸の儀式で
口取りが引く馬から
二度も落馬するなど、
武家の棟梁としては
あるまじき失態を見せています。
また「父は遺恨があれば、ただちに仕返しをした。
私は事を荒立てないよう
知らぬふりをする」という
平宗盛の人物像を象徴するような
言葉があるとのことです。

また養和2年3月条には
妻が出産で亡くなった時には
官職を返上してその死を嘆き、
その妻の遺言で
遺児である副将(能宗)を
乳母に預けず自分の男手で育てており、
前述の「平家物語」での
子を思う気持ちのやり取りなど
妻子への情愛深い家庭人であった事が伺えます。

<「愚管抄」>
「愚管抄」には
「宗盛は水泳が上手なため、
浮き上がり浮き上がりする中に、
生きたいと思うようになり生け捕られた」とあるそうです。

【実務能力での再評価】
平宗盛の能力についても、武勇はともかく、
兵乱の時代を終え
王権と結合して政治的に安定した
平家政権において求められた、
公家社会における
実務能力の高い人物として
再評価する考えもあるとのことです。

実務能力の高い御仁は何時の世も
疎まれてしまうものです。
梶原景時明智光秀石田三成しかり。
是非ともその名誉回復を願うばかりですね。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
小泉 孝太郎(こいずみ こうたろう)さんが
演じられます。

平清盛~平家の黄金期を築いた棟梁~先見性と革新的思考で時代を切り開き後世に託す。

平知盛~入道相国最愛の息子、一門の最後を見届け散り行く様は歌舞伎になりました。

平維盛~平清盛の嫡孫で桜梅少将と称される美貌の貴公子でしたが、最期は自ら散ります。

源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

武田信義~甲斐源氏であり武田氏の初代当主となり、武田信玄の遠いご先祖様です。

後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。

木曾義仲(源義仲)河内源氏の一族で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を備えていたが武骨で公家文化には疎かった

藤原秀衡~奥州藤原三代当主にて最も平泉を繁栄させ、源義経を二度庇護した人物です。

源行家~平治の乱から熊野に隠れて20年、交渉力はあるが戦下手で、武将よりも別の才能があった人物。

土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。

比企能員~源頼朝を支え有力御家人として権勢を握るも北条氏に嵌められ1日で滅ぶ。

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

安芸高木山城について・沼田荘の開発領主であった沼田氏の居城であり、平家と共に壇ノ浦で滅びました。

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