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赤井直正~丹波の赤鬼・悪右衛門~光秀を追い詰めた武将、黒井城攻防と丹波平定 

黒井城・遠景



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赤井直正

赤井 直正(あかいなおまさ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将でした。
通称は悪右衛門でした。
赤井時家の次男として産まれ、
子供にに直義がいます。
赤井氏の実質的な指導者として、
氷上郡を中心に丹波国で勢力を誇った豪族です。
甲陽軍鑑」によりますと、
「名高キ武士」として
徳川家康長宗我部元親松永久秀らと共に、
しかも筆頭として名が挙がっているとのことです。

【生誕】
享禄2年(1529年)
【死没】
天正6年3月9日(1578年4月8日)
【別名】
仮名:悪右衛門
渾名:丹波の赤鬼
【父】赤井時家
【墓所】
高野山奥の院(和歌山県伊都郡高野町)
【位牌】 
興禅寺(近衛稙家娘・渓江院共に)
(丹波市春日町黒井)

黒井城の駐車場にあったイケメン赤井直正
赤井直正

【赤井氏のルーツ】
赤井氏は、
清和源氏頼季流井上氏(発祥は信濃国)の
井上家光(頼季の子源満実の3男)が、
保元3年(1158年)に、
丹波芦田庄(現在の兵庫県氷上郡青垣町芦田)へ
配流されたことに始まる
芦田氏の流れとのことです。

また、他の説には、元から
氷上郡にいた在地の土豪とする
説もあるそうです。

九郎為家が赤井に住み、
建保3年(1215年)に、
父である八郎家範から
氷上、天田、何鹿の3郡を
与えられたことから、
赤井氏の本格的な活動が
始まったとされています。
守護である細川氏、
守護代である内藤氏の影響力が衰えた後は、
第二勢力である波多野氏を上回り、
丹波最大の領土を有する勢力となりました。
なお、戦国期の波多野氏を「国人」、
赤井氏を「大名」と、
波多野氏を赤井氏に次ぐ
第二の勢力になったとのことです。




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【荻野氏として】
享禄2年(1529年)、
赤井時家(あかいときいえ)の
次男として誕生しました。

赤井氏は直正の兄である
赤井家清(あかいいえきよ)の時に
氷上郡のほぼ全域を支配する勢力に
成長したと言われております。
次男であった直正は赤井氏の同族で、
黒井城(兵庫県丹波市春日町)に拠る
荻野氏の養子に入って荻野姓を称しました。

【黒井城乗っ取る】
天文23年(1554年)、
外叔父である荻野秋清(あぎのあききよ)を
殺害して黒井城を奪っており、
通称の「悪右衛門」はこの事件からついた
ともいわれていますが、
諸説あるそうです。

【正室・継室】
正室として波多野元秀の娘を
娶りましたが死別しました。
その後、近衛稙家の娘で、
前関白である近衛前久の妹を継室として娶り、
彼女との間に一女をもうけたとあります。
なお、所説として、
足利義尋(あしかがぎじん)の妻・古市氏は、
赤井直正の妻で、赤井直正死後に
足利義尋夫人になったとしています、
この真相は不明です。
なお、足利義尋は、
第15代将軍である足利義昭の嫡子です。

【兄の死去で甥を後見】
弘治3年(1557年)、
兄である赤井家清が、
三好氏家臣の松永長頼(のちの内藤宗勝)との戦い
による傷がもとで死去しました。
このため、赤井直正は黒井城に居住したまま、
幼少の甥で家清の嫡嗣である
赤井忠家を後見して赤井一族を率いたとされます。
なお、直政は、この経緯から
一般的に赤井姓の「赤井直正」と呼ばれています。

【兄の仇を討ち果たす】
永禄元年(1558年)には、
天田郡の荒木尚雅を滅ぼすなど勢力拡大に努め、
永禄8年(1565年)には
横山城の塩見頼勝を攻め、
この戦いの救援に来た兄の仇である、
松永長頼(内藤宗勝)を
和久郷の夜襲にて討ち取ったとされます。

【織田氏との戦い】
永禄13年(1570年)3月、
本家の赤井忠家と共に織田信長に降り、
氷上郡、天田郡、何鹿郡の
丹波奥三郡の所領安堵を受けています。
ところが山名祐豊らが、
氷上郡にあった山垣城(青垣町)の
足立氏を攻めました。
黒井城の赤井直正と赤井忠家は即応し、
山垣城に救援に向かい山名祐豊軍を撃退します。
更に、その後勢いにのって、
但馬国の竹田城を攻城し手中に収めると、
山名祐豊の本拠地である此隅山城に迫りました。

その為、山名祐豊は
織田信長に援軍を要請します。




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元亀2年(1571年)には
織田信長の援軍を得た
山名祐豊の軍勢が丹波国氷上郡に攻め入り、
山名氏を打ち破ります。
そしてこのことがやがて、
織田信長の丹波侵攻を招くことに
なったともいわれています。

やがて赤井氏は、織田信長から離反して、
丹波国の国人衆の旗頭波多野氏とともに
激しく抵抗していくのでした。

元亀4年(1573年)1月には、
赤井直正が義昭方として
京に出陣するとの噂が流れたそうです。
同年7月には実際に
足利義昭から助力を求められ、
天正2年(1574年)7月には、
武田家からの書状も届き、
羽柴秀吉から
松尾社領の横領を咎められるなど、
反織田勢力側に
取り込まれていきました。
なお、天正元年から天正3年6月までの間、
京を出奔した義兄の近衛前久を
受け入れていたそうです。

【第一次黒井城の戦い】
天正3年(1575年)10月、
山名氏より援軍の要請を受けた織田信長は
明智光秀に赤井直正討伐を名目に、
丹波攻略を命じます。
内情は、織田信長は当時信長包囲網にあい、
とても援軍を出せる余裕にはありませんでした。
けれども、明智光秀を総大将にして、
丹波国征討戦に乗り出すことにしたのでした。

赤井直正は竹田城から黒井城に帰城して、
戦闘態勢を整えていきます。
明智光秀は黒井城を包囲し、
攻城戦が2ヵ月以上にも及び、
翌年の天正4年(1576年)1月15日、
波多野秀治軍が3方向から攻めて
明智光秀軍の背後をつき、
明智軍は総退却せざるを得ませんでした。
「赤井の呼び込み戦法」と
言われているものです。

【光秀の敗走と丹波の赤鬼】
敗れた明智光秀は京都に逃げ込み、
近江の坂本城を目指します。
家臣となった、並河易家をはじめとする
松田太郎左衛門・開田太郎八・荻野左兵衛
波々伯部五郎三郎らの並河一族の案内で
辛うじて丹波を脱出することが出来、
近江の坂本城に帰城することが
叶ったとされています。

先の戦いから1か月後、
再び戦の準備を整え2月18日に、
坂本城を出陣し丹波に入国したものの、
この時はほとんど戦わず短期間で
引き揚げてしまったとあります。
一方、この戦いで織田軍を破ったことで
赤井直正は「丹波の赤鬼」
という名を広めたとされています。

【「呼び込み」は適切表現ではない?】
この戦いは波多野秀治の裏切りにより
勝敗がつきましたが、
呼び込みという言い方は
適切ではないとされています。
信長の朱印状の返事をどのようするか、
丹波国人衆が集まり協議を行い
「直正のみが信長の意向に従わない、
他の国人衆は信長に従うので
直正を討ち滅ぼしてほしい」
という偽りの返事をしたのでは
ないかとも指摘されています。
また、
赤井、波多野両家は姻戚関係にあり、
はっきりとした記録は
見つかってはいませんが、
事前に密約があった可能性があると
考えられているそうです。

記録に残していたら、
そこから密約が漏れる恐れもあります。
密約を交わした後、燃やすなどして
書状を燃やすなど、
残さなかったかもしれませんね。

【赤井&波多野の結束で織田軍を撃退】
これ以降、丹波国は京都を中心に、
畿内の支配を固めた
織田氏の侵攻にさらされますが、
直正ら赤井一族は波多野氏と結束して
頑強に抵抗し、丹波国の国人衆らと共に
明智光秀率いる織田軍を
何度か撃退していくのです。

【第二次黒井城の戦いまで】
最初の戦いから約1年半後に、
再び明智光秀が黒井城の攻撃を開始します。
けれども。明智光秀は畿内を転戦し
石山本願寺攻め(天王寺の戦い)、
●紀州征伐、
●加賀攻め、
●信貴山城の戦い
など、休む暇もなく戦場を往来し、
とても丹波に集中出来る
状況ではなかったと見られています。
このことから明智軍は必要に応じて駆り出される
「遊撃軍団」だったと推測されているそうです。




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一方、赤井(荻野)直正は、
下館中心に
織田信長包囲網の一翼を担っていました。
足利義昭や吉川元春の使者安国寺恵瓊
武田勝頼の使者跡部勝資や長坂光堅、
石山本願寺の顕如からの密書及び密使が
再三、この地を訪れていたという
記録が残っています。

特に石山本願寺からは織田信長の動向、
その対抗策、返信の要請など
緊密に連絡が行き来されていたと
推測されています。
また、赤井直正と弟の赤井幸家は、
吉川元春に太刀や馬を贈り、
上洛と救援を要望していたとも見られています。

【織田信長からの朱印状】
4月13日付けの、織田信長から
矢野弥三郎に宛てた朱印状があります。
内容は「赤井忠家、赤井直正の罪を
「赦免」(ゆるし)し、
去年以来より織田方に
「一味」した者の身上は異論なく扱い、
「当知行」も安堵してするので、
明智光秀と相談して益々忠節を尽くすよう」

というものだそうです。
矢野弥三郎は、
恐らくは丹波国人の1人ではないかと
見られています。
朱印状には4月13日とのみ書かれており
年号については不明ですが、
「明智光秀と相談して」という部分から
推察すると、第一次黒井城の戦いから
第二次黒井城の戦いの間である、
天正3年(1575年)⇒
天正7年(1579年)
ではないかと推測されています。
織田信長も第二次黒井城の戦いを前に、
丹波の国衆たちに対して
事前工作をしていたのでした。

【第二次黒井城の戦い】
赤井直正や弟の赤井幸家は、
吉川元春に援軍を要請していましたが、
援軍は到着しないまま、
翌年の天正5年(1577年)10月、
明智光秀は細川藤孝細川忠興の増援を得て、
第二次丹波国征討戦が始まりました。
た緊迫した状況が続く中、
更に翌年の天正6年(1578年)3月9日、
赤井直正(荻野直正)が病死してしまいました。
一説には、「首切り疔」の病ではなかったかと
言われています。

なお、「首切り疔」とは、
化膿してできる腫れ物のことだとされています。

赤井直正の子である
赤井直義は幼少であったため、
弟の赤井幸家が後見となって、
赤井家を統率することになり、
明智光秀軍に備えることになりました。
明智光秀軍は、
八上城と黒井城の分断を目的に、
鐘ガ坂に金山城(柏原町)を築城し、
ここを拠点にして
氷上郡の西部を羽柴秀長に、
氷上郡の東部を明智秀満に攻略させ、
波多野秀治の八上城の攻城から
取り掛かりました。

1年余り包囲策をとり、
飢餓状態と内部工作により、
八上城は、同年6月1日に開城しました。
このように
黒井城の支城を押さえて
黒井城を孤立無援にしていきます。




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そして、八上城落城から
約2ヵ月後の8月9日、
黒井城もついに落城したのでした。

<イケメン・明智光秀>
明智光秀のイラスト

【丹波平定】
第二次黒井城の戦いのさなかである
天正6年(1578年)3月、
赤井直正は50歳で病死し、
9歳の嫡男である赤井直義にかわって、
叔父の赤井幸家が総指揮を執りましたが、
求心力を失った赤井一族は没落し、
織田氏による丹波平定を
早めることになりました。

<黒井城・遠景>
黒井城・遠景

【子孫】
赤井直正の子である赤井直義は、
赤井時家の四男である山口直之の
嫡男である山口直友の
口添えにより藤堂家に仕官し、
子孫は藩士として続いたということです。
その際、伊賀に移り住んだので、
伊賀・上野城の城下町には、
武家屋敷の「赤井家住宅」があるそうです。

【赤井直正の継室】
赤井直正の妻である桂光院は、
大和国駒崎城主・古市胤栄へ再嫁し、
三男である赤井弥七郎を生んだとされています。
弥七郎は、大坂の陣にて豊臣方として参戦した後、
元和2年(1616年)に藤堂家に
500石で召し抱えられたとあります。
赤井弥七郎の法号は
護念院心澤常光大禅定門で、
金沢市光覚寺の
古市家墓地に眠っているそうです。

【伊賀の赤井家住宅】
赤井直正の子孫の方が、
赤井家住宅を伊賀市に寄贈しました。
そして赤井家住宅は修復されました。
住宅は現存する武家屋敷として貴重とされ、
国の登録有形文化財となっています。

【あの芸能人も末裔です】
また、赤井直正の嫡男の直義を守って落ち延びた、
直政の弟である赤井幸家の子孫に、
元・プロボクサーで俳優の赤井英和さんがいます。

【赤井直正も「赤備え」?】
第一次黒井城の戦いで
諸国の武将の間に荻野直正の
「丹波の赤鬼」が有名になりました。
この赤鬼の「赤」は赤井直正と
関係があるとも思われていますが、
それだけでなく、実はこの頃より
揃い鎧を着けて戦うことが始まっていました。
よっておそらく、赤井直正軍も
揃いの赤い鎧を着用していたのではないかと
推測されているそうです。




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【説得には応じないけどねぎらう心遣い】
羽柴秀吉の家臣の脇坂安治(龍野城主)が、
天正6年1月に病床にあった赤井直正を訪ね
開城降伏を進言したそうです。
赤井直正はの説得には応じることはありませんでした。
けれども、その好意に謝して
「貂(てん)の皮」を脇坂安治に与えたそうです。
以後龍野神社の宝物となったそうです。

<赤井直正公>
赤井直正公

【赤井家清】

赤井 家清(あかい いえきよ)は、戦国時代の武将。
【生涯】
大永5年(1525年)、
丹波氷上郡後屋城主である
赤井時家の嫡子として生まれました。
若くして数々の戦功を挙げたということです。

天文2年(1533年)、
細川晴元や三好元長に対して
細川晴国が挙兵すると、
赤井氏はこれを支援する波多野晴通に攻められ、
赤井家清は父である赤井時家と共に
播磨国三木城の別所就治を頼り落ち延びました。
天文5年(1536年)、
細川晴国が摂津国天王寺で自害すると、
赤井氏は細川晴元の後援により旧領を回復しました。

弘治元年(1555年)、
芦田氏、足達氏との甲良の戦いで負傷し、
弘治3年(1557年)2月6日、
その傷が元で33歳で死去しました。
赤井氏の家督は嫡子である赤井忠家が継ぎ、
弟である荻野(赤井)直正がこれを補佐しました。

【赤井忠家】

赤井忠家(あかいただいえ)は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・旗本です。

【生涯】
9歳の時に父である赤井家清が、
戦の傷がもとで死去し、
叔父である赤井直正(荻野直正)
の補佐を受けました。
永禄13年(1570年)3月、
織田信長に所領安堵されました。
その後、離反して
丹波国国人衆の旗頭波多野氏と共に
織田氏に抵抗しましたが、
織田家臣の明智光秀の幾度かの丹波侵攻により、
天正7年(1579年)8月9日、
本拠の黒井城を落とされたため、
赤井忠家は遠江国二俣に逃れました。

【秀吉に仕える】
文禄元年、朝鮮出兵の時に
豊臣秀吉に仕えています。
文禄2年(1593年)9月2日、
播磨国美嚢郡に1000石を給わります。
豊臣秀吉の弟の豊臣秀長と不和となり、
大久保忠世を仲介に
徳川家康に仕官を願いましたが、
信濃国蘆田の叔父である
山口直之の許に在るよう命じられています。
後に再び豊臣氏に仕官しましたが、
また退いています。

関ヶ原は東軍】
慶長5年(1600年)、
石田三成の与力である矢田部助兵衛が、
助兵衛の一族で忠家の家臣であった
矢田部新左衛門宛てに密書を送ってきたのを
徳川家康に献上しています。
関ヶ原の戦いに東軍として参加しました。
戦後、大和国十市郡に1000石を賜り、
戦前に与えられていた領地と合わせて
2000石となりました。
慶長10年(1605年)伏見にて死去しました。

黒井城~丹波三大山城~250年間続いた中世から戦国時代の貴重な城郭

槇島城・足利義昭が籠城し、室町幕府の実質的な終焉の地~忘却の城跡~巨船出現す!!

波多野三兄弟と八上城~七度の攻防戦があった城~光秀によって陥落、波多野氏とは?

内藤如安~明智光秀の丹波攻め~ナゾに包まれた八木城と丹波内藤氏の栄枯盛衰

松田政近~明智光秀の家臣~山崎の戦いでは並河易家と共に戦う・丹波国とは?

並河易家~明智光秀の家臣~またの名を明智掃部、交通事情に詳しく、光秀をナビする

天橋立~九世戸~明智光秀が細川藤孝・細川忠興の招きで訪れた日本三景、同行者には愛宕百韻の里村紹巴も

細川忠興~正室は明智光秀の娘・ガラシャ~文武両道のハイスペック武将で何事にも極め人。

亀山城(丹波国)~明智光秀の丹波経営の拠点~やがて本能寺へ向かう

福知山城~初代城主は明智光秀~領民に慕われた証の御霊会、城代は婿で重臣の明智秀満

四王天政孝・四王天政実~明智光秀家臣~先祖は武蔵武士団・児玉党の党祖、青木氏から家康次男・結城秀康の家臣となる

興禅寺~黒井城の下館~明智光秀の重臣・斎藤利三が治めた春日局の生誕地

荒木村重と残された女性や家臣たちの悲惨な最期~有岡城の戦い~

細川藤孝(細川幽斎)~武道・文芸・芸術・コミュ能力と多才多芸な武将~巧みに世を渡り、運も引き寄せる

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