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土岐頼武・土岐頼純VS土岐頼芸~美濃守護土岐氏~度重なる家督争いで衰退し、斎藤道三に乗っ取られる!

土岐頼武・頼純VS頼芸



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土岐頼武

土岐 頼武(とき よりたけ)は、
戦国時代の大名で美濃国の守護大名でした。
土岐政房の嫡男で弟に頼芸、治頼、揖斐光親らがいます。
別名の諱として政頼(まさより)、
盛頼(もりより)が伝わっています。
次郎と称し、官位は修理大夫。
妻は朝倉家9代当主である朝倉貞景の3女。
子に頼純がいました。

【生い立ち】
一説では、明応7年(1498年)に生まれたとされています。
父親は土岐政房ですが、
家督を次男の頼芸に継がせようと考えていました。
実は、父親の土岐政房自身も、嫡男であるにも関わらず、
父の土岐成頼は弟の土岐頼を溺愛して、
土岐政房の廃嫡を図っていたのでした。
そのために内乱が起きています。

【船田合戦】
明応3年(1494年)に後に船田合戦と称される
内乱が起きています。
土岐成頼の支持を受けて、
守護代斎藤利藤と小守護代石丸利光ら土岐元頼を擁立し、
母方の叔父の斎藤妙純(利藤の異母弟)は
土岐政房を擁立しました。
こうして合戦が起こりました。
明応3年(1494年)12月、
斎藤妙純は郡上郡に大宝寺を創建し、
開堂式に出席することになっていたそうです。
石丸利光は道中で斎藤妙純の暗殺を図りましたが、
9日はあいにくの悪天候で延期され失敗し、
10日に居城の船田城で兵を集め、
直接船田城の北にある加納城にいる
斎藤妙純を奇襲しようとしましたが、
西尾直教の密告で斎藤妙純に発覚してしまいます。
19日に土岐成頼に仲介を頼んで、
斎藤妙純と和睦して、西尾直教は追放されました。
けれども、斎藤妙純は加納城の増強に努め、
翌4年(1495年)3月に両軍は開戦となりました。
そして、斎藤妙純の婿である朝倉貞景と京極高清に
支援を要請しています。

明応4年(1495年)7月に、
土岐政房は斎藤妙純と共に土岐元頼方を破り、
同年9月に父親である土岐成頼は隠居して
土岐政房が家督と守護職を継ぐことになりました。
土岐元頼方は再挙を図りますが、
明応5年(1496年)5月30日、
斎藤妙純は城田寺城を囲み、
土岐元頼と石丸利光は自害し、
勝利しました。




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こうして、土岐家の家督を継いだ土岐政房でした。
ですが、それを支えていた斎藤妙純が、
明応5年(1496年)12月、
近江へ出兵して六角氏と戦いましたが大敗を喫し、
子の斎藤利親と共に戦死してしまいました。
その後は小守護代の長井長弘の力が強まっていきます。

【父と同じく次男を溺愛】
そして土岐政房は、
かつて自分がされたことと同じことをします。
土岐政房は嫡男である土岐頼武を差し置いて、
次男である土岐頼芸を推し、
長井長弘と斎藤彦四郎(利親の弟)がこれを支持します。
一方、嫡男である土岐頼武には、
守護代斎藤利良(利親の子)が味方して、
またもや家督争いが起こり、
永正14年(1517年)、ついには合戦と発展します。
この時の戦いは土岐頼武方が勝利しました。
けれども、土岐頼芸派は、
尾張に亡命していた前守護代斎藤彦四郎と連絡を取り、
逆襲の機会を狙っており、再び合戦となりました。
翌年には土岐頼芸派が勝利し、
土岐頼武は、斎藤利良と共に、
斎藤利良の伯母の嫁ぎ先である
越前朝倉氏のもとへ亡命しました。

【越前朝倉氏を頼る】
この越前亡命中に土岐頼武は、
朝倉家9代当主である朝倉貞景の娘と
結婚したとされています。
土岐頼芸派は室町幕府に要請し、
土岐頼武の上洛を促す御内書を
出してもらうことには成功するも、
朝倉家10代当主で、
土岐頼武の義兄となった
朝倉孝景(宗淳)はこれを無視しました。

【父・土岐政房の死去】
頼武の越前在国中も美濃は内乱状態にあり、
永正16年(1519年)3月には
垂井辺りで激戦が起こっています。
土岐頼武の父親である土岐政房は内乱の最中、
永正16年(1519年)6月16日に63歳で死去しています。

【朝倉氏の援護で美濃帰還】
土岐政房の死去を受けて、
朝倉孝景は弟の朝倉景高に美濃出陣を命じています。
7月、朝倉景高に率いられた、
3000朝倉勢に護られて土岐頼武は美濃に入国して、
9月14日の正木合戦、
10月10日の池戸合戦に連戦連勝して、
遂に美濃守護になることに成功します。
一方、長井長弘は没落し、
斎藤彦四郎は失脚したとも戦死とも言われており、
はっきりとはわかっていません。

【再び土岐頼芸派が挙兵す】
その後、土岐頼武政権は一応の安定をしていました。
けれども、大永5年(1525年)6月、
土岐頼芸を奉じた長井長弘が再挙兵しました。
6月23日、岐阜茜部で合戦があり、
守護代斎藤利茂ほか土岐頼武政権の主だった人々は
守護所福光館を脱出して、
館は長井勢に占領されてしまいます。

【浅井亮政参戦VS朝倉勢】
更に8月2日、長井氏支援のため、
近江から浅井亮政の軍勢が美濃に侵攻し、
関ヶ原今須付近で土岐軍と合戦となりました。
土岐頼武は武芸谷の汾陽寺にあって、
救援を朝倉氏に求め、朝倉氏はこれに応じます。
朝倉宗滴(一族の参謀格。9代~11代当主に仕える)が、
小谷城に出張り六角氏とも協力して浅井勢を牽制しました。
更に朝倉景職(妻は朝倉貞景の娘・北殿)の率いる
軍勢が10月14日に稲葉山まで出兵してきました。
内乱は大永7年(1527年)末には一段落しましたが、
その後も政情不安は続き、
享禄3年(1530年)、
土岐頼武は再び越前に逃れていきました。




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斎藤道三の暗躍】
そしてこの背景には
長井長弘の家臣となっていた
斎藤道三の暗躍もあったと伝わっています。
この頃斎藤道三は、
長井氏家臣西村氏の家名をついで
西村勘九郎正利を称していました。
勘九郎(斎藤道三)は、
その武芸と才覚で次第に頭角を現し、
土岐頼芸の信頼を得ていきました。
土岐頼芸が土岐頼武との家督相続に敗れると、
勘九郎(斎藤道三)は密かに策を講じ、
大永7年(1527年)8月、
土岐頼武を革手城にて急襲してとあります。
やがて頼芸の守護補任に大きく貢献し、
土岐頼芸の信任を得ていくのでした。
そして次に勘九郎(斎藤道三)が行った事は、
同じく土岐頼芸の信任を得ていた
長井長弘の存在が邪魔となり、
除去することを画策します。
享禄3年(1530年)正月ないし
天文2年(1553年)に
長井長弘を不行跡のかどで殺害し、
長井新九郎規秀を名乗ったとされます。

一方、土岐頼芸は翌年
「濃州太守」と呼ばれるまでになったとされています。
けれども、実際にはまだ
守護に就いていなかったとされています。

【再び美濃へ、最期の決戦】
朝倉軍の援助で土岐頼武は美濃入国を果たします。
土岐頼武は山県郡大桑城に本拠を置き、
再び土岐頼芸と対決します。
天文4年(1535年)6月、
土岐頼芸が父政房の17回忌法要を行って
自らの正当性を主張したため、
両者の対立はより深まっていきました。
この間にも土岐頼芸は、8月修理大夫に任官、
さらに権威付けのための
奈良正倉院秘蔵の蘭奢待の切り取りを朝廷に申請し、
許可されています。
そうした中、8月17日、
朝倉氏や六角氏の援兵とともに、
土岐頼武軍は攻勢を開始します。
11月までの間、多芸郡・池田郡から
岐阜・関に及ぶ広範囲で合戦が繰り広げられ、
その間に多くの神社仏閣が焼亡してしまいました。

後に病に伏せて49歳で逝去してしまいました。

【大河ドラマに出てくるか?】
斎藤道三の国盗り物語で欠かせない存在である土岐頼武。
2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」では
登場するのでしょうか?
既に土岐頼芸役は発表されていますが、
果たして土岐頼武役は??
土岐頼武も登場しないと、
この土岐氏の家督争いはよくわからないものになります・・。
もし出演するのなら俳優さんは誰になるのでしょうか??
生年月日が同じ香川照之さん??
それはまるで「集団左遷」ですが・・。

土岐頼純

土岐 頼純(とき よりずみ)は、
戦国時代の大名で美濃国の守護大名でした。
土岐頼武の嫡男で母は朝倉貞景の三女。
妻は斎藤道三の娘で帰蝶であったとも伝わります。

【別名】
政頼、頼純、
【通称】
次郎
【生誕】
大永4年(1524年)
【死没】
天文16年11月17日(1547年12月28日))

【墓所】
岐阜県山県市 南泉寺

【父の遺志を継ぐ】
父である土岐頼武の没後も大桑城に拠って、
叔父である守護・土岐頼芸
及び斎藤道三と対峙していました。
けれども、味方であった近江国の六角定頼が
天文5年(1536年)に土岐頼芸方に転じ、
さらに守護代・斎藤利茂も六角定頼の仲介で
土岐頼芸方になってしまい、
次第に土岐頼純は劣勢に立たされることになりました。

天文8年(1539年)正月、
土岐頼芸との間で和議が成立しました。
しかし、これは一時的なもので、
裏では斎藤道三による調略が進められたのでした。
それと並行して、
天文10年(1541年)、
斎藤新九郎利政改め斎藤道三によって、
土岐頼満(頼芸の弟)が毒殺されたと伝わっており、
この頃より、土岐頼芸と斎藤道三との
対立抗争が開始されたと考えられます。
天文11年(1542年)に
斎藤道三は、
土岐頼芸の居城である大桑城を攻め、
土岐頼芸とその子の二郎(頼次)を尾張へ追放して、
事実上の美濃国主となったとされていました。
けれども、近年の研究の結果、
尾張国に追放されたのは土岐頼純であり、
土岐頼芸はこの段階では美濃に留まって
傀儡の守護として、
その地位を保っていたとする異説もあるそうです。

天文12年(1543年)7月以降、
祐向城、別府城などの大桑城の支城は相次いで陥落し、
遂に大桑城も落城となりました。
土岐頼純は母の実家である朝倉氏を頼って
越前国へ亡命したとあります。




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天文13年(1544年)8月、
土岐頼純は朝倉孝景(宗淳)と
尾張国の織田信秀織田信長の父)の支援を得て、
美濃再入国を企てていました。
けれども、斎藤道三はこれより早い6月の段階で
この情報をつかんでいたと伝わっています。
朝倉軍は朝倉宗滴が総大将となり、
徳山谷を南下し、9月19日に赤坂で斎藤軍と合戦し、
これに勝利し六角氏との連絡路を遮断することに成功しました。

【織田信秀大敗して頼純は越前へ】
一方、織田軍は
斎藤道三の籠もる稲葉山城を正面攻撃して、
9月22日に総攻撃を仕掛けましたが、
城下での斎藤勢の防戦もあり、夕刻になって攻撃を中止。
撤収にかかったところを今度は
斎藤軍に攻撃され大敗してしまいました。
この敗戦によって土岐頼純は
朝倉軍とともに再び
越前に引き揚げざるを得ませんでした。

天文15年(1546年)秋、
再び土岐頼純と
土岐頼芸・斎藤道三との間で和議が成立しました。
朝倉孝景、織田信秀の室町幕府への働きかけに加え、
土岐頼芸の同盟者である
六角定頼の仲介もあったと伝えられています。
同年9月土岐頼純は、
菩提山城を経て大桑城へ入城しました。
和議の条件として、土岐頼芸の隠退と
土岐頼純の美濃守護職就任という
条件があったとのことでした。
また、斎藤道三の娘との婚姻も
実現したと伝えられています。
なお、土岐頼純と婚姻した斎藤道三の娘とは、
斎藤道三の正室である小見の方が産んだ
たった一人の子である帰蝶であると言われております。

【頼純死す、犯人は斎藤道三】
けれどもそれはほんの一時の平和でしかなく、
土岐頼純が守護となって一年余り後、
天文16年(1547年)11月17日、
土岐頼純は急死してしまいました。
享年は24歳という若さでした。
おそらくは斎藤道三の手にかかって殺害されたものと
言われております。
土岐頼純と婚姻関係にあった斎藤道三の娘は
実家へ戻り、
翌年の天文17年(1548年)に今度は
織田信秀の嫡子である織田信長に嫁がせています。




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【大河ドラマに出てくるか?】
2020年大河ドラマ「麒麟がくる」では、
お父様である土岐頼武同様に果たして登場するのでしょうか??
やっぱり、土岐頼武・土岐頼純親子は、
登場して頂かないと、
土岐氏の家督争い、美濃攪乱、
それに乗じた斎藤道三の国盗り、
更には、同じころに起きていた幕府の混乱等が
よくわからないものに成り下がってしまうと思うのです。
できれば土岐政房、更に元凶(?)のその父親も・・。
さて、土岐頼純が登場するとなると、
演じる俳優さんはどなたがよいのでしょうか?
苦労の連続で薄幸で、妻とされていた
斎藤道三の娘・帰蝶との婚礼。
帰蝶役の沢尻エリカさん (代役→川口春奈さん)とよくお似合いのイケメンの方。
更に、一説では、主人公の明智光秀、の主君、
であったかもしれないとも言われているそうです。
(この場合、明智光秀の生まれた年がカギとなりますが)
もしくは明智光秀の父親の主君であったとの
説もあるそうです。
ゲスト枠で良いので、是非とも登場してほしいです。
イケメンで品が良くて、どことなく陰のある方・・・。
俳優さんは・・・吉沢亮さんとか。

【土岐頼芸】

土岐 頼芸
(とき よりあき・よりなり・よりのり・よりよし)は、
戦国時代の美濃国の守護大名でした。
土岐政房の次男。
土岐氏当主で兄の土岐頼武及び
その子・土岐頼純の嫡流と対立。
美濃国とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、
土岐氏当主、美濃守護となりましたが、
その混乱に乗じて
斎藤道三に美濃を乗っ取られて追放されました。
けれども長生きをして享年は81歳だったそうです。

【生誕】
文亀2年(1502年)
【死没】
天正10年12月4日
(1582年12月28日)
【墓所】
岐阜県揖斐川町の法雲寺

【生い立ちと背景】
文亀2年(1502年)に
土岐政房の次男として生まれました。
この当時の美濃の国内情勢として、
重臣の斎藤家は
守護代・斎藤利国の戦死により衰退し、
代わってその庶流である
長井家が台頭するなど斎藤家中は不安定でした。

【土岐氏の暗雲】
斎藤家だけではなく、
守護土岐家も暗雲が漂っていました。
父である土岐政房には長男の土岐頼武がいましたが、
土岐政房は次男の土岐頼芸を溺愛して
土岐頼武の廃嫡を考えるようになります。
土岐政房によって土岐頼芸は
小守護代・長井長弘、
長井新左衛門尉(斎藤道三の父)らに擁立され、
一方の兄の土岐頼武も
守護代・斎藤利良の支持を受けたことにより、
両者は対立して家督争いが起こり、
永正14年(1517年)、合戦となりました。

【土岐頼武VS土岐頼芸】
この戦いで土岐頼芸側は敗れましたが、
前守護代・斎藤彦四郎の助力も得て、
翌永正15年(1518年)は土岐頼芸側が勝利して
土岐頼武を越前国に追放しました。
けれども永正16年(1519年)、
朝倉孝景の支援を得た土岐頼武側が美濃に侵攻し、
土岐頼芸側は圧倒され土岐頼武側が勝利。、
土岐頼武が美濃守護に就くことになったことで
決着がついたと思われました。

しかし、土岐頼芸は大永5年(1525年)に再び挙兵。
土岐頼武のいる美濃守護所の福光館を占拠しました。
享禄3年(1530年)には
兄・土岐頼武を再び越前国に追放し、
「濃州太守」と呼ばれて守護となりました。
しかしながら実際にはまだ、
守護に就いていなかったとされています。
その後、後ろ盾であった
斎藤長弘、長井新左衛門尉らが相次いで死去。




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【斎藤道三、表舞台へ】
そして、新左衛門尉の子である
長井規秀(後の斎藤道三)を重用し、
勢力保持をはかったとされていますが、
この長井規秀(後の斎藤道三)が、
この後の土岐家の運命を
更に傾けさせることになるのでした。

【正式に美濃守護となる】
天文4年(1535年)6月、
父・土岐政房の17回忌を執り行い、
自らの正統性を国内に宣言したため、
兄の跡を継いだ甥・土岐頼純と対立しました。
朝倉氏、六角氏らが土岐頼純側に加担したことにより
戦火は美濃全土へ広がっていきました。
同年7月1日、新たな守護所であった枝広館が
長良川大洪水で流され、稲葉山の麓に移ります。
同年6月22日、第12代将軍・足利義晴の執奏により、
修理大夫に任官しました。
翌天文5年(1536年)、
勅許により美濃守に遷任して正式に守護の座に就きます。

【斎藤道三、いよいよ国盗りへ】
そのころ、土岐頼芸は六角定頼の娘を娶り、
六角氏と和睦したことによって
争乱はほとんど治まりました。
天文8年(1539年)には
土岐頼純との間に和議が成立します。
けれども天文10年(1541年)、
ついに重臣の斎藤道三が牙をむきます。
土岐頼芸の弟である土岐頼満を斎藤道三が毒殺します。
これ以降、土岐頼芸と斎藤道三との仲が険悪となり、
次第に対立を深めていくのでした。

天文11年(1542年)、
土岐頼純の籠もる大桑城が落城し鷺山城へ移ります。
またこの年、土岐頼芸は子の土岐頼次ともども
斎藤道三により尾張国へ追放されています。
ただし、近年の研究では、
追放されたのは土岐頼純であり、
土岐頼芸は美濃に留まり、
傀儡の守護であった可能性もあるそうです。

【やっと気づいた叔父と甥】
そして、土岐頼芸は
尾張国の織田信秀(織田信長の父)の支援を得て、
越前国で朝倉孝景の庇護下にいた土岐頼純と連携し、
守護の座に復帰しましたが、
まもなく天文15年(1546年)、
斎藤道三と朝倉孝景が和睦。
その和睦の条件が土岐頼芸の守護退任であったため、
土岐頼芸は守護の座を土岐頼純に明け渡しました。

【斎藤道三の乗っ取り完了】
翌年、その土岐頼純が急死し、
斎藤道三に暗殺されたと伝わってます。
さらに天文17年(1548年)、
織田信秀と斎藤道三が和睦したことによって後盾を失い、
天文21年(1552年)頃、
再び斎藤道三に追放されてしまいました。

【各地放浪す】
土岐頼芸は、妹の嫁ぎ先である近江国の六角氏、
続いて実弟の土岐治頼がいる常陸国に寄寓し、
この時土岐治頼に、
系図や家宝を譲り渡したと伝えられています。
次いで上総国の土岐為頼を頼り、
後に甲斐国の武田氏に身を寄せました。
この間に病によって失明したとのことです。




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【美濃への期間を果たす】
この間に大勢力となっていた
織田信秀の子の織田信長による甲州征伐の際、
武田氏に庇護されていた土岐頼芸が発見されました。
頼芸の旧臣でもあり当時織田麾下であった
西美濃3人衆である稲葉一鉄のはからいで美濃国に戻り、
半年後に死去したとのことです。
享年は81歳でした。

なお、2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では
尾美 としのり(おみ としのり)さんが演じられることが決定しています。

【その後の土岐氏】

【土岐頼次】
土岐 頼次(とき よりつぐ、
天文14年(1545年)⇒
慶長19年11月10日(1614年12月10日))は、
戦国武将、江戸時代初期の旗本。
土岐頼芸の次男。生母は六角定頼の娘で弟に頼元がいます。
通称は小次郎、二郎、左馬助、見松ともいわれています。

【生涯】
兄・土岐頼栄が父によって廃嫡されたため、
土岐氏の後継者に選ばれました。
父とともに斎藤道三によって美濃を追われた後は
大和の松永久秀を頼ったとのことです。
その後、豊臣秀吉に馬廻として仕え、
天正15年(1587年)に
河内古市郡内に500石を与えられたとのことです。
さらに、徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、
本領を安堵されて、旗本になりました。
慶長19年(1614年)11月10日、
伏見において死去し享年は70歳であったとのことです。

正妻は湯島武房の娘で、
長男頼勝、二男頼高、三男頼泰ら
三男一女と言われていました。
長男頼勝の子孫は、高家旗本として、
三男頼泰の子孫は旗本として、
それぞれ幕府に仕えていたそうです。




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なお、元禄14年(1701年)に発生した
江戸城中で浅野長矩が吉良義央に切りかかった
赤穂事件の際に長矩を取り押さえた梶川頼照は、
土岐頼次の三男の土岐頼泰の子であったとのことです。

其の後、土岐頼次の玄孫に当たる
土岐頼泰(とき よりやす)の死去で
頼次流高家土岐氏は断絶となります。
宝永5年(1708年)5月のことであったそうです。

なお土岐氏は沼田藩土岐氏が現在まで存続しています。

大桑城~美濃国守護である土岐氏の最後の居城~

斎藤道三~晩年の足跡~鷺山城址・道三塚・常在寺、そして斎藤義龍

斎藤喜平次~斎藤道三の三男~斎藤道三に溺愛されるがゆえに兄・義龍(高政)に謀殺される

斎藤孫四郎~斎藤道三の次男~斎藤道三が後継ぎにしようとするも兄の義龍(高政)に謀殺される

御嵩城跡~美濃国

明智城址と天龍寺と明智一族、築城主の明智頼兼(土岐頼兼)とは?

濃姫(帰蝶)~織田信長のナゾ多き正室で明智光秀の従兄妹~

明智光秀の墓所~京都府~

明智光秀の墓と産湯の井戸~桔梗塚~もう一つの光秀生存説、生誕地伝説と土岐四郎元頼(基頼)

明智神社と称念寺~あけっつぁまと妻の黒髪~明智光秀の越前時代の居住地

坂本城・要所かつ豪壮華麗な明智光秀の居城~琵琶湖の浮城~

久々利城跡~土岐久々利氏・遺構がわかりやすい土の城~斎藤正義を暗殺するもその孫に謀殺された久々利頼興

江戸崎城~常陸土岐氏である土岐原氏が築城し約200年の統治後に、蘆名氏(佐竹氏)、丹羽長重が入封しました。

木原城~土岐氏の家臣であった近藤氏の居城と伝えられており、城主の近藤利勝の肖像画が発見されました。

万喜城~築城は上総土岐氏と伝えられており、本多忠勝が一時居城していました。

土田御前~織田信長の生母~信長を疎んじた理由とは?信長の側室・吉乃との繋がり、更には明智氏の家臣とも。

織田信秀~織田信長の父親~配下の清洲三奉行から戦国大名となり、信長に託す!

長井道利~中濃衆~義龍に父との決別を促し明智を滅ぼす・出目も最期もナゾ残す人物

佐藤忠能・佐藤忠康父子と娘の八重緑と加治田城攻防~織田信長の東美濃攻略~琵琶湖・百足退治も

稲葉良通~稲葉一鉄・頑固一徹の語源である西美濃三人衆~多才な人物で信長に好かれる

崇福寺~岐阜城の麓~織田信長・織田信忠の霊廟があるところ、稲葉一鉄の修業の寺

氏家直元(氏家卜全)~西美濃三人衆~美濃国人衆の中で最大の勢力、次男は家康に惜しまれながらも大坂夏の陣で果てる

安藤守就~西美濃三人衆~娘婿は竹中半兵衛、最期は稲葉一鉄に滅ぼされる

不破光治・不破直光(不破彦三勝光)親子~戦国の世をしぶとくゆったりと生き抜く~

岸信周・岸信房父子~中濃衆~妻も勇猛で往年の女武将の如く・堂洞城を枕に壮絶に散る

福知山城~初代城主は明智光秀~領民に慕われた証の御霊会、城代は婿で重臣の明智秀満

藤田行政(藤田伝吾)~明智五宿老の一人~常に明智光秀に寄り添い、やがて散る

小谷城~浅井家三代~浅井亮政・浅井久政・浅井長政

光秀の妻・明智煕子と明智一族の墓がある西教寺~互いを支え合い深い絆で結ばれた夫婦~

明智光秀について~駆け足で手短にわかる明智光秀の生涯~

妻木城と士屋敷と崇禅寺~明智光秀の正室・煕子の出身と妻木築城主の明智(土岐)頼重とは?

今川義元~祝・生誕500年~足利一門の名門・海道一の弓取りと称された東海の覇者!

美濃金山城跡~森蘭丸の生誕地~森可成・森長可・森乱丸(蘭丸)・森忠政と斎藤正義

土岐高山城跡(土岐高山城跡の森)・甲斐や尾張との境界を巡っての攻防の地

越前大野城址~雲海に浮かぶ天空の城~一向一揆平定の恩賞として金森長近が築城

朝倉義景の墓~義景清水~孤独を纏う朝倉家最後の当主・戦よりも芸事と内政が得意

一乗谷館跡と朝倉氏~一乗谷朝倉氏遺跡・国の三重指定、103年間の栄華の跡

長良川鵜飼~岐阜の長良川~1300年続く幽玄の伝統漁法

伝源経基館跡、源経基とは経基流清和源氏の初代で孫の代から摂津・大和・河内源氏へと分かれていきます。

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