明智家

妻木城と士屋敷と崇禅寺~明智光秀の正室・煕子の出身と妻木築城主の明智(土岐)頼重とは?

妻木城と崇禅寺






妻木城

妻木城(つまぎじょう)は、
現在の岐阜県土岐市に存在した日本の山城です。
岐阜県指定史跡。

<妻木城・遠景>
妻木城 遠景

【所在地】
〒509-5301 岐阜県土岐市妻木町

【概要】
土岐市南部の標高409m、
比高190mの
城山・山頂に築かれた山城です。
妻木城は明智氏の所領でしたが、
後には明智氏一族の庶流とされる
妻木氏の居城となりました。
それから妻木城は
次第に整備されていきました。
また妻木城主は、
代々と陶器の生産を奨励し、
織部焼、志野焼などに代表される
現在の美濃焼の基礎を
作った領主として知られています。

【歴史】
【南北朝時代】
暦応2年/延元4年(1339年)に、
土岐頼貞の孫である土岐頼重が、
家臣育成の訓練場のような
意味合いで築城したともされていますが、
これには諸説あるそうです。
戦国時代辺りに土岐氏が衰退してからは、
一族の明智氏の所領になった後、
さらにその一族とされる
妻木氏の居城となりました。

【戦国時代】
天正10年(1582年)、
本能寺の変の後に起きた山崎の戦いの際、
城を治めていたのは
第12代城主の妻木広忠でした。
妻木広忠は明智軍に属して敗北し自刃しました。
そのため嫡男の妻木頼忠が跡を継ぎました。

森長可の美濃掃討】
その頃、可児郡の金山城を本拠とする森長可が
土岐郡や恵那郡内の反抗勢力の掃討を開始します。

森長可は手始めに高山城主である
平井頼母に使者を送り、
城を明け渡すよう要求します。
しかし平井頼母がこれに応じず、
攻めて自刃に追いこみ、
その後家臣の肥田氏を入城させました。
妻木城にも従うよう使者が来ました。
妻木頼忠が拒否し、森長可は城を攻めます。
妻木頼忠は城兵を集め奮戦したが、
勝てる見込みがないと判断します。
そこで和議にもちこみ森長可に臣従しました。

天正12年(1584年)、
小牧・長久手の戦いの際に、
妻木頼忠は森長可の家臣だった為
豊臣秀吉側につきました。

岩村城攻め】
慶長5年(1600年)、
関ヶ原の戦い徳川家康側につきました。
妻木頼忠は東濃地方を守るよう命じられ、
父である妻木貞徳と共に
西軍側の岩村城主・田丸直昌と戦いました。
田丸直昌の家臣である田丸主水が、
妻木城から近い所に土岐砦を築き、
妻木方諸将の行動を封じ
鎮圧しようしたため、
妻木頼忠は尾張の岩崎城主である
丹羽氏次らを誘って
田丸領の各所に放火して対抗し、
高山城の城攻めを図りました。
しかし田丸主水の軍は
高山城に火を放って放棄し、二手に分かれます。
主水を含む主力部隊は岩村城へ退却し、
別働隊は土岐砦へ退却して立て籠もりました。
妻木頼忠は田丸軍別働隊の退路を
完全に遮断するため
現在の瑞浪市寺河戸町付近に砦を築き、
土岐砦を落としたとされます。





【遠山氏への返還】
また、田丸領内にある明知城小里城は、
元々は遠山氏の支城と小里氏の居城でしたが、
田丸氏が奪って岩村城の支城とし、
城番を常駐させていました。
かつて城主であった遠山利景小里光親は、
妻木頼忠らの支援を受けて、
明知城と小里城の攻撃を開始し、
その日のうちに明知城を、
翌日に小里城を奪回することに
成功したとされます。
これによって両名は城に戻ることができ、
その後妻木頼忠は両名と共に、
田丸直昌の拠る岩村城を攻めようとします。
けれども、岩村城は難攻不落と
名高い城だった為に苦戦を強いられます。
妻木・遠山・小里連合軍と田丸軍は、
その後も睨み合っていましたが、
関ヶ原の戦いが東軍の勝利に
終わったことで、
城主の田丸直昌も東軍の軍門に降り、
岩村城方を指揮していた田丸主水も
本来の城主である遠山利景に
城を明け渡しました。

【江戸時代】
慶長6年(1601年)、
関ヶ原の戦いの際の戦功により
妻木頼忠は徳川家康から改めて
この地域を所領として与えられました。
妻木頼忠は領地経営において、
山の上の城では生活が不便である為、
城のある山の北側の山麓に
屋敷を築いて住むことにしました。
元和年間(1615年ー1624年)頃には
この城は放棄されたとされ、
山麓にある妻木城士屋敷が政庁となりました。

【現在】
現在は本丸、二の丸跡地に小さな神社があります。
妻木城の登城口には駐車するスペースがあります。
石垣や曲輪、土塁等の遺構も整備されています。
ただし、建造物は現存していませんん。
山麓の北側に妻木城士屋敷があり、
そこの石垣等の遺構も整備されています。
駐車するスペースもあります。
2つとも岐阜県史跡に指定されています。

【妻木城の登城口】
妻木城への登城口は2つあります。
【1】
妻木城士屋敷跡の右脇から南へ伸びる道を進み、
その終点から城山へ登っていくルート。
<登城口への看板>
登城口への道

<道>
妻木城 登城口1

【2】
名岐国際ゴルフ場の入り口を入ってすぐ右折します
更に林道側を右折して進みます。
その奥にある広場から登るルート。
突き当りに駐車場があります。
青印は駐車場辺り。

【妻木城士屋敷】

妻木城士屋敷(つまぎじょうさむらいやしき)は、
妻木城の北側山麓にあった
領主御殿や家臣屋敷の総称です。
城跡と同じく岐阜県史跡に指定されています。
江戸時代に入ってから
妻木氏が断絶するまでここが本拠となりました。
近くにある崇禅寺には、
移築された屋敷群入口の門と
妻木城の歴代城主の墓があります。
妻木城士屋敷跡1

【所在地】
〒509-5301 岐阜県土岐市妻木町

【歴史】
慶長6年(1601年)に、
徳川家康から改めてこの地域を与えられ、
その際に妻木城北麓にこの屋敷群を建てました。
その時から元禄年間にかけて、
妻木城から次第にこの屋敷に拠点を移し、
ここが機能するようになってきました。
その後土岐郡内7500石の領主は、
妻木頼忠の子の妻木頼利、
次に妻木頼利の子の妻木頼次が跡を継ぎました。
けれども、妻木頼次が跡継ぎの無いまま、
万治元年(1658年)に死去し、
妻木氏本家は3代で断絶し、屋敷も放棄されました。
妻木城士屋敷跡2

しかしながら、妻木氏自体は妻木頼次の弟である
妻木幸広が屋敷周辺の妻木上郷500石を以て、
妻木家再興を許されました。
そして上郷に新たに屋敷を築き、
上郷妻木家として存続し、
明治維新に至った為、断絶はしていません。





【立地・構造】
妻木城士屋敷は、
妻木城の北麓に位置する「根小屋」区域で、
城主居館・家臣屋敷地から構成されていました。
現在確認できる遺構は、
南から北方向の緩斜面に
3段に普請された石垣と
上段の城主居館に残存する
井戸祉・庭園祉・門址です。
石垣は高さ1.5~2mほどで、
中央部には虎口と思われる
大石段が残存しています。
南側の山裾には石塁で補強した溝が
山腹と城主居館の境に巡らされており、
雨水の流入を防ぐためのものと見られています。
一部区域ではありますが、
家臣屋敷地の区画が残っています。

<石垣>
妻木城士屋敷 石垣

<上段>
妻木城士屋敷 上段

<のぼり>
現在、妻木城士屋敷にはこのようなのぼりがあります。
妻木城 土岐明智氏ゆかりの地

<妻木城・士屋敷・家臣屋敷の復元図>
妻木城・士屋敷・家臣屋敷の復元図

<場所>

【崇禅寺】

崇禅寺(そうぜんじ)は、
岐阜県土岐市にある
臨済宗妙心寺派の仏教寺院です。
山号は「光雲山」。

<崇禅寺>
趣があり、静かな佇まいのあるお寺です。
崇禅寺

【概要】
文和3年(1354年)、
初代妻木城主土岐頼重が
菩提寺として開山しました。
釈迦如来立像、夢窓国師筆果山条幅、
紙本墨書此山妙在筆跡等の
県指定重要文化財の他、
崇禅寺唐門や
絹本着色十六善神像等の市指定文化財を
多数所蔵しています。

<山門>
山門は妻木城士屋敷から移築されたものです。
崇禅寺 山門

【所在地】
〒509-5301 岐阜県土岐市妻木町上郷55-1

【交通アクセス】
【公共交通機関】
JR中央本線多治見駅⇒東鉄バス
<1>
多治見駅前〔南口〕 ⇒ 妻木上郷
妻木線「東鉄バス」
妻木線〔下沢経由〕 終点「妻木上郷」バス停、下車、
徒歩約40分

<2>
JR中央本線「土岐市」駅南口
土岐⇒妻木線
終点「妻木上郷バス停」下車、
徒歩約40分
(1日往復2~3便しかありません)

【車】
中央自動車道土岐ICから車で20分
東海環状自動車道土岐南多治見ICから車で15分

【駐車場】
崇禅寺の参拝専用の駐車場あり。
舗装済みで無料です。





<鐘楼門>
崇禅寺 鐘楼門

<場所>
青印は駐車場辺りです。

【土岐頼重(明智頼重)】

土岐頼重(明智頼重)(ときよりしげ)(あけち よりしげ))は、
南北朝時代から室町時代の武将でした。
美濃国可児郡明智城主。
美濃守護である土岐頼貞の九男である
長山頼基の子です。
土岐氏支流の明智氏の祖、
あるいは二代目とされています。
子孫に織田信長に重用されて、
織田四天王の一人に数えられ、
本能寺の変を起こした明智光秀がいます。

【生誕】
康永元年(1342年)
【死没】
応永30年3月9日(1423年4月19日)
【改名】
多宝丸(幼名)→頼助→頼重→浄栄(法名)
【別名】
次郎、彦九郎(通称)

【伝承】
美濃国池田郡で生まれたとされています。
観応2年(1351年)、
従兄にあたる明智頼兼の養嗣子となります。
土岐明智家の家督と、
可児郡明智・同郡姫郷・
尾張国海東郡宮村の
地頭職を相続したとされています。
その後は養父である明智頼兼と同じく、
可児郡明智城に在城し、
また足利将軍家に仕えて
従五位下に叙任したとされています。
足利尊氏及び足利義詮父子を支えて
信頼が篤かったとされています。

明徳元年(1390年)、
出家して浄栄と号し、
家督を嫡男の明智頼篤に譲っています。
その際に可児郡13郷、土岐郡15郷、
多芸郡13郷の所領が
明智頼篤へと安堵されています。
明智頼重の代に、
明智氏は美濃国内に
勢力を拡大している事が推察されています。
応永30年(1423年)、
明智郷にて82歳で没したとされています。

【兄弟など】
※「明智氏一族宮城家相伝系図書」による略歴より
兄弟には丸毛氏の祖となった明智兼貞、
日比氏、あるいは藤田氏の祖となった頼澄(頼隆)、
岩手氏の祖となった
岩手満頼(外山頼行)がいるとされています。
また子には嫡男である明智頼篤のほか、
肥田氏を称した頼寿、池田氏を称した頼利、
福島氏を称した頼衛、惟任氏と称した頼秀(彦六)、
米田氏を称した末子の九郎がいたとされています。

【いつから「明智」⇒「妻木」?】
初めて「妻木」姓を名乗ったのは、
「妻木弘定」とされています。
妻木弘定がいつ頃の人物なのかは
わかりませんが
正室・煕子の代から遡って
6代前となると見られています。
また、
明智頼重⇒明智頼篤⇒明智國篤⇒明智頼秋⇒
明智頼秀⇒明智頼弘までは一緒で、
其の後に「明智氏」と
「妻木氏」系統に分かれた模様です。
其の後6代不詳で「妻木弘定」からは
「妻木」姓として称されています。
明智光秀も正室の煕子も同じ「土岐」一族なのです。

<桔梗紋>
崇禅寺 桔梗紋

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