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光秀の妻・明智煕子と明智一族の墓がある西教寺~互いを支え合い深い絆で結ばれた夫婦~

西教寺 総門



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西教寺

所在地:〒520-0113 滋賀県大津市坂本5丁目13番1号
電話:077-578-0013
FAX:077-578-3418
<拝観料>
境内は本堂内を含め無料
客殿・客殿庭園部分のみ大人500円

<地図・青印は駐車場付近

西教寺(さいきょうじ)は、滋賀県大津市坂本にある仏教寺院。
天台系仏教の一派である天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山です。
山号は戒光山、本尊は阿弥陀如来。
開基(創立者)は聖徳太子とする伝承もありますが、
室町時代、中興の祖であり
天台真盛宗の宗祖である真盛が入寺してから栄えました。
寺名は詳しくは兼法勝西教寺(けんほっしょうさいきょうじ)といいます。
西教寺

【地理】
比叡山東麓の大津市坂本地区の北方にあり、
比叡山三塔の一つである横川(よかわ)への登り口に位置します。
付近には比叡山の鎮守である日吉大社があります。
また、近くには琵琶湖畔に面した雄琴温泉があります。
琵琶湖 西側

【歴史】
【創建】
西教寺は室町時代の文明18年(1486年)、
中興の祖とされる僧・真盛が入寺して以降、
天台念仏と戒律の道場として栄えるようになりましたが、
それ以前の歴史は必ずしも明らかでないようです。
西教寺と護猿

<聖徳太子の時代説>
『西教寺縁起』や近世の地誌類には推古天皇6年(618年)、
聖徳太子が師である高麗の僧慧慈、
慧聡のために建立したとする説があります。

<平安時代中期説>
真盛の弟子にあたる真生が明応4年(1495年)に著した
『真盛上人往生伝記』によれば、
西教寺は比叡山中興の祖である
良源(慈恵大師、元三大師)が建てた草庵に始まり、
その弟子で『往生要集』の著者として知られる
源信(恵心僧都)が伽藍を整えたと記されているそうです。
良源と源信はいずれも平安時代中期、10世紀に活動した人物です。
西教寺と良源および源信との結び付きについても確証はなく、
その後鎌倉時代末頃までの歴史も明らかにはなっていませんが、
比叡山と関係の深い一寺院として
平安時代中期頃に草創されたものと推定されています。




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織田信長の焼き討ちと光秀】
元亀2年(1571年)、
織田信長による比叡山焼き討ちの際に西教寺も焼失しました。
本堂は焼失の3年後に復興し、焼失した旧本尊の代わりに、
天正2年(1574年)、
甲賀郡(現・滋賀県甲賀市あたり)の浄福寺という寺から
阿弥陀如来像を迎えて本尊としました。
信長による比叡山焼き討ちの後、
近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、
光秀はこの地に坂本城を築きました。
光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、
寺の復興にも光秀の援助があったと推定されています。
大本坊を建造し、刻銘入りの棟木も現存しています。
光秀が戦死した部下の供養のため、
西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存しています。
また、境内には光秀の供養塔や
光秀の妻である煕子をはじめ一族の墓が立っています。
西教寺 明智一族

【境内】
総門をくぐると、参道の左右に計6か寺の子院が並んでいます。
参道の正面突き当たりには勅使門があり、
その左に宗祖大師殿、奥の小高くなった場所に
本堂、客殿、書院などが建つ中心伽藍があり回廊で結ばれています。
中心伽藍を見下ろす高台に真盛上人廟があります。
境内には他に明智光秀の供養塔やお墓、その妻明智煕子の墓、明智一族の墓、
阿弥陀二十五菩薩石仏(天正12年(1584年)の作)などがあります。

西教寺 勅使門

現在はユースホステルもあります。

<交通アクセス>
★JR湖西線「比叡山坂本」駅 下車、
江若バス約7分(西教寺下車)、
又は徒歩30分
★京阪電車『坂本』駅下車、
江和バス約4分(西教寺下車)、
又は徒歩25分

地図
青印は明智煕子の墓付近で
向かって左方向やや先に明智一族の墓があります(階段をあがる)。




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【明智煕子(妻木煕子)】
<明智煕子(妻木煕子)の墓>
西教寺 明智煕子の墓

妻木 煕子または明智 煕子(つまき ひろこ、あけち ひろこ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。
明智光秀の正室です。
ただし「煕子(ひろこ)」という名前は、
三浦綾子の小説『細川ガラシャ夫人』で
広く知られるようになったものであり、
それ以前に知られていた光秀の室の名前は
お牧の方」または「伏屋姫」であって、
確かな史料でその名前を確認することはできないそうです。
『絵本太閤記』の「照子」という名前は、
父親とされる妻木範熙の名前に由来すると言われていますが、
その際に「煕」をよく似た「照」と誤ったものかもしれないとされています。
「煕子」は、現代になってから言われるようになった俗称という説もあります。

<子供>
子については俗説が多くあり、
もうけたとされる3男4女の内、
母は別であるという異説もあるようですが、
それぞれ長女が明智光春(秀満)の室、
次女が明智光忠の室、
三女・珠(細川ガラシャ)が細川忠興の室、
四女が織田信澄の室となり、
嫡男の十兵衛光慶(千代寿丸)、
次男の十次郎光泰、
三男に乙寿丸がいたとされています。

<生涯>
生年不詳ながら、一説に享禄3年(1530年)頃、
長女として生まれたとされています。
『細川家記』によれば、
妻木勘解由左衛門範煕の女とあるのは
『明智軍記』などからとされていますが、
細川忠興の室の母であると、確認されているので、
この所伝は信じても良いとされています。
また、妻木広忠を父とする説もありますが、
典拠となる史料は現在のところは不明です。

<光秀に愛された煕子>
(1)疱瘡の跡も気にせず
夫婦仲は非常に良かったとみられ、
結婚直前に疱瘡にかかり、
左頬にその後が残ってしまった煕子を光秀は気にせずに迎えた
」。
婚約後に煕子は疱瘡にかかってしまい、
左ほおに其の跡が残ってしまったそうです。
そのことを憂慮した煕子の父は、
煕子によく似た妹の芳子を身代わりに出したのですが、
光秀はそれを見破り、自分の妻は煕子である、と言って
美醜を気にせずに煕子を妻に迎えた、という逸話が残っています。

(2)妻を背負って逃亡
弘治2年(1556年)、斉藤義龍によって明智城が落とされると、
光秀は身重の煕子を背負って越前へ逃亡した
」などの逸話が残されています。
その後、光秀は長良川の戦い斎藤道三に与したため、
その跡を継いだ斎藤義龍に攻められ、本拠を失い浪人の身となります。

<黒髪を売る>
美濃から越前に移り、朝倉義景に仕えることになるが生活は苦しく、
そのような中、連歌会の催しを光秀が担当することになりました。
酒宴の用意に苦労する光秀をみかねた煕子は、
自分の黒髪を売ることで費用を工面したと伝わっています。

<織田信長も認める美人>
織田信長の家臣の間で明智光秀の妻・煕子が美人であるという
話が広がりました。
そこで信長は煕子を呼び寄せ、物陰から拝顔します。
評判通りの美人であり、
信長は思わず煕子に抱き着いてしまった、という
逸話が残されているそうです。
また、この逸話には続きがあり、
煕子は抱き着いた信長を持っていた扇で
思い切り叩いてしまったとも。
信長の光秀の妻・煕子に対する評価は
ますます上がった、とも伝わっているそうです。

<煕子、病に倒れる>
『兼見卿記』によると天正4年(1576年)10月14日、
煕子は病気になり、光秀は平癒の祈祷を吉田兼見に依頼しています。
10月24日には平癒したので、
非在軒という者が銀一枚を持参して礼に行った記録があります。
11月2日には、吉田兼見が煕子の病気見舞のために
光秀の京都の宿所に行き光秀と面会をしている記録があります。

<一生を終える>
天正4年11月7日(1576年11月27日)、
または6月7日(7月6日)に死去したとされています。
享年は、46とも36、或いは42とも伝わっています。
光秀が黒井城の合戦が元で
かなりの重病となり、
その際の献身的な看病疲れが元で病死したとも言われています。

『明智軍記』によると
天正10年(1582年)の坂本城落城のときの言動を記し、
年齢48歳で死去と記されてありますが、
現在ではこの説は信用できないと見られています。

なお、2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では
木村文乃(きむらふみの)さんが演じられることが決定されています。

<松尾芭蕉が一句詠む>
時は江戸時代、
元禄2年(1689年)に、江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉が、
門弟の山田又玄の邸宅で、
その妻に宛てて詠んだ句
月さびよ、明智が妻の、咄(はなし)せむ」の
元々の話であり、
芭蕉は丸岡に訪れた際に称念寺に伝わるこの逸話を聞いたと考えられています。
芭蕉がこのように女性を題材にして、
一句詠むということは大変珍しいことであったそうです。
明智煕子の墓 案内板

<明智光秀及び明智一族の墓>
西教寺 明智光秀及び明智一族の墓

<明智光秀・辞世の句>
西教寺 明智光秀辞世の句

<西教寺からの琵琶湖>
西教寺 琵琶湖




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【妻木廣忠(つまきひろただ)】
<妻木一族の供養塔>
妻木一族 供養塔
妻木広忠(つまき ひろただ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
明智光秀の家臣。美濃国土岐郡妻木城主(第12代目)。
旗本妻木氏の系譜では、光秀の叔父とされています。
また、光秀の正室・煕子の父ともされていますが、
典拠となる史料は不明です。
尾張国の戦国大名織田信長に仕えて、
明智光秀の与力となり成果を挙げています。
天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の後、
同年6月13日(1582年7月2日)に
起きた山崎の戦いで明智光秀が敗れ、近江国坂本城が陥落すると、
天正10年6月18日(1582年7月7日)に
西教寺で関係者一族の墓を作った後に、
墓の前で自害したと伝わっています。

<その後の妻木氏>
広忠は明智軍に属して敗北し自刃した為、
嫡男の妻木頼忠が跡を継ぎました。
其の後、城を攻め明け渡せと迫った森長可(父は森可成)と
和議となり、家臣となります。
慶長5年(1600)年の関ヶ原の合戦の際には、
徳川家康側につき、
関ヶ原の戦いの際の戦功により
頼忠は徳川家康から改めてこの地域を所領として与えられます。
頼忠は領地経営において、山の上の城では生活が不便である為、
城のある山の北側の山麓に屋敷を築いて住み始めました。
元和年間(1615年-1624年)頃には
この城は放棄されたとみえ、
山麓にある妻木城士屋敷が政庁となっていました。

<本家は3代まで>
頼忠の子の妻木頼利、次に頼利の子の妻木頼次が跡を継ぎましたが、
頼次が跡継ぎの無いまま万治元年(1658年)に死去した為、
妻木氏本家は3代で断絶し、屋敷も放棄されました。

<上郷妻木氏として明治維新を迎える>
けれども、妻木氏自体は頼次の弟の妻木幸広が
屋敷周辺の妻木上郷500石を以て妻木家再興を許され、
上郷に新たに屋敷を築いて上郷妻木家として存続し、
明治維新に至っています。

【妻木城(つまぎじょう)】
妻木城(つまぎじょう)は、現在の岐阜県土岐市に存在した日本の城(山城)。
岐阜県指定史跡
土岐市南部の標高409mの城山山頂に築かれた山城。
築城年:暦応2年/延元4年(1339年)
一説によると、土岐頼貞の孫である土岐頼重が
家臣育成の訓練場のような意味合いで築城したともされています。
戦国時代辺りに土岐氏が衰退した後は、
一族の明智氏の所領になった後、
さらにその一族とされる妻木氏の居城となりました。

<遺構>
土塁・石垣・曲輪

<駐車場>
道路沿い⇒登城はキツイ道なり。
城の南側⇒道路沿いからは反対側の位置とのこと。からの登城よりは少し楽。

<場所>
山!

【妻木城士屋敷(つまぎじょうさむらいやしき)】
妻木城士屋敷は、妻木城の北側山麓にあった
領主御殿や家臣屋敷の総称で、
城跡と同じく岐阜県史跡に指定されています。
江戸時代に入ってから妻木氏が断絶するまで
ここが本拠となりました。
近くにある崇禅寺には、
移築された屋敷群入口の門と妻木城の歴代城主の墓があるそうです。

<場所>

<西教寺・客殿>
西教寺 客殿

<西教寺・客殿の説明板>
西教寺 客殿の説明板

西教寺の所要時間:20分程度(明智一族の墓付近散策まで)

斎藤義龍 1分でわかりやすく紹介

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