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空誓上人~徳川家康の三大危機の一つである三河一向一揆の中心人物です。

本證寺(城郭伽藍)



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【空誓上人】

空誓(くうせい、生没年不詳 )は
戦国時代 の僧侶です。
本證寺(安城市野寺)第十代で、
蓮如の孫、もしくは曾孫ともいわれています。
三河一向一揆の中心人物です。

永禄4年(1561年)に
近江国堅田慈敬寺から
本證寺に移った空誓は、
やがて教団の利権を解体して
三河国統一を目指す松平(徳川)家康との
対立が深まり、守護使不入の権が
侵害されたことをきっかけに
上宮寺や勝鬘寺とともに
檄を飛ばし
本願寺門徒をあつめ
菅沼氏の砦を襲撃しました 。
空誓は怪力の持ち主で、
自ら鎧を身につけ
鉄棒を振り回し戦ったといいます。
空誓は永禄7年に小川の戦いで敗れ、
足助町に逃走したため
本證寺は一時廃寺となったとのことです。

2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では
市川 右團次(いちかわ うだんじ)さんが
演じられます。

【三河一向一揆】

三河一向一揆(みかわいっこういっき)は、
戦国時代に三河国の西三河全域で
永禄6年(1563年)から
永禄7年(1564年)まで
半年ほど行われた一向一揆です。
松平家の支配下にはなく
曹洞宗の勢力が強かった
東三河は該当しません。

【三河一向一揆の概要】
現在の安城市野寺の本證寺
第十代空誓上人(蓮如の曾孫)が
中心となって浄土真宗の
本願寺門徒に檄を飛ばし、
領主の松平(のちの徳川)家康と戦いました。
「三州一向宗乱記」に
「当国碧海郡野寺村の本證寺と
申すは、一向宗の小本寺にて、
守護不入の道場、
当国三箇寺の其の一箇寺なり」
と記載されています。
本證寺

【中心勢力】
中心勢力は、三河三ヶ寺と本宗寺および、
三河守護家である吉良氏のほか、
荒川氏、桜井松平氏、
大草松平氏です。
また安祥松平家の麾下にあった
本多正信、蜂屋貞次、
夏目吉信が参加しました。
これは松平宗家である
岩津松平に代わり台頭した
安祥松平家が
安祥城に居城していた時代から、
真宗門徒の地元勢力を
支配下に収めたものであり、
その最たるものは、
本證寺門徒でもあった石川氏です。
一族の間で門徒方と
松平(徳川)家康方に
分裂するなど混乱を極め、
より大変な戦いとなっていったのでした。




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徳川家康三大危機】
三河一向一揆は、
三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、
徳川家康の三大危機とされています。
家臣団の多くが門徒方に与するなど、
徳川家康に宗教の恐ろしさを
まざまざと見せつける事となった戦いでした。

大久保忠教の「三河物語」や
「三州一向宗乱記」に概況が描かれています。

【三河三ヶ寺と、不入の特権】
本證寺(安城市野寺町)、
上宮寺(じょうぐうじ・岡崎市上佐々木町)、
勝鬘寺(岡崎市針崎町)は、
三河における本願寺教団の拠点で
三河三ヶ寺と呼称され、
松平広忠(家康の父)の代に
守護使不入の特権を
与えられていました。
三河三ヶ寺野寺本證寺

【三河一向一揆の発端】
三州一向宗乱記では、
本證寺での発端説を第一に挙げ、
次に本證寺での別説、
さらに上宮寺での説を
二通り挙げており、
諸説あると解説しているとのことです。

【大久保忠教の著書「三河物語」の記述】
永禄5年(1562年)に
本證寺に侵入した無法者を
西尾城主酒井正親が捕縛したため、
守護使不入の特権を侵害されたとして、
永禄6年(1563年)正月に
一揆が起こったという説。

<上宮寺発端説>
永禄6年(1563年)に
松平氏家臣の菅沼定顕に命じて
上宮寺の付近に砦を築かせ、
上宮寺から兵糧とする穀物を
奪ったことに端を発したという説。
しかし、菅沼定顕という
家臣の実在が不詳です。

不入特権を主張する三河三ヶ寺と、
教団の利権を解体して
三河国統一を目指す
徳川家康との対立が深まり、
守護使不入の特権が
侵害されたことに端を発して、
本證寺第十代・空誓(蓮如の孫)は、
上宮寺や勝鬘寺と共に檄を飛ばし、
本願寺門徒を招集して
菅沼氏の砦を襲撃しました。
真宗門徒の松平氏家臣や、
吉良氏などの有力豪族や
今川氏の残党なども加わり、
松平氏の本城である
岡崎城まで攻め上り、
松平(徳川)家康を窮地に陥れたのです。

本願寺教団とは仲が悪い
真宗高田派の有力寺院である
桑子明眼寺・菅生満性寺は
松平(徳川)家康につきました。




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【異論】
こうした一揆の描き方には
異論も出されています。
上野上村城の酒井忠尚の挙兵が
永禄6年6月(もしくはそれ以前)、
寺部城の小笠原広重の挙兵が
同年10月以前、
東条城の吉良義昭の挙兵は
同年10月下旬、
一向一揆の発生が
確認できるのは同年12月
(もしくはそれ以前)に一揆軍が
本多広孝の土井城が
攻撃した後のこととなります。
また、酒井・小笠原・吉良が
一向一揆やこれを支持した
松平(徳川)家康家臣と
連絡を取り合ったり、
共同作戦を取ったとする
形跡がない点、
一向一揆が岡崎城に迫った時期にも
自領に留まって岡崎へ
兵を進めなかった)に注目して、
酒井・吉良氏らの挙兵と
一向一揆はともに
松平(徳川)家康を
標的としたものでありますが、
あくまでも両者には
関連性は無かったとしています。

【一向一揆側についた家康家臣】
<本多正信>
戦後は出奔。
松永久秀に仕えるなど諸国を流浪し、
のち大久保忠世の執り成しで
帰参し重用され、
創業期の江戸幕府の重臣となります。

本多正重
兄の本多正信と共に参加。
のち赦免帰参し
戦功を挙げるも出奔し、
滝川一益前田利家
蒲生氏郷に仕えたのち帰参。

<渡辺守綱>
赦免帰参。
のち徳川義直の附家老。
徳川十六神将。

<蜂屋貞次>
永禄7年(1564年)に
降伏帰参。徳川十六神将。

<夏目吉信>
野羽城(六栗城との説も)陥落の際、
松平伊忠に捕縛され
松平伊忠の嘆願により赦免帰参。

<内藤清長>
蟄居処分。
子の家長は
父から離反し家康方として
勤めました。

<加藤教明>
戦後に出奔。
室町幕府将軍足利義昭
に仕えた後、
羽柴秀吉に仕えました。
子の嘉明は秀吉の下で出世しました。

<酒井忠尚>
一向一揆勃発より前に、
居城に立て籠もっていたとする
説もあります。
また、一揆方と
連携していた痕跡がありません。
一向一揆収束後も抵抗。

<石川康正>
父の石川清兼は
三河の本願寺の
信徒総代であったなど、
石川氏は一向宗徒と
深い関係にありました。
ただし清兼の妻(の母)は
家康母の妹であり、
康正、家成兄弟は
家康の従兄弟です。
この縁戚関係により
康正嫡男の石川数正
改宗して家康方、
弟の家成も家康方として参戦。

【一向一揆軍】
主な一向一揆軍に加担した武将
(上記以外)
吉良義昭
荒川義広
松平家次
松平信次
松平昌久
鳥居忠広
高木広正
榊原清政
大原惟宗
矢田作十郎
久世長宣
筧助太夫

【一揆の収束とその後】
永禄7年(1564年)1月15日の
馬頭原合戦の勝利で、
松平(徳川)家康は優位に立ちます。
和議に持ち込み、一揆の解体に成功します。
和議の仲介にも関わった
水野信元の書状には
永禄7年の春には
和議が整って国内が
平穏になったことが記されています。
その後、同年4月には
小笠原氏が家康に従い、
その後も抵抗を続けた吉良氏と
酒井忠尚は追放されています。




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一揆に与した武士の中には、
主君への忠誠心と
信仰心の板ばさみにあって
苦しんでいる者もいました。
その様な武士には一揆を離脱して
帰参することを望む者が
多くいたため、一揆は収束に向かいました。
またこの時、本宗寺は御坊を焼失し、
勝鬘寺は伽藍を焼失していました。
家康は和議を結ぶことで
一揆衆を完全に解体させた後、
本願寺の寺院に
他派・他宗への改宗を迫り、
これを拒んだ場合は破却しました。

【別視点】
一方、本願寺の寺院の弾圧については
次の見方もあるとのことです。
家臣の離反に悩まされた松平(徳川)家康は
自分に味方した家臣に対して
徳政令を出して本願寺の寺院など
敵対者からの債務の返済を免除しました。
ところが、一向一揆との和議後に
その扱いが問題になったのです。
和議の仲介にあたった
水野信元は徳政令の一部でも
認めて欲しいと本宗寺など
に申し入れたのですが、
本願寺の寺院は
徳政令は和議の条件に
反すると反発したのでした。
和議の条件と家臣との約束の間で
追い詰められた家康は
永禄7年12月もしくは
それ以降に本願寺の寺院の
弾圧に踏み切ったとされています。
本證寺とハス

【厳格な処分と寛大な処置】
一揆の終結より19年後の
天正11年(1583年)まで、
三河国は本願寺教団禁制の地となりました。
けれども、家康は本願寺教団に
厳格な処分を下す一方、
離反した家臣には寛大な処置で
臨む事で家中の結束を
高める事に成功したのでした。
ただし本多正信など、
一部の家臣は出奔となりました。

【総括】
この三河一向一揆は、
三河における分国支配の確立を
目指した家康に対して、
その動きを阻もうと試みた
一向宗勢力が、
一族や家臣団を巻き込んで
引き起こしたものであります。
その意味では、
松平宗家(徳川家)が
戦国大名として
領国の一円支配を達成する際に、
必ず乗り越えなければならない
一つの関門であったと考えられています。

本證寺~三河一向一揆の拠点で城郭寺院(城郭伽藍)で国の史跡です。

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伊奈忠次~松平信康の家臣で伊賀越え貢献で帰参、利根川東遷や荒川西遷、江戸幕府の財政基盤の確立に寄与。

水野信元~徳川家康のかなり頼れる伯父だが、最期は織田信長から殺害命令が下る。

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