織田家

羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)~下層民から天下人~の生涯を手短に!

大阪城 天守閣




羽柴秀吉豊臣秀吉)】

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし)、
または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての
武将、大名でした。
天下人、(初代)武家関白、太閤。

【墓所】
豊国神社(京都市東山区)
不動院(広島市東区)
高野山奥の院(和歌山県高野町)
国泰寺(広島市西区)

羽柴秀吉(豊臣秀吉)の生涯】
初め木下氏で、後に羽柴氏に改めました。
皇胤説があり、
諸系図に源氏や平氏を称したように
書かれているとのことですが、
近衛家の猶子となって藤原氏に改姓した後、
正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓としました。

尾張国愛知郡中村郷の
下層民の家に生まれたとされています。
当初、今川家に仕ええていましたが、
出奔した後に織田信長に仕官し、
次第に頭角を現していきました。
織田信長本能寺の変明智光秀に討たれると
「中国大返し」により京へと戻り、
山崎の戦い明智光秀を破った後、
清洲会議で信長の孫・三法師を擁して
織田家内部の勢力争いに勝ち、
織田信長の後継の地位を得ました。
大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、
朝廷から豊臣の姓を賜り、
日本全国の大名を臣従させて
天下統一を果たしました。
天下統一後は太閤検地や
刀狩令、惣無事令、石高制などの
全国に及ぶ多くの政策で
国内の統合を進めていきました。
やがて明の征服を決意して朝鮮に出兵した
文禄・慶長の役の最中に、
嗣子の秀頼を徳川家康
五大老に託して病没しました。
豊臣秀吉の死後に台頭した
徳川家康が関ヶ原の戦い
勝利して天下を掌握し、
豊臣家は凋落していきます。
慶長19年(1614年)から
同20年(1615年)の
大坂の陣で豊臣家は
江戸幕府に滅ぼされました。

【生まれ】
羽柴(豊臣)秀吉の出自に関しては、
通俗的に広く知られていますが、
史学としては実は、
諸説から確定的な史実を示すことは
出来ていないそうです。
生母である大政所
羽柴(豊臣)秀吉の晩年まで生存していましたが、
父親については同時代史料に素性を示すものがありません。

生年については、
従来は天文5年(1536年)
といわれていましたが、
最近では天文6年(1537年)
説が有力となっています。
誕生日は1月1日、
幼名は「日吉丸」とされていますが、
これは「絵本太閤記」の創作で、
実際の生誕日は「天正記」や
家臣・伊藤秀盛の願文の記載から
天文6年2月6日とする説が有力であり、
幼名についても疑問視されているとのことです。

【父親は誰?】
広く流布している説として、
父である木下弥右衛門の死後、
母であるなかは竹阿弥と再婚しましたが、
秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、
いつも虐待されており、
天文19年(1550年)に家を出て、
侍になるために遠江国に行ったとされています。
「太閤素性記」では、7歳で
実父である弥右衛門と死別し、
8歳で光明寺に入ったものの、すぐに飛び出し、
15歳のとき亡父の遺産の一部をもらい家を出て、
針売りなどしながら
放浪したとなっているとのことです。





【木下姓はおねの母方の姓から?】
木下姓も父から継いだ姓か
どうか疑問視されていて、
妻であるおね(ねね)の
母方の姓とする説もあるそうです。

【いろんな説がある出目】
秀吉の出自については、
与助という名のドジョウすくいであったとか、
村長の息子説、
大工・鍛冶などの技術者集団や行商人などの
非農業民説、
水野氏説、
また漂泊民の山窩出身説など、
様々な説があります。

【指は6本?】
「フロイス日本史」によりますと、
羽柴秀吉(豊臣秀吉)は
右手の親指が1本多い6本指とされていました。
多くの場合、幼児期までに切除して
五指としていたそうですが、
羽柴秀吉(豊臣秀吉)は
周囲から奇異な目で見られても
生涯六指のままで、
天下人になるまでは
その事実を隠すこともなかったということです。

木下藤吉郎時代】
【松下氏綱に仕える】
はじめ木下藤吉郎(きのした とうきちろう)と名乗り、
今川氏の直臣飯尾氏の配下で、
遠江国長上郡頭陀寺荘
(現在の浜松市南区頭陀寺町)にあった
引馬城支城の頭陀寺城主である
松下之綱(加兵衛)に仕えたとされています。
立場は今川家の陪々臣でした。
ちなみに、陪々臣とは、
今川氏から見れば、
家臣の家臣の家臣ということです。
木下藤吉郎はある程度、
目をかけられたとのことですが、
まもなく退転してしまいました。
なお、その後の松下之綱ですが、
今川氏の凋落の後は
徳川家康に仕えていました。
天正11年(1583年)に
羽柴秀吉(豊臣秀吉)から
丹波国と河内国、
伊勢国内に3000石を与えられ、
天正16年(1588年)には
1万5000石と、
頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられています。

【織田信長に仕える】
天文23年(1554年)頃から
織田信長に小者として仕えたとのことです。
そののちに清洲城の普請奉行、
台所奉行などを率先して引き受けて
大きな成果を挙げており、
次第に織田家中で頭角を現していきました。
永禄4年(1561年)8月、
浅野長勝の養女で
杉原定利の娘であるおね(ねね)と結婚しました。
結婚式は藁と薄縁を敷いて行われた
質素なものであったそうです。
木下藤吉郎(秀吉)は、
浅野家の入り婿の形でおね(ねね)と
婚姻したのではないかと
専門家の間で見られているそうです。

永禄7年(1564年)、
美濃国の斎藤龍興との戦いの中で、
松倉城主の坪内利定や
鵜沼城主の大沢次郎左衛門らに
誘降工作を行い成功させています。

【木下藤吉郎、最初の史料】
木下藤吉郎(秀吉)の名が現れた最初の史料は、
永禄8年(1565年)11月2日付けの
坪内利定宛て知行安堵状とのことです。
「木下藤吉郎秀吉」として
副署しているのが確認できるとの事です。

【配下に組み入れ】
永禄9年(1566年)、
墨俣一夜城建設に功績を上げたとされる逸話があり、
この頃、蜂須賀正勝・前野長康らを
配下に組み入れているとのことです。

竹中半兵衛、与力になる】
永禄10年(1567年)の斎藤氏滅亡後、
木下藤吉郎(秀吉)の要請により
織田信長から竹中重治(竹中半兵衛)を、
牧村利貞、丸毛兼利と共に与力として
下に付けられています。





【明智光秀と共に京都の政務に任命】
永禄11年(1568年)9月、
近江箕作城攻略戦で活躍したことが
「信長記」に記されています。
同年、織田信長の上洛に際して
明智光秀、丹羽長秀らとともに
京都の政務を任されています。

【但馬国での活躍】
永禄12年(1569年)5月、
毛利元就が九州で大友氏と交戦している隙をついて、
同年6月に出雲国奪還を目指す
尼子氏残党が挙兵し、
以前に尼子氏と同盟していた
山名祐豊がこれを支援しました。
対して毛利元就は織田信長に
山名氏の背後を脅かすよう但馬国に出兵を依頼し、
依頼に応じた織田信長は同年8月1日、
木下藤吉郎(秀吉)を
大将とした軍2万を派兵しました。
木下藤吉郎(秀吉)は
わずか10日間で18城を落城させ、
同年8月13日には京に引き上げまいsた。
この時、此隅山城にいた
山名祐豊は堺に亡命しましたが、
同年末には一千貫を礼銭として
織田信長に献納して
但馬国への復帰を許されたのでした。

金ヶ崎の退き口
元亀元年(1570年)、
越前国の朝倉義景討伐に従軍しました。
順調に侵攻を進めていきましたが、
金ヶ崎付近を進軍中に盟友であった
北近江の浅井長政が裏切り、
織田軍を背後から急襲しました。
浅井と朝倉の挟み撃ちという
絶体絶命の危機の中、
木下藤吉郎(秀吉)は
池田勝正や明智光秀と共に
殿軍を務め功績をあげました。

【志賀の陣】
そして姉川の戦いの後には、
奪取した横山城の城代に任じられ、
浅井氏との攻防戦に従事しています。

小谷城の戦い】
その後も小谷城の戦いでは
3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から
京極丸を攻め落すなど
浅井・朝倉との戦いに大功をあげています。

【羽柴秀吉になる】
元亀3年(1572年)8月頃、
丹羽長秀、柴田勝家のような人物になりたいという
希望から木下氏を羽柴氏に改めています。
以降は羽柴秀吉とします。

長浜城主となる】
天正元年(1573年)、
浅井氏が滅亡すると、
その旧領北近江三郡に封ぜられて、
今浜の地を「長浜」と改め、
長浜城の城主となります。
羽柴秀吉は長浜の統治政策として年貢や
諸役を免除したため、
近在の百姓などが長浜に
集まってきたといいます。
そのことに不満を感じた羽柴秀吉は
方針を引き締めようとしましたが、
正妻であるおね(ねね)の執り成しにより
年貢や諸役免除の方針を
そのままとしたとのことです。

石田三成の登用】
さらに近江より人材発掘に励み、
旧浅井家臣団や、石田三成などを積極的に登用したとのことです。
天正2年(1574年)、
筑前守に任官したと推測されているとのことです。

天正3年(1575年)、長篠の戦いに従軍します。
天正4年(1576年)、
神戸信孝と共に三瀬の変で暗殺された
北畠具教の旧臣が篭る
霧山城を攻撃して落城させています。





手取川の戦いで勝家と仲違い】
天正5年(1577年)、
越後国の上杉謙信と対峙している
柴田勝家の救援を織田信長に命じられますが、
羽柴秀吉は作戦をめぐって柴田勝家と仲違いをし、
無断で兵を撤収して帰還してしまいました。
その後、柴田勝家らは上杉謙信に敗れています。

【信貴山城の戦い】
織田信長は羽柴秀吉の行動に激怒して叱責し、
羽柴秀吉は進退に窮しましたが、
天正5年(1577年)10月5日から10月10日
にかけて起こった信貴山城での戦いでは
織田家当主・織田信忠の指揮下で
佐久間信盛・明智光秀・丹羽長秀と共に
松永久秀討伐に従軍して、功績を挙げています。

【播磨・但馬の攻略 – 中国攻め】
天正5年(1577年)10月23日、
織田信長に毛利輝元ら毛利氏の勢力下にある
中国地方攻略を命ぜられ、
羽柴秀吉は播磨国に出陣しました。
播磨中の在地勢力から人質をとって、
かつての播磨守護であった赤松氏配下の勢力であった
赤松則房・別所長治小寺政職らを従えました。
11月中に播磨は平定できると報告して、
織田信長より、
その働きを賞賛される朱印状を送られています。

羽柴秀吉は更に播磨国から但馬国に攻め入りました。
岩洲城を攻略し、
太田垣輝延の篭もる竹田城を降参させました。
以前から交流のあった小寺孝高(黒田孝高)より
姫路城を譲り受けて、
ここを播磨においての中国攻めの拠点としたのでした。
播磨において一部の勢力は
羽柴秀吉に従いませんでしたが、
第一次の上月城の戦いでこれを滅ぼしてます。

天正7年(1579年)には、
上月城を巡る毛利氏との攻防の末、
備前国・美作国の大名である
宇喜多直家を服属させ、
毛利氏との争いを有利にすすめていましたが、
摂津国の荒木村重が反旗を翻したことにより、
羽柴秀吉の中国経略は
一時中断を余儀なくされたのでした。
この頃、信長の四男である於次丸、
後の羽柴秀勝を養子に迎えることを許されています。

【三木合戦】
天正8年(1580年)には
織田家に反旗を翻した
播磨三木城主・別所長治を攻撃しました。
途上において竹中重治や古田重則といった
有力家臣を失ってしまいますが、
2年に渡る兵糧攻めの末、これを降しました。

【但馬国を勢力圏とする】
同年、播磨から再び北上して但馬に侵攻し、
かつての守護山名氏の勢力を従えました。
最後まで抵抗していた山名祐豊が
篭もる有子山城を攻め落とし、
但馬国を織田氏の勢力圏としました。
其の後、自らは播磨経営に専念するために
弟である羽柴秀長を有子山城主として置き、
但馬国の統治を任せました。
なお、山名祐豊の嫡男の山名氏政は
落城前に羽柴家に帰参しています。

【出石城を築く】
山名氏政を自らの勢力に取り込むことにより
但馬の国人の反乱も起きず、
羽柴秀長による但馬経営は
円滑におこなわれたそうです。
羽柴秀長は有子山城が、
あまりに急峻なため、
有子山山麓の館を充実させて出石城としました。

鳥取城の戦い】
天正9年(1581年)、
因幡山名家の家臣団が、
山名豊国(但馬守護・山名氏政の一門)を
追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて
鳥取城にて反旗を翻しましたが、
羽柴秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で
兵糧攻めを行い、これを落城させました。
その後も中国地方西半を支配する
毛利輝元との戦いは続いたのでした。

同年、岩屋城を攻略して
淡路国を支配下に置きました。





【高松城の水攻め】
天正10年(1582年)には備中国に侵攻し、
毛利方の清水宗治が守る
備中高松城を水攻めに追い込みました。
このとき、毛利輝元・吉川元春小早川隆景らを
大将とする毛利軍と対峙し、
織田信長に援軍を要請しています。

本能寺の変・織田信長の死】
天正10年(1582年)6月2日、
主君である織田信長が京都の本能寺において、
明智光秀の謀反により自害しました。

【中国大返し】
このとき、羽柴秀吉は事件を知ると、
すぐさま清水宗治の切腹を条件にして
毛利輝元と講和し、京都に軍を返したのでした。

山崎の戦での勝利】
同年6月13日、
羽柴秀吉は山崎において明智光秀と戦いました。
羽柴秀吉はその後、明智光秀の残党も残らず征伐し、
京都における支配権を掌握したのでした。

【清洲会議】
同年6月27日、
清洲城において織田信長の後継者と
遺領の分割を決めるための会議が開かれました。
織田家重臣の柴田勝家は
織田信長の三男である
織田信孝(神戸信孝)を推しました。
一方、明智光秀討伐による戦功があった羽柴秀吉は、
織田信長の嫡男で織田信忠の長男である
三法師(後の織田秀信)を推したのでした。
柴田勝家はこれに反対したとのことですが、
池田恒興や丹羽長秀らが羽柴秀吉を支持し、
さらに羽柴秀吉が幼少の三法師の後見人を
織田(神戸)信孝とするという
妥協案を提示したため、
柴田勝家も羽柴秀吉の意見に従わざるを得なくなり、
三法師が織田信長の後継者となったのでした。

織田信長の遺領分割においては、
織田信雄が尾張国、
織田信孝が美濃国、
織田信包が北伊勢と伊賀国、
明智光秀の寄騎であった細川藤孝は丹後国、
筒井順慶は大和国、
高山右近中川清秀は本領安堵、
丹羽長秀は近江国の
滋賀郡・高島郡15万石の加増、
池田恒興は摂津国尼崎と大坂15万石の加増、
堀秀政は近江国佐和山を与えられました。





【秀吉、領地でも勝家に勝る】
柴田勝家も羽柴秀吉の領地であった
長浜12万石が与えられました。
羽柴秀吉自身は、
明智光秀の旧領であった丹波国や、
山城国・河内国を増領し、
28万石の加増となったのでした。
これにより、領地においても
羽柴秀吉は柴田勝家に勝るようになったのでした。
なお、丹波国は、公式には
羽柴秀吉の養子で信長の四男である
羽柴秀勝に与えられたということです。

【柴田勝家との対立】
羽柴秀吉は山崎に宝寺城を築城し、
山崎と丹波国で検地を実施しました。
さらに私的に織田家の諸大名と
誼を結んでいったため、
柴田勝家との対立が激しくなっていきました。

【勝家、秀吉への弾劾状をばらまく】
天正10年(1582年)10月、
柴田勝家は滝川一益や織田信孝と共に
羽柴秀吉に対する弾劾状を
諸大名にばらまきました。

【織田信長の葬儀】
同年10月15日、
羽柴秀吉は養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として、
織田信長の葬儀を行いました。
同年10月20日付の
堀秀政宛の秀吉書状の宛名には、
羽柴の名字が使用されており、
すでに羽柴秀吉による
織田家臣の掌握が始まっていた可能性があります。

【秀吉、清須会議の決定事項を反故】
10月28日、
羽柴秀吉と丹羽長秀、池田恒興は
三法師を織田家当主として擁立した
清洲会議の決定事項を反故にし、
織田信雄を織田家当主として擁立し
主従関係を結びます。
ただし、これは三法師が成人するまでの
暫定的なものであったとされています。

【秀吉の挙兵】
12月、
越前国の柴田勝家が
雪で動けないのを好機と見た羽柴秀吉は、
織田信孝が三法師を
安土に戻さないことなどを大義名分とし、
織田信孝打倒の兵を挙げました。

【長浜城の獲得】
12月9日、
羽柴秀吉は池田恒興ら諸大名に動員令を発動し、
5万の大軍の指揮を執り宝寺城から出陣し、
堀秀政の佐和山城に入り、
柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲しました。
柴田勝豊は柴田勝家と同じく養子であった柴田勝政らと
不仲であった上に病床であったため、
羽柴秀吉の調略に応じて降伏したのでした。

【織田信孝との和議】
12月16日、
美濃国に侵攻し、稲葉一鉄らの降伏や
織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強。
織田信孝の家老である斎藤利堯が守る
加治木城を攻撃して降伏させました。
このように岐阜城
孤立してしまった織田信孝は、
三法師を羽柴秀吉に引き渡し、
生母の坂氏と娘を人質として
差し出すことで和議を結んだのでした。

【滝川一益の抵抗】
天正11年(1583年)1月、
反秀吉派の一人であった滝川一益は、
羽柴秀吉方の伊勢峰城を守る岡本良勝、関城や
伊勢亀山城を守る関盛信らを破っています。
一方、羽柴秀吉は2月10日に北伊勢に侵攻しました。
そして滝川一益の居城である桑名城を攻撃しましたが、
桑名城の堅固さと滝川一益の抵抗にあい、
三里も後退を余儀なくされたとのことです。
また、羽柴秀吉が編成した別働隊が
長島城や中井城に向かったものの、
同じく滝川勢の抵抗にあって敗退したとのことです。
けれども伊勢亀山城は、
蒲生氏郷細川忠興山内一豊らの
攻撃で遂に力尽き、
3月3日に降伏しました。
それでも、伊勢戦線では
反羽柴秀吉方が寡兵であるにもかかわらず、
優勢でした。

【柴田勝家の出陣】
2月28日、
柴田勝家は前田利長を先手として出陣させ、
3月9日には3万の大軍の指揮を執り出陣しました。
一方、羽柴秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて
近江国に戻り、3月11日には柴田勢と対峙したのでした。





【賤ケ岳の戦い】
4月13日に羽柴秀吉に降伏していた
柴田勝豊の家臣である山路正国が
柴田勝家方に寝返ったのでした。
さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して
稲葉一鉄を攻めたので、
織田信孝の生母の坂氏ら人質を処刑したのでした。
はじめは柴田勝家方が優勢だったのでした。

4月20日早朝、
柴田勝家の重臣である佐久間盛政は、
羽柴秀吉が織田信孝を討伐するために
美濃国に赴いた隙を突いて、
奇襲を実行しました。
この奇襲は成功し、
大岩山砦の中川清秀は敗死し、
岩崎山砦の高山重友は敗走しました。
けれどもその後、
佐久間盛政は柴田勝家の命令に逆らって
この砦で対陣を続けたため、
4月21日に中国大返しと同様に
迅速に引き返してきた羽柴秀吉の反撃にあい、
さらに前田利家らの裏切りもあって
柴田軍は大敗を喫し、
柴田勝家は越前に撤退したのでした。

【柴田勝家とお市の自害】
4月24日、
柴田勝家は正室であるお市の方と共に自害しました。
羽柴秀吉はさらに加賀国、能登国、越中国も平定し、
前田利家には元々の領地である
能登国に加えて加賀国のうちの2郡を与え、
佐々成政には越中国の支配をこれまで通り安堵しました。

【織田信孝の自害と滝川一益の降伏】
5月初めには、織田信孝も自害に追い込み、
やがて滝川一益も降伏したのでした。

【織田家中の差配】
こうして織田家の実力者たちを葬り、
羽柴秀吉は家臣第一の地位を確立しました。
表面上は三法師を奉りつつ、
実質的に織田家中を束ねていくことになったのでした。

【徳川家康との対立と朝廷への接近】
大阪城の築城】
天正11年(1583年)、
大坂本願寺(石山本願寺)の跡地に
黒田孝高を総奉行として大坂城を築きます。

【徳川家康及び織田信雄との対立】
天正12年(1584年)、
織田信雄は、羽柴秀吉から
年賀の礼に来るように命令されたことを契機に
羽柴秀吉に反発し、対立するようになりました。
そして、天正壬午の乱を経て
東国における一大勢力となった
徳川家康が織田信雄に加担し、
さらに徳川家康に通じて
長宗我部元親や紀伊雑賀党らも
反羽柴秀吉として決起したのでした。

小牧・長久手の戦い
徳川家康・信雄連合軍はすぐに反撃に出て、
羽黒に布陣していた森長可を破ります。
さらに小牧に堅陣を敷き、
羽柴秀吉と対峙しました。
羽柴秀吉は雑賀党に備えて
はじめは大坂から動きませんでしたが、
やがて大坂から出陣し、
3月27日には犬山城に入りました。
羽柴秀吉軍も堅固な陣地を構築し
両軍は長期間対峙し合い、
戦線は膠着状態になりました。
このとき、羽柴軍10万、
織田・徳川連合軍は3万で
あったとされています。

そうした中、
森長可や池田恒興らが、
羽柴秀吉の甥である羽柴信吉(豊臣秀次)を
総大将に擁して4月6日、
三河奇襲作戦を開始しました。
けれども作戦は失敗し、
池田恒興・池田元助親子と
森長可らは戦死したのでした。

【織田信雄を超える】
織田信雄は11月11日、
羽柴秀吉と講和し、
徳川家康も次男を人質に提出して降伏しました。
こうして羽柴秀吉は、
軍事的にも身分的にも織田信雄を超え、
それは織田政権の一角から、
羽柴(豊臣)政権の長へと
上昇していくこととなったのでした。

また、この戦いの最中、
羽柴秀吉は初めて従五位下左近衛権少将に
叙位任官され、官職でも、
主家の織田家を順次凌駕することとなりました。
そして「羽柴」姓を使用しなくなったのでした。





【関白への道】
天正13年(1585年)3月10日、
正二位内大臣に叙任されました。

【紀州征伐】
同年3月21日には紀伊国に侵攻して
雑賀党を各地で破りました。
最終的には藤堂高虎に命じて
雑賀党の首領である
鈴木重意を謀殺させることで紀伊国を平定しました。

【四国攻め】
四国を統一した長宗我部元親に対しても、
弟の羽柴秀長を総大将、
黒田孝高を軍監として10万の大軍を
四国に送り込みました。
更に、毛利輝元や小早川隆景ら
有力大名も動員したこの大規模な討伐軍には
長宗我部元親の抗えず、7月25日に降伏しました。
長宗我部元親は土佐一国のみを
安堵されて許されたのでした。

【関白になる】
こうした四国攻め最中、
二条昭実と近衛信輔との間で
朝廷を二分して紛糾していた
関白職を巡る争いに介入し、
近衛前久の猶子となり、
7月11日には関白宣下を受けたのでした。

【天正地震】
また年末、天正地震が中部を襲いました。
天正地震(てんしょうじしん)とは、
天正13年11月29日(1586年1月18日)
および同年11月27日(1月16日)に
中部地方で発生した巨大地震です。
各地の被害から
長浜大地震(ながはまおおじしん)、
白山大地震(はくさんおおじしん)、
木舟大地震(きふねおおじしん)、
天酉地震とも呼ばれています。

【豊臣秀吉となる】
天正14年(1586年)9月9日、
秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り、
12月25日には太政大臣に就任しました。

【九州平定とバテレン追放令】
戸次川の戦い
天正14年(1586年)12月、
まず大友義統への増援として、
仙石秀久を軍監とした
長宗我部元親、長宗我部信親
十河存保らの四国勢が派遣され、
豊後戸次川(現在の大野川)において
島津家久と交戦したのですが、
仙石秀久の失策により、
長宗我部信親や十河存保が討ち取られ、
敗戦を喫したのでした。

天正15年(1587年)、
大友氏滅亡寸前のところで
豊臣秀長の軍勢が
毛利輝元、宮部継潤宇喜多秀家らの
軍勢と合流し豊臣軍の総勢10万が九州に到着します。

根白坂の戦い
同年 4月17日に
日向国根城坂で行なわれた
豊臣秀長軍と島津義久軍による合戦においては、
砦の守将である宮部継潤らを中心にした
1万の軍勢が空堀や板塀などを用いて砦を守備しました。

【バテレン追放令の発布】
九州平定後、住民の強制的なキリスト教への改宗や
神社仏閣の破壊といった神道・仏教への迫害、
さらにポルトガル人が
日本人を奴隷として売買するなどといったことが
九州において行われていたことが発覚し、
豊臣秀吉はイエズス会準管区長でもあった
ガスパール・コエリョを呼び出し問い詰めた上で、
博多においてバテレン追放令を発布しました。
けれども、この段階では
事実上キリシタンは黙認されていました。

【北野大茶湯と黄金の茶室】
同年10月1日、
京都にある北野天満宮の境内と松原において
千利休・津田宗及・今井宗久らを茶頭として
大規模な茶会を開催しました。
茶会は一般庶民にも参加を呼びかけた結果、
当日は京都だけではなく、
各地からも大勢の人が参加し、
会場では秀吉も参加して
野点が行われたということです。
また、この時には黄金の茶室も披露されています。

同年12月、
豊臣秀吉は伊達氏、最上氏、小田原北条氏など
関東と奥羽の諸大名に惣無事令を発令しました。





【聚楽第】
天正15年(1587年)、
平安京大内裏跡(内野)に
朝臣としての豊臣氏の本邸を構え
「聚楽」と名付けました。
この屋敷が
「聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)」
と称される建物です。

天正16年(1588年)4月14日には
聚楽第に後陽成天皇を迎え華々しく饗応し、
徳川家康や織田信雄ら有力大名に
自身への忠誠を誓わせたとのことです。
また、同年7月には毛利輝元が上洛し、
完全に臣従したとのことです。

【刀狩り・海賊停止令】
さらに、刀狩令や海賊停止令を発布し、
全国的に施行しました。

小田原征伐
天正17年(1589年)、
淀殿との間に鶴松が産まれ、後継者に指名しました。
同年、小田原北条氏の家臣である猪俣邦憲
真田昌幸家臣・鈴木重則が守る
上野名胡桃城を奪取したことをきっかけとして、
豊臣秀吉は天正18年(1590年)、
20万の大軍で関東へ遠征し、
小田原北条氏の本拠地である
小田原城を包囲しました。

小田原北条氏の支城は豊臣軍に次々と攻略され、
本城である小田原城も
3か月の篭城戦の後に開城されました。
豊臣秀吉は黒田孝高と織田信雄の家臣である
滝川雄利を使者として遣わし、
北条氏政北条氏直父子は降伏しました。
そして北条氏政・北条氏照は切腹し、
北条氏直は紀伊の高野山に追放となりました。

【奥羽仕置】
豊臣秀吉が東国へ出陣すると
最上義光伊達政宗
奥羽の大名も小田原に参陣し、
奥羽両国の平定も大きく前進したのでした。
小田原開城後の7月26日、
豊臣秀吉は下野宇都宮城に入り、
奥羽の領主に対する仕置を行いました。
葛西氏・大崎氏など
小田原に参陣しなかった領主は改易とされ、
総無事令を無視して蘆名氏などを攻めた
伊達政宗には減封の処分が下され、
最上義光ら小田原に参陣した領主は
所領を安堵されました。
伊達政宗から召し上げた所領の内、
旧蘆名領は蒲生氏郷に、
また蘆名義広は佐竹氏与力とされ、
葛西・大崎領は木村吉清に与えられました。

【奥羽再仕置】
天正18年(1590年)、
陸奥の葛西・大崎、和賀・稗貫、
出羽の仙北・由利・庄内の国衆たちは
豊臣政権の仕置に反発して一揆を起こしました。
このうち出羽の一揆は同年中に鎮圧され、
津軽氏ら出羽の大小名らは上洛し、
豊臣秀吉から領地安堵の下知を受けました。
けれども陸奥の葛西大崎一揆
翌年の天正19年(1591年)になっても続き、
更に南部信直との関係が悪化した
九戸政実も武装蜂起し、
騒乱が収まることはなかったのでした。

そのため豊臣秀吉は
天正19年(1591年)6月、
豊臣秀次を総大将とする総勢6万の大軍を
奥羽に派遣し鎮圧に当たらせました。
この再仕置軍は豊臣秀次を筆頭に
徳川家康、蒲生氏郷、佐竹義重上杉景勝
伊達政宗、宇都宮国綱らを主力とし、
蠣崎氏も蝦夷から参陣したとのことです。
奥羽に到着した再仕置軍は、
9月1日に九戸攻撃を開始して
4日には平定を完了させたのでした。

【天下統一】
全国を平定し天下を統一することで
豊臣秀吉は戦国の世を終わらせました。

【千利休の切腹】
天正19年(1591年)、
弟の豊臣秀長、後継者に指名していた鶴松が、
相次いで病死したのでした。
そのため、甥である豊臣秀次を
家督相続の養子として関白職を譲り、
太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになりました。
ただし、豊臣秀吉は全権を譲らず、
実権を握り二元政を敷いたのでした。
この年、
重用してきた茶人である
千利休に自害を命じています。
千利休の弟子である古田重然、細川忠興らの
助命嘆願は受け入れられることはなく、
千利休は切腹し、
その首は一条戻橋に晒されたのでした。

【文禄の役】
天正19年(1591年)8月、
豊臣秀吉は来春に「唐入り」を
決行することを全国に布告。
まず肥前国に出兵拠点となる
名護屋城を築き始めました。
文禄元年(1592年)3月、
明の征服と朝鮮の服属を目指して
宇喜多秀家を元帥とする
16万の軍勢を朝鮮に出兵したのでした。
初期は日本軍が朝鮮軍を撃破し、
漢城、平壌などを占領するなど
圧倒していましたが、
明の援軍が到着した後、
戦況は膠着状態となり、
文禄2年(1593年)、
明との間に講和交渉が開始されたのでした。





【豊臣秀次の切腹】
文禄2年(1593年)8月3日、
淀殿が豊臣秀頼(拾)を出産しました。
豊臣秀頼の誕生に焦った豊臣秀次は
「関白の座を逐われるのではないか」
との不安感で耗弱し、
次第に情緒不安定となったとのことです。
文禄4年(1595年)6月、
豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がりました。
7月3日、聚楽第の豊臣秀次のもとへ
石田三成・前田玄以増田長盛
宮部継潤・富田一白の5人、
(異説では、
宮部継潤・前田玄以・中村一氏・
堀尾吉晴(堀秀政)・山内一豊の5名)
が訪れ、謀反の疑いにより五箇条の詰問状を示して
清洲城に蟄居することを促しましたが、
豊臣秀次は出頭せず誓紙により
逆心無きことを誓ったとされています。
8日、再び使者が訪れ伏見に出頭するよう促され、
豊臣秀次は伏見城へ赴きますが、
引見は許されず木下吉隆邸に留め置かれたのでした。
その夜に上使により剃髪を命じられて、
高野山青巌寺に流罪・蟄居の身となりました。
15日、豊臣秀次の許へ
上使の福島正則・池田秀雄・福原長堯が訪れ、
賜死の命令が下ったことを伝えました。
同日、豊臣秀次は切腹し、
小姓や家臣らが殉死しました。
8月2日、
三条河原において豊臣秀次の首は晒され、
豊臣秀次の首が据えられた塚の前で、
豊臣秀次の遺児(4男1女)及び側室・侍女ら
およそ29名が処刑されたのでした。

【サン=フェリペ号事件と二十六聖人処刑】
サン=フェリペ号事件は、
文禄5年(1596年)に起こった
日本の土佐国でのスペインのガレオン船、
サン=フェリペ号が漂着、
その乗組員の発言が大問題となった事件です。
豊臣秀吉による
唯一のキリスト教徒への直接的迫害である
日本二十六聖人殉教のきっかけとなったとされています。

翌年の慶長2年(1597年)、
豊臣秀吉は朝鮮半島への再出兵と同時期に、
イエズス会の後に来日した
フランシスコ会(アルカンタラ派)の
活発な宣教活動が禁教令に対して
挑発的であると考え、
京都奉行の石田三成に命じて、
京都と大坂に住むフランシスコ会員と
キリスト教徒全員を捕縛し処刑を命じました。
石田三成はパウロ三木を含む
イエズス会関係者を除外しようとしましたが、
果たすことはできませんでした。
2月5日、日本人20名、スペイン人4名、
メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人が処刑されました。

【慶長の役】
慶長2年(1597年)、
小早川秀秋を元帥として
14万人の軍を朝鮮へ再度出兵しました。
漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始し、
2か月で慶尚道・全羅道・忠清道を制圧。
京畿道に進出後、
日本軍は作戦目標通り南岸に撤収し、
文禄の役の際に築かれた既存の城郭の外縁部に
新たに城塞(倭城)を築いて
城郭群を補強したそうです。

【第一次蔚山城の戦い】
このうち蔚山城は完成前に
明・朝鮮軍の攻撃を受けましたが、
日本軍が明・朝鮮軍を大破したのでした。

城郭群が完成し防衛体制を整えると、
6万4千余の将兵を在番として
拠点となる城郭群に残し
防備を固めさせる一方、
7万余の将兵を本土に帰還させ、
慶長の役の作戦目標は完了しました。

【その後の大陸への出兵計画】
その後、
第二次蔚山城の戦い、
泗川の戦い、
順天城の戦いにおいても
日本軍が防衛に成功したとのことです。
豊臣秀吉は慶長4年(1599年)にも
再出兵による大規模な攻勢を計画しており、
それに向けて倭城に兵糧や玉薬などを
諸将に備蓄するように命じていました。
けれども計画実施前に豊臣秀吉が死去したため
実施されることはありませんでした。
豊臣秀吉の死後、五大老により、
朝鮮半島在番の日本軍に帰国命令が発令されたのでした。

【五大老(ごたいろう)】
末期の豊臣政権の政務にあたった
徳川家康・毛利輝元・上杉景勝
前田利家・宇喜多秀家の五大名を指します。

【醍醐の花見】
慶長3年(1598年)3月15日、
醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営しました。
各地から700本の桜を集めて
境内に植えさせて豊臣秀頼や
奥方たちと一日だけの花見を楽しんだとのことです。





【豊臣秀吉の最期】
同年5月から豊臣秀吉は、
病に伏せるようになり
日を追う毎にその病状は
悪化していったとのことです。
5月15日、
五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの
前田玄以・長束正家に宛てた
十一箇条からなる遺言書を出し、
これを受けた彼らは起請文を書き
それに血判を付けて返答したとのことです。
豊臣秀吉は他に、
自身を八幡神として神格化することや、
遺体を焼かずに埋葬することなどを遺言したそうです。
7月4日、豊臣秀吉は伏見城に
徳川家康ら諸大名を呼び寄せ、
徳川家康に対して
豊臣秀頼の後見人になるようにと依頼したそうです。
8月5日、豊臣秀吉は五大老宛てに
二度目の遺言書を記しました。
8月18日、豊臣秀吉はその生涯を終えたのでした。
死因については諸説ありますが、
いずれも定かではない、とのことです。

【埋葬】
慶長4年(1599年)4月13日、
伏見城から遺骸が運ばれ
阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されたとのことです。
4月18日に遷宮の儀が行われ、
その際に「豊国神社」と改称されました。
なお、現在、阿弥陀ヶ峰山頂には
伊東忠太氏の設計になる
巨大な石造五輪塔が建っています。
明治30年、この工事の時、
土中から素焼きの壷に入った
豊臣秀吉の遺骸とおぼしきものが発見されたそうです。

【辞世の句】
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」

【豊臣秀吉の人となり】

ルイス・フロイスは、豊臣秀吉について
以下の様に記していたとの事です。
【1】
優秀な武将で戦闘に熟練していたが、
気品に欠けていた。
【2】
極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。
【3】
抜け目なき策略家であった。
【4】
本心を明かさず、偽ることが巧み。
悪知恵に長け、
人を欺くことに長じているのを自慢としていた。
ほとんど全ての者を汝(うぬ)、
彼奴(きゃつ)呼ばわりした。

【同僚だったらイヤかも・・・】
部下としては優秀であったかもしれませんが、
同僚としてはあまり関わりたくない人物像ですね。
秀吉自身、同僚を同僚と思わない節があったかもしれません。
とても頭の回転が速い人物であったようなので、
全ては自分を活かすか否かの
「駒」とみなしていたかもしれません。

傾奇者
人と同じに振る舞うことを嫌う、
傾奇者であったようです。
何回か開いた仮装茶会では、
(名護屋城の仮装茶会が有名)
参加する武将達に
わざと身分の低い者の格好をしてくるように通達し、
自身も瓜売りの姿で参加したとのことです。
武将たちも通達に応じ、
徳川家康は同じく瓜売り、
伊達政宗は山伏に扮した、と記録にあるとの事です。

【学問や文化を学ぶ】
文化的修養を積むことに努力し、
古典文学を細川幽斎
連歌を里村紹巴
茶道を千利休、
有識故実を今出川晴季、
禅を西笑承兌、
儒学を大村由己、
能楽を金春太夫安照に学んだとのことです。

【本能寺の変の黒幕説】

本能寺の変で最終的に
最も得をした豊臣秀吉(羽柴秀吉)が
事件の黒幕とする説があります。
その根拠となるのは、
豊臣秀吉(羽柴秀吉)の織田信長に対する
不要な援軍要請とされています。
豊臣秀吉(羽柴秀吉)は
備中高松城攻めのとき、
毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが
高松城の救援に出てきたため、
織田信長に苦境を訴え援軍を要請しました。
ところが当時の毛利氏が
高松城救援に用意できた兵力は
羽柴軍の半分の15000ほどでしかなく、
救援は不要であったとも言われています。

織田信長は三職推任問題や
皇位継承問題などで朝廷と
頻繁に交渉していたため上洛していました。
明智光秀はそこを狙って
本能寺の変を起こしましたが、
軍勢を集める理由が問題でした。
ところが豊臣秀吉(羽柴秀吉)の救援要請で
援軍に赴くように命じられたため、
織田信長に疑われることなく軍勢を集め、
その軍勢で明智光秀は
京都の織田信長を討ち果たすことが出来ました。
明智光秀が近衛前久と内通していた説がありますが、
豊臣秀吉(羽柴秀吉)も
大納言の勧修寺晴豊らと内通しており、
その筋から明智光秀の謀反計画を知り、
要請を行ったとされている、とのことです。

【中国大返しが出来た背景とは?】
また、豊臣秀吉(羽柴秀吉)の中国大返しに関しても、
沼城から姫路城まで70キロの距離を
わずか1日で撤収しています。
いかに豊臣秀吉(羽柴秀吉)が
優秀だったとはいえ、
事前に用意をしていなければ不可能なこと、
中国大返し後の織田方有力武将への
切崩しの異常な速さ、
変を知らせる使者は本当に
毛利方と間違えて秀吉の陣に入ってきたのか、
本能寺の変後の毛利方との迅速な講和は
事前に織田信長が討たれることを見越して
豊臣秀吉(羽柴秀吉)が
小早川隆景・安国寺恵瓊などへ
根回しを行っていた結果なのか、
などから疑惑が持たれ、
そこから黒幕説があるそうです。





なお、「豊臣秀吉黒幕説」は、
数多い「本能寺の変黒幕説」
のひとつに過ぎないともされています。

【つぶやきと考察】
黒幕説、というよりは
共謀者として十分あり得るなと考えます。
そしてのちに共謀者は証拠を消し去り、
罪を全て擦り付けて、
葬ってしまうのです。

山崎の戦の後の豊臣秀吉は、
正に明智光秀のすべてを踏み台にして
昇り詰めていった感じがします。
更に、近年では、
織田信長の肖像画や人物像まで
変えさせた張本人ともいわれています。

織田信長は、たった一度のミスで
切腹させたり、改易させたりはしていません。
けれども、豊臣秀吉は容赦しませんでした。
それどころか、
無実の人間まで残虐に処刑している程です。
実は、豊臣秀吉こそが残虐性や冷徹さがあり、
それを織田信長の性格として、
すり替えてしまい、
その織田信長に仕えていた自分は、
いかに優秀であるか
誇示したのかもしれませんね。
とにかく、上昇志向の強さが
半端ない人物であったことは
確かなようですから。
最も武家の出ではなく、
バックボーンがなく、
家臣もゼロから集めなければならなかったので、
並みの神経と方法では決して
出来なかった事でしょう。

何らかの利害で
明智光秀と羽柴秀吉(豊臣秀吉)の
考えなどが一致し、共謀したものの、
羽柴秀吉の中には自分がナンバー1を取る
「これこそは絶好の機会チャンス!」ということで
明智光秀を裏切り、、葬り去った・・・
かも、しれません。

脇坂安治宛の書状】
家臣の武将である
脇坂安治(わきざか やすはる)宛の
書状33通が見つかり、
その内容から、
豊臣秀吉の細かい性格が明らかになったそうです。
書状が書かれた年代は
織田信長が本能寺の変で倒れた1582年から
約10年間とのことです。

中でも、追放した近臣を匿わないように
指示して
私は信長の時代のようには甘くはない」との
文言があったそうです。
「敵」とみなした相手は徹底的に叩いたという
秀吉の性格が出ていると思います。

そして、むしろ織田信長が
「優しい人」であることが
判明しているそうです。
そして書状の中で豊臣秀吉は、
「織田信長の欠点は、家臣や領民に優しすぎたから」とも
考えていたことがわかったそうです。

従来あった豊臣秀吉の
◆常に笑顔
◆部下に優しい
◆気持ちが大きく快活で、小さなことにこだわらない
という上記のイメージは実は
織田信長が持っていたものであり、
豊臣秀吉はその模倣をしていた、ということです。

ますます謎が深まる「本能寺の変」。
そして豊臣秀吉の実像と
明智光秀の足跡。

【織田信長・明智光秀と豊臣秀吉の違い】
まあ、一つだけ言えるのは
織田信長は武家の出であり、
「武家たるもの」の教えを受けて、
育ちがしっかりとして
自身を「護る」存在があって育ったこと、
明智光秀は、流浪と浪人生活を送り、
かなり苦労したものの、
やはり武家の出であり、
「武家たるもの」の教えを受けて、
育ちがしっかりとしていたこと。

そのふたりに対して、
豊臣秀吉は何もかもゼロからのスタートでした。
武家の出ではないので
「武家たるもの」の教えもなく、
当然、武家の常識や非常識など
一切関係がありません。
従って自分を「護ってくれる」存在などなく、
全ては自分自身の度量と才覚で
人生を切り開いていかなくてはならなかったこと。
それはかなり厳しい事です。

この違いが色濃く出ていると思います。

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