明智家臣

四王天政孝 四王天政実 明智光秀家臣~先祖は武蔵武士団・児玉党の党祖、青木氏から家康次男・結城秀康の家臣となる

四天王政孝・政実



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四王天政孝

四王天 政孝(しおうてん・しほうてん まさたか)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
明智光秀の家臣で、
通称は又兵衞または但馬守を称したとのことです。

【生い立ち等】
丹波国氷上郡柏原庄平井村の人。
弟に四王天政実がいますが、
四王天政実は、
四王天政孝の子とも言われているそうです。

明智光秀が丹波国に入国した前後に
配下となったとのことです。
天正3年(1575年)の
丹波攻めに参加しましたが、敗退します。
同年の越前国攻めや、
翌年の石山合戦(いしやまかっせん)にも、
四王天政孝・四王天政実共に従軍したとの事です。

天正6年(1578年)に赤井直正が病死すると、
天正7年(1579年)、
再来した明智軍(織田軍)の
部将であった四王天政孝は、
氷上郡に入って高見城を落とし、
天田郡の鬼ケ城も落城させます。
八上城攻略時には
波多野秀治と四王天政実が戦いとなり、
四王天政孝が捕えたということです。
8月には赤井氏の居城である黒井城がついに落城して、
明智光秀は丹波をこうして平定しました。

福知山城代】
明智光秀は丹波国内に諸将を配して、
四王天政孝・四王天政実を福知山城代とし、
四王天政孝は福知山城周辺に
1万石の知行を得たとのことです。

【光秀と運命を共に】
本能寺の変の際には、
負傷した明智光忠に代わって
四王天政孝が二条城攻めを指揮したと伝わります。
四王天政実は本能寺
森蘭丸(森乱丸)を討ったとのことですが、
これには異説もあり、
四王天政孝とも別の人物ともされています。

天正10年(1582年)6月13日、
山崎の戦いで、
四王天政孝は明智光秀に先んじて戦死したそうです。

【四王天政実】

四王天 政実(しおうてん・しほうてん まさざね)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
明智光秀の家臣で、
通称は又兵衞、但馬守を称したとのことです。

【先祖は武蔵武士団・児玉党
先祖は児玉惟行(こだまこれゆき)とも
いわれているそうです。
そしてその子孫が武蔵児玉郡四方田
(現在の埼玉県本庄市四方田)に
住み、鎌倉時代の天皇の土御門天皇から
四方田氏が賜ったと伝えれているそうです。
この読みは「しほうでん・よもだ・よもた」
と読む事が多いです。
それから更に、「四王天」と名前を変えたとの事です。

なお、児玉惟行は武蔵七党の一つにして、
最大勢力の集団を形成する事となる武士団である
児玉党の党祖なる人物と言われています。




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【生い立ち】
四王天政実自身は丹波の生まれであるとされています。
明智光秀に兄(又は父)である
四王天政孝と共に仕えていました。
四王天政孝と共に
森蘭丸(森成利・森乱丸)を討ち取ったとされて、
います。

【舟橋の守り役へ】
山崎の戦いのあと、
四王天政実は逃れ、
豊臣秀吉を恐れて紀伊国湯浅に
潜伏していたとのことです。

領主である青木秀以(あおきひでもち)
と旧知の仲だったので
名を変えて、青木秀以(あおきひでもち)
300石で召し抱えられたとのことです。
青木秀以が越前大野に移封となると、
共に越前に行き、
九頭竜川にかかる舟橋の守りに就き、
1000石に加増されました。

結城秀康に仕える】
青木秀以が病死した後は、
一度浪人になったとされますが、
新しく越前北ノ庄城に入り、
越前北ノ庄藩初代藩主となった
結城秀康に召し抱えられ、
再び舟橋の守りとして
300石を与えられたとの事です。

大坂の陣は留守居を務め、
子の又兵衛孝信が出陣したとのことです。

現在も、左岸(南詰)の
福井県福井市舟橋町には、
「四王天但馬守事績碑」
という碑が残っているとの事です。

【九頭竜川の舟橋】

九頭竜橋(くずりゅうばし)は、
福井県福井市の九頭竜川に架かる
福井県道30号福井丸岡線
(フェニックス通り、旧国道8号、北国街道)の橋。
当地には古くから舟を
鎖で繋いだ橋が架かっていたことから、通称舟橋と呼ばれる。

越前舟橋・現 九頭竜橋(福井県福井市) – 川幅約218m。舟数48艘。
右岸(北詰):福井県福井市稲多元町、稲多浜町
左岸(南詰):福井県福井市舟橋町

【場所・歴史】
福井市中心部からフェニックス通りを北に進み、
九頭竜川とぶつかるところにありました。
天正6年(1578年)、
柴田勝家が、柴田勝家が刀狩で集めた刀や鉄砲を利用して、
黒竜渡(渡船場)のあった現在の九頭竜橋付近に、
48艘の舟を並べて鎖でつなぎ留め、
その上に板を渡した初代・舟橋を架設しました。
長さは120間(約218m)でした。
鎖520尋、毎年修理を加えているとの記録がありました。
この橋は当時、越中の神通川舟橋などと並んで、
「天下の三大舟橋」と称され
全国に名を知られたとのことです。




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出水の時は舟橋を撤収する決まりとなっていましたが、
舟を流失することもしばしばあったそうです。
なお、この近辺は、12世紀半ば、
木曽義仲が北陸路から京へ攻め込む時に戦場になったとのことです。

1878年(明治11年)
明治天皇の北陸巡幸にあわせ、
旧来の舟橋に代わり木橋が架設される。
1948年(昭和23年)
⇒ 福井震災により損壊。
1951年(昭和26年)
⇒ 鉄筋コンクリート製の現在の九頭竜橋が竣工。

【舟橋】
舟橋
(または船橋、ふなばし、英語:Pontoon bridge)は、
河川の中に並べた船(ポンツーン)の上
に板を敷いて造る仮設橋でポンツーン橋とも称します。

【神通川の舟橋】
富山県富山市の神通川に架かる
「神通川の舟橋」は常設の舟橋であり、
慶長年間(1596年⇒1615年)に架橋されました。
最長で430mあった川幅の両岸に柱を立てて鎖を渡し、
64艘の船をつないで船の上に板を渡していました。
大水の時には舟橋を撤去し、水が引くと再び架橋しました。
木製の常設橋が1882年(明治15年)に建設されて
舟橋は役目を終えましたが、
この地点には明治時代の馳越工事で松川となった現在も、
ほぼ同じ場所に同名の橋が架かり、
舟橋という地名も残っています。
また、旧舟橋の両岸
(今の舟橋の南岸および北に200mほど離れた場所)
には橋のしるべを示す常夜燈(1799年建)が
現在も残っているとのことです。

※※「三大舟橋」の三つ目は残念ながら判明出来ませんでした。

【児玉惟行】

児玉 惟行(こだま これゆき)は、
平安時代後期の武蔵国児玉郡の豪族で武将。
武蔵七党の一つにして
最大勢力の集団を形成する事となる
武士団、児玉党の党祖。
有道惟能の子息と伝わっています。
児玉氏系図では児玉遠岩の子息とあり、
「武蔵七党系図」には
藤原伊周の子息と記されていますが、
現在では後世の創作と考えられています。
有道氏から児玉氏を称したとされ、
実質的な児玉氏の祖とされています。

【児玉氏の元々の氏】
児玉氏の初姓が藤原姓だったのは
現在では後世の創作であると
見なされているそうです。
有道(在道)氏は始め、
大部氏を称していたとのことです。
大部氏が有道氏を賜った事は、
「続日本後紀」に記述があるとの事です。
その記述通りならば、

大部氏⇒有道(在道)氏⇒
遠峰(コダマ・コタマ)氏⇒ 児玉氏⇒ 庄氏⇒ 本庄氏

と言うのが本来の流れとなり、
大部氏から本庄氏に至るとのことです。
なお、大部氏の祖神はイキシニキホの命とされ、
これはニギハヤヒの別名とも伝えられているそうです。




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【埼玉の地へ赴任】
古代、児玉郡大寄郷若泉庄の阿久原
(現・神川町の南部)には官営牧場があったそうです。
朝廷よりの派遣官人、
つまり阿久原の別当(管理者)として
児玉惟行は赴任して来たとのことです。
当時は、有道 遠峰 維行
(ありみち こだま これゆき)
と称していたそうです。
任務完了後も児玉郡にとどまり、
そのまま在地豪族と化したと伝えられており、
名前を児玉惟行(こだま これゆき)と称したそうです。
のちに、官営牧場と馬の管理は
武士団の基盤となっていったそうです。
そして武蔵国最大の武士団となる
児玉党の党祖となったとのことです。

【児玉惟行の子孫】
児玉惟行の嫡男である児玉弘行
(児玉党本宗家2代目、通称は大夫)が
後三年の役(1083年⇒1087年)に
参戦していたと言う伝えがあり、
そこからも、児玉惟行は平安時代後期の人物と考えられています。
また、浅見山(本庄で言う大久保山)丘陵の南西端、
現在の児玉町下浅見地区に
西光寺(児玉氏の菩提寺)を建立し、
阿弥陀如来を安置したとされています
(庄氏の菩提寺である宥荘寺と同様に
14世紀中頃の薊山合戦にて焼失したと伝わります)。

【諸氏族への分岐】
児玉党本宗家3代目である
児玉家行(児玉惟行の孫)以後、
本宗家は庄氏を名乗るようになりました。
その本拠地を北上して栗崎の地(現在の本庄台地)に移ります。
その直系の家督は庄小太郎頼家で絶えましたが、
児玉党本宗家は庄氏分家によって
継がれていく事となりました。
そして、本庄氏が児玉党本宗家となるのでした。
児玉惟行の嫡流達は
児玉郡内を流れる現・九郷用水流域に居住し、
土着した地名を名字とし、
児玉・塩谷・真下・今井・阿佐美・
富田・四方田・久下塚・北堀・牧西など、
多くの支族に分かれていったそうです。

児玉氏の嫡流は、
こうして多くの氏族に分かれていきましたが、
その後も児玉氏を称している一族は、
全て分家格に当たるとのことです
(児玉氏の最も直系の嫡流は本庄氏である為)。

【四方田氏】
四方田氏(しほうでんし、よもだし、よもたし)
は、日本の氏族。
平安時代から鎌倉時代にかけて
武蔵国で群雄割拠した
武蔵七党の児玉党を構成する一族でした。

【発祥】
武蔵児玉郡四方田邑の発祥。
(埼玉県本庄市大字四方田(しほうでん))
庄氏より分派した氏族で、
庄二郎弘高が四方田に住み、
(児玉党本宗家4代目庄太夫家弘の次男)
四方田二郎弘高を名乗ったことが
始まりであるとされています。
なお、「吾妻鏡」にも
四方田氏一族の名が記されているとの事です。




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鎌倉幕府の倒幕】
元弘元年(1331年)、
後醍醐天皇による倒幕運動が起こり、
元弘3年(1333年)、
勅命を受けた新田義貞
上野国において倒幕の旗を上げ、
利根川を渡り、武蔵へ南下しました。
この時、国境沿いに勢力があった
児玉党武士達は新田義貞に従い、
比企郡に入り、次に入間郡と転戦して行き、
小手指原では鎌倉幕府軍の桜田・長崎勢を打ち破り、
多摩郡の分倍河原の戦い
徹底的な勝利を収めたとあります。

宗良親王の部下として】
四方田氏は、正平7年/文和元年(1352年)
の武蔵野合戦の際、
新田義興・新田義宗に従い、
宗良親王の部下として戦ったと伝えられています。

【後北条氏の家臣として】
戦国期の四方田氏は、後北条氏に長く仕え
北条氏康軍として戦い武功もあげていたとのことです。
この時代では児玉党の本宗家たる本庄氏とは
敵対関係となっていましたが、
最終的には本庄氏も
後北条氏の家臣となったとのことです。

四方田氏の一族は、
出羽国、能登国、伊勢国に所領を得ていました。

【結城 秀康】

結城 秀康(ゆうき ひでやす)は、
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。
越前北ノ庄藩初代藩主。
越前松平家宗家初代。

【生い立ち】
天正2年(1574年)2月8日、
徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村で生まれました。
母は三河国池鯉鮒明神の社人・永見吉英(永見氏)の娘で、
徳川家康の側室の於万の方(長勝院、通称おこちゃ、小督局)。
誕生地は、今川氏の時代より代官や
浜名湖周辺の船・兵糧の奉行を務める
源範頼の系譜である領主・中村正吉の屋敷でした。
現存する同屋敷(建築物は江戸初期)内には、
徳川家康お手植えの松「秀康の胞衣塚」が残っています。
この縁により、
のちの歴代福井藩主は参勤交代の際、
中村家で供応を受ける慣例が続いたとのことです。

「秀康は双子で誕生した」との説があり、
その相方の兄は永見貞愛とされていました。

【秀吉の養子となる】
天正12年(1584年)12月12日、
羽柴秀吉の養子として
「羽柴三河守秀康」と名乗ります。
天正17年(1589年)、
豊臣秀吉に実子の鶴松が誕生すると、
豊臣秀吉は鶴松を生後4ヶ月で
豊臣氏の後継者として指名します。
そのため他の養子同様に、
再び他家に出されました。

【結城氏の養子へ】
天正18年(1590年)、
実父の徳川家康が駿遠三甲信から、
関東一円(旧北条領)に
国替えになり240万石を得ます。
豊臣秀吉は、秀康を北関東の大名である
結城氏の婿養子とすることを考えつきました。
結城氏は下野国の守護に
任命されたこともある名家です。
秀康は関東に下り、
黒田孝高(くろだよしたか)の取り成しで
結城晴朝の姪と婚姻して
結城氏の家督および
結城領11万1000石を継ぎました。
なお、黒田孝高とは大変仲が良く、
3日に一度は黒田孝高の屋敷に
結城秀康は通っていたとも言われています。
ちなみに、黒田孝高とは、
黒田官兵衛(くろだ かんべえ)又は
黒田如水(くろだじょすい)のことです。




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【越前北庄へ】
関ヶ原の後、結城秀康は
徳川家康より下総結城10万1000石から
越前北庄68万石に加増移封されました。
結城旧来の家臣の中には
越前への移転を拒否するものが少なく、
それ故この越前移封は最終的な
在地離脱の強制として機能したもので、
その結果、結城秀康は
自らの権力における旧族結城氏よりの
継承面をほぼ払拭することができたそうです。

【病に伏し30代で死去】
慶長10年(1605年)、権中納言。
慶長11年(1606年)9月21日には
伏見城の留守居を命じられました。
けれども、病を得て職務を全うできなくなったため、
慶長12年(1607年)3月1日に越前へ帰国し、
そのまま閏4月8日に死去、享年は34歳でした。

【名刀・石田政宗】
石田三成失脚(石田三成襲撃事件)時、
結城秀康と堀尾吉晴
石田三成を護衛して瀬田まで送りました。
石田三成はその労を感謝し、
正宗の刀を秀康に贈ったとされています。
この名刀は「石田正宗」と称され、
結城秀康の末裔にあたる津山松平家に伝世されています。
(名刀「石田正宗」は現在、東京国立博物館蔵)。

【天下三名槍】
天下三名槍の一つである
駿河嶋田の鍛冶師・義助の傑作である
「御手杵」を所有していたことでも知られていました。
養父・結城晴朝から譲られたこの槍は、
槍身だけで全長210cm、穂先が138cmもあり、
常人には振り回せないほど
重く大きかったと言われているそうです。

【子孫】
結城秀康の子の5人の男子は
徳川将軍家の御家門(越前松平家)となっており、
現在も各子孫が続いているとのことです。
特に松平直良の子孫は
稲葉氏や勧修寺家を経て
仁孝天皇から現在の皇室へと繋がっているとのことです。

【系統図】
秀康⇒直良⇒直明⇒女(稲葉恒通室)
⇒女(勧修寺顕道室)⇒経逸⇒婧子(光格天皇典侍)⇒仁孝天皇

なお、稲葉恒通は稲葉知通の子供です。
稲葉知通は複数の有名な戦国武将の子孫です。
織田信長及び明智光秀の玄孫に当たります。
また細川忠興の曾孫、
丹羽長秀の玄孫、
斎藤道三の来孫
です。
そして名前の通り、稲葉一鉄の子孫でもあります。

【青木秀以】

青木 秀以(あおき ひでもち)、
青木 一矩(あおき かずのり)の名でも知られています。
安土桃山時代の武将、大名。
豊臣秀吉の従兄弟で豊臣家の一門衆。
越前大野城、府中城、
次いで北ノ庄城の城主でした。
千利休に師事した茶人でもあり、
名物の所持者でもあったそうです。

【出目】
通説によれば、
美濃国大野郡揖斐庄の住人である
青木重矩(勘兵衛)の子として
生まれたとされています。
「青木系図」では、
藤原氏魚名流の青木氏として作られており、
青木秀以は元弘3年(1333年)に
恒良親王を奉じて
千種忠顕らと共に挙兵した
青木以季・義季親子の8代孫にされているそうです。

そして母方は通説によれば、
母・大恩院は、
豊臣秀吉の生母である大政所(天瑞院)の姉妹で、
豊臣秀吉の叔母(または伯母)にあたるそうです。
豊臣秀吉が大政所の侍女に宛てた
書簡が根拠となっているとの事です。

青木秀以の母は後年は大政所の侍女を務めていました。




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【略歴】
羽柴秀長に仕え、
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに従軍。
天正14年(1586年)に
越前国大野郡に転封が命じられました。
実際に越前に移ったのは
天正15年(1587年)頃と推測され、
この頃から豊臣秀吉に直仕したとのことです。

慶長2年(1597年)7月21日に
従五位下侍従に叙任されて豊臣姓を賜ります。
これにより、羽柴越府侍従や羽柴府中侍従を称し、
以後、通称としては羽柴紀伊守を用いたとのことです。

慶長3年(1598年)8月、
豊臣秀吉が死去すると、
葬儀では同じく従兄弟である
福島正則と共に秀頼の名代を務めたとのことです。

秀吉遺命として翌慶長4年(1599年)2月5日付けで
徳川家康ら五大老連署の知行宛行状が発行され、
北ノ庄21万石(20万石ともする)への
加増・転封が命じられ、越前北ノ庄城主となりました。
以後、羽柴北庄侍従を称しています。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は、
大谷吉継ら北陸の諸将と共に西軍に味方したものの、
病床にあって出陣は叶わず、
東軍の前田利長の抑えとして
北国口に留まったとされています。
関ヶ原本戦で西軍が敗戦した後、
前田利長の軍勢が越前に侵攻して
鳴鹿川(竹田川)を渡って北ノ庄に迫っていましたが、
この時、すでに青木秀以は死の淵にあり、
10月10日(6日とも)に病死したそうです。
法名は西江院殿長英傑山大居士。

其の後、領地没収となったとのことです。

明智光秀について~駆け足で手短にわかる明智光秀の生涯~

山崎の戦い(天王山の戦い)、天下分け目の山崎合戦で明智光秀は何故敗れた?

坂本城・要所かつ豪壮華麗な明智光秀の居城~琵琶湖の浮城~

光秀の妻・明智煕子と明智一族の墓がある西教寺~互いを支え合い深い絆で結ばれた夫婦~

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福知山城~初代城主は明智光秀~領民に慕われた証の御霊会、城代は婿で重臣の明智秀満

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