城跡

高幡城跡~新選組・土方歳三の菩提寺である高幡不動尊~分倍河原の戦いにて上杉憲秋の終焉の地

高幡城跡 




高幡城跡】

高幡城の詳細は不明です。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による
小田原征伐」の際には
八王子城主・北条氏照の家臣である
高幡十右衛門が居城して、
北国軍の前田利家
上杉景勝の軍勢と戦ったと伝わっています。
また北条氏照の時代には高幡之郷は
平山大学助が知行していた記録があるため、
檜原城を本拠としていた
平山氏が城主であったという説もあります。

<平山城址 館跡(推定地)>
平山城址 館跡 推定地

なお城址は新選組土方歳三の菩提寺としても
知られる高幡不動尊金剛寺の裏山に位置し、
一部は「八十八ヶ所巡礼のお遍路コース」
になっています。

<土方歳三の像>
土方歳三像

曲輪跡のほか、
堀切や竪堀などの遺構を
確認することができるとのことです。
また高幡不動の境内には
享徳4年(1455年)の分倍河原の戦いにて
この地で自害したとされる
犬懸上杉氏・上杉憲秋(憲顕)の墓所もあります。

【確認できた遺構】
曲輪、土塁、横堀(空堀)

【所在地】
〒191-0031 東京都日野市高幡733

【通常駐車場(参拝者用)】
〒191-0031東京都日野市高幡699

【交通アクセス】
京王線・多摩都市モノレール
「高幡不動」駅下車 徒歩5分程度

<場所>
青印は通常駐車場です。

<大師堂(弘法大師)>
高幡不動 大師堂

<あじさい>
高幡不動 あじさい

【分倍河原の戦い(室町時代)】

分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)は、
室町時代後期の
享徳4年(1455年)1月21日及び22日に、
武蔵国多摩川河畔の
分倍河原(現在の東京都府中市)において、
足利成氏率いる鎌倉公方勢と
上杉顕房率いる
(総大将は在京の上杉房顕)関東管領勢との間で
行われた合戦のことです。

この戦いをきっかけに、
応仁の乱と並んで
室町時代最大の戦乱といわれる
享徳の乱の幕が開かれたともいえます。

【合戦までの流れ】
永享の乱によって鎌倉公方が滅亡してから
10年の後、
鎌倉府の再興の動きがありました。
京都の室町幕府では、
過去の幕府と鎌倉公方との対立の歴史から
管領である細川勝元は反対論を、
前管領の畠山持国は賛成論を唱えて議論となりました。
しかし、
越後守護である上杉房定の懇願もあり、
結局はこれに同意したのでした。

【足利利持の遺児が鎌倉公方になる】
新しく鎌倉公方に選ばれたのは
幕府によって滅ぼされた
前公方足利持氏の遺児・永寿王丸でした。
そしてこれを補佐する新しい関東管領には
前関東管領上杉憲実の子である
山内上杉家の憲忠が選ばれました。





【山内上杉憲忠、関東管領へ】
既に出家していた上杉憲実は
山内上杉憲忠に辞退を迫ります。
理由は、
永享の乱が自分と足利持氏の意見対立が
こじれた事をきっかけにして起こった事から、
永寿王丸は自分やその息子達に
恨みを抱いていると考えていたからでした。
けれども山内上杉家の家宰である
長尾景仲と扇谷上杉家の家宰である
太田資清が憲忠に強く就任を勧めたために
憲忠もこれに応じる事となりました。

【永寿丸から足利成氏へ】
文安4年(1447年)、
永寿王丸と上杉憲忠は鎌倉に入って
憲忠が関東管領に任命されました。
宝徳元年(1449年)に元服した永寿王丸は、
将軍足利義成(後の義政)の一字を拝領して
「足利成氏」と名乗って
正式に第5代鎌倉公方に就任しました。

【側近の登用に異議あり!】
けれども、足利成氏が
結城成朝・簗田持助・里見義実といった
永享の乱・結城合戦で鎌倉公方家に殉じた
武将の遺児達を側近として登用するようになると、
上杉氏やその家臣団の反発も高まっていったのです。

【長尾氏発祥の地が横領される】
宝徳2年(1450年)、
相模国鎌倉郡長尾郷(現在の横浜市栄区長尾台)が
足利成氏の命令を奉じた
簗田持助に押領される事件が起きたのでした。
この地はその名の通り、
上杉氏筆頭重臣の長尾氏発祥の地であり、
そこにある御霊宮は
長尾氏一門の祖先祭祀の中心であったとのことです。
この事態に長尾景仲ら長尾氏一族は激しく憤慨して、
長尾氏に同情的な太田資清(景仲の娘婿でもある)
とともに激しく抗議しましたが、
足利成氏側は返還には応じようとはしなかったそうです。

【江ノ島合戦】
宝徳2年4月20日、
長尾景仲・太田資清が
鎌倉に兵500騎を入れて
クーデターを起こそうとしました。
けれども、足利成氏は事前にこの情報を入手すると、
その夜のうちに小山持政らに守られて
鎌倉を脱出して江ノ島に立て籠もったとのことです。
翌21日、鎌倉に突入した長尾景仲らは
足利成氏を追って江ノ島に迫ります。
そこに小田持家・宇都宮等綱・千葉胤将が
足利成氏救援のために出陣してきたため、
由比ヶ浜で両軍は交戦となったのでした。

江ノ島塔から

【上杉憲忠、巻き込まれて謹慎す】
長尾・太田軍は惨敗した上に、
事情を知らない主君・上杉憲忠までが
足利成氏救出のために
小幡氏らを出陣させたことが
明らかになり、
長尾景仲と太田資清は
太田資清の主君である
前扇谷上杉家当主であった
上杉持朝の糟谷館
(現在の神奈川県伊勢原市)に逃げ込んだのでした。
上杉憲忠は事件に全く関与していませんでしたが、
襲撃したのが長尾・太田の兵であると知って
謹慎してしまったのでした。





【足利武士VS上杉武士の対立】
事態を知った幕府は、
当時管領に復帰していた畠山持国が仲裁にあたり、
足利成氏の有利の裁定が下されました。
これを受けて足利成氏は8月4日に鎌倉に戻り、
上杉憲忠も10月に入って職務に復帰します。
その懇願によって長尾景仲らの罪も赦免されまし。
ところが、その後も足利成氏側と上杉憲忠側双方の武士が
対立陣営の所領を押領する事件が頻発したのでした。

これに対して再度、
畠山持国に代わって
管領に就任した細川勝元は一転して
鎌倉公方の権力削減に乗り出しました。
一方、上杉憲忠の義父でもあった上杉持朝は
このまま放置すれば
娘婿の上杉憲忠の身に危険が及ぶと考えて、
秘かに長尾景仲とともに上杉氏の本国である
上野国に入って足利成氏討伐の準備を
進めるようになっていったのでした。

一方、こうした動きを掴んだ
足利成氏やその周辺も
対抗策を秘かに練り始めていたのでした。

【上杉憲忠、討ち取られる】
享徳3年12月27日(1455年1月15日)の夜、
鎌倉の管領屋敷にいた上杉憲忠は
足利成氏からの至急の出仕命令を受けました。
長尾景仲は年の瀬ということで、
同じく家宰であった義兄の長尾実景に
留守を託して長尾郷の御霊宮に
泊りがけで参詣に出ており、
上杉憲忠はそのまま、
足利成氏の御所に出仕しました。

ところが、御所に入った上杉憲忠を
結城成朝・里見義実・武田信長が
手勢を連れて取り囲み、
上杉憲忠はなすすべも無く、
結城家臣の多賀谷高経(後の朝経)・
氏家兄弟によって
討ち取られてしまいました。
同じ頃、岩松持国率いる別働隊が
管領屋敷を襲撃し、
実景ら上杉家家臣を殺害したのでした。

【弟の上杉房顕を関東管領へ】
上杉憲忠暗殺の報せを聞いた
長尾景仲は鎌倉に戻ると、
直ちに管領屋敷に火を放つとともに
上杉憲忠正室(上杉持朝の娘)ら
生き残った人々を
上杉持朝の糟谷館に避難させました。
糟谷館に着いた長尾景仲は、
上杉持朝や上杉持朝嫡男で
扇谷上杉家当主の上杉顕房・
犬懸上杉家の憲秋・
小山田上杉家の藤朝ら
上杉一族の要人と協議して京都にいる
上杉憲忠の弟である上杉房顕を
次の関東管領に迎え入れるとともに
足利成氏を討伐する事を決めたのでした。
更に長尾景仲はそのまま領国の上野に入って
兵を集めるとともに、使者を
越後守護の上杉房定に派遣して援軍を求めました。
更に嫡男である長尾景信を直接京都に派遣して
事の次第を幕府に報告するとともに、
上杉房顕を迎える事にしたのでした。

【上杉持朝の敗退】
翌年の1月5日、
足利成氏は上杉氏の本国である
上野を攻略するために鎌倉を出発して
武蔵国府中の高安寺に入りました。
一方、この報を聞いた上杉持朝は
その留守に鎌倉を奪おうとして出陣したものの、
翌日になって相模国島河原
(現在の神奈川県平塚市)で
鎌倉の留守を守っていた
武田信長の迎撃にあって敗退しました。
この報せを聞いた長尾景仲は直ちに
上野・武蔵の兵を率いて府中に向けて出撃し、
上杉一族もこれに合流すべく出陣したのでした。

【上杉憲秋、高幡不動にて死す】
1月21日、
府中近郊に結集した上杉軍は
2000騎の兵で高安寺に攻め寄せましたが、
足利成氏軍は分倍河原に500騎で討って出たのでした。
足利成氏軍の突撃に不意を突かれた上杉軍は混乱し、
先鋒の上杉憲秋は
手前の立河原(現在の東京都立川市)で
敵の手にかかってしまいます。
致命傷を負った上杉憲秋は家臣によって
間一髪のところで救われましたが、
高幡不動(一説には荏原郡池上)で自害したのでした。
上杉憲秋自害を知った上杉顕房らは
激怒して翌日新手の500騎をもって
分倍河原に進撃しました。

<上杉憲秋の墳>
上杉憲秋の墳

<上杉憲秋の墓標>
上杉憲秋の墓標

【上杉顕房・藤朝の自害】
緒戦で上杉軍先鋒の大石房重らが討たれましたが、
足利成氏軍にも多くの犠牲が出たため
戦況は一進一退となりました。
そこへ、結城成朝らの軍勢が
上杉軍に襲いかかったために
上杉軍は後退をはじめ、
更に相模への退路も絶たれたために
上杉軍は東に向かって潰走しました。
けれども、なおも結城成朝率いる
足利成氏軍の追跡は続き、
武蔵夜瀬(同三鷹市)で包囲された
上杉顕房・藤朝は24日に自害して果てました。





【長尾景仲は常陸・小栗城へ】
一方、難を逃れた長尾景仲は
残った軍をまとめて辛うじて
常陸国小栗城(現在の茨城県筑西市)まで
落ち延びる事が出来たのでした。

【足利成氏、小栗城を攻撃】
勢いに乗じた足利成氏は
武蔵国内の上杉側の拠点を次々と攻略しましたが、
長尾景仲が小栗城にいると知って
3月3日に下総国古河城に入り、
那須資持・筑波潤朝・小田朝久らの加勢を得て
小栗城の攻撃を開始しました。
途中、小田朝久の急死がありましたが、
閏4月にはここを攻め落として
長尾景仲を敗走させたのでした。

太田道灌が家宰に就任】
一方、扇谷上杉家では
上杉顕房の子である
上杉政真が当主に立てられて、
上杉顕房戦死の責任をとって
出家した太田資清に代わって
息子の資長(後の太田道灌)が
家宰に就任しました。

太田道灌エピソード

【幕府より足利成氏討伐令が下される】
京都の室町幕府では、
この年明け早々にこの戦いの報を受けましたが、
足利成氏に同情的な意見もあり議論は紛糾。
けれども、管領細川勝元の意向で
3月には足利成氏討伐令が
上杉氏一族をはじめ周辺の守護である
今川範忠(駿河)・
小笠原光康(信濃)・
宇都宮等綱(下野)・
千葉胤直(下総(前守護))にも下されました。
宇都宮・千葉両氏は
江ノ島合戦では足利成氏側でしたが、
宇都宮氏は元々父親である
先代の宇都宮持綱を足利成氏の父である
足利持氏に殺されたために
復讐の機会を狙っていました。
千葉氏では江ノ島当時の当主であった
守護・千葉胤将が急死して
足利持氏と対立していた
先代の千葉胤直が復帰していたため、
今川氏・小笠原氏とともに
足利成氏討伐軍に加わったのでした。

【今川範忠の動き】
在京していた今川範忠は
後花園天皇から錦御旗を受け取ると
直ちに本国に戻って兵を出陣させ、
6月16日には武田信長らを破って鎌倉を占領。

【越後守護の上杉房定の動き】
また、越後守護の上杉房定も
秘かに京都から越後に入っていた
新しい関東管領上杉房顕を擁して
上野国三宮原
(現在の群馬県吉岡町)で
岩松持国ら上野の足利成氏派と交戦しました。

【宇都宮等綱は追放・・・】
けれども、一方で
宇都宮等綱は足利成氏直々の攻撃によって
宇都宮城を攻め落とされた事により
重臣達によって追放されてしまいます。

【千葉胤直、攻め滅ぼされる】
また千葉胤直も、
討伐軍に反対する親足利成氏派の馬加康胤を擁立した
重臣原胤房によって攻め滅ぼされてしまったのでした。

古河公方となる】
足利成氏はこの状況をみて
鎌倉への帰還は困難と判断して
古河城に入ってここを仮の御所にする事を宣言。
こうして古河公方となりました。

御所沼と公方様の森

【東:足利成氏VS西:上杉】
その後、関東各地で
足利成氏軍と上杉軍の交戦は続くものの、
次第に、この時代は
南の江戸湾に流れていた利根川を挟んで
東側を足利成氏側が、
西側を上杉側が掌握していくようになったのでした。

【古河公方は「享徳」のまま】
特に同年7月、
朝廷は関東での戦乱を理由に
元号を康正と改元しましたが、
利根川の西側では
「康正」の元号に改められたものの、
東側の足利成氏陣営では
自分を不当に追討した
朝廷と幕府の改元には従わないとして
依然として「享徳」の元号を用い続けたのでした。

【28年続いた享徳の乱】
以後、朝廷では5回もの改元が行われたのですが、
足利成氏陣営は以後23年間にわたって
「享徳」の元号を用い続け、
その間に京都で起きた
応仁の乱に際しても敵対的な中立を維持し続けました。

以後、関東地方は28年にもわたる
「享徳の乱」が繰り広げられる事となったのでした。

高幡不動尊金剛寺~平安時代初期創建の古社~上杉憲明秋の墳、土方歳三の菩提寺

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