史跡・城跡

朝倉義景の墓~義景清水~孤独を纏う朝倉家最後の当主・戦よりも芸事と内政が得意

義景史跡






朝倉義景の御墓所】

朝倉義景織田信長との戦いに敗れ、
大野で自害した越前の戦国武将です。
墓所横には公園も整備されています。

【所在地】
〒912-0086
福井県大野市泉町10

<朝倉義景公御墓所>
天正元年(1573年)、
逃れた六坊賢松寺で自害しました。
現在では六坊賢松寺は廃寺となっていますが、
現在の曹源寺(大野市明倫町)辺りでは
ないかと推定されているそうです。
寛政12年(1800年)、旧家臣の子孫によって
曹源寺の境内に建立され、
文政5年(1822年)に、
現在地に移設されたそうです。
朝倉義景公の墓

<鳥居景近・髙橋景倍墓>
朝倉義景公の近臣です。
最後の最期まで朝倉義景に仕えていたそうです。
鳥居景近・髙橋景倍の墓

<高徳院・祥順院・愛王丸合祀の墓>
高徳院は朝倉義景の生母、
祥順院は妻、愛王丸は次男です。
愛徳院・祥順院・愛王丸の墓

<瀧池家の墓>
旧家臣の瀧池家です。
瀧池家の墓





義景清水(よしかげしょうず)】
朝倉義景公のお墓がある一帯が湧水池となっています。
名水百選の「御清水(おしょうず)」をはじめ、
平成の名水百選に選ばれている
「本願清水(ほんがんしょうず)」など、
「清水(しょうず)」
と呼ばれる湧水地がいたるところに点在します。
この「義景清水」は「御清水(おしょうず)」から近いそうです。

<義景清水>
義景清水

<あふれる湧水>
義景清水 湧水

<イトヨが泳ぐ義景清水>
この湧水にはイトヨ(陸封型)が生息しています。
福島県以南の陸封型のイトヨは環境省より、
絶滅危惧種の指定を受けています。
イトヨは北緯35度以北の
地域に分布していますが、
この大野の地は生息地の南限となります。
この大野の地では昔から
綺麗な湧水に生息するイトヨを
「ハリシン」と呼んで親しんできました。
イトヨはトビウオ科の仲間で、
オスが池の底に巣を作って、子育てをします。
2005年(平成17年)に、
大野市の魚に選定しました。

イトヨが泳ぐ義景清水

【朝倉義景】

朝倉 義景(あさくら よしかげ)は、
戦国時代の武将。
越前国の戦国大名。
越前朝倉氏第11代(最後)の当主。

【生誕】
天文2年9月24日(1533年10月12日)
【死没】
天正元年8月20日(1573年9月16日)
【改名】
長夜叉(幼名)、延景、義景
【別名】 孫次郎(通称)

【父】朝倉孝景(宗淳孝景)
【母】高徳院(広徳院)
【妻】
正室:細川晴元の娘
継室:近衛稙家の娘
側室:小宰相((足利)鞍谷嗣知の娘)、
側室:小少将(斎藤兵部少輔の娘)(愛王丸の母)(祥順院?)
【子】阿君丸、愛王丸、

【家督相続と前半生】
天文2年(1533年)9月24日、
越前国の戦国大名で
朝倉氏の第10代当主である
朝倉孝景の長男として生まれました。
生母は高徳院(光徳院)といわれ、
若狭武田氏の一族の娘で、
武田元信、もしくは
武田元光の娘とされています。
或いは養女の可能性もあります。

このとき、父の朝倉孝景は既に40歳であり、
唯一の実子であったとされています。
けれども、出生については異説があります。
幼名は長夜叉と称しました。
朝倉義景の幼少期に関しては不明な点が多く、
守役や乳母に関しては
一切が不明で、
伝わる逸話もほとんどないそうです。





【朝倉家第11代当主】
天文17年(1548年)3月、
父の朝倉孝景が死去したため、
16歳で家督を相続して第11代当主となり、
朝倉延景と名乗ります。
9月9日には京都に対して
代替わりの挨拶を行っています。
尚、一乗谷朝倉氏としては、5代目となります。

当主になったはじめの頃は、
若年のため、弘治元年(1555年)までは、
従曾祖父の朝倉宗滴(教景)が
政務及び軍事を補佐していました。

【朝倉義景となる】
天文21年(1552年)6月16日、
室町幕府の第13代将軍である
足利義輝(当時は義藤)より
「義」の字を与えられ、義景と改名します。
この頃、左衛門督に任官しています。
将軍の「義」の字を与えられて
一等官である左衛門督の
官途を与えられた事は、
歴代朝倉家当主の中では異例のことでした。
それまでの朝倉当主は
左衛門尉などの三等官まででした。
これは朝倉義景の父である
朝倉孝景の時代に、
室町幕府の御供衆・相伴衆に
列して地位を高め、
また朝倉義景が正室に、
管領であった細川晴元の
娘を迎えたことにより
幕府と大変親密な関係を
構築したことになります。
また衰退する室町幕府にとっては
朝倉家の守旧的大名の力を
さらに必要として優遇したためとも
推測されています。
庭籠の巣鷹を義輝に献上して
交流を深めていたことも知られています。

【自ら政務を執る】
弘治元年(1555年)に
朝倉宗滴が死去したため、
朝倉義景は自ら政務を執るようになります。
深刻政治情勢に巻き込まれることが
無かったため越前は周辺諸国に比べて、
安定・平和・栄華を極めたとされています。
このため当時の越前を訪れた者は
「義景の殿は聖人君子の道を行ない、
国もよく治まっている。羨ましい限りである」
と讃えていたとか。
また公家の三条西公条なども
越前を羨んだといわれています。

粟屋勝久攻撃す】
永禄2年(1559年)11月9日には、
従四位下に叙位されました。
永禄6年(1563年)8月、
若狭国の粟屋勝久を攻めました。
この頃の若狭守護である武田義統は、
守護として家臣を統率する力を失っており、
粟屋勝久や逸見昌経らは
丹波国の松永長頼と通じて
謀反を起こしていました。
このため朝倉軍は永禄6年以降、
主に秋に粟屋氏攻撃のために、
若狭出兵を繰り返しています。
永禄7年(1564年)9月1日、
朝倉景鏡と朝倉景隆を大将とした
朝倉軍が加賀国に出兵します。
9月12日には朝倉義景も出陣して、
本折・小松を落としたのを皮切りとして、
9月18日には御幸塚、
9月19日には湊川に放火して
大聖寺まで進出した後の9月25日に
一乗谷に帰陣しています。

【足利義輝暗殺される】
永禄8年(1565年)5月19日、
13代将軍の足利義輝が三好義継らによって
暗殺されました。
朝倉義景は足利義輝暗殺を5月20日に
武田義統の書状で知ることができました。
8月に朝倉軍は若狭に出兵しています。
また、8月5日に足利義輝の叔父にあたる
大覚寺義俊が上杉謙信に充てた書状によれば、
足利義輝の弟である覚慶(後の足利義昭)が
7月28日に幽閉先の奈良を脱出して
近江国に移ることになった背景には、
朝倉義景の画策があったと見られています。
この段階で朝倉義景は、足利義輝の家臣であった
和田惟政細川藤孝・米田求政ら
脱出に関わった人たちと
連絡を取り合っていたと推測されています。
9月8日、松永久秀に矢島御所から追われ、
若狭武田家を頼っていた覚慶改め足利義秋が
越前敦賀に動座したため、
足利義景は朝倉景鏡を使者として遣わし、
その来訪を歓迎したとあります。





【加賀一向一揆と家臣の謀反】
足利義秋は、朝倉家の後援を期待して
朝倉・加賀一向一揆の和睦を取り持とうとします。
けれども、両者の長年の対立は深刻で
すぐに和睦できるものではありませんでした。
また、永禄10年(1567年)3月、
家臣の堀江景忠が、
加賀一向一揆と通じて謀反を企てました。
加賀国から来襲した
杉浦玄任率いる一揆軍と交戦しつつ、
朝倉義景は山崎吉家・魚住景固に命じ
堀江家に攻撃をしかけます。
堀江景忠も必死に抗戦をしましたが、
結局、和睦して堀江景忠は加賀国を経て
能登国へと没落していきました。
実はこれは、
朝倉景鏡の讒言による内乱であったと
「朝倉始末記」には記されているとの事です。
11月21日、足利義秋を一乗谷の安養寺に迎え、
11月27日に朝倉義景は、
祝賀の挨拶を行なっています。
そして、足利義秋の仲介により
12月には加賀一向一揆との和解も
ようやく成立したとのことです。

鳥越城 階段

【地位は管領代】
足利義秋は上杉謙信など諸大名にも
上洛を促す書状を送っていました。
けれども、それらの大名家は
隣国との政治情勢などから
出兵は難しかったとされています。
そのため足利義秋は、
朝倉義景に上洛戦を求め、
12月25日には非公式ながら
朝倉義景の館を訪問していたことが
判明しています。
また足利義秋が発する御内書には、
朝倉義景の副状が添えらえており、
この時の朝倉義景は実質的には、
管領に相当する立場にあったと見られています。
「朝倉系図」では朝倉義景の地位を
管領代として記しているとのことです。

【足利義昭、朝倉館で元服】
永禄11年(1568)3月には、
生母である高徳院が二位の尼に叙せられました。
同年4月には、足利義秋が足利義昭と改め、
朝倉館で元服しました。
その後も足利義昭は朝倉館を訪問して、
朝倉義景に限らず朝倉一門衆とも
関係を深めて上洛戦を求めていきます。
けれども、6月に朝倉義景の嫡男である
阿君丸が急死してしまい、
朝倉義景は悲しみの底に沈んだとされています。

【上洛するには力が足りない】
このように朝倉義景は足利義昭が望む
上洛戦には消極的でした。
7月に足利義昭は美濃国を支配下におき、
勢いに乗る織田信長を頼って
動座しようとしています。
朝倉義景は止めようとしたものの。、
足利義昭は、滞在中の礼を厚く謝する
御内書を残して越前から去ったということです。

【義景が上洛戦に消極的だった理由】
朝倉義景は当時の状況を考慮して、
足利義昭を奉じての上洛を
しなかったと見られています。
実際に足利義昭は他の多くの大名家に
上洛を促しても無視されていました。
仮に朝倉義景が上洛して
足利義昭を将軍とすると、
三好家と事を構える事に
繫がっていきます。
当時の浅井・朝倉連合の実力では、
これを破って上洛する事は
難しかったと見られています。

【若狭平定ならず】
国吉城籠城記」によると、
永禄11年(1568年)8月、
若狭守護・武田氏の内紛に乗じて介入し、
当主である武田元明を保護という名目で
小浜から連れ去り越前一乗谷に軟禁し、
若狭も支配下に置きました。
けれども、
武田家臣の粟屋勝久や熊谷氏などは
朝倉義景に従属することを拒否し、
頑強に抵抗し続けました。
朝倉義景は、一族の朝倉景鏡や朝倉景健らに、
次第に政務を任せるようになり、
自らは遊興に耽るようになったと言われています。

<国吉城歴史資料館>
国吉城歴史資料館

【義昭、第15代将軍になる】
永禄11年(1568年)9月、
織田信長は足利義昭を奉じて上洛しました。
洛した織田信長は足利義昭を将軍とします。
さらに朝倉義景に対して、
足利義昭の命令として、
2度にわたって上洛を命じましたが、
朝倉義景はこれを拒否しています。
織田信長も越前は織田領である
美濃と京都間に突き出された槍、
という位置から朝倉義景を服属させる
必要があったと考えらえています。
永禄13年(1570年)4月20日、
越前出兵の口実を与えることになり、
朝倉義景は、
織田信長・徳川家康の連合軍に攻められます。





【金ケ崎】
連合軍の攻勢の前に、
旧若狭武田家臣である
粟屋氏・熊谷氏らは織田信長に降伏しました。
また支城である天筒山城金ヶ崎城
織田軍の攻勢の前に落城しました。
朝倉義景は後詰のために、
浅水(現在の福井市)まで出兵しましたが、
居城の一乗谷で騒動が
起こったとして引き返しました。
そして、浅井長政が織田信長を裏切って
織田軍の背後を襲ったため、
織田信長は京都に撤退しました。

<金ケ崎>
焼米石出土跡

姉川の戦い
元亀元年(1570年)6月28日、
織田・徳川連合軍と
朝倉・浅井連合軍は姉川で激突しました。
世に言う姉川の戦いです。
この時の朝倉軍の総大将は朝倉義景ではなく、
一族の朝倉景健でした。

<姉川>
姉川の古戦場

【信長包囲網!】
8月25日、
織田信長が三好三人衆及び
石山本願寺討伐のために
世にいう野田城・福島城の戦いである
摂津国に出兵している隙をついて、
朝倉義景は自ら出陣し、
浅井軍と共同して9月20日に
織田領の近江坂本に侵攻しました。
そして織田信長の弟である織田信治と
織田信長の重臣である森可成
敗死に追い込みました。
さらに大津で焼き働きし、
9月21日には醍醐・山科に進駐しました。

【合戦から勅命和睦へ】
織田信長が軍を近江に引き返してきたため、
比叡山に立て籠もって織田軍と対峙します。
志賀の陣と呼ばれている戦いです。
11月25日、織田信長は、
朝倉義景の退路を断つために
堅田に別軍を送りました。
11月26日に朝倉・織田間で合戦になり
これは痛み分けとなった模様です。
11月28日、足利義昭と二条晴良らが
坂本に下向して和睦の調停を行ないました。
さらに織田信長は朝廷工作を行なったため、
12月に織田信長と朝倉義景は
勅命講和することになりました。
亀元年(15700年)、
織田信長との講和の際、
織田信長は朝倉義景に対して

「天下は朝倉殿(義景)持ち給え。
我は二度と望みなし」

という起請文を出したということです。

【信長の反撃】
元亀2年(1571年)1月、
織田信長は木下藤吉郎秀吉に命じて、
越前や近江間の交通を遮断・妨害しています。
6月11日、朝倉義景は顕如と和睦し、
顕如の子・教如と娘の婚約を成立させています。

小谷城包囲】
元亀3年(1572年)7月、
織田信長は小谷城を包囲し、
虎御前山・八相山・宮部の各砦を
整備しはじめました。
これを見た浅井氏は朝倉氏に
長島一向一揆が尾張と美濃の間を封鎖したから、
今なら織田軍を討ち果たせる等と、虚報を伝え、
朝倉義景はこれを信じて支援に赴いたとされます。
けれど朝倉義景は攻勢には出ず、
織田軍から散発的な攻撃を受けると、
前波吉継富田長繁ら有力家臣が
織田信長方に寝返りました。
9月には砦が完成しました。
織田信長は再び日時を決めての決戦を
申し入れてきましたが、
朝倉義景はまた無視しています。
9月16日、織田信長は砦に木下藤吉郎秀吉を残し、
横山城へと兵を引きました。





【武田軍強し!信玄に叱られる】
10月、甲斐国の武田信玄
西上作戦を開始しました。
遠江・三河方面へ侵攻し、
徳川軍は次々と城を奪われていきました。
この出兵の際、武田信玄は朝倉義景に対して
協力を求めています。
これを受けて織田信長が岐阜に撤退すると、
朝倉義景は浅井勢と共同で打って出ましたが、
虎御前山砦の羽柴秀吉隊に敗退します。
12月3日には部下の疲労と積雪を理由に
越前へと撤退してしまいました。
そのため武田信玄から、
激しい非難を込めた文章を送りつけられました。
ですが4月12日、
朝倉家にとって同盟者であった
武田信玄は陣中で病死。
これにより武田軍は甲斐に引き揚げました。
このため、織田信長は織田軍の主力を
朝倉家に向けることが可能となったのです。

【義景、最後の出陣】
天正元年(1573年)8月8日、
織田信長は3万の軍を率いて近江に侵攻します。
これに対して朝倉義景も軍を率いて
出陣しようとしたようですが、
数々の失態を犯し重ねてきた朝倉義景は、
すでに家臣の信頼を失いつつありました。
「疲労で出陣できない」として
朝倉家の重臣である
朝倉景鏡、魚住景固らが
朝倉義景の出陣命令を拒否したのでした。
このため、朝倉義景は
山崎吉家、河井宗清らを招集し、
2万の軍勢を率いて出陣したのでした。

【大嶽砦、陥落】
8月12日、織田信長は暴風雨を利用して
自ら朝倉方の砦である大嶽砦を攻めました。
織田信長の奇襲により、
朝倉軍は敗退して砦から追われてしまいます。

【義景、大敗する】
8月13日には丁野山砦が陥落し、
朝倉義景は浅井長政と
連携を取れなくなりました。
このため、朝倉義景は
越前への撤兵を決断します。
ところが織田信長は
朝倉義景の撤退を予測していました。
よって朝倉軍は織田信長自らが率いる
織田軍の追撃を受けることになるのでした。
田部山の戦いで朝倉軍は敗退し、
柳瀬に逃走しました。

【朝倉、壊滅的となる刀根坂】
織田信長の追撃は厳しく、
朝倉軍は撤退途中の刀根坂において
織田軍に追いつかれ、
壊滅的な被害を受けてしまうのでした。
朝倉 義景自身は疋壇城に逃げ込みましたが、
この戦いで
斎藤龍興、山崎吉家、山崎吉延
らの武将が戦死しました。
朝倉義景は疋壇城から逃走して
一乗谷を目指したましが、
この間にも将兵の逃亡が相次ぎ、
残ったのは鳥居景近や高橋景業ら
10人程度の側近のみとなってしまいました。

<刀根坂>
刀根坂の供養塔・野仏

【さよなら一乗谷】
8月15日、朝倉義景は一乗谷に帰還しました。
ところが朝倉軍の壊滅を知って、
一乗谷の留守を守っていた将兵の大半は
逃走した後でした。
朝倉義景が出陣命令を出しても、
朝倉景鏡以外は出陣してさえ来ませんでした。
8月16日、朝倉義景は
朝倉景鏡の勧めに従って一乗谷を放棄し、
東雲寺に逃れました。
更に、8月19日夕刻、朝倉義景は、
朝倉景鏡の防備の不安あり
との勧めから六坊賢松寺に逃れていきます。

【一乗谷の大炎上】
一方、8月18日に織田信長率いる織田軍は、
柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込みます。
そして居館や神社仏閣などを
次々と放火したのでした。
この放火は三日三晩続き、
ここに103年もの間、
越前の中心として繁栄し、
北陸の小京都と呼ばれた一乗谷は
灰燼(かいじん)に帰したのでした。

<一乗谷朝倉氏館跡>
一乗谷朝倉氏館跡 正面





【最期】
従兄弟の朝倉景鏡の勧めで
六坊賢松寺に逃れていた朝倉義景でしたが、
8月20日早朝、
その朝倉景鏡が織田信長と通じて裏切り、
六坊賢松寺を200騎で襲撃したのでした。
そして朝倉義景は自刃を遂げたのでした。
享年は41歳でした。

【死してなお】
死後、高徳院や小少将、愛王丸ら
朝倉義景の血族の多くも、
織田信長の命を受けた
丹羽長秀によって殺害されました。
こうして戦国大名としての朝倉氏は滅亡しました。
朝倉義景の首は、織田
信長家臣の長谷川宗仁によって、
京都で獄門に曝されました。
 
【箔濃(はくだみ)の逸話】
その後、かの有名な逸話として、
浅井久政・長政共々髑髏に箔濃(はくだみ)を施され、
織田信長が家臣に披露している話があります。
このエピソードについては、
かつては織田信長のこれほどまでの冷酷残忍さ、
と評されてきました。
けれども近年では、戦国の武士の化粧の風習などから
敵将への敬意の念として、
三将の菩提を弔い、
新たな出発を期したものという
解釈も登場しています。

【辞世】
七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空
かねて身の かかるべしとも 思はずば今の命の 惜しくもあるらむ

【逸話】
【子宝に恵まれず兄弟もいない】
朝倉義景は子宝に恵まれず、
他に兄弟もいませんでした。
よって外交などの立場は非常に弱く、
朝倉家滅亡の一因を成したとも言われています。
更に、妻や子と何人も死別しています。
このように相次ぐ不幸が、
朝倉義景の関心を政治から
遠ざけたと見なされています。

【越前に一大文化圏を築く】
朝倉氏代々の功績を受け継ぎ、
一乗谷に京都から多数の文化人を招き、
一大文化圏を築き上げています。
朝倉義景自身も、戦よりも文芸に凝っていたようした。
歌道・和歌・連歌・猿楽・作庭・絵画・茶道など
多くの芸事を好んで行っていた記録が残っています。
特に茶道には凝っていたようで、
一乗谷からは現在も多くの茶器が出土しています。
出土品としては、当時は、
高価な輸入品であった唐物茶碗や
青磁花瓶、タイ製の壷などの品です。
天正9年(1581年)に、
越前に布教に赴いたルイス・フロイスは、
越前のことを

「日本において
最も高貴で主要な国のひとつであり、
五畿内よりも洗練された言語が
完全な形で保たれていた」

と記しています。

【弓術】
小笠原流弓術の達者で、
度々犬追物を行って弓術を披露していたようです。

【内政】
内政家としては、
中継貿易に頼っていた貿易を
大陸との直接貿易路を
開く事によって収益を上げています。、
また朝倉氏遺跡からは
ガラス工房の跡が発掘されています。
これにより、新しい産業の開発にも
力を入れていたと推測されています。





【出生の異説】
朝倉義景は以下の事実から
近江六角氏からの養子であった、
という説があります。
【1.幼少期】
幼少期に関しての記録がない。
守役や乳母などの記録がなく、逸話もない。

【2・父と六角氏の密約】
朝倉義景の父(宗淳孝景)と
六角氏との間に内容不明の密約があった。

【3.六角氏関係が濃い】
義景側近に六角系苗字が多い。
六角氏の内紛に介入。
六角氏様式の花押と朝倉氏式の花押を併用。
六角氏綱の子で
仁木氏の家督を継承した
仁木義政と親しい間柄であった。

譜代家臣や一門衆の離反など、
朝倉義景の代で起こった家中の軋轢の原因も、
朝倉義景が他家からの養子であったことに
起因しているのではないかと、
提唱しているそうです。

【時代と合わない名門の当主】
朝倉義景が、ではダメダメだったかと思うと、
内政には力をいれて
産業開発も行っていたりします。
そして文芸や芸術にかなりの関心があって、
越前を「高貴な国の一つ」と
ルイスフロイスに記されているほど、
文化水準を高く保っていました。
朝倉義景は世の中が安定した時代こそ
相応しかったのでしょう。
家族との縁がどちらかといえば薄く、
死別を多く経験しています。

戦の度にかかる兵力や諸経費の事を
考えると、内政に回す方がいいと
思っていたかもしれません。
戦で領土を拡大するよりも、
現在の領土が繁栄して安泰ならそれでいい、
そして愛する家族と共に過ごせたら・・・
と思っていたのかもしれません。

でも、戦に敗けたら、
領地は取られて、命も危ういし、
失うものは大きいのですが・・。

生き方を時代に合わせて
乗り切るというのは必要ですね。
そしてとにかく生き抜いて、
変わり目になる時を待つ・・。

運も人材も回ってこなかったのですね。
この方からは強い「孤独」を感じさせます。
良き重臣やブレーンがいなかったのですね・・。

一乗谷館跡と朝倉氏~一乗谷朝倉氏遺跡・国の三重指定、103年間の栄華の跡

足利義昭・最後の室町幕府将軍、懲りずに粘って兄の分まで生きる!歴代足利将軍の中で最も長生き!

国吉城~難攻不落の落ちない城~朝倉攻防10年間・粟屋勝久守りぬく!

小谷城~浅井家三代~浅井亮政・浅井久政・浅井長政

若狭武田氏の本拠地であった後瀬山城~若狭武田氏の始まりと滅亡~

土岐頼武・土岐頼純VS土岐頼芸~美濃守護土岐氏~度重なる家督争いで衰退し、斎藤道三に乗っ取られる!

今江城~加賀一向一揆出陣の城~時を経て織田軍との対戦し、落城する

鳥越城跡と二曲城跡~加賀一向一揆の終焉の地~金板片がでた!

明智神社と称念寺~あけっつぁまと妻の黒髪~明智光秀の越前時代の居住地

白山白川郷ホワイトロード~滝がいっぱい!秘境の温泉~絶景なる峡谷!!2019/11/10まで指定の温泉泊で片道無料!

白山比咩神社~創建2100年超の大社~一向一揆で衰退するも江戸時代に復活し今に至る

獅子吼高原~白山手取川ジオパーク~手取川の流れから日本海まで見渡せる場所

越前丸岡城~現存する日本最古の天守閣~

柴田勝家~鬼柴田~武骨で勇猛果敢、幾多の戦を潜り抜け、潔く北ノ庄城にて死す

片山津温泉~柴山潟にある江戸時代に発見された温泉~小松空港の近くで便利

明智光秀・織田家臣初の築城許可の功績~比叡山延暦寺焼き討ち~

明智光秀の墓と産湯の井戸~桔梗塚~もう一つの光秀生存説、生誕地伝説と土岐四郎元頼(基頼)

聖衆来迎寺・森可成の墓~織田家の重臣で森乱丸(森蘭丸)の父~

疋壇城~越前国境守備~刀根坂の戦い 斎藤龍興終焉の地

織田信長の撤退戦である金ケ崎退き口・古墳もあり平安時代から繰り返す金ケ崎古戦場跡

逸見昌経(祖は甲斐源氏)が築いた高浜城・足利義満も訪れた「八穴の奇勝」で策を練る

丹羽長秀~米五郎左~及び石田三成が城主となった佐和山城跡・龍潭寺

越前大野城址~雲海に浮かぶ天空の城~一向一揆平定の恩賞として金森長近が築城

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