明智家

天橋立~九世戸~明智光秀が細川藤孝・細川忠興の招きで訪れた日本三景、同行者には愛宕百韻の里村紹巴も

天橋立・九世戸



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天橋立

天橋立(あまのはしだて)は、
京都府宮津市の宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる
全長3.6キロメートルの湾口砂州で、日本三景の一つです。

名称は、一般的に「天橋立」と表記されますが、
砂州を走る府道の名称は天の橋立線です。
読み方は「あまのはしだて」ですが、
立の字を濁らせずに「たて」と読むこともあります。

「運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)」には
天橋立を意味する
1文字の漢字(国字)が記載されているそうです。
画数は39画、読みは「はしだて」であるそうです。

明智光秀も来訪】
天正9年(1581年)4月12日、
明智光秀、茶人の津田宗及(つだそうぎゅう)、
連歌師の里村紹巴(さとむらじょうは)は、
細川藤孝細川忠興の招きで宮津に来ています。
九世戸天橋立を遊覧し、
連歌を詠んだとされています。
その際、明智光秀は二人の息子を
同行させているともいわれています。
一説には、嫡男の明智光慶と
自然丸とも伝わっているそうです。
また、宮津には、
細川藤孝の嫡男である
細川忠興に嫁いだ
明智光秀の明智玉細川ガラシャ)がいました。
ガラシャは天正6年(1578年)に
細川忠興に嫁いでいます。
明智光秀が宮津を訪れた際は、
外孫となる長女の長、
長男の熊千代(細川忠隆)が産まれており、
孫とも対面していたかもしれません。
其の後に訪れる大嵐の前の、
親子や孫との幸せなひとときだったことでしょう。

【天橋立での連歌】
明智光秀(発句):
うふるてふ松八千年のさなえ哉
細川藤孝(脇句):
夏山うつす水の見なかミ
里村紹巴(第三句):
夕立のあとさりけなき月見へて

天橋立・文殊地区

【久世戸(くせのと・くせど)】
京都府宮津市文殊付近の旧称。
日本三文殊の一つ、智恩寺(切戸文殊堂)があります。




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【地形】
天橋立の北部、南西方向へ延びている部分を
大天橋または北砂州といいます。
切戸を隔てて南部、南東方向へ延びている部分を
小天橋または南砂州といいます。
これら2か所が宮津湾と阿蘇海を分断し、
切戸と文殊水道(天橋立運河)によって
両水域がかろうじて繋がっています。
切戸には大天橋という「橋」が架かっています。
また文殊水道には小天橋という橋が架かり
「廻旋橋」として知られています。
さらに文殊水道を隔てて南側にある部分を
第2小天橋といいます。
これら3か所で天橋立の砂州部分を形成し、
全幅は20~170メートル、
全長は大天橋と小天橋を合わせて約3.2キロメートル、
第2小天橋を合わせると約3.6キロメートルです。
北方にある傘松地区からは3地区を眺めることができます。
これら4地区を合わせて
「京都府立天橋立公園」をなしています。
文殊堂・智恩寺とその門前町のある
天橋立南方を文殊地区といいます。

全体が外洋に面さない湾内の砂州としては日本で唯一です。
一帯には松林が生え、
東側には白い砂浜が広がっています。
この松は、人の手により植林されたものではなく、
大部分が自然発生的に生えたものであるそうです。
1994年(平成6年)、
天橋立に生える老松や奇松12本の愛称を公募し
「九世戸の松」「知恵の松」などが命名されました。
天橋立には「日本の道100選」に選定された
京都府道607号「天の橋立線」が走っています。

【形成の歴史】
天橋立は、
宮津湾の西側沿岸流により砂礫が海流によって運ばれ、
天橋立西側の野田川の流れから成る
阿蘇海の海流にぶつかることにより、
海中にほぼ真っ直ぐに、
砂礫が堆積したことにより形成されたものです。

【日本神話】
「古事記」によりますと、
イザナギとイザナミの国生みにおいて天の浮橋に立ち、
天の沼矛をまだ何も出来ていない海原に下ろし、
「こをろこをろ」とかき回し矛を持ち上げると、
滴り落ちた潮が積もり重なって島になったそうです。
このようにしてできたのが「オノゴロ島」であり、
天の浮橋が天橋立のことと言われています。
なお、オノゴロ島の位置は、
現在の沼島であるという説が
有力とされているそうです。

イザナギは久志備の浜の北にある
元伊勢籠神社の真名井原(イザナミのいる奥宮)に
天から通うために梯子を作ったものの、
寝ている間に倒れてしまった、
というのが天橋立の名の由来となっているそうです。
また丹後国風土記によりますと、
天橋立の
「東の海を與謝の海(与謝の海=宮津湾)と云ひ、
西の海を阿蘇の海と云ふ」と説明してあるそうです。




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【天橋立の出現】
では地学的から見ればどうでしょうか。
2万年前、現在の宮津湾にあたる一帯は
完全な陸地だったそうです。
一説によりますと、
7000年前までは
天橋立の原型すらなかったとも言われています。
一方、天橋立の基礎部分には
砂でなく石か岩があるという説もあるそうです。
その後、6000年前の縄文時代に海面が上昇し、
海底に砂州が形成され始めていきます。
およそ2200年前に発生した地震によって
大量の土砂が宮津湾に流入し、
ちょうど海面が低くなった時であったため、
海面上に現れたと見なされているそうです。

丹後半島東部には、
兵庫県北部から
京都府与謝郡伊根町にわたって
延びる山田断層が存在し、
宮津市北部から伊根町にかけては
地滑り地形が集中しています。
その一つ、宮津市北部の世屋川流域では、
中流域の松尾集落付近に
川と隣接した地滑り地形が見られます。
阿蘇海周辺におけるボーリング調査の結果、
2200年前に
阿蘇海の汽水化が進んだと判明しています。
地震・地滑り・土石流はこの頃に発生し、
砂州が大きくなって
宮津湾と阿蘇海を分離したと見られています。

【天橋立の発達】
平安時代から江戸時代中期にかけて、
宮津湾の海流によって
砂が供給され続けて
大天橋が完成したと見られています。
その後、江戸時代後期から明治時代前期にかけて
小天橋から形成され、
宮津湾最奥の宮津城および
城下町にあたる地域でも堆積があったと見られています。

天橋立の松並木は雪舟筆「天橋立図」に描かれ、
以降の絵画でも同様であることから、
安定した林容を保ってきたと推定されています。
現在天橋立には、
5000本から8000本の松が生えているとされています。

【天橋立十景】
<雪舟観>:「獅子崎展望所」
<島崎蒼龍観>:「島崎公園」
<戦国ロマン八幡山>:「八幡山」
<滝上弓ヶ観>: 「滝上山」
<飛龍観>:「天橋立ビューランド
(※※記事内の写真はここからの眺めです)
<文殊の知恵海道>:「智恩寺」
<一字観>:「大内峠」
<天平の歴史みち>:「丹後国分寺跡」
<斜め一文字>:「傘松公園」
<天上大パノラマ観>:「仙台山」




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【日本三景とレイライン】
日本三景(にほんさんけい)は、
日本の3つの名勝地のことです。
あとの二つは、
【松島】
宮城県宮城郡松島町を中心とした多島海
宮島厳島)】
広島県廿日市市にある厳島神社を中心とした島

この日本三景ですが、
近年の調査などにより面白いことがわかっています。
何と、地図上で一直線に並んでいる
「レイライン」であるという事実です。
「日本三景」のレイラインを説明しますと、
天橋立から見て、松島に夏至の日の出が昇り、
宮島に冬至の日が沈むことになります。
この地域は多くの古代遺跡が存在し、
発掘調査などによって、
家長クラスでも必ず鉄剣が出土するなどが特徴で、
これは他の地域ではみられないとのことです。

また、軍事的な拠点や信仰の中枢地として
使われていたりと、太古の昔から、
文化や歴史に関わる重要な拠点が存在しています。
「天橋立」は、もともと元伊勢籠神社の参道だったそうです。
神話から見られる通り、古来より
「天と地・神と人」とを結ぶ
架け橋として信じられてきました。
現在は、元伊勢籠神社の奥宮とされている
眞名井神社も国生み神話など
重要であったことがうかがえます。

【レイライン】
レイラインとは1921年に、
イギリスの考古学者が提唱したものです。
古代の遺跡配置を見ると、
直線ラインで結ばれて並んでいる現象で、
日本では、神社や磐座が多く、
「太陽(天)の動き・
断層や水脈の地球(地)の構造」が、
その聖地を決めるポイントにもなっていたのではないか
とも考えられているそうです。

【里村紹巴】

里村 紹巴(さとむら じょうは)
大永5年(1525年)⇒
慶長7年4月14日(1602年6月2日))は、
戦国時代の連歌師です。
里村姓は後世の呼称であり、
本姓は松井氏ともいわれているそうです。
号は臨江斎・宝珠庵。
奈良の生れで、長男に里村玄仍、次男に里村玄仲、
娘婿に里村昌叱がいます。

【生い立ちなど】
連歌を周桂(しゅうけい)に学び、
周桂の死後、里村昌休(しょうきゅう)につき、
のち里村家を継いだとされています。
その後公家の三条西公条をはじめ、
織田信長(おだのぶなが)・明智光秀(あけちみつひで)
豊臣秀吉(とよとみひでよし)・三好長慶(みよしながよし)
細川藤孝(細川幽斎)(ほそかわふじたか)
島津義久(しまづよしひさ)・最上義光(もがみよしみつ)
など多数の武将とも交流を持ち、
天正10年(1582年)、
明智光秀が行った「愛宕百韻」に
参加したことは有名となっています。
本能寺の変後には
豊臣秀吉に疑われるも難を逃れています。

40歳のとき宗養の死で
連歌界の第一人者となりますが、
文禄4年(1595年)の
豊臣秀次事件に連座して、
近江国園城寺(三井寺)
の前に蟄居させられています。
連歌の円滑な進行を重んじ、
連歌論書「連歌至宝抄」を著したほか、
式目書・式目辞典・古典注釈書などの著作も多く、
源氏物語」の注釈書である「紹巴抄」、
「狭衣物語」の注釈書である
「下紐」などが現存しているそうです。
近衛稙家に古今伝授をうけた、
門弟には松永貞徳などがいるそうです。




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里村紹巴は豊臣秀吉が帰依していた
高野山の木食応其と親交が深く、
また最上義光の連歌師、
一花堂乗阿など時宗の僧とも交流があり、
後に里村家からは宝永5年(1707年)に
時宗の遊行上人を継承した
遊行48代賦国(ふこく)が出ています。
里村家は徳川宗家に仕え、
幕府連歌師として連歌界を指導しました。
里村紹巴の子孫が里村本家(北家)と呼ばれ、
娘婿の里村昌叱の子孫が
里村南家と呼ばれていたそうです。

【愛宕百韻】
愛宕百韻(あたごひゃくいん)は、
本能寺の変の直前に愛宕山で
明智光秀が張行した連歌です。
「明智光秀張行百韻」または
「天正十年愛宕百韻」とも称されています。
天正10年(1582年)5月24日(あるいは28日)、
明智光秀が山城国愛宕山五坊の一つである威徳院で、
明智光慶(あけちみつよし)、
東行澄、里村紹巴、里村昌叱、
猪苗代兼如、里村心前、宥源、
威徳院行祐と巻いた百韻です。

発句は明智光秀の
ときは今 あめが下しる 五月かな」、
脇は行祐の「水上まさる 庭の夏山」、
第三は里村紹巴の「花落つる 池の流を せきとめて」。

発句は、明智の姓の「土岐」をいいかけて、
「雨が下」に「天が下」をいいかけて、
主君である織田信長の殺害という
宿願の祈請のものであるとされ、
里村紹巴はこのために責問を受けたということです。
また発句の「あめが下しる」を
「あめが下なる」に改めたとも。

津田宗久

津田 宗及(つだ そうぎゅう、
生年不詳⇒ 天正19年4月20日(1591年6月11日))は、
安土桃山時代の堺の商人、茶人です。
「天王寺屋宗及」とも称されていました。
名は助五郎、号は天信、幽更斎です。
千利休今井宗久とともに
茶湯の天下三宗匠と称せられていました。

【生涯など】
堺南荘の豪商である天王寺屋の津田宗達
(1504年⇒1566年)の子として生まれました。
茶人である武野紹鴎の門人であった
父に茶道を教わっています。
大徳寺住持の大林宗套には禅を学び、
後に天信の号を与えられています。

堺の大小路に居所を構える天王寺屋は、
堺でも有力商人として知られていました。
津田宗及は永禄年間には石山本願寺の下間丹後の一族と通じ、
次いで堺に勢力を張った三好政康(三好 宗渭(みよし そうい))
を頼みとしていましたが、
やがて伸長してきた織田信長に接近していきます。
元亀3年(1572年)11月には
織田信長が主催した
京都妙覚寺での茶会に参加して接待を受けています。
元亀4年(1573年)2月3日には
岐阜城で信長の名器の拝見を特に許され、
歓待されるまでになっています。
天正6年(1578年)、
織田信長が堺を来訪した際には、
自邸に訪問を受けるなどし、重用されています。




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明智光秀の茶会にも顔を出していました。
その後は、実権を握った豊臣秀吉にも
信頼を得て茶湯者八人衆の一人として数えられ、
今井宗久、千利休とともに
3000石の知行を与えられています。
黒田如水とも永く親交があり、
天正15年(1587年)10月1日、
豊臣秀吉が九州平定と聚楽第の造営を記念して
北野天満宮で開催した大茶湯(北野大茶湯)でも、
今井宗久、千利休とともに茶会を行っています。
天正19年(1591年)、死去。
墓は堺市の南宗寺にあるとのことです。

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