史跡・城跡

大乗院~土屋氏屋敷跡、土屋宗遠を祖とする土屋氏は北条氏・足利氏・武田氏・北条氏政・徳川家に仕えました。

大乗院(平塚市土屋)



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【大乗院】

天台宗延暦寺派の寺院です。
本尊は阿弥陀如来。
開山は平安時代と伝わり、
当地を領した中村党の武士である
土屋宗遠が1178年ごろに
中興したことで知られており、
境内は土屋氏の居館跡であったとのことです。
現在は山門・本堂・鐘楼・庫裏などからなり、
いずれも平成に再建されました。

大乗院 本堂

鎌倉幕府草創期から15世紀初頭まで
この地を領した土屋一族の城跡で、
本丸はこの大乗院付近、
館は南の段丘上にあったと推測されています。
周辺の熊野神社や木舟神社も
城の一部だったということです。

土屋氏は中村宗平の子である土屋宗遠が
当地を領したことに始まり、
室町時代に当地を追われるまで
領主として君臨しました。
居館跡には現在では当時を偲ぶものは殆ど
残されてはいませんが、
近辺の地名に庶子分
(庶子に割り当てられた領地を表す)や
寺分(寺に割り当てられた領地を表す)
が残されております。
庶子分には多くの寺や神社がありましたが、
現存するのは熊野神社や大乗院などで
正福寺・持宝院・宗憲寺は
明治初期に廃寺となりました。
なお、宗憲寺は大乗院と合併したとのことです。
「新編相模国風土記稿」では、
この宗憲寺に屋敷を構えてた旨の記述があります。

またこれらの場所から南南西方向に
土屋一族の墓があります。
元々は近辺に散らばっていた五輪塔などを
地元の保存会の方々によって、
一ヶ所に集められ、
大切に保存、供養されています。
中央の大きな五輪塔が土屋氏の祖である
土屋宗遠の墓であると見られています。

土屋氏屋敷跡 説明

土屋氏はその後、
土屋宗遠の姉が、土屋氏の東に勢力をもつ
三浦一族の岡崎義実に嫁いでたこともあり、
和田合戦の時は和田側について北条義時に敗れ、
勢力が衰退しますが、室町時代まで続きます。
応永23年(1416年)に起きた
上杉禅秀の乱で上杉禅秀に味方して、
大森・今川の援軍を得た足利持氏に敗れ、
50余名一族郎党討ち死にとなりました。
そして足利持氏は大森氏に土屋氏の所領を与え、
ついに土屋一族は相模国を追われて
他方に散って行ったのでした。

【大乗院所在地】
〒259-1205 神奈川県平塚市土屋200

<宗派>
天台宗 千手観世音菩薩

【交通アクセス】
平塚駅北口下車 神奈中バス 
◆平71系統秦野駅行き 
「欠ノ上」下車700m
◆平75系統秦野駅南口行き 
「庶子分」下車300m

<駐車場>
あり

【土屋宗遠】

土屋 宗遠(つちや むねとお)は、
平安時代末期から
鎌倉時代初期の相模国土屋の武将です。
中村宗平の三男となります。
土肥実平の弟であり、
桓武平氏系土屋氏の創祖です。

平氏の流れを汲む中村氏の一族で、
相模国大住郡土屋
(現在の神奈川県平塚市土屋)
を拠点としました。
兄である土肥実平とともに
治承4年(1180年)8月の
源頼朝挙兵から側近として仕え、
石橋山の戦いで敗れた源頼朝に従い、
安房に逃れた七騎落の一人
であるとも言われています。
石橋山の戦いの後、
源頼朝の使者として
甲斐源氏のもとに赴いています。
以後、有力御家人の一人として活躍しました。




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また、嫡男である中村重平が早世し、
後継ぎもいなかったので、
実家の中村家の面倒も土屋家と掛け持ちで
見ていたとのことです。
兄の土肥実平と共に中村党を率いていたのでした。

承元3年(1209年)5月、
宿怨から梶原家茂(梶原景時の孫)を
和賀江の辺で殺害し、
侍所別当の和田義盛のもとに出頭して
身柄を預けられています。
土屋宗遠の主張には十分な正当性が
認められませんでしたが、
翌月、将軍である源実朝は源頼朝の
月忌にもあたっていたため、
特に彼を赦免しています。
北条時政と北条義時が
鎌倉幕府の権力を握る様になってからは
土肥実平・土肥遠平親子は
北条氏に疎まれてくことになります。
石橋山の功労者の一人であった
土屋宗遠もまた然り。
建保元年(1213年)に起きた
和田合戦の時は
土屋宗遠の姉が、土屋氏の東に勢力をもつ
三浦一族の岡崎義実に嫁いでおり、
土屋宗遠自身も和田義盛から受けた恩義もあって
和田義盛側について北条義時に敗れました。
この戦いで岡崎義実の次男で土屋宗遠の
養子となった土屋義清をはじめ、
土屋一族で5人も失っています。
土屋宗遠はその後、
石橋山の戦いで討死した嫡男の土屋忠光と
和田の乱で矢で射殺された養子の土屋義清、
そしてそれらの戦いで亡くなった郎党たちのために
伊豆・相模・安房・武蔵の国が見渡せる
七国峠に供養の松を植えたという伝承があります。
そして
建保6年8月5日(1218年8月27日)に
90歳の長寿で死去したと云われています。

大乗院 境内

その後の土屋氏はだんだんと勢いがなくなり、
小豪族となってしまいますが、
鎌倉幕府滅亡時の戦いの時は
足利氏についています。
そうして室町時代まで
相模国土屋にいましたが、
上杉禅秀の乱で、
上杉側につき敗れてしまい、
相模国を失ってしまいますが、
子孫は武田氏や小田原北条氏に仕えています。

【土屋氏】

土屋氏(つちやうじ、つちやし)は、武家のひとつ。
本姓は平氏。
家系は桓武平氏の一つである
高望王の系譜で平良文を祖としています。

平良文の6代孫である
土屋宗遠を初代としています。
土屋宗遠の父親は
中村党の武士である村岡(中村)宗平、
兄に土肥実平がいます。
弟には二宮友平がおり、
その子である二宮朝忠に
曽我兄弟の異父姉となる
花月尼が嫁いでいます。

花月院知足寺 曽我兄弟 花月尼・二宮朝忠供養墓

【歴史】
土屋氏は坂東八平氏であった
相模国中村荘司村岡(中村)宗平の子、
土屋宗遠が相模国中村荘において
土屋郷司(現神奈川県平塚市土屋)
についたことに由来しています。

鎌倉時代には、出雲国持田荘や
出雲国大東荘、
河内国茨田郡伊香賀郷の
地頭を任官し各地に勢力を
伸張していきました。




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【室町時代】
1391年の明徳の乱では山名氏に味方して、
京都二条大宮付近の戦いで
11代目となる土屋宗貞をはじめ、
50余名が討ち死にしました。

けれどもその後も山名氏の
有力家臣であった土屋氏は、
明徳の乱後も侍所頭人あるいは
山城守護であった山名氏のもとで、
土屋越前守がその代官を務めています。
越前守は熙俊を名乗っていたということです。
のちに土屋から垣屋(谷)に改め、
八木・太田垣・田結庄氏らとともに、
山名氏の四天王といわれたとのことです。

【さらば相模国】
時代を戻して、
室町時代の応永23年(1416年)、
惣領分家である土屋宗光の子孫である
13代目となる土屋景遠の時に
上杉禅秀の乱がおきました。
土屋氏は上杉禅秀につき、敗れてしまい
相模国本領を奪われ、
他国に追われたということです。
土屋氏の所領は大森頼春に与えられました。

【戻ってきた土屋一族】
その後、
伊勢盛時が大森頼春を攻めて所領とし、
土屋の地は小田原北条氏の領有地となります。
この戦の時に、伊勢盛時は火を放ち、
多くの戦死者が出て弔う塚が
沢山あったとのことです。
この際に大乗院も
焼失したと云われています。

1575年の長篠の戦い
甲斐の武田氏が織田氏によって
敗れると、武田氏の家臣の多くが他の国へと逃れ、
その中には土屋氏の子孫もいたと考えられています。

甲斐に残った土屋氏は山梨県塩山市の
恵林寺を守護する形で居を構え、
「表土屋」「裏土屋」と呼ばれていたのことです。

【甲斐国へ】
時代がまたもや前後しますが、
甲斐国では戦国時代以前から
土屋氏の痕跡が見られます。
土屋景遠のひとつ前の世代である
土屋氏遠が武田信満に仕えて家臣になっています。
そして土屋氏遠は甲斐国で亡くなっています。
土屋氏遠の次代である土屋景遠も
武田家臣でしたが、
彼が仕えていた武田信満の子である
武田信長が鎌倉御所に
仕えていたので、共に鎌倉にいたとの事です。

足利公方屋敷跡(鎌倉)

武田信虎と共に駿河へ】
土屋景遠の次の代である
14代目の土屋勝遠は
甲斐国守護である
武田信昌の娘を娶り、
子の15代目となる土屋信遠は
武田家臣となりました。
土屋信遠の子である土屋昌遠は
駿河国大平郷に移り住んで
武田家中を離れています。
その理由として、
土屋昌遠は武田信虎に
仕えていたことにあります。
その武田信虎が天文10年(1541年)、
実子である武田晴信に
甲斐国を追放されたとき、
土屋信遠の子である土屋昌遠は
武田信虎にしたがって
駿河国へ移ったからでした。
武田信虎が信濃国伊那で没した後、
土屋昌遠は高野山にのぼり、
のち駿河国大平郷にある
先祖の菩提所である真光院に移り住んで、
没したとの事です。




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北条氏政に仕える】
土屋昌遠の子は眼病で盲目となりました。
父親の土屋信遠の死後、
母と外祖父である菅沼定則の所領である
遠江井伊谷に移りました。
そのあと、今川義元のところに
人質としてあった竹千代(のちの徳川家康)に仕え、
今川義元の子である今川氏真に請われて
その家臣となりました。、
そして小田原に出て北条氏政に仕えました。
彼は円都と号し検校に取り立てられ
北条氏政の使者として上洛しました。

小田原城 常盤木門への橋

【徳川氏の旗下へ】
天正18年の小田原攻めの際、
徳川家康は井伊直政に円都を城外に
誘い出させています。
このとき、北条氏政は円都に
辞世の句を預けたということです。
慶長5年、関ヶ原の戦いのころ
京都にいた円都は、
何度か石田三成に誘われたもののこれを拒否。
関ヶ原の戦後、一族は
徳川家の旗下となったということです。

このように土屋氏は鎌倉幕府から
江戸幕府までの間で北条氏、
足利氏、武田氏、そして徳川家に仕え
武家社会の基盤を支え続けたのでした。

【甲斐土屋氏】
戦国時代の甲斐土屋氏は
甲府盆地西部の西郡を本領とし、
南アルプス市徳永に居館が
所在していたと言われています。
この甲斐土屋氏は金丸氏と同族になります。
金丸氏は足利氏の一族である
一色氏満範の
弟範貞を祖とする家で、
範貞の曾孫一色藤次が甲斐に下り、
武田氏の支流金丸氏の家名を
継いだということです。
従って、土屋宗遠の子孫とは別となります。

天正10年(1582年)6月の
本能寺の変後に起きた
天正壬午の乱を経て
甲斐国は徳川家康が領しました。
武田遺臣が徳川家康に提出した
天正壬午起請文では
土屋氏の同心70名が井伊直政に
付属していることが確認されています。
「寛永諸家系図伝」「寛政譜」では
土屋忠直(金丸氏系土屋氏)は
徳川家康の側室である
阿茶局により養育され、
慶長7年(1602年)に
上総国久留里藩主となります。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

石橋山の戦い~源頼朝旗揚げの地!300VS敵3000!大敗するも真鶴から安房へ逃れて再挙を図る。

中村宗平~中村党の祖で源頼朝を支えてきた武士団で、鎌倉党とは大庭御厨を巡る対立がありました。

土肥実平とその妻~武士団「中村党」の中心であり頼朝から厚い信頼を受けた宿老~小早川家の祖。

真田城~神奈川県平塚市にある真田の郷、真田與一義忠(佐奈田義忠)について。

岡崎義実~代々源氏の家人で特に忠義心厚い人物。三浦一族だが中村党とも深い関係で真田与一の父親です。

和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる

北条時政~先見性を持ち才腕を振るって幕府の実権を掌握するが暴走して寂しく去る。

北条義時~鎌倉幕府2代執権~冷酷無情・現実を客観視して行動できる理想家なのか?

曾我城跡~曾我兄弟が育った曽我氏の館。北条氏康に滅ぼされたが嫡流は足利将軍や徳川家に仕え出世した。

満江(万劫)御前~曽我兄弟を含めて5人の子供のお母さんで狩野茂光の孫娘です。屋敷跡やお墓があります。

扇谷上杉管領屋敷跡~扇谷上杉氏の遠祖は足利尊氏の叔父。鎌倉公方を補佐する関東管領家として鎌倉に居住。

大森氏頼~兄弟親子の分裂を経て当主になり西相模で勢力をのばしました。居館跡(矢崎城)は紫雲寺です。

足利公方邸跡(鎌倉)、鎌倉時代初期に足利義兼が構えた屋敷は足利尊氏も住みやがて激動の室町時代を迎えます。

伊勢盛時(北条早雲・伊勢宗瑞)の登場~小田原北条初代~名門一族の出自で関東に覇を唱えに行く!

北条氏政~小田原北条4代目~最大の領土を築くも、生きた時代と合わなかった慎重派で愛妻家で家族思い。

今川義元~祝・生誕500年~足利一門の名門・海道一の弓取りと称された東海の覇者!

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

土屋右衛門昌続とその屋敷跡~武田24将の一人で武田信玄死後3年間遺体を隠した場所とのことです。

土屋惣蔵昌恒~出自は金丸氏で武田家最後の家臣にて忠臣、子供は大名になります。

尾附城 ~山中衆の土屋山城守高久が築城、武田の武将小幡氏の重臣である熊井土氏の配下です。

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