城跡

小机城跡~長尾景春の乱と豊島氏の滅亡、小田原北条氏の時代へ~戦国時代の神奈川県を見つめてきた城

小机城址




小机城跡】

小机城(こづくえじょう)は、
武蔵国橘樹郡小机郷(現在の神奈川県横浜市港北区小机町)
にあった日本の城(平山城)でした。
現在は小机城址市民の森として、
城の遺構が整備されて散策しやすくなっています。

【別名】
飯田城、根古屋城

【城郭構造】
連郭式平山城

【天守構造
なし

【築城主
上杉氏か

【築城年】
永享年間(15世紀前半)か

【主な改修者】
長尾氏、小田原北条氏

【主な城主】
上杉氏、長尾氏、笠原氏、小田原北条氏

【廃城年】
文明10年(1478年)、
天正18年(1590年)

【遺構】
空堀、土塁、土橋、堀切、櫓台、帯郭

【所在地】
〒222-0036 神奈川県横浜市港北区小机町

【交通アクセス】
JR横浜線「小机」駅より徒歩15分程度

【駐車場】
専用の駐車場はありません。
近隣のコインパーキングをご利用ください。
<利用した駐車場>

青印の駐車場に止めて、
歩いて小机城址に向かいました。
踏切を渡ってほどなく下記の柱がありました。

<小机城址への入り口>
小机城址入り口

そして左に曲がり、
JR横浜線の線路に沿って歩きました。
トンネルの手前の民家に下記の案内板がありました。

<小机城址はこちら>
小机城址入り口案内

右に向かって歩きます。
さかの勾配がきつくなってきます。

【トイレ】
根小屋地区から登城する途中に山小屋風の
建物があり、そこがトイレとなっています。
建物は一見、きちんとはしていますが、
衛生上と防犯上と
更にはそこから発せられる「気」の感じから
正直、入るには勇気を必要とするので
出来れば駅やコンビニなどで予め
済ませてから城跡に入るのがよろしいかと思います。

小机城址 トイレ

※写真で見ると明るいことに驚いております。
実際はもっと暗く、うっそうとした感じでした。

【城の歴史】
【戦国時代】
小机城は、永享の乱(1438年⇒1439年)の頃に、
関東管領上杉氏によって
築城されたとされていますが、
正確な築城年代ははっきりとは分かっていません。

【初登場】
この城が歴史に登場したのは、
長尾景春の乱のうち、
文明10年(1478年)に起きた攻守戦です。





【長尾景春VS太田道灌
山内上杉家の家宰であった長尾景春が、
父の死後に家宰職を相続できなかったことに端を発し、
主家に対する反乱を起こしたのでした。
このとき長尾景春の味方をした矢野兵庫助が
小机城に立てこもり、
敵方の太田道灌が攻撃をしました。
この時、太田道灌は近くの集落の松の大木の下に腰掛け、
「小机はまず手習いの初めにて、
いろはにほへとちりぢりとなる」
と歌を詠んで味方を鼓舞したと伝わっています。
程なく、鶴見川対岸の亀の甲山に陣をとり、
約2か月をかけて落城させたとされています。
太田道灌が歌を詠んだ松は以後「硯松」と伝えられ、
三度の植えなおしを経て
現存していましたが、
近年枯れてしまい、
現在は石碑のみ残っているとのことです。

【小田原北条氏の五大老の笠原氏】
その後は一度廃城となりました。
其の後、この地域が
小田原後北条氏の勢力下に入ると
北条氏綱の手により修復され、
家臣である笠原信為が城主として配置され、
小机衆が組織されたのでした。
笠原氏は、小机城を中心に
付近の村に僧侶を招き寺を建立するなど
城下の整備に力を注いだとのことです。
そして江戸時代になっても
その子孫は代々この地の付近に住んでいました。

その後、城主は北条氏堯、
北条氏政の弟三郎(上杉景虎ではないそうです)、
北条氏光と替わっています。
天正18年(1590年)の
豊臣秀吉による小田原征伐の際には、
無傷のまま落城しました。
その後、徳川家康の関東入府のときに廃城とされました。

【近現代】
城跡は地元の人々に「城山」と呼ばれていました。
1892年(明治25年)2月5日、橘樹郡小机村の九大字は
「小机」としていた村名を改め、
城があった郷すなわち城郷(しろさと)村とすることとしました。
城郷村の名は以後、各集落が1927年(昭和2年)に
横浜市に編入されるまで使われたとのことです。

2017年(平成29年)4月6日、
「続日本100名城」(125番)に選定されました。

【現在】
小机城の跡は小机城址市民の森として整備されています。
しかしながら史跡指定等は一切されてはいません。
埋蔵文化財包蔵地の周知のみです。
城郭の主要な二つの郭と
その間の細い郭は残されています。
現在ニ郭とされている場所の一部では
発掘調査が行われました。

<小机城址市民の森>
小机城址市民の森

現在「本丸」とされている
西側の郭では野球が行われたりしていて、
遺構が傷んできています。
「本丸」の西側の一部は、
第三京浜道路の建設の際に分断され、
破壊されてしまっています。
また、この城跡の地下には
横浜線の城山トンネルが貫通しています。
第三京浜道路を挟んだ郭の側には
堀切の痕跡がありますが、
それより先の場所は宅地となり
開発が進み遺構は確認できません。

<小机城想定図>
小机城想定図

<本丸広場>
本丸広場

<空堀>
空堀

<矢倉跡>
矢倉跡

<井楼(せいろう)あと>
戦場で、敵陣を偵察するために
材木を井桁 (いげた) に組んで作るやぐら、みせやぐらのこと。
井楼跡

<二の丸広場>
二の丸広場





【周辺】
同じ旧城郷村内の大字神大寺には、
小机城の合戦で亡くなった兵士を供養した
「九養塚」、「十三塚」や、
太田道灌が小机方の残兵を処刑した「磔原」、
その血で谷戸が赤く染まったといわれる
「赤田谷戸」などの地名が存在していました。

【心霊スポットとして・・・】
小机合戦で多くの戦死者がでるなどしたためか、
いつしか心霊スポットとして囁かれるようになりました。
実際、訪れてみると電灯はなく、
木々や竹林がうっそうと生い茂っているため、
日没以後はほぼ真っ暗になります。
整備されたとはいえ、急な斜面もあるので、
暗くなったら近づかない方がよろしいかと思います。
ただし、目撃された方によりますと
所謂出現された「人々」は現代か近代風であったとか。
それより、歴史的背景を鑑みずに開発している様に
悲しみを覚えました。
城を分断している第三京浜・・・。
他に方法はあったはずです。

所要時間:30分~45分程度

【長尾景春の乱】

長尾景春の乱(ながおかげはるのらん)は、
文明8年(1476年)から
文明12年(1480年)にかけて
起こった関東管領上杉氏の有力家臣である
長尾景春による反乱のことです。
太田道灌の活躍によって鎮圧されました。

【背景】
【享徳の乱】
永享11年(1439年)の永享の乱で
室町幕府によって滅ぼされた
鎌倉公方足利持氏の遺児である足利成氏
新たな鎌倉公方に迎えられました。
が、父を殺した関東管領上杉氏を憎み、
享徳3年(1454年)に
関東管領上杉憲忠を暗殺します。
そして上杉氏との全面戦争を始めたのでした。
足利成氏は上杉氏を支援する
幕府軍の攻撃を受けて鎌倉を逃れ、
下総古河城に拠って古河公方と称し、
両上杉家(山内上杉家、扇谷上杉家)
及び幕府から派遣された
堀越公方足利政知(8代将軍足利義政の異母兄)
との抗争に突入します。

【山内家と扇谷家と家臣の太田家】
山内上杉家と扇谷上杉家は上杉氏の同族です。
けれども、関東管領職は
山内家が継承しており、
扇谷家はその分家的な存在であり、
所領も山内家の家宰長尾氏の半分もありませんでした。
古河公方との戦いで扇谷家は山内家を支え、
特に扇谷家の家宰である
太田資清(道真)・資長(道灌)父子の
活躍によってその力を増していきました。
太田資清・資長父子は岩槻城を修築し、
河越城江戸城を築いて
関東における守りと攻めの拠点としました。

享徳の乱は互いに勝敗を分けながら
20年以上続きました。
古河公方と対立する両上杉家の主力は
北武蔵の五十子陣に陣を敷いて
18年に及び対峙していたのでした。

【挙兵】
【家宰職の与え方】
文明5年(1473年)、
五十子陣で山内家家宰の
長尾景信(白井長尾家)が死去。
白井長尾家の家督は子の長尾景春が継ぎました。
けれども家宰職(家務職とも)は
当主である上杉顕定が長尾景春の叔父で
惣社長尾家の長尾忠景に与えました。
家宰職は陪臣ながら、
関東管領の補佐役とあって
関東では大きな権力となっていました。

長尾氏は白井長尾家、惣社長尾家、犬懸長尾家、
鎌倉長尾家(後の足利長尾家)に分かれており、
持ち回りで家宰職を務めていました。
けれども、本来は長尾氏の嫡流である
鎌倉長尾家とそれに次ぐ
犬懸長尾氏から輩出され、
両家が当主の不在や幼少などで
適任者を欠く場合に
白井・惣社両長尾家の長老から
選ばれる仕組みだったそうです。

上杉憲忠殺害事件の時に
鎌倉家当主長尾実景と
その息子で犬懸家を継いでいた憲景が
ともに殺害された影響で、
家宰職が長尾景春の祖父景仲、景信と
2代続けて白井家から出る事になったのでした。





【白井長尾家への警戒】
この論理で行くと、
次期家宰職の最有力者は
足利長尾家の長尾景人でしたが、
景信の死の前年に若くして没し、
後を継いだ息子の定景や
犬懸家当主である景人の弟である房清は
家宰職を務めるには余りにも若かったのでした。
そのため、一族の長老となり、
景仲よりも以前に家宰を務めていた
養父の長尾忠政の没後に
武蔵守護代など家中の要職を務めてきた
忠景が家宰職になる事は
これまでの選出方法から考えれば
不自然な人事ではありませんでした。
その一方で2代続けて
家宰職を出した白井家の力が
強くなりすぎることを嫌った
上杉顕定は家宰職を
長尾景春ではなく
忠景に与えたという側面もあったとのことです。

【長尾景春の不服と所領問題】
けれども、長尾景春は
この人事を深く恨んだとされています。
更に白井家が家宰職の占めた時期に
同家と関係を結んで所領の給与や
安堵を受けた山内上杉家傘下の武士の中には
家宰職が白井家から惣社家に移る事で
今までの権利を失うことを危惧して
長尾景春が家宰職を継いで
従来通りの安堵を受ける事を望む者もいたそうです。
特に家宰職とともに継承されてきた所領では
問題が現実化し、
白井家側の武士と
惣社家側の武士との衝突も発生したのでした。

【退くべきは長尾景春という主張】
長尾景春は縁者(従兄弟)である
太田道灌に同心を求めましたが、
太田道灌はこれを拒否して直ちに五十子陣にいた
上杉顕定と主君の扇谷家当主である
上杉定正のもとへ向かいました。
太田道灌は上杉顕定と上杉定正に長尾景春を懐柔すべく、
長尾忠景が長尾景春に武蔵守護代を譲るように
進言しましたが、
長尾景春が自分に次ぐ立場になる事を嫌った
長尾忠景は異例であった両職兼任を行います。
ならば長尾忠景を一時的に退けるよう進言しましたが、
上杉顕定はこれを受け入れず、
では直ちに出兵して長尾景春を討つよう進言しましたが、
古河公方成氏と対峙している状況では
それもできないと取り上げませんでした。
最も、足利長尾家(長尾景人)亡き状況で、
長尾一族の長老である長尾忠景が
家宰に就任するのは当然のことであり、
長尾景春の主張は不当のものだ、
という考えが、
顕定・忠景だけでなく
他の上杉氏重臣の間にも強く、
長尾忠景を一時退ける様に上杉顕定に諫言した
太田道灌は却って
父の太田道真に叱責されてしまったのでした。

【長尾景春、反旗を翻す】
太田道灌が今川氏の内紛介入のために
駿河に滞在していた文明8年(1476年)6月、
長尾景春は武蔵鉢形城に拠って反旗をひるがえします。
上杉顕定・忠景は未だ
長尾景春の力を軽視していましたが、
長尾景春は優れた武勇の士であり、
2代続けて家宰職を継いだ
白井家の力は他の長尾氏一族よりも
抜きん出ていたのでした。
五十子陣の上杉方の武将達は動揺し、
勝手に帰国する者が続出したとのことです。

【上杉顕定・定正の敗走】
翌年の文明9年(1477)正月、
長尾景春は2500騎を率いて五十子陣を急襲。
上杉顕定と定正は大敗を喫して敗走。
18年に渡り、
対古河公方戦の最大の防御拠点だった
五十子陣は長尾景春の僅かな兵によって
落とされてしまいました。
上杉顕定と上杉定正は上野へ逃れていきます。

【南武蔵・相模(現在の神奈川県)の呼応】
長尾景春の挙兵に
相模の小磯城(神奈川県大磯町)の越後五郎四郎、
小沢城(相模国)(神奈川県愛甲郡愛川町)の金子掃部助、
溝呂木城(神奈川県厚木市)の溝呂木正重(景春の被官)、
そして小机城(神奈川県横浜市)の矢野兵庫が呼応しました。
その他多くの関東の国人、
地侍が景春に味方し侮りがたい勢力となります。
これに南武蔵の名族豊島氏が同心しました。
鎌倉幕府の有力御家人だった
豊島氏は室町時代に入って、
その旧領を太田氏に奪われていたのでした。
石神井城練馬城(東京都練馬区)に当主の豊島泰経、
平塚城(東京都北区)にその弟の泰明が拠り、
江戸城と河越城・岩槻城との連絡線を断ったのでした。

【小机城の矢野兵庫、撃退される】
文明9年3月、
太田道灌は先手を打って兵を動かし、
溝呂木城と小磯城を速攻で落とし、
さらに小沢城を攻めましたが、
守りが堅く長尾景春が
援兵を送ったため一旦兵を引きました。
そして小机城の矢野兵庫が出陣して
河越城攻撃を図りましたが、
太田資忠(道灌の甥)と上田上野介が
これを撃退したのでした。

【豊島氏の没落】
太田道灌は江戸城の指呼に
勢力を張る豊島氏を早期に潰すために同年4月、
上杉朝昌、三浦高救らの援軍を得て、
軽兵を発して平塚城城下を焼き払い、
寡兵と侮って城を出て追撃してきた
豊島泰経・泰明の兄弟を待ち伏せ、
僅か50騎で200騎の豊島勢を打ち破り、
豊島泰明を討ち取りました。
太田道灌は敗走した
豊島泰経を追って石神井城を囲みます。
豊島泰経は降服を申し出ましたが、
城破却の条件が実行されなかったため、
太田道灌は城を攻め落とし、
豊島泰経は没落しました。





【その後の長尾景春】
同年4月、
長尾景春は五十子を出陣して利根川を渡り、
上杉顕定と上杉定正の軍を
鉢谷原で攻めましたが撃退されました。
5月、
太田道灌は上杉顕定・定正と合流して五十子を奪回し、
用土原の戦いで長尾景春を撃破。
鉢形城を囲みましたが、
足利成氏が8000騎を率いて出陣したため、
撤兵を余儀なくされました。

【足利成氏が望む和議】
太田道灌は長尾景春の本拠である上野へ侵攻。
塩売原で1カ月間対陣しましたが
決着はつかず、同年11月に双方撤兵しました。
翌文明10年(1478年)正月、
足利成氏が簗田持助を通じて
山内上杉家家宰長尾忠景へ和議を打診。
期待した長尾景春の反乱が
太田道灌の活躍によって
短期間で逼塞せしめられたためであり、
20年以上の戦いに飽いた足利成氏は
幕府との有利な条件での和睦を望んでいたのでした。

【豊島泰経、小机城に逃れる】
この和議の動きを妨害するように、
同年正月に豊島泰経が平塚城で再挙しましたが、
太田道灌は直ちにこれを陥れ、
豊島泰経は敗走して小机城に逃れました。
3月、長尾景春が河越城へ攻め寄せましたが
上杉定正と太田道真がこれを撃退しました。

【小机城、太田道灌に攻略される】
太田道灌は扇谷家の本拠地である
相模の長尾景春方を制圧すべく、
3月に前年に攻略に失敗した小沢城を攻め落とし、
4月に小机城を攻略し、落城させました。
城に匿われていた豊島泰経は
行方知れずとなり、
名族であった豊島氏は
歴史上から姿を消したのでした。
続いて太田道灌は相模の景春方の諸城を駆逐。
7月に長尾景春の拠る鉢形城を攻略し、
上杉顕定の居城としたのでした。

【房総半島の攻略】
武蔵と相模を固めた太田道灌は、
12月に和議に反対する
足利成氏の有力武将である
千葉孝胤を境根原合戦で打ち破りました。
翌文明11年(1479年)に
甥の資忠と千葉自胤(千葉氏の上杉方)を
房総半島へ派遣し、
千葉孝胤の籠る臼井城(千葉県佐倉市)を攻略。
この戦いで資忠は戦死しましたが真里谷武田氏、
海上氏を降し房総半島から
反対勢力を一掃することに成功しました。

【山内上杉家の家宰になった長尾景春】
足利成氏との和睦交渉が続けられる中、
長尾景春はなおも
北武蔵秩父郡、児玉郡で抵抗を続けました。
文明12年(1480年)6月、
最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を
太田道灌に攻め落とされ、
長尾景春は足利成氏を頼って落ち延びました。
その後、長尾景春は上杉顕定の養子である
上杉憲房の切り離しに成功して
山内上杉家当主に擁立し、
自らが家宰に就任して再起を図るのでした。

【都鄙合体の成立】
文明14年11月27日(1483年1月6日)、
足利成氏と両上杉家との間で
「都鄙合体(とひがったい)」
と呼ばれる和議が成立しました。
足利成氏は幕府から赦免されました。
また、上杉憲房も上杉顕定の下に戻り、
長尾景春は成氏の下で再起を期することになるのでした。

【争乱後に忍び寄る影】
都鄙合体と長尾景春の没落によって
30年におよんだ関東の争乱は治まったのでした。
けれども、この和睦は
山内家と越後上杉家が主導したものであり、
扇谷家の当主である上杉定正は不満でした。
太田道灌も「太田道灌状」で
自分や戦った武士達に十分な恩賞がないと
不満を漏らしている記述があります。
この戦いで活躍した
太田道灌の威光や人望は絶大なものになりましたが、
それは主君である上杉顕定・定正にとっては
危険なことと見なすようになったのでした。

【太田道灌、謀殺される】
文明18年(1486年)7月、
太田道灌は糟屋舘(神奈川県伊勢原市)で
主君である上杉定正によって謀殺されたのでした。
死に際に「当方滅亡」と言い残したということです。

<太田道灌の墓>
太田道灌の墓

太田道灌 墓所

<七人塚>
七人塚
※太田道灌の家臣たちの墓所です。





北条早雲の進出と両上杉家の滅亡】
長享元年(1487年)、
山内家と扇谷家は決裂し、
長享の乱と呼ばれる両上杉家の抗争に突します。
没落していた長尾景春は扇谷家に味方して
再び山内家と戦います。
その争乱の最中の明応2年(1493年)、
伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆へ乱入して堀越公方を滅ぼし、
さらに相模へ進出してくるのです。
やがて両上杉家は
伊勢宗瑞を祖とする小田原北条氏によって
滅ぼされることになるのです。

【小机衆】

小机衆(こずくえしゅう、こづくえしゅう)は、
小田原北条氏の家臣団のうちの一つで、
南武蔵地域を支配していた
集団・「衆」組織でした。
「衆」の中心は武蔵国の小机城によることから、
小机衆と呼ばれていました。

【小机衆の歴史】
小机衆と呼ばれる軍団組織が編成されたのは、
大永2年(1522年)から
大永4年(1524年)頃でした。
鶴見川と多摩川に挟まれた小机郷を中心に、
大小29の武士団が居城・館を構え、
江戸城周辺の先陣及び、
旧扇谷上杉勢である太田氏勢力と
対する形をとっていたのでした。

衆を取りまとめたのは、
北条氏綱の信頼の厚かった五大老の一人である
笠原信為で、その後は北条時長、
小机城主になった北条氏堯、北条氏政の弟三郎、
北条氏光となりましたが、
笠原氏が城代としてまとめ続けていたのでした。

天正18年(1590年)、
豊臣秀吉の関東侵攻の際には
小机城主であった北条氏光は
小田原籠城に加わっており、
小机城は放棄され小机衆は籠城に加わっていました。

【小机衆の役割】
当初は、小田原北条氏の
武蔵国の進出の戦陣として機能しており、
江戸・葛西・河越をめぐる不安定な状況を、
小田原城玉縄城にいち早く連絡する為、
小机城から小田原・八王子方面と、
小机城から神奈川青木城を経て
玉縄城へ至る狼煙と鐘・旗の連絡ルートの拠点になっていました。
この連絡ルートの一つが中原街道と言われています。

【支城】
◆荏田城(横浜市青葉区荏田町)
荏田城跡
※現在は立ち入り禁止です。

◆川和城(横浜市都筑区川和町)

◆佐江戸城(横浜市都筑区佐江戸町)

◆茅ケ崎城(横浜市都筑区茅ケ崎町)

◆井田城(神奈川県川崎市高津区蟹ケ谷)
井田城跡

◆矢上城(神奈川県横浜市港北区日吉4丁目1)
矢上城跡

◆篠原城(別名:金子城)(横浜市港北区篠原北)
篠原城址

<篠原城址の案内>
篠原城址の案内

◆大豆戸城(別名:安山城)(横浜市港北区大豆戸町)

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