室町幕府

槇島城・足利義昭が籠城し、室町幕府の実質的な終焉の地~忘却の城跡~巨船出現す!!

槇島城(現:槇島公園)



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槇島城

槇島城(まきしまじょう)は
京都府宇治市槇島町にかつて存在した日本の城。
槙島城」とも表記されます。

【所在地】
(1)薗場児童遊園
京都府宇治市槇島町薗場29−92
(2)槇島公園
京都市宇治市槇島町北内

【遺構】
無し。
石碑と記念碑がそれぞれあるのみです。

【交通アクセス】
最寄り駅⇒JR奈良線「宇治」駅
最寄りバス停⇒京都京阪バス111系統など
「槙島」バス停

(1)薗場児童遊園(石碑)
槇島城(児童公園)

<地図>
道路が狭く、住宅街のため、
曲がりくねっています。
訪れた際、
小学2~3年生の子供が数人遊んでいましたが、
この小さな公園に建っている石碑が
「槇島城址」であることはまだ知らなかった模様です。
「歴史が動いたお城なんだよ」と話すと
「へぇ~そうなんだ」と言っていました。

<槇島城跡復元案の地図>
槇島城跡復元案

(2)槇島公園
記念碑が建てられています。
駐車場はなく、道路に停車する感じです。
訪れた時は、ご近所のゲートボール大会で
結構賑わっていました。
お邪魔になると思い、
記念碑の撮影は諦めました。

<地図>




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【概要】
かつて南山城宇治近縁には巨椋池という
巨大な池沼が存在し、
槇島はそこに浮かぶ島でした。
この地には真木島氏という豪族が根をはり、
(槇島氏、槇嶋氏、真木嶋氏、牧島氏など様々な表記あり)
城郭を築いていました。
それが槇島城です。

元亀4年(1573年)7月3日、
第15代将軍である足利義昭は、
織田信長に対して兵を挙げ、
幕府奉公衆であった真木島昭光を頼り、
槇島城へ籠城しました。
織田信長は即座に入洛、
城を包囲して足利義昭を屈服させました(槇島城の戦い)。
その後、足利義昭は河内若江城へ退去させられ、
足利幕府は事実上ここに滅亡しました。
足利義昭退去後には、
塙直政、井戸良弘らが城将となりましたが、
伏見城築城後は
その戦略的価値を低下させ廃城となりました。

槇島城は室町時代から安土桃山時代にかけて
足利将軍家の奉公衆である真木島氏が
本拠地としていた城でした。
この地は交通の要衝であり、
周囲を川に囲まれており
天然の要塞でもありました。
槇島城の戦いの後、
この槇島城は、織田信長、
豊臣秀吉によって管理されましたが、
伏見城が築城されたこともあり、
文禄3年(1594年)に
役目を終えて廃城となりました。

槇島城があった辺りは、
豊臣秀吉による
堤の築造や宇治川の改修などにより
すっかり景観が変わってしまいました。
槇島城の位置はもちろんのこと、
その存在自体も忘れ去られようとしています。

槇島城の規模は大きく、その全体像は
今ではよくわかっていません。
そこで、槇島城があったと確証できる
薗場児童遊園に石碑と槇島城の説明看板を、
また薗場児童遊園より少し北に位置する
槇島公園に、
槇島城記念碑と説明パネルが
建てられました。

【槇島城の戦い】

槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい)は、
元亀4年(1573年)
2月から7月にかけて行なわれた
織田信長と室町幕府第15代将軍足利義昭の戦いです。
足利義昭が敗れて京都から追放され、
室町幕府は実質的に滅亡しました。
この戦の後の7月28日、
元亀から天正への改元が行なわれました。

【足利義昭と織田信長の対立】
永禄11年(1568年)9月、
織田信長に擁されて上洛し、
室町幕府第15代将軍に就任した足利義昭は、
当初は信長と協調関係にありました。
しかし、永禄12年(1569年)1月に
織田信長が出した殿中御掟等に見られるように、
将軍権力の抑制を図る織田信長の一連の動き
により次第に両者は対立するようになっていきます。
元亀3年(1572年)9月、
織田信長から足利義昭に
更に17条の意見書が突きつけられ、
両者の対立は決定的なものに発展します。
信長公記」によりますと、
この時期には既に足利義昭が織田信長に対し、
反抗する意思を持っていたことは、
明白になっていたと見られています。




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【信長包囲網の形成】
足利義昭は、浅井長政朝倉義景石山本願寺などを
扇動して織田信長を攻撃し(信長包囲網)、
元亀3年(1572年)10月、
これに武田信玄が加わりましたが、
武田信玄の体調が悪化し、
元亀4年(1573年)1月頃に
武田軍の攻勢が停止しています。

【足利義昭の篭城】
足利義昭自身も二条城の周囲に新たな堀を巡らし、
弾薬を運び込むなど準備をしていました。
この頃、伏見城の三淵藤英が、
織田方についた異母弟である
細川藤孝勝竜寺城
襲撃しようとしたとされています。
また、淀城には足利義昭の重臣となった
岩成友通が入っており、
近江の今堅田・石山には山岡光浄院、
磯谷久次、渡辺昌(宮内少輔)らを入れ、
砦を構築したと見られています。

<妙教寺にある淀城(淀古城)の石碑>
淀古城の石碑

<勝竜寺城>
勝竜寺・外観

織田信長は足利義昭に、
朝山日乗・島田秀満・村井貞勝らを使者として送り、
娘を人質にすることを条件に和睦を図りましたが、
足利義昭はこれを退けました。
織田信長側は
「もし和解せずば兵力を尽くして来たり、
都を焼き、火と血に委ねん」
として、今堅田・石山砦を攻撃することを決めました。
当時、京にいてこの様子を目撃したルイス・フロイス
以下の様に記したとされています。

「彼ら(京の市民)は、
彼(信長)が公方様(足利義昭)を討伐するために
軍勢を召集していると聞くや否や、
急遽、わずかの地所を隔てていた上京、
ならびに下京から立ち去った。
一里にわたる市街の混乱や動揺する情景を
眺めるのは恐ろしいことであった。
すなわち、日夜見るものすべては
混乱以外の何ものでもなく、
人々は家財を引き、
婦女子や老人は都に近接した村落に逃れ、
あるいは子供たちの手を引き、
腕に抱いて、
どこへ行くべきか途方に暮れ、
泣きながら市中を彷徨するのであった」

<つぶやき>
一般人にはたまったものではありませんね。
日常があっという間に
奪われてしまうのですから。
心身ともにタフでなければ、
生きていくことなどできません・・・。




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【二条城の戦い】
ついに足利義昭自身が
松永久秀三好義継、三好三人衆らと結んで挙兵し、
織田信長と戦う姿勢をはっきりと見せました。
これを受けて、
京には次のような落首が立てられたそうです。

「かぞいろと やしたひ立てし 甲斐もなく いたくも花を 雨のうつ音」
(信長が義昭をまるで父母を扱うように養ってきた甲斐もなく、
雨がはげしく花(=花の御所。将軍を暗示)を打つ音がすることだ)

3月11日には、高山友照に斬られた
高槻城主である田惟長が
三淵藤英の伏見城に逃げ込む
事件が起きていました。
3月25日、
織田信長は足利義昭の兵を討つため
岐阜を出陣しました。

【京に来れないんじゃね?】
其の頃京では、
「武田信玄は3~4万人を率いて信長に近づいている」
「朝倉義景は”もし信長が京にくれば
2万人を率いてその背後を襲う”と公言している」
「三好軍と石山本願寺勢の
15000人が京に向かっている」
赤井直正が義昭方として京に出陣する」
などの噂が流れ立ち、
京の人々は織田信長が
京への進軍が可能であるとは
思っていなかったとも見られています。

【本当にやって来る!】
3月27日、京に
「信長はすでに近江に来ており、
近いうちに京にやってくる」
との報が伝わりました。
京の町は瞬く間に混乱に陥ったそうです。
足利義昭はすぐに奉公衆など5000人
(うち鉄砲兵1000人)、
摂津衆、丹波衆、宇津頼重、内藤如安等、
1700~3000人を
二条城に引き入れたとあります。

【どちらが征夷大将軍?】
3月29日、現代の時刻換算で午前9~10時頃、
織田信長は自ら10~12騎ほどの
供を連れて先陣を切った上で、
5000~6000騎を率いて
京の市外4分の1里ほどの地点に現れたそうです。
正午頃、織田信長と明智光秀の調略を受けた
荒木村重・細川藤孝が到着します。
両名は逢坂で織田信長を出迎えたとあります。

こうして織田信長の軍勢に約10000人
(荒木勢4000~5000、
細川勢、および後続の織田勢)が加わり、
織田軍は合計15000~16000人ほどの兵力と
なりました。
織田信長勢は東山・知恩院に布陣し、
配下の諸隊は白川・粟田口・祇園・清水・六波羅・竹田
などに布陣したとあります。
織田信長は到着後、
内裏に黄金5枚を贈り
「安心されたし」と伝言したともあります。

【征夷大将軍は自分だ!】
敵対はしたものの、
足利義昭は名ばかり名目上とはいえ征夷大将軍であるため、
世評を考慮した織田信長は、
明智光秀と細川藤孝を使者として
足利義昭のもとに送ります。
条件としては、
自らの剃髪および人質を差し出すこと。
異常を和睦の条件として求めました。
けれども、足利義昭はこれを拒絶。
30日には織田信長方の京都所司代であった
村井貞勝の屋敷を包囲して
焼き払ってしまいました。

【上京焼き討ち】
織田信長は和睦交渉を続けつつも、
上京と下京への焼き討ちを命じました。
これに驚愕した京の町衆は焼き討ち中止を懇願し、
上京は銀1500枚、
下京は銀800枚を織田信長に差し出したそうです。
織田信長は下京の市民を気遣い、
銀を受け取らずに焼き討ちは中止しました。
けれども、幕臣や幕府を支持する
商人などが多く住居する
上京は許すことはありませんでした。

4月2日、
織田信長は、
柴田勝家佐久間信盛蜂屋頼隆
中川重政・明智光秀・荒木村重・細川藤孝ら
7人に7000~8000の軍勢を預け、
市外に放火させました。
翌4日には二条城を包囲し、上京に放火しました。

【恐怖!和睦します・・・】
上京の焼き討ちの光景を見た足利義昭側では
「同所(上京)で聞いた恐怖なり
不断の喚声に圧倒された彼らの驚愕は非常なもの」
となり、織田信長と和平交渉が開始されたそうです。
織田信長はさらに二条城の周囲に4つの砦を築きました。
4月7日、正親町天皇から和睦の勅命が出されると、
織田信長と足利義昭はこれを受け入れて和睦しました。




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【再挙兵までの出来事】
織田信長はそのまま岐阜城には帰らずに、
近江・百済寺付近へと向かい、
近辺の六角義賢が立てこもっていた
鯰江城を攻撃しました。
織田信長は、
佐久間信盛・蒲生賢秀
丹羽長秀・柴田勝家に命じて
六角氏を城に追い詰めると、
周囲に砦を築いて包囲しました。
このとき
「百済寺が鯰江城を支援している」
という情報を聞いた織田信長は、
4月11日に百済寺に放火して全焼させると、
その日のうちに帰還して岐阜城に到着します。
翌日の12日、武田信玄が信濃駒場で病死。
武田信玄の死は伏せられていましたが、
武田軍は本国の甲斐に退却帰還しています。

【やっぱり和睦なんていやだ!】
4月13日、足利義昭は
二条城は安全でないと考え、
自分は内藤貞勝の八木城に移り、
内藤如安を二条城に入れようと画策しました。
内藤如安は「軽々しく動くことは怯懦」と、
動くことは足利義昭の評判を傷つけると意見しました。
一方で再び織田信長を敵とするべきではないとも
進言したとのことです。
けれども意固地になった足利義昭は、
この意見を受け入れず、
真木島昭光の槇島城に移ろうとしたそうです。
けれども内藤如安が説得して
この時は取りやめになったとのことです。

【お馴染みの?巨船出現す】
5月22日、織田信長は
「義昭が再び挙兵した際には瀬田のあたりで道を塞ぐ」
と予想しました。
そこで、大軍を湖上輸送するため、
佐和山で大船の建造を開始しました。
全長30間×幅7間(約54m×約12m)、
艪が100挺、
船首と船尾に櫓(やぐら)を備えた頑丈な船、
という日本史上にも過去に例を見ないほどの
巨船であったそうです。
(某大航海ゲームではお馴染みですね)
織田信長が大工の岡部又右衛門を
棟梁に任命し、
織田信長自身も佐和山に滞在したそうです。

<琵琶湖・湖岸>
琵琶湖・湖岸

【槇島城の戦い】
7月3日、
足利義昭は勅命を破棄して再度挙兵しました。
二条城に三淵藤英(細川藤孝の異母兄)、
伊勢貞興らの他日野輝資、
高倉永相などの武家昵近衆を入れて守らせ、
義昭自身は槇島城に立て籠もりました。
一方、織田信長は5日に大船が完成した機会を捉え、
翌6日に大船で琵琶湖を渡って坂本城に入り、

<琵琶湖>
琵琶湖近景

7日には京・妙覚寺に布陣して二条城を包囲します。
翌8日には織田信長の勢威を恐れて
三淵藤英を除く武将や公家衆は皆、
逃げて退城してしまいました。
三淵藤英のみが残って立て籠もっていました。
10日になってようやく、
三淵藤英は柴田勝家の説得を受け入れ、
二条城を開城しました。

7月16日、織田信長は続いて槙島城へ進軍します。
五ケ庄の柳山に布陣しました。
眼前を流れる宇治川の水量はかなり多かったそうですが、
織田信長は
「引き伸ばすようなら自分が先陣を切る」
と言い、
宇治川の戦いの先例にならって
二手に分かれて河を渡ることと決めたとあります。

7月18日午前10時頃、
織田軍は作戦通りに川を渡ると、
しばし休息した後、槙島城のある南向きに
隊列を整えたとのことです。
槇島城から足軽が出てきたそうですが、
佐久間信盛・蜂屋頼隆らがこれを50ほど討ち取り、
織田軍はやがて城を包囲したそうです。
城は壁を破られて放火され、
足利義昭は嫡男の義尋を人質として
差し出して降伏しました。

【織田家】
織田信長 
細川藤孝   
荒木村重    
VS
【幕府軍】
足利義昭
奉公衆
真木島昭光
伊勢貞興
内藤如安
三淵藤英
岩成友通




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【足利義昭の追放と実質的な室町幕府滅亡】
勝者となった織田信長は、
敗者である足利義昭を殺害したり、
将軍であるその地位を剥奪したりはしませんでした。
あくまで説としてですが、
織田信長は「将軍殺し」の汚名を着ることを嫌ったから、
という理由が挙げられるそうです。

織田信長は「怨みに恩で報いる」
と言ったとされていますが、
20日、羽柴秀吉に命じて、足利義昭を、
妹婿である三好義継の居城である
河内若江城に送り届けさせています。
現在の歴史学では、
この際に室町幕府は実質的に滅亡した、
と解釈されていることが多いです。
けれども形式的には、足利義昭はまだ、
征夷大将軍の地位にあり、
従三位の位階すらも保ったままでした。

鞆幕府
11月16日、
若江城の戦いで
三好義継が織田信長に討たれた後、
足利義昭は僅かな近臣と共に堺、
次いで紀伊へと流浪・亡命し、
後に毛利輝元を頼って、
備後鞆(鞆幕府)に
落ち延びていくことになるのでした。

【信長包囲網の瓦解】
この後、織田信長は8月に
淀城で三好三人衆の1人である
岩成友通を討ち取り、
越前に出陣して朝倉義景を討ち取り、
直後に北近江へ向かい
浅井長政も自害させました。
武田信玄は死亡し武田軍は撤退しました。
三好三人衆の残る2人、
三好長逸三好政康は行方不明となりました。
松永久秀、本願寺の総帥たる顕如は
織田信長と和睦し、
ここに信長包囲網は瓦解しました。

足利義昭・最後の室町幕府将軍、懲りずに粘って兄の分まで生きる!歴代足利将軍の中で最も長生き!

松永久秀~三好長慶に忠義を誓った人物~官僚であり武将として時代の中心で活躍するも信貴山城にて死す。

筒井順慶・松永久秀のライバルで、与力であり友人でもあった明智光秀に味方しなかった人物

細川藤孝(細川幽斎)~武道・文芸・芸術・コミュ能力と多才多芸な武将~巧みに世を渡り、運も引き寄せる

内藤如安~明智光秀の丹波攻め~ナゾに包まれた八木城と丹波内藤氏の栄枯盛衰

黒井城~丹波三大山城~250年間続いた中世から戦国時代の貴重な城郭

赤井直正~丹波の赤鬼・悪右衛門~光秀を追い詰めた武将、黒井城攻防と丹波平定

興禅寺~黒井城の下館~明智光秀の重臣・斎藤利三が治めた春日局の生誕地

波多野三兄弟と八上城~七度の攻防戦があった城~光秀によって陥落、波多野氏とは?

伊勢貞興~名門・伊勢宗家の若き武将で明智家重臣~二条城で織田信忠を攻める

三淵藤英~細川藤孝の異母兄・足利幕府の奉公衆の立場を貫く~

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