史跡・城跡

堀内氏屋敷~堀内新宮城とも呼ばれた熊野水軍の将であった堀内氏善の居城跡です。

堀内氏屋敷跡(新宮市)



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堀内氏屋敷跡】

堀内氏屋敷跡(堀内新宮城(ほりうち-しんぐうじょう))は、
和歌山県新宮市千穂にある平城です。
熊野詣で有名な熊野速玉大社の南側にある
全龍寺及び新宮市立神倉小学校に
堀内新宮城があったとされます。
新宮市の指定文化財としては
「史跡 堀内氏屋敷跡」となります。
堀内氏屋敷跡 説明

堀内氏屋敷跡は、
紀伊・新宮城や、
すぐ近くの紀伊新宮周防守屋敷
と区分するため、
堀内新宮城と呼ぶのが
通例になっているとのことです。

西側及び北側に水堀が巡らされていたそうで、
現在お寺の西側に流れる小川が、
かつて存在した堀の一部だといわれています。
道路も狭く、車でのすれ違いもままならない場所です。
全龍寺の山門脇に案内板と石碑が建っています。
堀内氏屋敷跡(全龍寺)石碑 案内板
戦国時代の最初の頃は、
熊野別当の子孫を称する
新宮行栄(新宮周防守行栄)が
新宮を治めていました。
1571年頃に、
紀伊・新宮周防守屋敷を構えています。
しかし、同じく熊野別当の子孫を称する
佐野の和田森城主である堀内氏善が、
新宮行栄屈服させます。
こうして、紀伊・堀内氏屋敷を築いて
本拠を移しました。
堀内氏善の子は、
新宮姓を称して新宮行朝と名乗っています。
堀内氏屋敷跡(全龍寺)

【全龍寺・所在地】
〒647-0015 和歌山県新宮市千穂1丁目9−29

【堀内氏善】

堀内 氏善(ほりうち うじよし)は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての
武将・大名。熊野水軍の将でした。

【生誕】
天文18年(1549年)

【死没】
慶長20年4月10日(1615年5月7日)

【改名】
楠若(幼名)⇒有馬氏善⇒堀内氏善

【別名】
熊千代、新次郎、氏義

【墓所】
熊本県宇土市三宝院
長崎県南島原市安楽寺

【官位】
安房守、熊野別当

【主君】
織田信長豊臣秀吉豊臣秀頼加藤清正

【藩】
熊本藩宇土城

【氏族】
堀内氏⇒熊野有馬氏⇒堀内氏

【父】
堀内氏虎

【兄弟】
氏高、氏善

【妻】
正室:九鬼嘉隆の養女

【子】
新宮行朝、重朝、氏久、
米良道慶、有馬氏時
氏清、氏治




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【生涯】
天文18年(1549年)、
堀内氏虎の子として生まれました。
幼名は楠若と伝わっています。
堀内氏は紀伊国新宮を中心に
2万7千石(実質5~6万石)の地を支配した
豪族であり、熊野水軍(海賊)を擁する
軍事力を有する一方、
熊野別当として熊野新宮や
熊野詣などに由来する宗教的な権威と
経済力を有していました。

【熊野有馬氏の断絶】
はじめ、熊野を領し、
堀内氏と対立していた
熊野有馬氏が内紛により衰退し、
当主である有馬孫三郎が子なく
死去していたため、
氏善は養子に入りましたが、
天正2年(1574年)、
父である堀内氏虎の死後、
早世した兄・氏高の跡を継ぐ形で
新宮城主となり、
当主を失った熊野有馬氏は断絶となりました。

織田家に仕える】
天正4年(1576年)、
北畠(織田)信雄と当時志摩国であった
三鬼城、紀伊長島城を巡って
争いましたが(「勢州軍記」より)、
天正9年(1581年)には
織田信長から知行として
熊野社領分を与えられ、
織田氏に仕えるようになったということです。

山崎の戦い羽柴秀吉につく】
織田信長の死後、
天正10年(1582年)の
山崎の戦いにおいて、
羽柴秀吉に属して
7千石を加増されたということです。
(「朝野雑載」より)

中村山城を攻城】
その一方で志摩国の南西部に侵攻し、
中村山城などを攻め落としました。
そして、志摩国英虞郡の
荷坂峠以南を
紀伊国牟婁郡に編入したため、
現在の三重県尾鷲市と紀北町、
大紀町の錦地区が紀伊国の一部となりました。
堀内氏屋敷跡(全龍寺)

【豊臣秀吉に降伏】
秀吉の紀州征伐に対して当初は
抵抗の姿勢を示していましたが、
天正13年(1585年)には
降伏して本領を安堵されました。
紀州平定後の検地に反対する地侍や
農民の一揆には、秀吉方として
一揆の討伐に参加しています。
その後、四国攻めや小田原征伐
文禄・慶長の役
(晋州攻めや蘇州古城守備に574を動員)
に熊野水軍を率いて従軍し活躍、
天正19年(1591年)には
熊野惣地に任命されました。

関ヶ原の戦いで西軍】
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、
石田三成の勧めで
牟婁郡8万石と引き換えに
義父である九鬼嘉隆と共に西軍に属し、
約350人の軍勢を率いて
伊勢国に侵攻しましたが、
味方主力の敗報を聞き逐電し、
同年10月には居城・新宮城も
東軍に属する和歌山城主であった
桑山一晴に攻め落とされ
所領を失ってしまいました。
天正16年(1588年)の
北山攻めの際に築いた
京城に落ち延びましたが、
紀伊国海部郡加田村
(現在の和歌山県和歌山市加太)に蟄居しました。




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【晩年】
その後、西軍への加担は
消極的であったとの理由で許されます。
肥後国熊本藩主・加藤清正に仕えて
2千石を知行し、
宇土城の城代
(慶長17年に城が破却され任を解かれる)
を務めましたが、
慶長20年(1615年)4月10日に
熊本城で病死しました。
享年は67歳でした。

新宮城~源行家の姉の丹鶴姫が住んでいた地、続日本100名城で国の史跡。

尾鷲・中村山城~仲氏の本拠の城でしたが、堀内氏善に攻略され和睦し降伏しました。

鬼ヶ城本城~有馬忠親の隠居城でしたが攻城され熊野水軍を率いた堀内氏善が治めました。

紀伊・長島城~北畠氏の家臣である加藤氏が南北朝に築城、奥村氏に時を超えて数度裏切られる。

有馬本城~鎌倉時代に熊野別当家の出という有馬氏が築城したと伝わります。

織田信雄~織田信長の次男、散々な目に遭うも長生きしその血筋は明治維新まで受け継がれました。

鵜殿城~三河の鵜殿長照やお田鶴(椿姫)のご先祖の地、鵜殿氏は熊野別当が出自とされています。

川瀬城~赤木城から5km余、立派な城址碑と傍らに小さな五輪塔がある城主不明の城跡。

赤木城~築城は藤堂高虎で続日本100名城に選定、田平子峠刑場跡と共に国の史跡に指定されています。

熊野那智大社~世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部、熊野三山です。

青岸渡寺~世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部で西国三十三所第1番札所です。

那智の大滝・飛瀧神社~滝をご神体とする自然信仰の聖地、日本三名瀑で世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部です。

熊野速玉大社~元宮は巨岩のゴトビキ岩がある神倉神社、境内にはナギの巨木があり世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部です。

南紀勝浦温泉~熊野三山、吉野熊野国立公園の拠点で太平洋に面した自然の洞窟の浴場があります。

鬼ヶ城~国の名勝で天然記念物、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部の海岸景勝地です。

花の窟神社~伊弉冉尊の葬地と伝わる磐座信仰のある巨岩、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部です。

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