明智家

明智神社と称念寺~あけっつぁまと妻の黒髪~明智光秀の越前時代の居住地

明智神社 祠






明智神社

明智光秀朝倉氏に身を寄せていた時の居住跡です。
何時頃から居住したのかは
定かではありませんが、
一説には、足利義昭が越前に逃れてきた、
永禄9年(1566年)以降、
ではないかと推測されています。
理由としては、足利義昭に対する窓口役として
室町幕府と関りがあった家柄の明智光秀
派遣されたのだと推察しています。

【明智氏はかつては室町幕府の奉公衆】
明智氏の先祖は、かつては
室町幕府の奉公衆を輩出していた家柄でした。
更に明智光秀の曽祖父とされる人物が
ことのほか評判が良かったこと、
連歌の世界では著名であったそうです。
その人物以外にも奉公衆がいました。
また同じく先祖が
細川淡路守家にも仕えており、
細川淡路守家は足利義昭の祖父である
第11代将軍の足利義澄に仕えていました。
よって、足利義昭にとって、
明智光秀は受け入れやすい家柄の者である、
と朝倉氏は判断したのかもしれません。

【加賀一向一揆の時、住民を守る】
時は流れて天正3年(1575年)、
柴田勝家が加賀一向一揆を鎮めるために、
現在、明智神社のある東大味地区に
兵を送り込もうとしました。
けれども明智光秀は、
かつてお世話になった
地区の住民を守るため、
柴田勝家に申し入れをしたと
伝えられています。
今でもその地区にほど近い西蓮寺には、
柴田勝家公と柴田勝定公の
2通の安堵状が残っているそうです。
それらの文書は、福井市の文化財となっています。





【光秀様のおかげ】
安堵された住民たちはいたく
明智光秀に感謝したそうです。
けれどもその後、本能寺の変が起こり、
明智光秀は「逆臣」として
長い間非難され続けてきました。
しかしながら
東大味の屋敷跡に住む三軒の農家では、
「今生きているのは明智様のおかげ」
ということで、
其の後数百年に渡って、
明智光秀像を象った
小さな木彫りの坐像を
ひそかに祀ってきたそうです。

明治19年(1886年)、
この地に明智神社が建立されました。
そして本尊として
明智光秀の木坐像が
祠の中に収められました。

【あけっつぁま】
現在に至るまで、東大味の人々は
明智光秀を慕い、
この神社を守り続けてきました。

年に一度、光秀の命日である
6月13日のみ御開帳が行われ、
本尊である明智光秀の木坐像を
見ることができます。
高さ13センチ程の
小さな木坐像なんだそうです。
けれども、その坐像に込められた思いは、
時を経ても風化することなく、
後世に伝えていくことと思われます。

地元では神社を
「あけっつぁま」と呼び慕っているとの事です。

【所在地】
〒919-0312 福井県福井市東大味町

【交通アクセス】
北陸自動車道福井ICから車で40分

【駐車場】
なし。
徒歩10分位の距離の処に、
集落センターがあり、
そこに2台くらいなら
短時間駐車することができます。

<明智神社の案内板1>
集落センターの向かいにあります。
明智神社案内看板1

<東大味公民館(集落センター)」)>
「消防ポンプ場」と書かれたクリーム色の
シャッターの前には絶対停めないでくださいね。
東大味公民館(集落センター)

<明智神社の案内板2>
案内板1の矢印に従って進むとやがて
「明智神社案内板2」があります。
明智神社案内板2

細川ガラシャゆかりの地・石碑>
またこの地は明智光秀の三女(一説には二女)の
明智珠(細川ガラシャ)の生誕地の一つと
されている伝承地でもあります。
ガラシャ(たま)もこの地で
幼少期を過ごしたことでしょう。
細川ガラシャゆかりの地





<明智神社の敷地>
到着です。
段になっていて1~2段上がります。
この写真の左方向に祠があります。
明智神社 敷地

<供養塔とお墓?>
寄り添うように横に並んでいます。
この地を守ってこられたのでしょう。
明智神社 墓 供養塔

【トイレ】
なし

※2019年9月現在、
現在福井市では、駐車場やトイレの設置など
検討中とのことです。

<場所>

【本当に朝倉家に仕えていたか?】
明智光秀が住んでいたとされる明智神社は、
朝倉館のある一乗谷からは、
山一つ越えた場所にあります。
これまでは、明智光秀は、
朝倉氏に仕官するために
越前に赴いたとされてきましたが、
最近の研究ではそうでもなかったとされる
見解が出てきているそうです。

明智城及び明智氏が滅び、
以前より土岐氏と関りのあった朝倉氏を
頼っていたのはいいけれど、
守護大名としての土岐氏が滅んだ以上、
朝倉氏もそう簡単には
召し抱えてはくれなかったとされる
説も出てきているそうです。
更に、最初は今の坂井市にかつてあった
越前の舟寄館の城主である、
黒坂備中守に仕えることに
なったのではないかとされる
説もあるとのことです。

舟寄館は、朝倉氏にとって、
加賀の一向一揆に備えるための
最前線でもあったようです。
それで、その舟寄館に目と鼻の先程近い
長崎称念寺に住むことになったのだ、
ということです。

【黒坂備中守館跡(舟寄館跡、舟寄城跡)】
別名:舟寄館跡・舟寄城跡

文明13年(1481年)頃、
越前を支配していた朝倉氏は
舟寄にその守備城を築いたとされています。
城主は朝倉氏家臣の
黒坂備中守景久と伝えられています。
天文21年(1552年)、
一向一揆を攻撃するために
朝倉宗滴を総大将として
加賀に討ち入った時、
堀江中務丞景忠麾下に
黒坂解由左衛門尉景久の名が見え、
その戦いぶりの詳述が
文献に出ているそうです。

元亀元年(1570年)、
越前に侵入してきた
織田信長軍を迎え撃つために、
黒坂景久は朝倉勢の一支隊として
竹田風谷方面の警護に
進発していたそうです。
黒坂景久は翌年元亀2年7月に戦死。
3人の息子があとを継いだと伝わります。
朝倉氏滅亡後は織田信長に
従ったとされていますが、
天正2年(1574年)、
越前の一向一揆に攻められ、
3兄弟とも討死したとのことです。





【現在の舟寄館】
舟寄館跡は現在、
日東シンコー(株)丸岡工場の会社敷地内にあります。
明治9年(1876年)頃の地籍図によると、
「字舘」に東西約110m×南北約80mの
畑地の東と南に幅約10mの土塁跡が残っています。
また、堀跡らしき水田がまわりを囲んでいます。
舘の西側には「舘ノ前」、
東側に「舘ノ後」があるので、
舘は西に向いていたと考えられています。
舘は500m西を通る旧北陸道に
面していたと見られています。
舘の南東には「東古町」「西古町」「法華坊」
などの字名が残っていたとのことです。

【見学可能】
見学の際には工場受付にて
許可をもらう必要があります。
工場の正門右手の緑地に立派な城跡碑が
建っているとの事です。

<推定場所>
福井県坂井市丸岡町舟寄

【称念寺】

称念寺(しょうねんじ)は、
福井県坂井市丸岡町長崎にある
時宗の寺院です。
山号は長林山、院号は往生院。
称念寺 本堂

【概要】
この寺は、室町時代につくられた縁起によれば、
養老5年(721年)に、
天正天皇の勅を得て泰澄大師によって
開かれたとされ、正応3年(1290年)、
他阿真教によって
時宗に改められたということです。

新田義貞公墓所】
新田義貞が延元3年・歴応元年(1338年に、
越前国藤島の燈明寺畷の戦いで戦死すると、
時衆によって遺骸が往生院に運ばれたと
「太平記」の中に
記述されているのが確認できます。
この往生院が称念寺とされています。
当寺境内に新田義貞墓所があります。
よって新田義貞公の菩提寺となっています。
現在は福井県史跡ともなっています。
新田義貞公霊廟

【寺の歴史】
【始まり】
称念寺は長崎道場と呼ばれ、
一遍上人という鎌倉時代の
僧侶が開いた時宗の寺です。

けれども、称念寺に伝わる縁起によれば、
古くから長崎の地にあったそうです。
縁起によればこの地長崎が、
湖のほとりにあったころ
白山権現がこの地に渡来した際、
着岸した旧跡であったと伝えられています。
また泰澄大師がこの地を訪れ、
養老5年(721年)、
元正天皇の勅願を受け阿弥陀堂を創建したと
記録が確認できます。

称念寺は白山信仰と、
関係が深かったのでした。
古い時代より、
人々は高い山や大きな川などに
神が宿っていると信じていました。
越前地方では白山が代表的で、
鎌倉時代に念仏信仰が広がる
大きな下地になったそうです。
また長崎、舟寄の地名は、
この湖の伝説と関係しているそうです。
実際に、漁に使うおもりが近くの畑から出土し、
大きな川や湖が存在したことが判明しています。
更に縄文時代の遺跡が見つかり、
そこで漁をしていました。
江戸時代の記録を見ると、
福井大名が「泰澄大師舟つなぎの松」
と言うのを見にこられたことが
記載されています。
平成28年の新幹線ルート発掘調査では、
川・池・堀の跡(下図)が出てきました。

なお、北陸新幹線は2019年9月現在、
金沢~敦賀間125kmを建設中で、
2023年春に開業予定です。
現在、称念寺の直ぐ近くに高架橋を建設しています。

<称念寺の駐車場と建設現場>
称念寺 駐車場





【鎌倉時代】
その後鎌倉時代まで歴史は明らかではありません。
正応3年(1290年)、
時宗の二代目の他阿(真教)上人が、
越前地方を遊行(教えを広める旅をすること)の折、
この寺の称念房が他阿上入を慕って
建物を寄進したと伝わっています。
末の弟道性房は光明院という倉を寄進し、
弟の仏眼房は私財一切を
寄進したと伝えられています。

この時代に三国(東尋坊辺り)は
日本海側で最も栄えた港でした。
坂井平野でとれた米や産物は、
九頭竜川や竹田川から舟で
三国港へと運ばれてました。
そして長崎の庄には兵庫川があり、
やはり舟が使われ運ばれていました。
時宗の僧侶はこうした港などで布教したため、
日本海側の各地に時宗の
念仏道場が建てられた模様です。
越前地方で最も有力な
道場になった称念寺もこうした背景があります。
更に、三国や富山県、新潟県にまで
その勢力を伸ばしていたことが
当時の大乗院文書から推察されるそうです。

称念寺の経済は
海運業の人々による支えが
あったからこそでした。
同時に光明院の倉は、
今の総合商社の役割を
果たしていたとのことです。
遊行二代目真教上人は、
北陸と関東を中心に布教したため、
長崎道場は北陸では
一番の念仏道場になりました。
またその末寺も、
各地に建てられたそうです。

【南北朝と新田義貞】
鎌倉幕府も北条高時の頃になると、
倒幕の嵐が吹き荒れました。
倒幕の代表的な武士たちが
足利尊氏や新田義貞、楠木正成です。
そして鎌倉幕府を滅ぼしたのが新田義貞です。
其の後、足利尊氏と新田義貞は争いとなります。
やがては南朝と北朝に分裂し、
日本中を巻き込む戦乱の世になりました。
越前地方もそうした
戦乱の舞台になりました。
新田義貞は、
反幕府方として鎌倉を攻略し、
南朝方のリーダーとして
京都や兵庫県で戦いました。
しかし暦応元年(1338年)に、
灯明寺畷の戦いで戦死しました。
新田義貞は称念寺の住職と、
古くより交友を深めていたとのことで、
その遺骸は時宗の僧侶8人にかつがれ、
手厚く葬られたということです。
これにより、称念寺は
新田義貞の菩提寺としても
知られるようになったそうです。
称念寺 正門

先祖が敵方であった
8代将軍の足利義政もその武勇をたたえ、
長禄2年(1458年)、
安堵状と寺領を寄進し、
将軍家祈祷所として栄えたということです。

こうして称念寺は寛正6年(1465年)に、
さらに後花園天皇の綸旨(りんじ)を受け祈願所となり、
その後、後奈良天皇の頃には
住職が上人号を勅許されるなど
着々と寺格を高めていきました。

【戦国時代】
戦国時代、称念寺も例外にもれることなく、
戦乱の中に巻き込まれていきます。
朝倉、柴田、織田、豊臣、丹羽氏などの諸侯は
禁制を称念寺に出して、保護を加えています。
けれども、文明5年(1473年)には、
朝倉敏景の勧告により
長崎の北陸街道沿いから
金津の東山へ墓を除き、
寺ごと移転しています。
それでもたびたび
一向一揆などに巻き込まれました。
天正2年には、
越前の一向一揆の大将である
七里三河守が称念寺を陣としたことが
記録されています。

【明智光秀が居住する】
永禄5年(1562年)には、
浪人中の明智光秀が称念寺を訪ね、
門前に寺子屋を建て生活していました。
後の細川ガラシャもこの地で
誕生したと伝えられています。
生誕地の伝承地でもあります。

【江戸時代】
徳川の時代になると戦乱もおさまり、
徳川の先祖は新田義貞ということで、
称念寺を大切に保護しました。
元文2年(1737年)、
新田義貞の400回忌を行い、
幕府は白銀100枚を寄進したことが
「徳川実記」に残されています。
天明8年(1787年)、450回忌
天保8年(1837年)、500回忌
安永4年(1775年)には30の建物がありました。





【明治以降】
明治の版籍奉還により、
無檀家無俸禄になり、
経済的にかなり厳しくなり、
称念寺には住む人もなくなりました。
境内は畑になり、
や寺宝も売り払われました。
けれども、新田義貞を忍ぶ人々や、
称念寺の歴史を惜しむ人々が力を合わせ、
大正13年(1924年)にようやく再建しました。
称念寺 二重の塔

【戦後そして今~】
昭和23年6月28日、
この地方を襲った福井大地震により
再び称念寺は壊滅的な打撃を受けました。
檀家がないため一時は存続すら危ぶまれました。
けれども、くの人々の協力により、
今日までかかりようやく復興されました。
規模などは大きく様変わりしましたが、
新田義貞の菩提寺として現在に至ります。

平成19年、新田公670回忌。

【所在地】
〒910-0383 福井県坂井市丸岡町長崎19−17

【交通アクセス】
【電車】
JR「丸岡」駅より
本丸岡行き京福バス
舟寄バス停で下車し徒歩10分

【タクシー】
JR「丸岡」駅・JR「春江」駅から タクシーで10分
京福バス丸岡ターミナルから タクシーで5分

【車】
<北陸高速道路>
丸岡ICから車で約5分(一本田交差点経由)

※御朱印はありません。

<場所>
青印は駐車場入り口付近です。
正門はほぼその反対側です。

【明智光秀と称念寺について】

明智光秀は、弘治2年(1556年)、
齊藤義龍の大軍に敗れ、妻の熈子や家族と伴に、
越前大野を経て越前の称念寺を来訪したと
伝わっているそうです。
これは明智光秀が幼い時に、
母のお牧の方の縁である
西福庵に縁があったから、というそうです。
西福庵は、当時の称念寺の末寺でした。

【寺子屋開業】
永禄5年(1562年)、
門前に寺子屋を開き、生活していたと伝わります。
「明智軍記」によりますと、
称念寺住職と和歌を詠み、
漢詩を作ったことが記載されています。
称念寺は時宗と言う宗派がら、
詩歌に優れた住職が多かったのでした。
また「遊行」といって
全国を旅する布教が特徴なので、
明智光秀は天下を狙う情報を、
北国街道の称念寺門前でも、
僧侶たちから十分に情報などを
得ることが可能だったわけです。





【遊行はつらいよ!ご配慮よろしく】
戦国時代に遊行することは命がけでした。
後に遊行上人が筒井順慶の領地を遊行する時に、
称念寺の住職から、
明智光秀に配慮を頼んでいたことが、
当時の遊行上人の日記に記載されています。
この日記は、称念寺と明智光秀の関係を
今に伝える大事な資料となっているそうです。

時を戻して、
称念寺の公式サイトによりますと、
称念寺住職の口ぞえで、
朝倉家家臣で舟寄館の城主である
黒坂備中守景久に仕えたとあります。

【当時の遊行上人の日記】
「遊行三十一祖 京畿御修行記」
(遊行同念の天正8年(1580年)7~8月の旅行記、随行者が記述)
天正8年(1580年)正月24日条に、
阪本城の光秀へ南都修行のために
筒井順慶への紹介状を称念寺僧を使者にして依頼し、
知人として
「惟任方はもと明智十兵衛尉といって、
濃州土岐一家の牢人であったが、
越前国の朝倉義景を頼り、
長崎称念寺門前に十年居住していた。
そのため称念寺使者僧とは旧情が深くて
坂本にしばらく留め置かれた」

との記述内容です。

【明智光秀の妻・煕子の黒髪】
明智光秀は明智城が滅ぼされた後、
越前の称念寺を頼ってきます。
称念寺門前に寺子屋を開きますが、
生活は貧しく仕官のなかなか叶いませんでした。

ですが、朝倉の家臣と連歌の会を催す機会を、
称念寺の住職が設定したとあります。
連歌の会とは、
お互いが和歌を詠みあう現代でいうと
サロンのような会でした。
それは絶好の仕官の機会でもあったのです。
ところが貧困の明知光秀には資金がありませんでした。
そこで妻の熈子が
その資金を黙って用意したのでした。
称念寺での連歌の会は、
妻の熈子の用意した酒肴で大成功に終わり、
やがて明智光秀は朝倉の仕官がかないます。
けれども、その連歌会の資金は、
実は熈子が自慢の黒髪を売って、
用立てたものだったのでした。
明智光秀はこの妻の愛に応えて、
どんな困難があっても必ずや天下を取ると、
誓ったとか・・・・。

【光秀の大望】
「美濃国諸旧記」によりますと、
明智光秀は幼少の頃より大志を抱き、
城を叔父の明智光安に任せて
所謂、武者修行のために、
諸方を遍歴していたそうです。
また、「名将言行禄」には
以下の逸話が見られます。

拾った大黒天を朝夕拝んでいるのを
見たある人が
「これはめでたい。この神を拝めば
千人の部下を得るといいます。
よくよく大切になさってください」
と褒めたのですが、
これを聞いた明智光秀は
「たった千人か」
と驚いたそうです。
更に
「凡人でも千人の部下を持つ人は多い。
これは出世を願って拝む神ではないな」
と言って明智光秀はその大黒天を
捨ててしまったそうです。
当時の明智光秀は漂泊の身であり、
本当は拾った仏像を有難がる程
貧しかったのですが、
その心には、
千人程度を率いる身分では満足しない大望を
秘めていたとのことです。





【芭蕉が一句「明智が妻のはなしせむ」】
この「夫婦愛の物語」は、後年、
称念寺門前の伝承になりました。
江戸時代に入り、
松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の途中に、
称念寺を訪れていました。
松尾芭蕉はかねてより
「太平記」や「時宗」の遊行上人に
関心を持っていたとのことです。
やがて「奥の細道」の紀行が終わった後、
門弟の伊勢の山田又玄宅を訪問します。
山田又玄は貧しい神官で、
才能がありながら、出世できないことに
悩んでいました。
そこで松尾芭蕉は弟子の山田又玄に、

「月さびよ 明智が妻の咄せむ」

意訳:
「又玄よ、今は出世の芽がでてないが、
あなたにはそれを支える素晴らしい妻がいるじゃないか。
今夜はゆっくり明智の妻の黒髪伝説を話してあげよう」

意訳2:
「冴え冴えとした月明かりのもとで、
月の様に優しく光秀を照らした。
その妻についてさあ語ろうか」

称念寺 芭蕉の句

という句を贈って励ましたとあります。
「明智の妻の話」とは、称念寺での
明智光秀と妻の煕子の夫婦愛を指していると
言われています。

亀山城(丹波国)~明智光秀の丹波経営の拠点~やがて本能寺へ向かう

福知山城~初代城主は明智光秀~領民に慕われた証の御霊会、城代は婿で重臣の明智秀満

明智光秀の墓と産湯の井戸~桔梗塚~もう一つの光秀生存説、生誕地伝説と土岐四郎元頼(基頼)

細川ガラシャ(明智玉(珠))~父は明智光秀~聡明で気高く、愛と信仰に殉じた細川忠興の正室

明智城址と天龍寺と明智一族、築城主の明智頼兼(土岐頼兼)とは?

明智光秀の墓所~京都府~

光秀の妻・明智煕子と明智一族の墓がある西教寺~互いを支え合い深い絆で結ばれた夫婦~

妻木城と士屋敷と崇禅寺~明智光秀の正室・煕子の出身と妻木築城主の明智(土岐)頼重とは?

お妻木~明智光秀の妹(義妹の説あり)~明智光秀と織田信長を結んでいた女性とは?

一乗谷館跡と朝倉氏~一乗谷朝倉氏遺跡・国の三重指定、103年間の栄華の跡

朝倉義景の墓~義景清水~孤独を纏う朝倉家最後の当主・戦よりも芸事と内政が得意

足利義昭・最後の室町幕府将軍、懲りずに粘って兄の分まで生きる!歴代足利将軍の中で最も長生き!

土岐頼武・土岐頼純VS土岐頼芸~美濃守護土岐氏~度重なる家督争いで衰退し、斎藤道三に乗っ取られる!

織田信秀~織田信長の父親~配下の清洲三奉行から戦国大名となり、信長に託す!

今江城~加賀一向一揆出陣の城~時を経て織田軍との対戦し、落城する

鳥越城跡と二曲城跡~加賀一向一揆の終焉の地~金板片がでた!

越前丸岡城~現存する日本最古の天守閣~

柴田勝家~鬼柴田~武骨で勇猛果敢、幾多の戦を潜り抜け、潔く北ノ庄城にて死す

越前大野城址~雲海に浮かぶ天空の城~一向一揆平定の恩賞として金森長近が築城

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御嵩城跡~美濃国

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