室町幕府

三淵藤英とは 細川藤孝の異母兄・足利幕府の奉公衆の立場を貫く

三淵藤英



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三淵藤英

三淵藤英(みつぶち ふじひで)は、
戦国時代の武将、室町幕府末期の幕臣(奉公衆)。
細川藤孝(幽斎)の異母兄。
初名は藤之、のち藤英と称しました。
「藤」の字は将軍・足利義藤(後の義輝)より偏諱を賜ったものです。

【義昭救出】
永禄8年(1565年)に第13代将軍・足利義輝
永禄の変で三好三人衆に暗殺されると、
三淵藤英は弟の細川藤孝と共に足利義輝の弟で
一乗院門跡・覚慶(足利義昭)を、監禁されていた興福寺から
一色藤長和田惟政、仁木義政、米田求政らと共に救出し、
擁立して近江国矢島にて還俗させました。
そして越前国の朝倉義景を頼り、ついで織田信長を頼りました。

足利義昭が織田信長に擁立されて将軍となると
三淵藤英も奉公衆に名を連ねて、幕臣に返り咲きます。
そして、山城国で伏見城周辺の守備を命じられます。
その後も南山城の軍勢を率いて
和田惟政・伊丹親興と共に三好氏との戦いに参加する一方、
政治にも手腕を発揮して義昭の重臣となります。
永禄11年(1568年)に大和守に叙任します。

【弟・細川藤孝と袂を分かつ】
けれども、義昭と信長が対立した時に
異母弟である細川藤孝が
足利義昭を裏切り信長方に付き、これに激怒します。
三淵藤英は、あくまでも幕府の奉公衆である立場を貫くのでした。

細川藤孝の居城である勝竜寺城
襲撃する計画を立てるも失敗に終わりました。
元亀4年(1573年)7月3日に、
足利義昭が挙兵するとこれに従いました。
足利義昭自身は巨椋池の傍にある槇島城に籠城すると、
三淵藤英は二条城を任されて、奉公衆の伊勢貞興らの他、
日野輝資・高倉永相などの武家昵近衆などと共に籠城しました。
けれども、織田信長の大軍に囲まれると、
7月8日には三淵藤英以外の主要な人物は皆退去してしまい、
一人、三淵藤英とその軍勢だけが二条城に籠る事態となり、
ついに柴田勝家の説得を受け入れて7月10日に降伏したのでした。

【織田信長に降伏】
降伏後、三淵藤英は居城の伏見城に戻りましたが、
その目の前にある槇島城が織田軍の総攻撃により陥落し(槇島城の戦い)、
降伏した足利義昭は織田信長によって三好義継の河内国若江城に追放され、
室町幕府は事実上滅亡となりました。
これにより三淵藤英も信長に仕えることとなり、
早速、いまだに淀城に立て籠もっている
足利義昭派の岩成友通を攻めるように織田信長に言われ、
細川藤孝と共にこれを陥落させ8月2日岩成友通を討ち取りました。

【まさかの自害を命じられ】
これで三淵藤英は織田信長の配下になると
思われていたのですが、けれども翌年、織田信長によって
突如所領を没収されて明智光秀の元に預けられると、
嫡男の秋豪と共に坂本城で自害を命じられてしまいました。

なお、2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では
谷原章介(たにはらしょうすけ)さんが演じられることが決定されています。




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【三淵家のその後】
次男の光行は藤孝に預けられてそのまま細川氏に仕えました。
後に田辺城の戦いにおいて、
光行がよく叔父を助けたことを知った徳川家康
高く評価されて旗本として召しだされました。
一方、三淵藤英の弟である長岡義重は三淵の名跡を継ぎ、
細川氏に仕えたということです。

【奉公衆】

奉公衆(ほうこうしゅう)は、
室町幕府に整備された幕府官職の1つです。
将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から
番衆、番方などと呼ばれていました。
番衆(小番衆)とも称されていたそうです。
鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、
一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する御家人です。
奉行衆(ぶぎょうしゅう)が室町幕府の文官官僚であるとすれば、
奉公衆は武官官僚とも呼ぶべき存在でした。
後年、豊臣秀吉も奉公衆の制度を設けていました。

【奉公衆の編成】
8代将軍足利義政時代の奉公衆の編成を記す「御番帳」が現存しています。
それによりますと、奉公衆は五番編成で、
各番の兵力は50人から100人、
総勢で300人から400人ほどの人数で、
各番が抱える若党や中間なども含めると、
平均して5000人から10000人規模の
軍事力であったと考えられています。
なお、鎌倉公方古河公方の下にも
奉公衆が編成されていたといわれています。

【構成や出身地】
成員は有力御家人や足利氏の一門、
有力守護大名や地方の国人などから選ばれたとのことです。
根本被官・家僚と称される足利将軍家の古くからの家臣、
地方の有力国人領主の3つの層に分けられるとされていました。
また地域的には近江国・美濃国・尾張国・三河国・摂津国や
北陸・山陽・山陰の各地方の出身が多く、
意外にも摂津以外の畿内出身者は少ないなどの特徴があったそうです。
所属する番は世襲で強い連帯意識を持っていたとされ、
応仁の乱などでは共同して行動していたそうです。
なお、足利氏にとって重要な拠点のひとつとされていた
三河の奉公衆は40人を超えていたといい、国別で最多だったそうです。

【奉公衆のお仕事】
奉公衆は平時には御所内に設置された番内などに出仕し、
有事には将軍の軍事力として機能していました。
地方の御料所(将軍直轄領)の管理を任されており、
所領地の守護不入や段銭(田畑に賦課される税)の徴収や
京済(守護を介さない京都への直接納入)などの特権を与えられていたそうです。
奉公衆は守護から自立した存在であったために、
守護大名の領国形成の障害になる存在でしたが、
在国の奉公衆の中には現地の守護とも従属関係を有して
家中の親幕府派として行動する事例もあったとのことです。




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【歴代将軍と奉公衆】
【3代将軍・足利義満
室町時代の初期には南朝や諸勢力の活動をはじめ、
幕府内部でも有力守護の政争が絶えず、
天授5年/康暦元年(1379年)には
康暦の政変で管領細川頼之が失脚しています。
そこで、3代将軍足利義満は守護勢力に対抗するため、
御馬廻と呼ばれた親衛隊整備をはじめたとのことです。

【4代~9代将軍】
4代将軍足利義持の頃にはまだ、
畠山氏や大内氏の軍事力などに依存しており、
6代将軍足利義教は義満の政策を踏襲してさらに強権を目指しました。
9代将軍足利義尚は、
文官である奉行衆と共に奉公衆を制度として確立していきました。
文明17年(1485年4月に発生した
奉行衆(ぶぎょうしゅう)と奉公衆の抗争に際して
義尚は一貫して奉公衆を支持したことで
彼らの信望を集めていきました。
長禄元年(1487年)に、
近江の六角高頼討伐(長享・延徳の乱)を行った際には、
奉公衆が将軍の親衛隊として活動していたそうです。
大名と将軍の取次役の申次衆から取り立てられる例もあり、
政所執事・伊勢氏の一族であった伊勢盛時(北条早雲)も、
申次衆から義尚の奉公衆に加えられたとされているそうです。
また、この時期の奉公衆の強化の背景として、
応仁の乱以降の混乱で所領支配が困難になった奉公衆の中には
帰国して戻ってこなかった者が多く、
この欠員を補うために新規に
奉公衆を取り立てていかざるを得なかった事情もあったようです。

【10代~12代将軍・足利義晴
10代将軍足利義材(義稙)は、
延徳3年(1491年)に奉公衆を率いて再度の六角氏討伐を行い、
明応2年(1493年)には、
河内の畠山義豊を討伐するために出陣するも、
出陣中に管領の細川政元が将軍廃立を行い(明応の政変)、
奉公衆の制度が事実上崩壊し、奉公衆は形骸化していったのでした。
けれどし、11代将軍になった足利義高(義澄)も、
亡命して再起を図った前将軍・足利義材(義稙)も、
自派の奉公衆の立て直しに努めており、
義澄を継いだ12代将軍足利義晴(足利義輝の父)の時代には、
領国に戻ったり没落した守護大名の庶流家に代わって
大舘氏や佐々木流細川氏(大原氏の分家)が
番頭になった形跡があったそうです。

【13代将軍・足利義輝~15代将軍・足利義昭】
13代将軍足利義輝が暗殺された永禄の政変後、
阿波から14代将軍になった足利義栄には、
10代将軍だった足利義稙以来の奉公衆に加えて、
13代将軍の足利義輝の奉公衆だった者が加わる一方、
越前に逃れた足利義昭の将軍擁立を図る奉公衆もいました。
足利義昭は織田信長の支援で15代将軍になりましたが、
足利義栄に味方した奉公衆の多くは追放されたために、
安見宗房のように新たに奉公衆に取り立てたり、
奉公衆とは別に創設されていた足軽衆の整備が図られたようです。
なお、明智光秀も元は足軽衆の出身であったとする見解もあります。




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天正元年(1573年)、
足利義昭は織田信長によって京都から追放されてしまいますが、
その際、足利義昭と行動を共にした奉公衆は
全体の2割ほどであったと伝えられ、
多くは信長に従ったとされています。
そうした背景の一つとして、
足利義昭期の奉公衆に対する待遇の悪化と、
織田信長が彼らの保護策を義昭に求めたことも
対立の一因となったのではないかと考えられているようです。
足利義昭が京都から追放された後も将軍職は解任されておらず、
身分の称号としては存在し続けていたものの、
制度としての奉公衆は完全に崩壊し、
その称号自体も足利義昭が豊臣政権に従って
将軍職を正式に辞任したことで廃止されることになりました。

けれども、番の結束力や固さは幕府終末期まで続き、
その後も明智光秀の中心的な家臣として、
石谷氏(斎藤利三)、肥田氏、進士氏など
旧奉公衆が参加していました。

【構成員】
【肥田氏】
肥田氏(ひだし)は、日本の氏族。
土岐氏庶流で代々武家として
鎌倉幕府、室町幕府を支えた後、
織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、北条氏康
徳川家康の家臣として仕えました。

【明智氏】
明智氏(あけちし)は、清和源氏土岐氏の支流氏族。
発祥地は現在の恵那市明智町でしたが、
土岐宗家 5代頼遠の岐阜長森移転に伴い、
明智宗家は明智庄(可児市)へ移転しています。

【大草氏】
発祥は三河国。

【大舘氏】
大舘氏(おおだちし)は、日本の姓氏のひとつ。
大館氏とも表記し、
「おおだて」と読む場合もあるとのことです。
新田政義の次男大舘家氏を祖とし、
本姓は河内源氏(清和源氏義家流)。

【土佐田村氏】
土佐田村氏(とさたむらし)は、
土佐国田村庄の豪族で戦国大名長宗我部氏の家臣。

【三上氏】
因幡三上氏が奉公衆を務めていたとされています。
所領は因幡国巨濃郡岩井庄であったといわれています。
一説によりますと、
三上氏は但馬山名氏から派遣された代官であり、
但馬国との国境地域の経営を任されていたと
いわれているそうです。

【進士氏】
進士氏(しんじし、しんしし、にいがたし)は、
日本の氏族のひとつ。
進士 (日本)とは元来律令制の大学寮学生で、
式部省が課した試験(考試)に合格したものをいい、
のち称号となり、さらに氏となったとのことです。

【大原氏】
大原氏(おおはらし)は、
敏達天皇後裔である古代氏族と、
他に宇多源氏佐々木氏の支流の大原氏があるそうです。
<武家大原氏>
大原氏(おおはらし)は、日本の武家。
宇多源氏の一派近江源氏佐々木氏流。
佐々木信綱の庶長子大原重綱を祖とします。
近江国坂田郡大原庄より発祥とのことです。

【垪和氏】
垪和氏(はがし)は、
美作国久米北条郡垪和(現・岡山県久米郡)から
発祥した武家の氏族。
足利氏は建久6年(1195年)に垪和西郷地頭職を譲渡するなど、
鎌倉時代には垪和東郷・垪和西郷・稲岡南郷を所領として管理。
垪和氏は垪和荘の現地における荘務代行者として
鎌倉期以来、足利氏に仕えたと見られています。

【波々伯部氏】
「ははかべ」、または「ほうかべ」
中世丹波国の土豪及び戦国期の武将。
祇園社領4ヵ保の一つであった
丹波波々伯部保(現,兵庫県多紀郡篠山町)
の開発領主と伝わっているそうです。




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【葛山氏】
葛山氏(かつらやまし)は、
駿河国駿東郡葛山(現在の静岡県裾野市)を本拠とした武士です。
鎌倉時代には御家人として登場し
鎌倉幕府滅亡時に駿河葛山氏の中に、
足利氏に帰参した者も存在していました。
室町時代中期、駿河葛山氏の支配地域が
鎌倉府の支配地域のすぐ外側に位置したことから、
室町幕府と鎌倉府の対立が深刻化すると
注目されることとなりました。
鎌倉府の領域の外側に
親幕府勢力の形成を急いでいた幕府が
混乱状態にあった武田氏や今川氏に代わって
葛山氏の存在に注目したとの見解があるようです。
これによって葛山氏は
室町幕府の奉公衆に加えらえています。
(文安期の番帳には在国衆・四番と記載されている)

【竹原小早川氏】
相模国を本拠地とする桓武平氏土肥氏の分枝で、
小早川茂平の四男・政景が、
都宇・竹原荘、沼田荘梨子羽郷の一部を分与され、
木村城を本拠としたのが始まりとされています。

【近藤氏】
近藤氏(こんどうし)は、
藤原北家藤原秀郷あるいは藤原利仁の子孫と称する一族。
由来は近江国(滋賀県)の藤原姓とされています。

【東常縁】
東 常縁(とうつねより)は、
室町時代中期から戦国時代初期の武将、歌人。
美濃篠脇城主。
東野州(とうやしゅう)と称されていました。

【毛利貞元】
毛利 貞元(もうり さだもと)は
因幡国の国人で同国私部城城主。
貞元の一族、因幡毛利氏は永享年間より
幕府奉公衆を代々務めた家柄で貞元自身も
奉公衆を務めていました。
長享元年(1487年)12月30日、
赤松氏支援の下、山名政実を擁立して再度、
山名氏に対して反乱を起こします。
延徳元年(1489年)9月5日の徳丸河原合戦で敗北、
同年11月には山名豊時の軍勢に攻め込まれ
私部城において自刃となりました。

【矢部定利】
矢部 定利(やべさだとし)因幡国の国人で同国若桜鬼ヶ城主。
通称・八郎。
若桜鬼ヶ城を本拠地とする矢部氏は
南因幡では因幡毛利氏などと並んで
有数の国人領主であり、
毛利氏と同じく幕府奉公衆を務めました。
延徳元年(1489年)9月5日の徳丸河原合戦で敗れると
同年11月には私部城で毛利貞元が自刃、
同じく自刃しようとした山名政実を諫めて
政実と共に若桜の矢部舘へ逃れますが、
程なくして山名豊時の軍勢に攻め込まれ
政実、矢部氏一族らと共に自刃しました。

【中条詮秀】
中条詮秀(ちゅうじょう あきひで)は室町時代前期の武将。
室町幕府奉公衆。
三河国加茂郡高橋荘(愛知県豊田市)地頭。
衣城主。左衛門少尉、伊豆守。

【遠山直景】
遠山 直景(とおやまなおかげ)は、
戦国時代の武将で後北条氏の家臣。
藤原利仁流加藤氏である遠山氏の本来の自領は、
美濃国明知城であったそうです。
はじめ室町幕府に出仕し、
美濃および美濃土岐氏に関わり深い
10代将軍となる足利義稙の家臣であったそうです。
(奉公衆であったとも伝えられています)
その頃、同じく幕府に申次衆として出仕していた
伊勢新九郎(後の北条早雲)と親密になったと考えられており、
遠山氏と同じく関東に下向して重用されたそうです。
松田氏や伊勢氏ら創業時からの後北条氏家臣らは、
この時期の関係者・仲間と見なされているとの事です。

【三淵藤英】
前述記載の通り。




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真木島昭光
真木島 昭光(まきしまあきみつ)は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。
足利将軍家、豊臣氏の家臣。
一色氏の一族である一色信濃守輝元(輝光)の子として誕生します。
輝元が山城国の槇島城を与えられて
槇島(真木島)を姓としました。
幕府に奉公衆の一員として仕えました。
織田信長が死去し
豊臣秀吉が台頭した後も足利義昭の近臣として仕え、
足利義昭が死去すると、
西笑承兌と共に秀吉の命を受けて葬儀を担当しました。

【川勝継氏】
川勝 継氏(かわかつ つぐうじ)は、
戦国時代から安土桃山時代の丹波の武将。
本姓は秦氏で、秦河勝の後裔とされています。
享禄4年(1531年)、
川勝広継の嫡男として丹波に生まれました。
丹波国桑田郡・船井郡内を知行し、
桑田郡今宮に住んで、
室町幕府13代将軍・足利義輝に奉公衆として仕えました。
その後、
15代将軍・足利義昭と織田信長が対立すると信長に従いました。
天正元年(1573年)、
信長の命を受けた細川藤孝に従って、
山城国の淀城攻め(第二次淀古城の戦い)に参加しています。
天正4年(1576年)からは、
明智光秀の丹波攻略には与力となって協力し、
織田信長により戦功を賞されています。
天正10年(1582年)の本能寺の変以降は豊臣秀吉に仕え、
同年9月9日には嫡男・秀氏が
豊臣秀吉より丹波国何鹿郡内で3535石を与えられています。
慶長3年(1598年)、初めて徳川家康に謁見し、
豊臣秀吉死後は家康に仕えました。
慶長7年(1602年)3月21日、72歳で死去しました。

足利義昭・最後の室町幕府将軍、懲りずに粘って兄の分まで生きる!歴代足利将軍の中で最も長生き!

槇島城・足利義昭が籠城し、室町幕府の実質的な終焉の地~忘却の城跡~巨船出現す!!

細川藤孝(細川幽斎)~武道・文芸・芸術・コミュ能力と多才多芸な武将~巧みに世を渡り、運も引き寄せる

興聖寺と足利庭園~朽木氏岩神館跡~足利12代将軍義晴・13代将軍義輝の安全地帯

伊勢貞興~名門・伊勢宗家の若き武将で明智家重臣~二条城で織田信忠を攻める

細川忠興~正室は明智光秀の娘・ガラシャ~文武両道のハイスペック武将で何事にも極め人。

柴田勝家~鬼柴田~武骨で勇猛果敢、幾多の戦を潜り抜け、潔く北ノ庄城にて死す

細川晴元~名門・細川吉兆家の血筋ゆえに覇権争いの波乱万丈の生涯となる

明智光秀について~駆け足で手短にわかる明智光秀の生涯~

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