明智家

明智光秀の首塚 京都にある明智光秀の墓所

京都 東山 白川



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明智光秀の墓とされている場所が、
いくつかあります。
以前に、滋賀県大津市坂本にある
「明智光秀と明智一族と妻の墓」、
坂本城跡付近にある「明智塚」、
もう一つの生存説がある岐阜県山県市の墓を
紹介しましたが、
今回は主に京都府にある明智光秀の墓を紹介します。

【終焉の地】

明智藪
明智藪

【所在地】
京都市伏見区小栗栖小阪町

<明智藪付近の竹林>
明智藪付近の竹林

本経寺の供養塔】
本経寺

【所在地】
〒601-1455 京都府京都市伏見区小栗栖小阪町5

【本経寺のあらまし】
本経寺(ほんきょうじ)は、
京都府京都市伏見区にある、
日蓮本宗の寺院。山号は久遠山。
日蓮宗の勝劣派の檀林として、
小栗栖檀林が開かれました。
近年、明智光秀が殺害された竹薮の
土留擁壁が整備されました。

【駐車場】
参拝者用の無料駐車場有。

【交通アクセス】
京阪バス小栗栖バス停下車。

<場所>
青印は木製の看板あたり。

【首塚】

【所在地】
京都市東山区梅宮町474-23

<首塚>
明智光秀公 首塚

奥には祠がありその中には、
明智光秀公の木坐像が安置されています。

天正10年(1582)、
本能寺にいた主君である
織田信長を急襲した明智光秀は、
すぐ後の山崎天王山)の戦いで
羽柴秀吉豊臣秀吉)に敗れ、
近江の坂本城へ逃れようとします。
その途中、小栗栖の竹薮で
何者かに襲われて自刃し、
最後を遂げたと言われています。
家来が、光秀の首を落とし、
知恩院の近くまできましたが、
夜が明けたため、
この地に首を埋めたということです。

なお、これまでは明智光秀を襲ったのは
農民とされてきましたが、
当時の状況や地形的な観点、
当時の事を記した史料など様々な検証の結果、
ある程度は戦を経験し、
時には武装していた集団ではないか?という
見解もなされているとか・・・。
まだまだナゾ多き末期ですね。

明智光秀公の首は、
家臣によって隠されたと
伝えられています。
けれども6月15日頃までには
発見されてしまったようです。
公家である吉田兼見の日記
「兼見卿記」のよりますと、
天正10年(1582年)6月16日に、
明智光秀公の遺骸が、
家臣と共に本能寺に高く曝され、
23日に「粟田口の東路次の北」に、
首塚が築かれて埋葬されたと
記されているとの事です。
そして月日は流れ江戸時代に入ります。




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京都奉行所与力を務めた
神澤貞幹の「翁草」によれば、
明和8年(1771年頃)、
「粟田口の東の北側の人家の裏」に
ある明智光秀公の墓のある屋敷を
明智光秀公の子孫とされる
「能役者 笛 明田理右衛門」が
譲り受けたことが記されています。
其の後、明田理右衛門は京都を去ります。
そして近所の方々によって、
この墓を引き取り、
守ってきたと言われています。

現在は、近くに和菓子屋さんがあって
「光秀饅頭」を売っています。
そのお店の名物女将さんが、
いろいろとお話をしてくださいます。

【和菓子屋餅寅】
創業250年ほどの和菓子屋さんです。
江戸時代に入ってからの開業です。

<光秀饅頭>
茶色が黒糖の生地につぶあんが入った饅頭。
緑色が抹茶の生地に京都風の白みそあんの饅頭。
光秀饅頭

<場所>

<付近の町並み>
白川の町並み

<おススメコインパーキング>
青印の建物の1階がコインパーキングです。
3台分駐車できます。

胴塚

【所在地】
〒607-8218 京都府京都市山科区勧修寺御所内町36
明智光秀公 胴塚

【胴塚のあらまし】
天正10年(1582年)6月2日、
明智光秀は,本能寺で織田信長を討ち取ったものの、
その後、羽柴柴秀吉らと13日に山崎で戦い、
敗れました。
明智光秀が近江坂本に戻ろうとしたところ、
小栗栖で何者たちから襲撃され、
明智藪で自刃しました。
その際、首は介錯をした溝尾庄兵衛尉によって
隠されたのですが、
胴はここに埋められたと今に伝えられています。
けれども、その後、掘り起こされて、
現在は埋葬はされてはいないとのことです。
ですが、かつてはこの地に埋葬されていたとして、
昭和45年に山科の方が石碑を建立しました。




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【場所の目印】
山科区勧修寺御所内町の粟津(あわづ)農園で
葡萄の販売をしているみせの横に
胴塚の石碑があります。
農園の横にはコイン精米機があり、
それを目安にできます。
駐車スペースもあります。

<場所>

谷性寺

谷性寺(こくしょうじ)といいます。
湯の花温泉からほど近いところにあります。
谷性寺

その創建は古く、
平安時代まで遡ると言われています。
本尊は不動明王。
明智光秀公は、不動明王を
篤く崇敬していたと伝わります。
谷性寺は明智光秀ゆかりの寺であり
「光秀寺」とも呼ばれ、
また光秀の家紋である桔梗が初夏にかけて
咲き乱れることから「桔梗寺」ともいわれています。
谷性寺 桔梗

命日にあたる6月14日に回向が行われています。
また、毎年5月3日に開催される
「亀岡光秀まつり」では、ここで追善供養が行われます。

毎年6月下旬から7月下旬にかけて
「丹波かめおか光秀物語 ききょうの里」
というイベントが開催されています。
ききょうの里開催期間:6月23日~7月22日

2003年からは、
近くの田畑を借り受けて
1万5千もの桔梗を植え込み、
今ではその規模は5万株にまで拡大しているそうです。

<谷性寺の由緒などの説明看板>
谷性寺 説明看板

【所在地】
〒621-0241 京都府亀岡市宮前町猪倉土山39
【電話】
0771-26-2054

【開園時間】
午前9時~午後5時

【入園料】
500円

【交通アクセス】
【公共交通】
JR嵯峨野線「亀岡」駅から
京阪京都交通バスで「猪倉」下車、徒歩約5分
【車】
亀岡ICから約15分

★備考
拝観は事前連絡が必要




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<明智山門>
境内には「明智山門」と呼ばれる門があります。
この門は、元は亀山城下にあった西願寺の門です。
昭和51年に廃寺になる際、
谷性寺に移築されたものです。
「明智山門」という名称の由来は、
この門を通して首塚が
真正面に見えるところから、だそうです。
また門の内側から上を見れば
桔梗紋が彫られているのが見えます。
谷性寺 明智山門

<首塚>
明智光秀公首塚(谷性寺)

<谷性寺の門>
谷性寺の門

<場所>
青印は駐車場付近です。

盛林寺

宮津城主、小倉播磨守の菩提寺として
天正5年(1577年)、宮津大久保谷に創建されました。

盛林寺

開山は趙室宋栢(ちょうしつそうはく)和尚、
それをたすけた小倉氏は、
丹後守護一色家の重臣でした。
小倉氏は、天正6年(1578年)10月、
細川氏に攻め入れられ、
加悦の石川氏らと共に抵抗しましたが、
細川氏に敗れて討ち死にしました。
上宮津喜多城の戦いと称される合戦でした。

上宮津城・遠景>
上宮津城 遠景

細川氏は天正8年(1580年)年8月、
丹後の大名として入国し、宮津城をつくります。
盛林寺はその庇護をうけます。
また、夭折した細川藤孝
娘の仁伊(菊とも)の肖像画があります。

盛林寺が大久保谷から上宮津に移ったのは
慶長8年(1603年)でした。
「寺谷」と呼ばれる地区で、
現在地より南に位置していました。
更に、貞享2年(1685年)に
現在地に移ってきたとされています。

★御朱印、あるらしいです。

【供養塔(首塚)】
宝篋印塔首塚とされており、
大久保城にいた娘の明智珠細川ガラシャ)のところに
届けられ、供養したとの事です。
実際には、細川家にわざわざ、明智光秀公の首が
届けられるようなことはなかったと思うので、
遺品や、遺髪の類かもしれません。

明智光秀公の首塚(盛林寺)

【所在地】
〒626-0035 京都府宮津市字喜多696




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【交通アクセス】
【電車】
北近畿タンゴ鉄道宮福線「喜多」駅より
徒歩5分
【バス】
「盛林寺」バス停 徒歩3分
<上宮津線>

「喜多」バス停 徒歩8分
<上宮津線>

「小香河」バス停 徒歩9分
<上宮津線>

【駐車スペース】
訪問した時には、門の階段の下に
1台くらいの駐車スペースがあったので
そこに停めましたが、
地図をみると、道路を少し上った処に
あるようです。

<場所>

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