鎌倉殿の13人

土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。

土肥実平と夫人像




土肥実平

土肥 実平(どひ さねひら / どい )は、
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将です。
桓武平氏良文流中村宗平の次男でした。
相模土肥氏の祖であり、小早川氏の祖とされてます。

相模国の有力豪族中村氏の一族で、
足下郡土肥郷を本拠とし
(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町)
早川庄預所を務め、
父や弟の土屋宗遠と共に
相模国南西部において
「中村党」と称される有力な武士団を形成していました。

現在のJR東海道本線湯河原駅から
城願寺の辺りが居館であったと言われています。

土肥実平の居館跡

【生誕】
不詳
【死没】
建久2年11月25日(1191年12月13日)?
承久2年(1220年)11月?

【別名】
次郎、万寿冠者

【墓所】
神奈川県湯河原町の万年山城願寺

【幕府】
鎌倉幕府

【主君】
源頼朝

【氏族】
桓武平氏良文流、中村氏・土肥氏

【父】
中村宗平

【兄弟】
中村重平、実平、土屋宗遠、二宮友平
堺頼平、岡崎義実室、伊東祐親室

【妻】
土肥の女房

【子】
遠平
新開実重⇒新開氏に養子

【相模・伊豆の武士の重鎮】
「曽我物語」によりますと、
安元2年(1176年)の伊豆奥野の狩場で行われた
河津祐泰曾我兄弟の父・伊東祐親の嫡男)と
俣野景久の相撲の判定を巡ってもめた際に、
老(おとな・長老)であった
土肥実平が仲裁に入ったとされるなど、
相模・伊豆の武士社会において
重鎮と見做される存在であったとされています。





【源頼朝挙兵】
治承4年(1180年)、
源頼朝が挙兵すると嫡男の土肥遠平
中村党を率いて参じています。
同じ相模・伊豆の有力な源氏方であった
鎌倉党や工藤党が内部分裂したのに対して
中村党は土肥実平を中心に一致して
参じたことで頼朝の信任を受けました。
山木兼隆を討った源頼朝が
土肥実平の拠点である土肥郷に入って
三浦氏との合流を図っています。

石橋山の戦い
石橋山の戦いで敗北した源頼朝が
わずか7~8騎で逃亡した際に
土肥実平も加わっていました。
「愚管抄」(巻5)によりますと、
源頼朝が箱根山で自害を覚悟した際に
土肥実平が自害の作法・故実を伝授したとされ、
「吾妻鏡」(治承4年8月24日条)では、
源頼朝と行動を伴にしたいと申し出る
加藤景員や宇佐美祐茂に対して、
土肥実平が今は敵に見つからないように
バラバラに逃げることが大事であると
説得したと記されています。
「源平盛衰記」で港も頼朝主従が
「しとどの窟」に隠れていたのを
梶原景時が見逃した逸話はこの時のことです。
この後、土肥実平の用意で
真鶴から房総半島の安房国へ脱出しました。

【土肥実平、活躍する】
源頼朝は千葉氏、上総氏らの参陣を得ると
反攻に出て、関東から大庭景親
平家勢力を駆逐することに成功します。
以後、土肥実平は富士川の戦い、
常陸国の志田義広討伐などに従軍します。
この間、奥州から源頼朝の陣を訪れた
源義経を取り次ぎ、
また源頼朝に降った梶原景時を
取り成したのも土肥実平であったと
共に「吾妻鏡」には記されています。

【鎌倉軍奉行】
寿永3年(1184年)1月、
宇治川の戦いにて源義仲討伐に従軍し、
合戦後、大江山に派遣され京の入口を守りました。
同年2月の一ノ谷の戦いでは
源義経の軍に属して戦います。
三草山の戦い後、
源義経は一万騎を二手に分け、
そのうち土肥実平は7000余騎を引きつれ、
一の谷の西の手に進んだとされています。
合戦後、吉備三国(備前・備中・備後)の
惣追捕使(守護)に任ぜられました。
山陽道を守り、源範頼の進軍を支援しました。
梶原景時と共に頼朝代官である
源範頼及び源義経の奉行として
遠征軍に派遣されており、
源頼朝の信任が厚かったと考えられています。
また鶴岡八幡宮の造営にも寄与したのでした。

寿永4年(1185年)3月、
壇ノ浦の戦いの後に
長門国と周防国の惣追捕使として
長府に居城を構えています。

【右近衛大将拝賀の随兵7人】
文治5年(1189年)、
奥州合戦に参加しました。
建久元年(1190年)に源頼朝が上洛した際、
右近衛大将拝賀の随兵7人の内に
選ばれて参院の供奉をしました。
ちなみに他の6名は、
北条義時
◆小山朝政、
和田義盛
◆梶原景時、
比企能員
畠山重忠
です。

【土肥実平の最期は?】
建久2年(1191年)7月18日、
厩の上棟奉行をしている記述(「吾妻鏡」)を最後に、
土肥実平の記述は史料としてはありません。
一説によりますと、源義経との関係の深さから
源頼朝と源義経の対立の影響を受けて政
治的に失脚したとする説があります。

「沼田小早川家系図」では、
建久2年(1191年)11月25日死去とされています。
けれども、所領であった
安芸国沼田荘では、
承久元年(1219年)に、土肥遠平とともに
土肥遠平の妻である天窓妙仏尼
(寺伝では源頼朝の娘)を弔うために
棲真寺(広島県三原市大和町平坂)
を創建した記録が残っており、
その頃まで生存していた可能性があります。
安芸の米山寺過去帳では
承久2年(1220年)11月死去とされています。
また、「吾妻鏡」
建久6年(1195年)7月13日条には
「土肥後家尼参上」とあることから、
この時以前に死去したとする説もあります。





【土肥実平の人となり】
生活は質実剛健で
奢侈を好まなかったらしく、
源頼朝からもその謹厳な暮らし、
振舞を称賛されていたとのことです。
「源平盛衰記」によりますと、
一ノ谷の戦い後に
平清盛の妾であった厳島内侍を
妾としたということです。

【土肥実平の妻】
JR湯河原駅前広場には土肥実平夫妻の像があります。
土居実平の妻は民や農民に姿を変えて敵を欺き、
杉山などに潜む源頼朝主従に食料を運び、
消息を伝えるなど、合戦時において
何とも心強い働きをしたとのことです。
「源平盛衰記」では武人の妻の鑑として
たたえられているとのことです。
土肥実平夫妻像

城願寺 (神奈川県湯河原町)には
土肥実平・土肥遠平親子をはじめ
土肥一族の墓所があります。
城願寺にある土肥一族の墓

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
阿南 健治(あなんけんじ)さんが演じられます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

石橋山の戦い~源頼朝旗揚げの地!300VS敵3000!大敗するも真鶴から安房へ逃れて再挙を図る。

中村宗平~中村党の祖で源頼朝を支えてきた武士団で、鎌倉党とは大庭御厨を巡る対立がありました。

しとどの窟(湯河原)・(真鶴)、隠れながら追手をかわして岩海岸から安房国へ船出しました。

富士塚城址~飯田五郎家義の居館跡で、石橋山の戦いで源頼朝を救った武将で渋谷重国の子です。

城願寺~神奈川県指定文化財となっている土肥一族のお墓と国指定天然記念物・ビャクシンがあります。

大乗院~土屋氏屋敷跡、土屋宗遠を祖とする土屋氏は北条氏・足利氏・武田氏・北条氏政・徳川家に仕えました。

真田城~神奈川県平塚市にある真田の郷、真田與一義忠(佐奈田義忠)について。

岡崎義実~代々源氏の家人で特に忠義心厚い人物。三浦一族だが中村党とも深い関係で真田与一の父親です。

三原城 (続日本100名城)・小早川隆景が築城した三原の街歩きをしたくなるほど大規模な海城。

備後桜山城(三原市)~三原城の詰城~山頂から三原市街や瀬戸内海が一望できるそうです。

新高山城 (続日本100名城)~小早川隆景築城の断崖絶壁のお城!

高山城~小早川(本家)氏の居城で隠れた人気のある山城です。

三太刀(みたち)城跡~小早川氏の祖である土肥遠平の御館か?~相模から安芸国沼田荘へ。

加藤景廉~頼朝挙兵以来の側近で承久の乱まで生き残る。長男は遠山氏の祖で有名となった子孫あり!

山木判官平兼隆館跡~源氏再興の狼煙はここから始まりました。

比企能員~源頼朝を支え有力御家人として権勢を握るも北条氏に嵌められ1日で滅ぶ。

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

大庭景親~坂東八平氏の鎌倉氏の一族~最期まで平家に忠誠を尽くした人物です。

長尾城跡(大船)・鎌倉氏系長尾氏発祥の地、南北朝から戦国時代おいて長尾氏は上杉氏の家宰職でした。

伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。

北条義時~鎌倉幕府2代執権・冷酷無情なリアリスト?現実を客観視して行動できる理想家なのか?

和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

安達盛長~源頼朝を流人時代から支え続け厚い信頼を得た人物。

中原親能~朝廷と幕府の交渉役のエキスパート~実務官吏でありながら戦にも従軍する

山内首藤経俊~源頼朝からは無益な者との評価でも母のお陰で地位は保全されました。

平宗盛~最後の平家の棟梁~偉大なる父の跡はいばらの道だらけ、イクメンで家族思いのパパでもありました。

安芸高木山城について・沼田荘の開発領主であった沼田氏の居城であり、平家と共に壇ノ浦で滅びました。

河津三郎祐泰と血塚・伊東祐親の嫡男で曽我兄弟の父親であり曽我兄弟の仇討はここから始まりました。

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