織田家

織田信雄~織田信長の次男、散々な目に遭うも長生きしその血筋は明治維新まで受け継がれました。

清州城(模擬天守)



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織田信雄

織田 信雄(おだ のぶかつ、のぶお)は、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての
武将・大名です。
大和宇陀松山藩の初代藩主。
初め伊勢北畠家の第10代当主として
具豊(ともとよ)・信意(のぶおき)を名乗り、
国司を継いだため御本所と敬称されました。
法名は常真。

【生誕】
永禄元年(1558年)3月

【死没】
寛永7年4月30日(1630年6月10日)

【改名】
茶筅丸(幼名)⇒北畠具豊
⇒信意⇒信雄⇒常真(号)

【別名】
三介(通称)、御本所(尊称)

【墓所】
群馬県甘楽郡甘楽町小幡の崇福寺
京都府京都市北区の紫野大徳寺

【官位】
従五位下、侍従、左近衛権中将、
正五位下、従四位下、中納言、
正三位、従二位、正二位
内大臣、伊勢国司(知行国主)

【主君】
織田信長⇒秀信⇒豊臣秀吉
豊臣秀頼徳川家康徳川秀忠

【藩】
大和国宇陀松山藩主

【氏族】
織田氏⇒北畠家⇒織田氏

【父】
織田信長

【母】
生駒吉乃

【養父】
北畠具教

【兄弟】
信忠、信雄、信孝、
羽柴秀勝、勝長、信秀、
信高、信吉、信貞、
信好、長次、信正他

【妻】
正室:千代御前(雪姫)(北畠具教の娘)
継室:木造具政の娘
側室:織田長利の娘など

【子】
秀雄、小姫(豊臣秀吉養女、徳川秀忠正室)、
於加爾(おかに)、高雄、女(佐々一義室)、
信良、高長(信友)、信為、良雄、長雄、
玉雄院(八重姫、土方雄氏室)、
女(生駒(佐々木)政勝室)、
女(生駒(吉田)直勝室)

【織田信雄の生涯】
【出生~幼少期】
永禄元年(1558年)、
尾張国丹羽郡小折(現・愛知県江南市)
の生駒屋敷で織田信長の
次男として生まれました。
幼名は茶筅。
弟の織田信孝との
出生順位を巡る異説があります。
実際は信雄は三男で、
信孝が先に誕生していましたが、
信孝の母の坂氏より信雄の母が
正室的立場で、身分の差により
織田信長への報告を遅れさせ、
出生順位を置き換えられたとの
説がありますが、
事実かは定かではないとのことです。




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【北畠家時代】
永禄12年(1569年)、
父である織田信長の
北畠家攻略戦の和睦条件として、
北畠具房の養嗣子となり、
北畠具房の妹の雪姫(北畠具教の娘)
を娶りました。

【北畠具豊】
元亀3年(1572年)に元服して
北畠具豊と称しました。
天正2年(1574年)7月には
北畠軍を率いて第三次長島侵攻に参戦し、
大船に乗って戦いました。
天正3年(1575年)に
北畠家の家督を相続し、
大河内城から度会郡の田丸城へ移りました。
同年、越前一向一揆討伐に参戦し
塙直政滝川一益・神戸信孝・長野信良
と共に転戦しました。
この頃から津田一安の補佐の元、
家中の実権を掌握し始めたとのことです。
田丸城 天守台からの眺め

【信意に改名】
家督を相続後は信意に改名しました。

三瀬の変
天正4年(1576年)11月25日、
滝川雄利・長野左京亮・軽野左京進に命じて
多気郡の三瀬御所を攻撃させ、
北畠具教と具教の息子2人と
北畠家臣14人を殺害しました。
三瀬館跡
同日、信意自身も田丸城に
長野具藤ら北畠一族を
饗応と偽って呼び出し謀殺しました。
12月15日には滝川雄利と
柘植保重の讒言により
津田一安を粛清しています。
その後の北畠家の南伊勢5郡の勢力は、
そのまま織田信雄の権力基盤へと
継承されていったのでした。

織田信忠の下で】
天正5年(1577年)、
織田信忠の下で紀州征伐に従軍します。
天正6年(1578年)4月、
織田信忠の下、石山本願寺を攻めます。
5月、播磨国に従軍。
織田信忠らと共に神吉城を攻めました。

【第一次天正伊賀の乱】
天正7年(1579年)9月16日、
信意は織田信長に無断で自身で8千人、
柘植保重に1500人の兵を率いさせ、
伊賀国に3方から入り
伊賀惣国一揆を攻めましたが、
伊賀十二人衆と呼ばれる
自治集団に大敗し、
殿軍の柘植保重は
植田光次に討ち取られてしまいました。
これを受けて織田信長に
「親子の縁を切る」
とまで書状で脅され、
叱責されてしまいました。

【第二次天正伊賀の乱】
天正8年(1580年)、
田丸城が焼失したため、
松ヶ島城を築いて居城としました。
天正9年(1581年)には、
織田信長が司令して、
大和・近江・伊勢の軍勢に信意も加わり、
再度伊賀へ侵攻し、同国を平定しました。
第二次天正伊賀の乱ののち、
伊賀3郡を信雄が、残りの1郡を
叔父の織田信包が領することになりました。

本能寺の変
天正10年(1582年)6月2日、
父である織田長が家臣の明智光秀によって討たれ、
兄の織田信忠も死去しました。
本能寺
6月13日には織田家臣の
羽柴秀吉山崎の戦いにて、
明智光秀を討ちました。
本能寺の変に際して信意は
近江国甲賀郡土山まで
進軍したものの、戦わないまま撤退しました。
「勢州軍記」によりますと、
伊賀の国人衆が
不穏な動きを見せた事や、
信孝の四国征伐軍に
信意の軍勢の大部分を
援軍として派遣しており
兵数が2500程度で
心もとなかった事が理由だということです。
信孝は5万石程度の所領(「当代記」)で
各地の軍勢がかき集められましたが、
伊勢国からは北伊勢衆のみでした。




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天正壬午の乱
10月に、東国において徳川家康
小田原北条氏らとのあいだで
甲斐・信濃の武田遺領を巡り
発生した天正壬午の乱では、
信意は信孝とともに
双方の和睦を仲介しました。

【清州(清須)会議】
戦後の清洲会議で信意は
兄である織田信忠亡き後の
織田家の後継者になろうとしましたが、
織田家当主は三法師となり、
後見役として信意、信孝となりました。
織田信長の遺領配分で、
信意は尾張・伊賀・南伊勢約100万石を相続。

【織田信雄と改める】
その際、織田姓に復したとのことです。
名も信雄と改めたのもこの頃とされています。
天正10年(1582年)、
織田信雄と紀伊新宮城主の堀内氏善とが
荷坂峠を境として、
それぞれが紀伊国牟婁郡と
伊勢国度会郡に編入しました。
堀内氏屋敷跡(全龍寺)
尾張・伊勢を支配した織田信雄は、
2度にわたる検地を実施し、
知行制の統一を図りました。
天正11年検地は、全領国を貫高で
統一的に把握し、
改めて知行宛行を行うことで
統一的知行制を実現しました。
更に天正14年再検地では、
新たな検地原則の下に
在地掌握の強化が図られました。

賤ヶ岳の戦いでは秀吉方】
その後、台頭してきた羽柴秀吉
織田信孝・柴田勝家らが争い、
天正11年(1583年)4月に
賤ヶ岳の戦いが発生しました。
織田信雄は秀吉方に属しました。

【織田信孝の切腹】
5月には織田信孝を岐阜城に攻めて
降伏させました。
織田信孝は尾張に送られる途中で
切腹させられました。

【三姉妹の面倒を見たのは織田信雄説】
なお柴田勝家とお市の方が自害した後に
三人の娘を引き取って後見して
面倒をみたのは羽柴秀吉ではなく、
織田信雄であるともいわれています。
また三姉妹の三女の江を
佐治一成に嫁がせたのも羽柴秀吉ではなく、
これも織田信雄であったとされています。
山崎や賤ヶ岳で勝利した羽柴秀吉が
織田信長の政権を直接継承した訳ではなく、
織田信雄が羽柴秀吉に臣従するまでは
親子2代の織田政権(安土幕府)
であったとする見解を
示している専門家もいます。
茶々・お初・お江の像

【羽柴秀吉との決裂】
柴田勝家方であった滝川一益も
羽柴秀吉に降服し、織田信雄は
北伊勢・伊賀を加増され、
前田玄以を京都所司代に任命し、
三法師の後見として
安土城へ入城しました。
けれどもすぐに羽柴秀吉に退去させられ、
織田信雄と羽柴秀吉の関係は険悪化しました。
天正12年(1584年)正月に
近江国坂本の三井寺で
羽柴秀吉と会見したが決裂し、
伊勢長島城に戻りました。
伊勢・長島城跡 樹齢三百数十年のクロマツ

【徳川家康との同盟】
そして織田信雄は
徳川家康に接近し同盟関係を結びました。




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小牧・長久手の戦い
天正12年(1584年)3月6日、
徳川家康と相談した上で
羽柴秀吉に内通した疑いにより
重臣の津川雄光(義冬)・岡田重孝・
浅井長時を殺害して
羽柴秀吉に宣戦布告をしました。
3月11日に清州城で徳川家康と
作戦会議を開き陣城の構築を指示しました。
また長宗我部元親佐々成政雑賀衆とも
結び連合して羽柴家と戦いました。
織田・徳川連合軍は羽柴秀吉と戦闘状態に入り、
4月9日の長久手の戦い
羽柴方の池田恒興森長可らを討ち取りました。
長久手古戦場公園
けれども、伊勢では誅殺された
重臣3人の一族が造反し、更には
羽柴秀吉の計略で九鬼嘉隆・秋山直国らも
謀反に及び、また羽柴秀長蒲生氏郷
堀秀政筒井順慶藤堂高虎
羽柴勢の侵攻を受け、
峯城・松ヶ島城・戸木城が落城しました。

【単独講和を結ぶ】
そして11月15日、
伊賀と南伊勢に加え
北伊勢の一部の
羽柴秀吉への割譲などを条件に、
徳川家康に無断で単独講和を結びました。
このため、織田信雄を擁していた徳川家康は、
羽柴秀吉と戦う大義名分を失って撤兵したのでした。

【領国の縮小】
戦の後、織田信雄の領国は、
尾張・北伊勢5郡
(桑名・員弁・朝明・三重・河曲)
となりました。
領国の縮小により、
家臣団の知行替えが
大規模に行われました。
この際、滝川雄利に
神戸城(河曲郡)を与えたとのことです。
伊勢・神戸城址 天守台 石垣

【豊臣秀吉に臣従】
以降は秀吉に臣従します。
天正13年(1585年)8月の
富山の役に従軍しました。
また11月には徳川家康の元へ
織田長益・滝川雄利・土方雄久を送り
上洛を促しています。
天正15年(1587年)の
九州征伐では出陣する豊臣秀吉を
勅使らとともに見送っています。
九州征伐後は内大臣に任官。
天正18年(1590年)1月、
豊臣秀吉の養女となった長女である
小姫と徳川秀忠が結婚しています。
なお、長島城は
天正13年(1585年)11月の
天正地震で大破したため、
地震以後は清洲城を改修し、居城としました。

【豊臣政権期の改易】
天正18年(1590年)の
小田原征伐にも従軍し、
伊豆韮山城攻めから、
小田原城包囲軍に転属し、武功をあげます。
けれども戦後の論功行賞で、
徳川家康旧領(駿遠三甲信5ヵ国)
への移封命令を、
父祖の地の尾張からの
移動を嫌がり拒否したことから、
豊臣秀吉の怒りを買って
改易されてしまいます。
なお改易されたのは
7月13日とされています。
7月14日から8月4日の間が
正しいのではないかとの説もあります。
改易の理由の一つとして
また京都舘に天皇行幸啓のための
「内府屋形」を建設中だったのを
危険視されたとの説もあります。
改易後は下野国烏山
(一説に那須とも)に
流罪となり、出家して常真と号しました。

【赦免され御伽衆に加わる】
その後、出羽国秋田の八郎潟湖畔、
次いで伊予国へと流され、
文禄元年(1592年)の
文禄の役の際に
徳川家康の仲介で赦免されます。
御伽衆に加えられて
大和国内に1万8千石を領しました。
肥前名護屋城にも
兵1500を率いて
着陣したということです。
(「太閤記」)




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嫡男である秀雄は越前国大野に
5万石を与えられていたとのことです。
なおこの時、実際に知行を与えられたのは
秀雄の4万5千石(当代記)で、
織田信雄はその後見役(隠居身分)として
復帰したに過ぎなかったとのことです。
本人が知行を直接与えられたのは
御伽衆として豊臣秀吉に召抱えられた晩年で、
1万7千石ともされています。
(武家事紀)

関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)の
関ヶ原の戦いでは西軍についたと
認識されております。
義演(真言宗の僧、父は二条晴良
母は伏見宮貞敦親王王女の位子)は
織田信雄に尾張一国が
返付されるという風聞を記しています。
また義演の9月14日の日記には
大津城にこもる京極高次のもとに
「真常」が高台院の使者として派遣され、
開城させています。
白峰旬氏は信雄の法名「常真」の
誤りではないかとしています。
関ヶ原の戦い後には
嫡男の織田秀雄ともども改易されています。

【大坂冬の陣の直前の片桐且元の退去】
関ヶ原の戦い後は
豊臣秀頼に扶持を与えられ、
大坂城下で隠遁生活を送っていました。
慶長19年(1614年)の
大坂冬の陣の直前には、
大野治長・織田頼長らが
片桐且元を殺害して
江戸幕府と敵対しようとしている
情報を掴み、これを片桐且元に伝えています。
これをうけて片桐且元は出仕を取りやめ、
後に大坂城を退去しています。
現在の大阪城からの眺め

【大坂冬の陣の直前の不穏な動き】
この時期、京都所司代板倉勝重は、
織田頼長らが幕府と対峙する際には
豊臣秀頼を大坂城から追い出して
織田信雄を入城させ、
総大将としようとする
動きがあるという情報を
つかんでいました。
また「慶長年録」によりますと、
織田信雄は豊臣秀頼は呼び出され、
片桐且元を成敗するから
織田信雄に家政全般を
差配するよう依頼されたと
しています。

【大阪を退去】
けれども9月27日には
織田信雄も大坂を退去して
京都に移っています。

【徳川将軍家時代の大名】
元和元年(1615年)7月23日、
徳川家康から大和国宇陀郡、
上野国甘楽郡などで
5万石を与えられました。
領地に風雅な庭園楽山園を造る一方、
養蚕など産業育成にも力を注ぎました。
既に嫡男の秀雄が病死していたため、
四男である織田信良に
上野小幡藩2万石を分知して、
自らは京都に隠居し、
茶や鷹狩りなど悠々自適の日々を送りました。
寛永5年(1628年)10月には、
将軍・徳川家光より、
江戸城での茶会に招待されています。
江戸城

【最期】
寛永7年(1630年)4月30日、
京都北野邸で死去しました。
享年は73歳でした。
実質的な隠居料であった
大和宇陀郡の領地は、
五男である織田高長が相続しました。
なお、織田高長の宇陀郡の相続については
小幡織田家側から異論が出されています。




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【信雄の読みについて】
諱の読みには「のぶかつ」と
「のぶお(のぶを)」など複数の説があります。
信雄から「雄」の偏諱を与えられた家臣は、
いずれも「かつ」と呼ばれ
「のぶかつ」が一般的呼び名とされています。
一方で息子の秀雄、高雄、良雄、長雄は
「お」と読みます。
神沢杜口は「翁草」において、
前大納言花山院定成の説として
以下のことを記しています。
公家の世界では「雄」は
上にあれば「かつ」と読み、
下にあれば「お」と読むとのことです。
したがって信雄は最初は「のぶかつ」でしたが、
公家成をして以降は
「のぶお」と改めたということになります。

また江戸時代後期の
故実家伊勢貞丈は、
「のぶよし」であったとしています。
根拠としては村井古巌が
「御湯殿上日記」にある
「織田のぶよし」は
信雄のことと指摘していたこと、
信雄から一字拝領した
土方雄久の子孫・土方雄忠は
「よしただ」と呼ばれ、
先祖からその読みを
受け継いでいたことなどを
あげているとのことです。

【子孫】
<四男・織田信良の系統>
当初、上野小幡藩主でしたが、
明和事件に伴い出羽高畠藩に転封。
さらに陣屋の移転に伴って
出羽天童藩主となり、
そのまま廃藩置県を迎えました。

<五男・織田高長の系統>
当初、大和宇陀松山藩主でしたが、
御家騒動に伴う転封によって
丹波柏原藩主となり、
そのまま廃藩置県を迎えました。
後に庶流は、信長の七男である
信高の系統である旗本家に
養子として入りました。

<六男・信為の系統>
津田姓を称して、
宇陀藩主家や小幡藩主家の家臣となりました。
信為の長男・津田外記や
次男・津田八郎兵衛(谷山真弥)は
宇陀藩織田家、
三男・津田頼母は
小幡藩織田家に仕えました。

信良の系統は皇室へ繋がっています。
織田信良⇒ 娘(稲葉信通室)⇒
(稲葉信通には織田信良の次女(光浄院)と
三女(天量院)が嫁いでいますが、
稲葉知通の母がどちらかは不詳です)

稲葉知通⇒稲葉恒通⇒娘(勧修寺顕道室)
⇒勧修寺経逸⇒勧修寺婧子⇒
仁孝天皇⇒孝明天皇

数多くいた織田信長の息子の中で、
江戸時代に大名として
存続したのは織田信雄の系統のみでした。
上記の他に、織田信長の弟・長益(有楽)系の
芝村藩と柳本藩を、
高長の孫の長清と曾孫の信方が
それぞれ継いでおり、
以後は血筋の上では
織田信雄の系統で続いたということです。




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【人物評】
<安土城焼失>
ルイス・フロイス
本能寺の変時の安土城焼失を
織田信雄の命令であるとしています。
しかし当時フロイスは
九州の口之津(現長崎県南島原市)におり、
記録を行ったのは変から4ヶ月後でした。
更に伊賀掌握に苦しんでいた織田信雄が
安土に入ることは困難でした。
そのうえ発掘調査では炎上したのは
本丸とその周辺のみと見られており、
「市」にも放火したという
フロイスの記述は完全に異なるものでした。
それに加え三男信孝はキリスト教に
好意的で宣教師の間で評価が高く、
そうでない信雄には
フロイスは厳しい面があり、
注意が必要であるとのことです。
安土城 石垣

<織田一門の席次>
織田一門の席次は、
信忠、信雄、信包、信孝の順であり、
信孝の上位に配されていました。
天正9年(1581年)の御馬揃えでは、
織田信忠が率いた騎馬衆が80騎、
信雄が30騎、信孝・信包が10騎であり、
信孝とかなりの差があったと推測されています 。

<能の名手>
能の名手であり、高い評価を得ていました。
文禄2年(1593年)、
豊臣秀吉が主宰した
天覧能を観た近衛信尹は、
「常真御能比類無し、扇あつかひ殊勝ゝ」
との感想を残しています。
「徳川実紀」には
聚楽第で催された能について、
「殊に常真は龍田の舞に
妙を得て見るもの感に堪たり」
と記されています。
また、能役者にとっても
織田信雄の発言が
貴重な指針になっていたとされています。
(「観世流仕舞付」)

<杉を無断で伐採するべからず>
伊勢国河合において、
杉を無断で切った家臣を許さず、
追っ手を差し向けて
誅殺したという話があります。
(「勢州軍記」)
三瀬砦 杉

<「威加海内」の朱印>
信孝死亡後、
家督を継いでからは印文に
「威加海内」の朱印を用いました。
「威加海内」とは、中国の史記に登場する
下記の文章のうちのひとつです。
大風起兮雲飛揚
威加海内兮帰故郷
安得猛士兮守四方
意味は「私の威力は天下に加わった」とのことです。

<兵庫茶壺>
荒木村重より、その秘蔵の
兵庫茶壺を天正13年(1585年)2月に
進上されています。
荒木村重の子である岩佐又兵衛
織田信雄は召し抱えていた時期もあったそうです。

2023年NHK大河ドラマ
「どうする家康」では
浜野 謙太(はまの けんた)さんが
演じられます。

織田信長について~駆け足で手短にわかる織田信長の49年の華麗で残酷な生涯

織田信長 人生の結晶~安土城~琵琶湖・水上ネットワークの完成

織田信長・天下の奇祭「左義長まつり」がある日牟禮八幡宮、近江八幡の古社

木造城~北畠氏領域の最北端に位置し木造氏は北畠一族だが織田信長に従い北畠氏攻略の先駆けとなった。

北畠氏館跡・美杉リゾート(三重県)~奈良旅⑮

三瀬館 ~北畠具教の隠居所で北畠氏が滅亡する「三瀬の変」 の舞台になった場所です。

田丸城~続日本100名城、南朝拠点として北畠親房、北畠顕信が築城、後に同一族の田丸氏が入城し織田信雄に明け渡しました。

大河内城~大河内御所と呼ばれた北畠三御所の中でも代々の筆頭格で、 宗家が絶えた際には継ぐ立場でした。

伊勢・長島城~鎌倉時代に藤原氏による築城が起源、元亀元年に長嶋一向一揆の拠点となる。

尾鷲・中村山城~仲氏の本拠の城でしたが、堀内氏善に攻略され和睦し降伏しました。

浜田城(伊勢国)~田原忠秀が築城し四日市の地名も誕生、後に滝川一益に攻略され落城、子は小牧・長久手の戦いで討死

堀内氏屋敷~堀内新宮城とも呼ばれた熊野水軍の将であった堀内氏善の居城跡です。

鬼ヶ城本城~有馬忠親の隠居城でしたが攻城され熊野水軍を率いた堀内氏善が治めました。

紀伊・長島城~北畠氏の家臣である加藤氏が南北朝に築城、奥村氏に時を超えて数度裏切られる。

清洲城~織田信長の天下統一への出発地、「清州同盟」「清州会議」と歴史上重要拠点となった天下の名城です。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

御坂城(甲斐)~標高1500mの峠に小田原北条氏が築城、徳川方の鳥居元忠らが黒駒合戦で勝利しました。

羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)下層民から天下人の生涯を手短に!

豊臣秀長~豊臣秀吉の実弟で右腕以上の存在、兄の天下統一に大きく貢献、惜しまれながら52歳で他界する。

お市~織田信長の自慢の妹、聡明で戦国一の美女と謳われた女性の激烈な人生。

淀殿~母はお市で浅井三姉妹の長女、波乱万丈の人生を烈火の如く駆け抜けました。

お江(崇源院)~2代将軍・徳川秀忠の正室は浅井三姉妹の三女、波乱万丈な人生を送りその血筋は現代の皇室に繋がっています。

阿月~浅井家侍女、ある事とは「小豆袋」の逸話か?そして侍女「盛秀」伝説。

柴田勝家~鬼柴田~武骨で勇猛果敢、幾多の戦を潜り抜け、潔く北ノ庄城にて死す

小牧山城(小牧城)~織田信長が初築城し、小牧・長久手の戦いでは徳川家康が本陣を置きました。

末森城(尾張国)~織田信秀が東方防御の為に築城、小牧長久手の戦いで織田信雄が整備。

長久手古戦場公園~徳川家康VS羽柴秀吉の小牧・長久手の戦いのうち主戦場となった長久手の戦いの場所。

池田恒興~織田信長とは乳兄弟で育ち幼馴染、最古参の家臣となり、長久手にて戦死します。

徳善院玄以(前田玄以)~もとは僧侶、織田家の家臣から秀吉に仕え豊臣政権の五奉行となる。

美濃金山城跡~森蘭丸の生誕地~森可成・森長可・森乱丸(蘭丸)・森忠政と斎藤正義

犬山城 ~現存天守12城・日本100名城・国の史跡で国宝、木曽川沿いの丘上にある美しい城です。

長久手城~長久手の戦いの前哨戦の岩崎城の戦いで奮戦した加藤忠景(加藤景常)の居城です。

羽黒城~梶原景時の孫である梶原景親が築城し尾張梶原氏として存続するも「本能寺の変」にて殉じ、滅亡しました。

烏山城~下那須氏が築城した北関東有数の巨大城郭で国の史跡、蛇姫伝説があります。

誓願寺~創建は源頼朝公で武田信玄が再建したお寺で片桐且元の墓があります。丸子城への登城口があります。

大津城~琵琶湖の浮城~関ヶ原の戦いの前哨戦・京極高次、京極竜子

小谷城~浅井家三代~浅井亮政・浅井久政・浅井長政

尾張・大野城~築城は一色氏でその後は佐治氏が4代支配、お江(崇源院)が佐治一成に嫁いできた城です。

筒井順慶・松永久秀のライバルで、与力であり友人でもあった明智光秀に味方しなかった人物

不破光治・不破直光(不破彦三勝光)親子~戦国の世をしぶとくゆったりと生き抜く~

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