織田家

稲葉良通~稲葉一鉄・頑固一徹の語源である西美濃三人衆~多才な人物で信長に好かれる

稲葉良通



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稲葉良通

稲葉良通・ 稲葉 一鉄(いなば よしみち ・ いなば いってつ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
斎藤氏、織田氏、豊臣氏の家臣。美濃国曽根城主。
安藤守就氏家直元と併せて西美濃三人衆と称されていました。
中でも稲葉良通は三人衆筆頭とされていました。

【頑固一徹】
号は一鉄(いってつ)です。
これが「一徹」という言葉の語源である説が有力とされています。
江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母となり
権勢を振るった春日局(斎藤福)の外祖父にあたり、
養祖父でもあります。
肖像画の眉毛がその名にふさわしく、
かなり太く立派に描かれています。

【生い立ち・元は僧侶】
一鉄の祖父・稲葉通貞(塩塵)は、
伊予国の名族・河野氏の一族でありましたが、
美濃に流れて土豪になったとされているそうです。
また、安藤氏と同族で伊賀氏の末裔との説もあります。

永正12年(1515年)、
美濃の国人・稲葉通則の六男として、
美濃池田郡本郷城に生まれました。
幼少時に崇福寺で僧侶となり、
快川紹喜(かいせんじょうき)の下で学んでいましたが、
大永5年(1525年)の牧田の戦いで、
父と5人の兄達が全員浅井亮政と戦って戦死したため、
還俗して塩塵と叔父・稲葉忠通の後見の下に家督と曽根城を継ぎました。

【土岐氏及び斎藤氏家臣時代】

はじめ土岐頼芸に仕え、次いで頼芸を追放し
美濃を治めた斎藤利政(道三)に仕え、
西美濃三人衆の1人として活躍しました。
弘治2年(1556年)、
利政とその子・義龍の争いである長良川の戦いにおいては、
義龍に味方しています。
なお、姉である深芳野は、
最初は頼芸の側室でしたが、利政に譲られ、義龍を産んでいます。




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斎藤道三(利政)の娘婿・織田信長は、
尾張国を統一して、永禄3年(1560年)に
桶狭間の戦いで勝利し、今川義元を敗死させると、
美濃攻略の機会を伺っていました。
義龍が病死し、その子・斎藤龍興が跡を継ぐと
織田信長は美濃侵攻を本格化させました。
それに対し良通は、永禄4年(1561年)の森部の戦い、
同5年(1562年)の軽海の戦いなどで活躍したそうです。

けれども永禄6年(1563年)に、
他の西美濃三人衆と共に龍興に諫言するものの聞き入れられず、
そのことがやがて、
翌年の安藤守就による稲葉山城占拠に繋がっていきました。
一度は和解となったものの、
永禄10年(1567年)に三人衆は信長へ内応し、
同年の稲葉山城の戦いで
龍興の美濃からの敗走を決定的にさせました。
以後、織田信長に従っていきます。
この時既に、年齢は50歳を超えていました。

【織田信長の家臣時代】

永禄11年(1568年)、すでに50歳を超えていましたが、
信長の上洛に第1隊として従い、和田山城を包囲します(観音寺城の戦い)。
永禄12年(1569年)の伊勢国大河内城の戦い、
元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いに加わり、
近江国金森城の守将として一向一揆勢を退け、
さらに同年の姉川の戦いでは
徳川家康と共に戦功を挙げています。

【一鉄となる】
なお、姉川の戦いでは先陣を務めていたとの事です。
姉川の戦いの後、信長は良通を勲功第一として賞し、
偏諱授与により長通と名乗るように命じたとありますが、
良通は勲功第一は家康であると偏諱と共に拒否したそうです。
そして、入道号である一鉄が、
用いられるようになった事が確認されるのは、
この後の大徳寺御納所宛ての書状からとのことでした。

【60歳手前でも第一線にて活躍す】
その後も、野田城・福島城の戦いにおいて
「楼岸(ろうのきし)の砦」に滞陣ののち
殿軍(しんがりぐん)を指揮。
志賀の陣では軍使も務め、
元亀2年(1571年)の長島攻め、
翌3年(1572年)に摂津交野城の後詰め、
元亀4年(1573年)の槇島城の戦いでの一方の先鋒、
天正元年(1573年)の一乗谷城の戦いでは、
朝倉義景を追い詰めるなど各地に転戦して
武功を発揮したことによって、
美濃清水城を新たに与えられています。

【還暦過ぎてもまだまだ最前線】
天正2年(1574年)の長島攻め、
翌3年(1575年)の長篠の戦い
越前一向一揆攻め、美濃岩村城攻め、
翌4年(1576年)の天王寺の戦い、
天正5年(1577年)の紀州征伐、
加賀一向一揆攻め、播磨国神吉城攻め、
翌6年(1578年)の有岡城の戦い
(兵糧攻めに切り替えた後には織田信孝の副将として
安土城の留守居役を務める)に参加し、武功を挙げています。

【家督、譲る】
天正7年(1579年)、家督と曽根城を嫡子の貞通に譲り、
美濃清水城に移ります。
この時、良通は齢65歳、嫡子の貞通は34歳でした。
天正10年(1582年)、
武田攻めより凱旋した織田信長を、
領内の呂久の渡しにて、もてなしました。




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本能寺の変
天正10年(1582年)に、
明智光秀本能寺の変を起こし
織田信長と嫡男である信忠が横死してしまいます。
すると、稲葉良通(一鉄)は美濃国人衆に呼びかけて
岐阜城に甥の斎藤利堯(斎藤道三の四男)を擁立し、
明智光秀に対して独立を保とうと画策しました。
かつて織田信長に追放され、
稲葉領内に滞在していた安藤守就の一族が、
復権を目指して明智光秀と手を組み、
旧領の北方城を奪還し、
本田城を攻撃してきたため交戦し勝利、
守就等を敗死させました。
中央では光秀が山崎の戦いで早々に討たれましたが、
織田信長の死で統制を失った美濃では
諸将の衝突が頻発することになってしまいました。
良通(一鉄)は、娘婿の揖斐城主・堀池半之丞と戦い、
その領地を支配下に置きました。
外孫の福(のちの徳川家光の乳母となる春日局)を稲葉家に引取り、
福は成人するまで美濃清水城で過ごしたとみられています。

豊臣秀吉家臣時代】

天正10年(1582年)の清洲会議の後、
織田信孝が岐阜城を相続し、
美濃は支配下に置かれるはずでした。
けれども、良通(一鉄)は
信孝と対立を深める羽柴秀吉に従うようになります。
翌11年(1583年)、
賤ヶ岳の戦いでは、信孝から城下の焼き討ちを受けています。
柴田勝家方の不破氏の西保城を攻めました。

新たに岐阜城主となった池田恒興とは、
池田恒興が大垣城主の頃からも
境界線についての抗争がありましたが、
仲介に当たった羽柴秀吉から、4万貫の領地が安堵されています。
天正12年(1584年)、齢70歳ともなろう頃に、
小牧・長久手の戦いにも参加し、武功を挙げました。
(前哨戦である小牧の戦いで
岩崎山の砦を守備したのが最後に戦場に出た記録で、
以後、前線には出ていないとのことです)。

【晩年】
天正13年(1585年)に秀吉が関白になると、
法印に叙され「三位法印」と称しました。
同15年(1587年)、
「島津攻め」から凱旋してきた豊臣秀吉を、西宮に出迎え、
大坂城山里丸の茶室に招かれています。
天正16年(1588年)11月19日、美濃清水城にて死去。
享年74歳でした。

【多彩な人物像】

戦いにあけくれた生涯でしたが、
ほぼ負けなしでこれは、
徳川家康の四天王・本多忠勝にも匹敵すると言われています。
活躍や風貌からすると、猛々しい武将のイメージがありますが、
武道だけではなく、茶道を好み、能にも造詣がありました。

【茶道】
茶道の方では天文24年(1555年)に
志野宗温より名香帖を授与され、
永禄元年(1558年)には志野省巴より目録を伝授されています。
更に、不住庵梅雪から斎藤道三に伝授され、
さらに道三から一鉄へと相伝された
茶の湯秘伝書「数奇厳之図」があるそうです。

【能】
能では、曽根城址の華渓寺には
良通(一鉄)愛用の翁の能面が
大垣市指定の文化財として収蔵されています。

【医道】
そして、医道に関心が深く、
稲葉一鉄薬方覚書」という覚書きを伝えています。

【織田信長とのエピソード】
このように武道だけではなく、
多才な才能の持ち主ですから、
織田信長にも大層気に入られていたようです。
姉川のエピソードの他に以下の話が伝わっています。

【(1)「寛政重修諸家譜」と「名将言行録」より】
天正2年(1574)、
良通(一鉄)のことを信長に「裏切るかもよ?」と讒言する者がありました。
これを信じてしまった織田信長は、
良通(一鉄)を殺そうとして茶会に招きます。
すると、良通(一鉄)は、
元僧侶で、師匠はあの快川紹喜(かいせん じょうき)という
経歴を活かす時が来たのか(?)
床にかけられた禅僧の虚堂智愚の墨蹟
「送茂侍者」を読み下しながら
自己の無実を述べました。
織田信長は稲葉良通の学識の高さに感嘆すると共に
無罪を信じたそうです。
(なお、「名将言行録」では、
類似の逸話で掛軸の画賛の韓退之の詩
「左遷至藍關示姪孫湘」を読んでみせたそうです)。
更に、「名将言行録」によりますと、
織田信長が良通(一鉄)に感嘆し、
「あまりにも感激したので真実を話そう。
実は今日貴殿を討ち果たすつもりで、供侍たちに暗殺を命じていた。
だから、供侍は全員懐剣を忍ばさせている。
これからは貴殿を害することはない。わしに従い謀りごとを献じてくれ」
といったところ、
良通(一鉄)は
「死罪を助けて頂き有り難うございます。
拙者も実は暗殺されると思いましたので
一人ぐらいは道連れにしようと思っておりました。
実は拙者も懐剣を持っております」
と懐剣を見せ、
織田信長はその態度に益々感激したと記されているそうです。

【(2)能の御礼】
天正3年(1575年)7月。
上洛を終えたい織田信長は帰路、真っ直ぐに岐阜へ帰らず、
途中で稲葉良通(一鉄)のもとに立ち寄りました。
この来訪を喜んだ稲葉良通(一鉄)は、
孫達に能を演じさせて信長を歓待したそうです。
これを受けて、織田信長は稲葉良通(一鉄)の嫡男である
貞通の子(稲葉典通との説があります)に
自らの腰に差していた刀を授与したと伝わります。

【(3)勝手に出家しないでよ】
家督を嫡男に譲り、剃髪して一鉄似斎と号しました。
ですが、勝手に出家したのは無礼であると織田信長に咎められました。
しばらく謹慎していましたが、
その付近で織田信長が馬の調練を行った際に挨拶に出向くと和解となったそうです。

【(4)60代の今弁慶】
戦略に長け勢いにも乗る武田勢との長篠の戦いにおいて、
稲葉良通(一鉄)は、朱槍朱具足で味方を鼓舞し、
また早急軽率の忌避を戒め、御堂山の織田信雄に属して奮戦しました。
これを織田信長は今弁慶と賞賛したと伝わります。




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【独立心旺盛】
非常に独立意識の高い人物であったようで、
清洲会議後に美濃の領有が織田信孝に認められた際も、
信孝死後に美濃が池田恒興に与えられた際も、
独立勢力として立場を保ち、
彼らの従属的立場には入ってはいませんでした。

【人となりが見えるエピソード】
「武家事紀」
「享禄以来年代記」
「美濃国諸旧記」
などに記録されている稲葉良通(一鉄)のお話です。
【1】
あるとき、敵の間者が捕縛されて引き出されました。
家臣は処刑を主張するも、
稲葉良通(一鉄)が間者を見ると若かったので不憫に思い、
腹を減らしているようなので縄目を解いて部屋に上げて食事を与えました。
自分を含めた美濃の武将が領土と家名を守るため
如何に苦難しているかを聞かせ、
自分の陣中を見せて金銭を与えて釈放しました。
後にその間者は一鉄の恩義に報いるために稲葉家の足軽となり、
姉川合戦で奮戦して戦死したとのことでした。

【2】
紀州征伐の折、織田信長は雑賀兄弟を説いて降伏させようとしました。
けれども最初に出した配下は帰ってきませんでした。
次に稲葉良通(一鉄)を向かわせると
兄弟は降伏してきたのでした。
何故降伏したのか問いただすと、
「最初の使者は尊大で横柄な態度だったので殺したが、
稲葉良通(一鉄)は威儀を正して丁寧で、
義理が明白で、武士の気風も立派だったので感じいった。」と答えたそうです。

【3】
稲葉良通(一鉄)は外出するとき、
いつも小銭を入れた銭袋を腰に帯び、
僧侶や修験者に会うたびに銭を与えていたそうです。
ある時、家臣がそのことを尋ねると、
「我が家祖の塩塵(通貞)は飢えながら諸国を遍歴していた。
一飯の銭が相手を、そして自分を助けることになる」と語ったそうです。
あるときは敵の間者が僧侶に化けていたこともありましたが、
稲葉良通(一鉄)はいつものように銭を与えました。
間者はそのため、稲葉良通(一鉄)を
「誠の仁者」であると主君に報告したということです。




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【旧主である土岐頼芸の発見】
天文21年(1552年)頃、
斎藤道三に追放され、近江国の六角氏、
続いて実弟の治頼がいる常陸国、更には次いで上総国の土岐為頼を頼り、
後に甲斐国の武田氏に身を寄せていた
土岐頼芸(とき よりあき・よりなり・よりのり・よりよし)を発見し、
美濃国へ帰還させています。
土岐頼芸は余生を美濃で過ごして、
帰還から半年後に死去したといわれています。
享年は81歳でした。

なお、2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では
村田 雄浩(むらた たけひろ)さんが演じられることが決定されています。

【本能寺の変との関わりと明智光秀】
「稲葉家文書」及び「日本外史」によりますと、
稲葉良通は明智光秀の重臣・斎藤利三
(春日局(ふく)の父)の義父であり、主でしたが、
元亀元年(1570年)に利三は明智光秀の家臣に転仕しました。
天正10年(1582年)には利三を介して更に、
那波直治を引き抜かれると、稲葉家は訴訟を起こすこととなりました。
織田信長は返すように命じましたが、
明智光秀がこれを容れなかったため髷を掴み突き飛ばしたとあります。
那波直治を戻し、斎藤利三に切腹を命じる裁定を、
本能寺の変の4日前となる
天正10年(1582年)5月27日付けで下していました。

【快川 紹喜】

快川紹喜(かいせんじょうき)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗妙心寺派の僧。
諱は紹喜(じょうき)。
妙心寺の仁岫宗寿の法を継ぎ、
美濃国の寺院を経て妙心寺の43世に就任し、美濃の崇福寺住職となりました。
美濃国主の斎藤義龍との間で「永禄別伝の乱」
と呼ばれる宗教上の混乱が起こり、
一旦美濃を離れますが、義龍の死去に伴い帰国しました。

【甲斐国の恵林寺へ】
永禄7年(1564年)には
甲斐国の武田信玄に招かれて恵林寺(甲州市塩山)に入寺し、
武田氏と美濃斎藤氏との外交僧も務めていました。
天正10年(1582年)3月、
織田信長の甲州征伐により武田氏は滅亡します。
これにより武田領内が混乱すると、
快川紹喜は織田信長に敵対した佐々木次郎(六角義定)、
三井寺の上福院、足利義昭の家臣の大和淡路守らを恵林寺に匿い、
織田信忠の引渡し要求を拒否しました。
これは中世において寺院は
聖域であるとする社会的観念があったためと解釈されています。
その後に恵林寺は織田氏による焼討ちにあい、
快川紹喜は一山の僧とともに焼死しました。
其の数ヶ月後に本能寺の変が起こり、
織田信長も炎の中で絶命したとされています。

滝のぼる 鯉の心は 張り弓の 緩めば落つる 元の川瀬に
という言葉でも知られているそうです。

弟子には伊達政宗の教育の師として有名な虎哉宗乙がいます。

【河野氏】
河野氏(こうのし、かわのし)は、
伊予国(愛媛県)の有力豪族で、越智氏の流れをくむとされています。
第22代当主河野通清以降は「通」を通字としています。
河野氏は河野郷(旧・北条市河野地区付近)を出自とし、
当初は国衙の役人として活動していたそうですが、
治承・寿永の乱(源平合戦)で源氏に味方したことで
鎌倉幕府の御家人となり
西国の武将でありながら大きな力をつけたとされています。
その後、室町期に道後に湯築城を築き本拠を移しています。
根拠地の伊予が地政学的にも
周辺諸国からの介入を受けやすい位置にあったこともあり
内乱を繰り返し、その結果勢力を削がれていくこととなりました。
一族の中に、鎌倉時代中期の僧侶で時宗の開祖の
一遍(いっぺん)がおります。

【越智氏】
越智氏(おちうじ)は古代日本の伊予国(愛媛県)の豪族の一つです。
「国造本紀」によりますと、
越智氏は越智郷(現在の今治市国分付近)が出自とされ、
5世紀後半に近畿政権の国造制により、
現在の愛媛中東部に五国造が行なわれ、地域の支配者が任じられます。
そのうちひとつである物部氏の一族である
「物部大新河」の孫「小市国造小致」が越智氏の始まりとされています。

崇福寺~岐阜城の麓~織田信長・織田信忠の霊廟があるところ、稲葉一鉄の修業の寺

斎藤道三~晩年の足跡~鷺山城址・道三塚・常在寺、そして斎藤義龍

土岐頼武・土岐頼純VS土岐頼芸~美濃守護土岐氏~度重なる家督争いで衰退し、斎藤道三に乗っ取られる!

濃姫(帰蝶)~織田信長のナゾ多き正室で明智光秀の従兄妹~

織田信長について~駆け足で手短にわかる織田信長の49年~

氏家直元(氏家卜全)~西美濃三人衆~美濃国人衆の中で最大の勢力、次男は家康に惜しまれながらも大坂夏の陣で果てる

安藤守就~西美濃三人衆~娘婿は竹中半兵衛、最期は稲葉一鉄に滅ぼされる

不破光治・不破直光(不破彦三勝光)親子~戦国の世をしぶとくゆったりと生き抜く~

佐藤忠能・佐藤忠康父子と娘の八重緑と加治田城攻防~織田信長の東美濃攻略~琵琶湖・百足退治も

岸信周・岸信房父子~中濃衆~妻も勇猛で往年の女武将の如く・堂洞城を枕に壮絶に散る

長井道利~中濃衆~義龍に父との決別を促し明智を滅ぼす・出目も最期もナゾ残す人物

四王天政孝・四王天政実~明智光秀家臣~先祖は武蔵武士団・児玉党の党祖、青木氏から家康次男・結城秀康の家臣となる

興禅寺~黒井城の下館~明智光秀の重臣・斎藤利三が治めた春日局の生誕地

明智城址と天龍寺と明智一族、築城主の明智頼兼(土岐頼兼)とは?

明智光秀について~駆け足で手短にわかる明智光秀の生涯~

三条西実澄~明智光秀と正親町天皇の縁を結んだ人物で細川幽斎の師匠。孫の三条公広は春日局を養育。

恵林寺~1330年に開山された武田氏の菩提寺である臨済宗の古刹、庭園は国の名勝に指定されています。

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