城跡

長尾城跡(大船)・鎌倉氏系長尾氏発祥の地、南北朝から戦国時代おいて長尾氏は上杉氏の家宰職でした。

長尾城跡



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【長尾城跡】

長尾城(ながおじょう)、
または長尾台の塁(ながおだいのるい)、
長尾砦(ながおとりで)、
長尾台城(ながおだいじょう)は、
神奈川県横浜市栄区長尾台町
(旧鎌倉郡長尾郷)にある日本の城跡(山城)です。
玉縄城の出城とされ、
また関東管領上杉氏の家宰である
長尾氏発祥の地と伝わっています。

【別名】
長尾台の塁・長尾砦・長尾台城

【城郭構造】
山城

【天守構造】
なし

【築城主】
長尾氏か?

【築城年】
不明

【主な城主】
長尾氏
鳥居伝十郎?

【廃城年】
天正18年(1590年)

【遺構】
曲輪・土塁・虎口・大空堀?

【指定文化財】
未指定

【再建造物】
なし

【地理地形】
横浜市と鎌倉市の境にある
標高70m弱の丘陵から
北東向きに伸びる約900mの
舌状台地に位置しています。

城域とされる範囲南端の標高68.7mの
丘陵最上位「南の峰」が
本城といわれていますが、
その南側は住宅地となり
自然地形が改変されており、
城郭の有無は判然とはしていません。
「南の峰」に向かう城道とみられる山道が
台地の東西両側から上っており、
斜面を登りきったあたりに
土塁と虎口が設けられています。

「南の峰」と、北東に伸びる「塚畑」と
呼ばれる台地との間には、
幅50mの一段低い堀切状平坦面があり、
「鎌倉市史」で「大空堀」
となっておりますが、
「日本城郭大系」では
あまりに大きすぎるため疑問を示し、
自然地形の鞍部に
切岸状の改変を加えたもの
ではないかとみているとの事です。

長尾城 塚

「塚畑」の台地は、
段状の平坦面を幾重にも
形成しながら北東方向へ
徐々に下がる地形で、
最高部に塚があります。
これには「和泉三郎」親子なる
人物の墓とする伝承があるということです。
塚畑西側の、一段低い平坦面地内には
「物見塚」と呼ばれる
30m×50mの台状地形がありますが、
戦闘時に城を守る側は、
これらの塚状または台状の地点を陣とし、
堀切状平坦面などに
侵入した敵軍を
迎撃したのではないかと
考えられているとのことです。

長尾城 説明板のあるところ

【城の歴史】
古くから長尾氏発祥の地と伝えられています。
「新編相模国風土記稿」には
「長尾景茂が居住していたが、
弘治年間(1555年⇒1558年)に戦死し、
その後は小田原北条氏被官である
鳥居伝十郎なる人物が
天正18年(1590年)の
小田原北条氏滅亡まで居城とした」
とする伝承を伝えています。
最も、長尾景茂は宝治元年(1247年)の
宝治合戦で戦死した人物であるので、
誤伝ともされています。

なお、城跡の北東山麓にある御霊社は、
寛治7年(1093年)に
長尾氏の祖とされている長尾景弘の
祖父の代に当たる鎌倉景村が
建立したと伝えられています。
その辺りに館があったと云われています。

長尾城 御霊神社

鎌倉党は「御霊神社」ですね。

【所在地】
〒244-0843 神奈川県横浜市栄区長尾台町349−3

【交通アクセス】
JR「大船」駅より徒歩20~25分程度。

【長尾氏】

長尾氏(ながおし)は、日本の氏族のひとつです。
古代の渡来系の東漢氏の後裔の長尾氏。
また関東地方に興った
武家長尾氏は本姓を
平氏(坂東八平氏)とし、
鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけ、
関東へ入部した上杉氏に仕えました。

【坂東八平氏】
坂東八平氏(ばんどうはちへいし)は、
平安時代中期に坂東(関東地方)に
下向して武家となった
桓武平氏流の平良文を祖とする諸氏です。
八つの氏族に大別されていたため、
「八平氏」と呼ばれ、
武蔵国周辺で有力武士団を率いた
代表格の家門です。
昌泰元年(898年)に
平高望が遥任国司が常態であった
上総介に任じられますと、
子の国香・良兼・良将を伴って
任地に下向し、
上総は元より、
国香は常陸大掾(大掾氏)、
良将は鎮守府将軍を勤めるなどして、
常陸国や下総国にも勢力を拡大し
坂東に武士団を形成していきます。
後に平将門や平清盛まで輩出する
武家平氏の基盤を固めました。
続いて高望の側室の子である良文も下り、
その子孫が坂東各地に散らばり勢力を扶植、
三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏などの
武家となっていきました。
この良文流の坂東平氏を指して
坂東八平氏と呼びます。
房総平氏(千葉氏、上総氏、相馬氏)
秩父平氏(秩父氏、畠山氏)
相模平氏
(三浦氏、鎌倉氏、長尾氏、大庭氏
梶原氏、土肥氏)など。




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【鎌倉氏系長尾氏】
長尾氏は桓武平氏の流れをくむ
鎌倉氏の一族です。

【鎌倉氏】
鎌倉氏(かまくらし)は、武家のひとつです。
本姓は桓武平氏です。
家系は良文流の系統で、
相模国鎌倉郡を中心に
勢力を伸ばした武士団です。
なお平氏ではなく、
相模の豪族の末裔だった
可能性も高いとのことです。
近年では、相武国造の子孫であったという説や、
鎌倉別の子孫説もありますが、
その説においても確証は曖昧です。
秩父平氏が、良質の銅と馬の生産を背景に
発展したのと同様に、
鎌倉党は製鉄技術により
発展した武士団といわれています。

【長尾氏の始まり】
長尾氏が鎌倉氏一門の
古い一族であることは確かです。
長尾の家名は、鎌倉景明の息子で
大庭景宗の弟である景弘が、
相模国鎌倉郡長尾庄
(ながおのしょう、現在の横浜市栄区長尾台町周辺)
に住んで長尾次郎(ながお じろう)
と称したことに始まリ、
坂東八平氏のひとつに数えられています。

相模国鎌倉郡長尾荘 御霊社

【鎌倉時代は不遇で滅亡の危機】
源頼朝が挙兵したとき平家の側につきました。
その後の平家滅亡後は
同族である三浦氏の配下となったのでした。
長尾新六定景は
公暁を討ち取るという功績も
挙げたのですが、
宝治合戦で一族が三浦氏に殉じたので
ほぼ全滅もしくは没落となったのでした。
その中で長尾景茂の子である
長尾家4代当主である長尾景忠 (四郎)は
数少ない生き残りとなりました。

【南北朝で上杉氏家臣へ】
長尾家のわずかな生き残りは、
鎌倉時代末期から
南北朝時代初頭頃に
関東へ入部した上杉氏の
筆頭家臣として栄えていきます。

【外戚関係の強化を図る】
長尾景基が婚姻関係によって
上杉藤成らの外祖父となり、
家中での地位を上げて
上杉家臣筆頭格となりました。
その後も、長尾氏は上杉氏との婚姻を繰り返して、
外戚関係を強化していきました。
上杉氏が関東管領として
関東及び越後に勢力を広げると、
その家宰や越後・上野・武蔵の守護代として
各地に諸家を分立させ繁栄していったのです。
通字は「景」です。

【鎌倉・足利長尾氏】
長尾家7代当主である長尾景忠
(南北朝時代から室町時代前期にかけての武士。
関東長尾氏の祖)の一族で
養子の長尾景直を祖とする家です。
長尾景直から嫡男景英の系統が
長尾氏宗家として重んじられました。
長尾景直の子である景英・満景が
鎌倉に居住していたことから
鎌倉長尾家と称され、
景英流と満景流を区別する際には、
後者を特に犬懸長尾家とも称したとのことです。
長尾満景は山内上杉家の家宰となり、
断絶した兄の長尾景英流の後継に
実子の長尾実景を据えて
両家を統合することで勢力をもちました。
けれども、長尾満景は上杉禅秀の乱で戦死し、
家宰職は総社長尾家に移ります。
その後、長尾実景が家宰職を得ますが
享徳の乱により主君である上杉憲忠
と共に命を落とし、
家宰職は、今度は白井長尾家に移りました。




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長尾実景の子である長尾景人は
上杉房顕に仕え戦功多く、
足利将軍家「由緒の地」である
下野国足利荘(栃木県足利市)を与えられ、
勧農城主として関東管領と敵対する
古河公方に対する抑えをなしたのでした。
長尾景人の子・長尾景長が幼少であったため、
犬懸長尾家を継いでいた
長尾景人の弟である
長尾房清が後見していましたが、
長尾景春の乱で山内上杉氏に反抗し、
続いて白井長尾家から後を継いだ
長尾景明父子も長尾景春(景明の甥にあたる)
に味方して没落しました。
成人した長尾景長は永正の乱において
上杉憲房に仕え、上杉顕実・長尾顕方を攻め、
家宰職を得たのでした。
以降、足利長尾家は
上杉憲政の関東退去まで、
家宰職を独占することになったのでした。
長尾景長の孫である長尾当長は、
同族である長尾景虎の越山に参陣し、
要地として館林城を与えられましたが、
上野長野氏が武田信玄に滅ぼされると
小田原後北条氏に降り、
越相同盟の成立に
由良成繁と共に大いに
貢献したということです。

長尾当長の婿養子である長尾顕長は、
沼尻の合戦の前に
兄の由良国繁と共に
北条方から離反しましたが、
北条氏直に敗れ、
小田原合戦で小田原北条氏と
運命をともにしたのでした。

【白井・総社長尾氏】
山内上杉家の祖上杉憲顕に仕えて
上野国と越後国の守護代を兼ねて
長尾氏を中興させた長尾景忠の子孫です。
代々上野国に土着し、
長尾景忠の孫のとき
白井(群馬県渋川市)を本拠地とする
白井長尾家と
総社(群馬県前橋市)を本拠地とする
総社長尾家(惣社長尾家)とに分かれました。
ただし、両長尾家とも
白井城・蒼海城(総社城)を
拠点にしていたのは戦国期のこととみられ、
それがいつまでさかのぼるのかは
現時点では不明です。

【長尾景春の乱】
白井長尾家は、
長尾景仲とその子である
長尾景信のとき、上野守護代、武蔵守護代、
山内上杉家家宰職を兼ねて重きをなしましたが、
長尾景信の死後、家宰職を総社長尾氏に
奪われた長尾景信の子である
長尾景春が山内上杉家に反乱を起こしました。
この乱で長尾景春は太田道灌に攻められ
鉢形城を失い、続く長享の乱では
白井城も失いますが、
永正の乱では越後の長尾為景
相模の伊勢盛時(北条早雲)と連携し
勢力を盛り返したのでした。
その後も白井長尾家は、
上野国で勢力を保持し、
山内上杉氏に対抗し続けたのでした。

【永正の乱・白井・総社】
総社長尾家は、白井長尾家に代わって
長尾忠景が家宰となりましたが、
長尾忠景の孫である長尾・顕方の代に
家宰職を足利長尾氏に奪われてしまいました。
その後、庶流の高津長尾家が
総社長尾家の家督を奪って
これを継承しましたが、
同家は小田原後北条氏に通じ、
白井長尾氏、越後長尾氏に続いて
山内上杉傘下から離脱、
山内上杉方に残った
長野氏の攻勢に押されるようになり、
白井長尾氏である長尾景春の
孫である長尾景誠が暗殺されると、
長野業正の影響下の元、
白井・総社の両長尾氏は
山内上杉傘下に復帰したのでした。




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【長尾景虎(上杉謙信)に仕える】
やがて上野に小田原北条氏の勢力が
及ぶようになりますと、
主君である山内上杉家当主の
上杉憲政が上杉氏の名跡を
一族の長尾景虎(後の上杉謙信
に譲るという事態が起こり、
上野国の両長尾家も長尾景虎(上杉謙信)に
仕えるようになったのでした。

長尾城 御霊社鳥居

【総社長尾家の行く末】
総社長尾家(高津長尾家系)は
武田信玄に所領を攻められて
上杉謙信を頼って越後国に落ち延び、
天正13年(1585年)に
長尾景秀(平太)の戦死によって
断絶したとも、
上杉氏家の分限帳などから、
実際にはその後数代続いて
慶長元年(1596年)に死去した
2代目の長尾平太(実名不詳)の代に
断絶したとも云われています。

【白井長尾家の行く末】
白井長尾家は上杉謙信の死後、
上杉氏が上野に対する影響力を失うと、
武田勝頼、ついで織田信長の部将である
滝川一益に仕え、その後の本能寺の変により
滝川一益が退くと、小田原北条氏の配下に入りました。
天正18年(1590年)、
小田原征伐で小田原北条氏が滅ぶと
上野の領地を失い、
越後に行って上杉景勝に仕え、
後に米沢藩士となったのでした。

【越後長尾氏】
長尾景忠の一族(弟とも)で、
養子として長尾景忠から
越後守護代職を譲られた
長尾景恒(景廉とも)を祖とする家です。
長尾景恒の子のとき、
上田荘(新潟県南魚沼市)を本拠地とする
上田長尾家、
古志郡蔵王堂・栖吉(新潟県長岡市)を
本拠とする古志長尾家(栖吉長尾家とも)、
蒲原郡三条(新潟県三条市)を
本拠とする三条長尾家の3家に分かれました。
中でも三条長尾家が
越後守護代職を世襲し、
越後府中(新潟県上越市)に居住したため、
この家を府中(府内)長尾家とも呼ぶとのことです。

【永正の乱・越後長尾】
府中長尾家は初代の長尾高景以来、
代々越後守護上杉氏を
補佐する立場にありましたが、
応永の大乱などでしばしば対立し、
ついに永正4年(1507年)、
長尾為景のときに
上杉定実を擁立して謀反を起こしたのでした。
守護上杉房能を廃して
下克上を果たしたのです。
長尾為景は長尾房能の実兄である
関東管領上杉顕定が越後に
攻め寄せるとこれを戦死させましたが、
一族の上田長尾家を含む
越後の国人たちと激しく対立しました。
そこで長尾為景は実妹を
上杉定実の継室にするなどして、
何とかこれらの圧力をしのいだとのことです。




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【長尾景虎の登場】
長尾為景の死後、
あとを継いだ長尾晴景は病弱で
越後国内の統御に失敗したため、
弟の長尾景虎(のちの上杉謙信)が
家臣に担ぎ出されました。
兄弟の伯父(実の伯母の夫)
にあたる上杉定実の調停で、
長尾晴景が隠居して
長尾景虎が長尾家を継承しました。
越後の統一に成功した長尾景虎は、
永禄4年(1561年)に
山内上杉家の上杉憲政から
上杉氏の家督を譲られましたが、
府中長尾氏(三条長尾氏)の
名跡の後継者は立てなかったため
府中長尾氏(三条長尾氏)は断絶となりました。

【上杉景勝】
長尾為景の婚姻政策により、
長尾景虎(上杉謙信)の姉は
古志長尾家の出自で、
姉は上田長尾家の長尾政景の妻となりました。
上田長尾家は長尾政景が
永禄7年(1564年)に事故死しますが、
その子長尾顕景は長尾景虎(上杉謙信)の
養子になって上杉景勝と名を改めました。
上杉謙信死後の家督争いに
勝利して上杉氏を継承しました。
上杉景勝も上田長尾家の名跡の後継者
は立てていないため、
断絶した形になっています。
一方、古志長尾家の長尾景信は
長尾景虎(上杉謙信)が
上杉の名跡を継いだとき、
ともに上杉に改姓して
上杉十郎景信と名乗り、
長尾上杉一門の重鎮となりましたが、
上杉謙信死後の家督争いで
上杉景勝と敵対したため滅ぼされたました。
分家に上田長尾家、古志長尾家があります。

【山内上杉家家宰】
室町時代中期以後、
関東管領の地位を世襲した
山内上杉家の筆頭重臣として
家宰が置かれ、長尾氏一族が任命されました。
家宰は「家務」「執権」「執事」とも称され、
またその後継者は
山内上杉家本国である
上野国の守護代を兼ねて
同国における国務を任されたのでした。
このため、「山内之家務職」
「上州守護」などの異名もあったとのことです。

【家宰職の序列】
最初の家宰は
鎌倉長尾家庶流(犬懸長尾家)の
長尾満景とされており、
以後鎌倉(足利)・惣社・白井の
3家の中から任じられました。
ただし、本来は長尾氏嫡流である
鎌倉(足利)長尾家あるいは
その庶流である犬懸長尾家が
継ぐ地位であり、
両家当主が若年などの理由で
家宰が務まらない場合には
白井・惣社の両長尾家のうちの
長老が就任したとみられています。

【序列を破った白井・総社家】
しかしながら惣社家から出た
長尾忠政及び
白井家から出た長尾景仲は
本来中継ぎ的立場でありながら
長期にわたって家宰を務めたため、
惣社・白井両家が大きな力を
持つことになったとされています。
家宰は陪臣でありながら
古河公方嫡子の元服に参列するなど
名実ともに要職でした。
長尾景春の乱も家宰職を巡る
白井・惣社両家の争いを
きっかけとしていました。

【家宰職の消滅】
13代目の長尾当長の時代に
関東管領上杉憲政が
北条氏康によって上野国から追われ、
家宰職もこの時点で
消滅したと考えられています。

大庭景親~坂東八平氏の鎌倉氏の一族~最期まで平家に忠誠を尽くした人物です。

神明大神宮 (しんめいだいしんぐう)~懐嶋城址~大庭景義の館址

鶴嶺八幡宮~相模国茅ケ崎の総社~源頼義・義家、大庭景義~

中村宗平~中村党の祖で源頼朝を支えてきた武士団で、鎌倉党とは大庭御厨を巡る対立がありました。

土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。

真田城~神奈川県平塚市にある真田の郷、真田與一義忠(佐奈田義忠)について。

岡崎義実~代々源氏の家人で特に忠義心厚い人物。三浦一族だが中村党とも深い関係で真田与一の父親です。

梶原景時~鎌倉ノ本体ノ武士~文武両道で実務能力の高さ故に疎まれやがて滅ぶ。

三浦義澄~源頼朝を支えた宿老の一人で13人の合議制のメンバーで相模守護。三浦一族の栄枯盛衰。

三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家

和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる

三浦光村~三浦義村の四男で公暁の門弟、将軍派で反北条であり宝治合戦で三浦宗家が滅亡。

千葉常胤~桓武平氏の流れをくむ千葉氏の中興の祖~鎌倉幕府成立に大きく貢献した人物です。

古河公方館跡~古河公方とは?関東における戦国時代の幕開けの存在

太田道灌~扇谷上杉氏の家宰で多彩で非凡な才能故に主君に疎まれ暗殺された悲劇の武将。

七沢城(神奈川県厚木市)~関東不双の案者らが築城したと伝わる扇谷上杉氏の要害です。

鉢形城~数万の敵に1か月も籠城した頑強な要害で日本100名城で国の史跡です。

花園城~築城は平安末期、猪俣党の一族で山内上杉氏の重臣を代々務めた藤田氏の居城です。

金鑚神社~武蔵国五宮、社名は砂鉄からとの伝承があり、神体山を祀る古代祭祀の面影を残す神社です。

石神井城跡~豊島氏の後期の本拠地であり、太田道灌によって落城となりました。

高幡城跡~新選組・土方歳三の菩提寺である高幡不動尊~分倍河原の戦いにて上杉憲秋の終焉の地

報国寺~鎌倉で特に大人気の竹寺、歴史では鎌倉における足利公方の終焉の地です。

足利公方邸跡(鎌倉)、鎌倉時代初期に足利義兼が構えた屋敷は足利尊氏も住みやがて激動の室町時代を迎えます。

扇谷上杉管領屋敷跡~扇谷上杉氏の遠祖は足利尊氏の叔父、鎌倉公方を補佐する関東管領家として鎌倉に居住しました。

大森氏頼~兄弟親子の分裂を経て当主になり西相模で勢力をのばしました。居館跡(矢崎城)は紫雲寺です。

伊勢盛時(北条早雲・伊勢宗瑞)の登場~小田原北条初代~名門一族の出自で関東に覇を唱えに行く!

北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。

二宮城~木曽義仲の末裔である大石信重によって築城との記録あり、現在の二宮神社、武蔵守護代の大石氏とは?

小机城跡~長尾景春の乱と豊島氏の滅亡、小田原北条氏の時代へ~戦国時代の神奈川県を見つめてきた城

上杉謙信について~越後の龍・49年の生涯~駆け足で超手短に!

神指城跡~上杉景勝が新たな城下町を築こうとした幻の城、大ケヤキが思いを今に伝えます。

横山党館~八幡八雲神社(八王子)・横山党は武蔵七党の一つで関東最大勢力の武士団です。

雉岡城~山内上杉氏による築城で後に小田原北条氏、竹谷松平氏の居城となりました。

毛呂山城跡(毛呂氏館跡)と毛呂一族の墓~源頼朝に仕えた在地領主で、戦国時代まで存続しました。

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