【尾張・大野城(尾張国知多郡)】
大野城(おおのじょう)は、
尾張国知多郡矢田村金山
(現在の愛知県常滑市金山)の
伊勢湾を望む小高い丘陵(青海山)
にあった日本の城です。
織田氏が新たに築いた大草城とは
矢田川を挟んで南に位置しています。
常滑市指定史跡です。
「宮山城(みややまじょう)」とも
呼称されるとのことです。
【別名】
宮山城
【城郭構造】
平山城
【築城主】
一色範光
【築城年】
不明
【主な城主】
佐治氏
【遺構】
堀、曲輪
【指定文化財】
常滑市指定史跡
【再建造物】
模擬天守
2重3階 1980年RC造模擬
【歴史】
観応年間(1350年)ごろに
三河国守護の一色範氏が
知多半島に勢力を伸ばし、
その子である一色範光が
伊勢湾を見下ろすこの場所に城を築き、
大野湊を中心とした
伊勢湾の海運を手中に収めました。
けれども、一色氏は
将軍足利義政と対立し、
三河守護職を失い、
応仁の乱を経て次第に勢力を衰退させ、
尾張守護の土岐氏に
大野城は奪われ、
家臣の佐治宗貞が入城し、
四代百年あまりの支配が続きました。
三代目となる佐治信方の頃に
織田氏に従いましたが、
佐治信方は若くして討ち死に、
四代一成は羽柴秀吉と敵対して追放され、
城主として織田信長の弟である
織田長益が入りますが、
大野城の水利の悪さから、
すぐ真向かいに大草城を築城することになり、
大野城は廃城となりました。
お江(後の崇源院)が
最初の結婚で佐治一成に
嫁いで来たのがこの大野城で
あることも有名です。
【現状】
現在は城の南側のほとんどは
住宅地(青海山団地)となっていますが、
主郭部は常滑市指定文化財(史跡)となっており、
城山公園として整備されています。
角櫓形の展望台が建てられていますが、
これは当時の建物を
再現したわけでありません。
堀が一部残っており、
櫓台跡に城主であった
佐治氏を祀った佐治神社があります。
「大門」「西之口」「屋敷」「城下」など
当時を偲ばせる地名が多く残り、
かなり規模の大きな城であったことが
うかがえます。
【主な遺構】
堀、曲輪
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<佐治神社>
主郭の南端の小高い一角にある
旧主を祀る神社。
【その他の建造物】
<模擬天守(二層櫓)>
二層三階の城型展望台。
他城の建造物に比べ
細長い外観になっています。
<御城印販売>
模擬天守1階で販売していました。
期間限定でした。
【交通アクセス】
名鉄常滑線「西ノ口」駅から徒歩で約15分。
知多横断道路「常滑」ICから約12分。
【所在地】
〒479-0003 愛知県常滑市金山 城山
所在施設: 城山公園
【トイレ】
城山公園敷地にあります。
模擬天守から下った
野外にあり、建物は古いですが
中は綺麗に清掃されていました。
【佐治信方】
佐治 信方(さじ のぶかた、天文22年(1553年)?
⇒天正2年9月28日(1574年10月12日)?
/天文19年(1550年)⇒元亀2年(1571年)5月
という説もあるとのことです)は
戦国時代の武将。通称は八郎。
尾張国大野城主佐治為景の嫡男で、
名ははじめ「為興」。
妻は織田信秀の娘で
織田信長の妹お犬の方です。
そのため織田信長の義弟にあたります。
子に一成、秀休がいます。
【佐治氏について】
佐治氏は代々知多半島の大半を
領した豪族で、
伊勢湾海上交通を掌握する
佐治水軍(大野水軍)を率いていました。
そのため尾張を領した
織田信長らにとって
非常に重要視されていました。
桶狭間の戦いの後に
織田信長に臣従しましたが、
妹を妻に与えられ、
織田信長の字を拝領されて
「信方」と改名するなど、
待遇は一門衆並みでありました。
佐治信方は織田信長の嫡男である
織田信忠に従って、
伊勢長島攻めに加わりましたが、
天正2年9月28日、
織田軍に追い詰められた
一揆衆の捨て身の反撃を受け、
ここで討ち死にしてしまいました。
(「大雲山誌稿」)
わずか22歳であったのでした。
【佐治一成】
佐治 一成(さじ かずなり)は、
時代から江戸時代前期の武将でした。
織田氏の家臣。
佐治信方の嫡男で
母は織田信長の妹であるお犬の方です。
【生誕】
永禄12年(1569年)?
【死没】
寛永11年9月26日
(1634年11月16日)
【別名】
與九郎(与九郎)(通称)
【幕府】
江戸幕府
【主君】
織田信長⇒信雄⇒信包
【氏族】
佐治氏
【父】
佐治信方
【母】
お犬の方
【兄弟】
一成、秀休
【妻】
正室:浅井長政の三女・江
継室:織田信長の娘・於振
【子】
為成
【佐治氏と織田一門格】
尾張佐治氏は、
知多半島の大野を中心とする
西海岸地域を領する一族です。
伊勢湾海上交通を掌握する
海賊衆「佐治水軍(大野水軍)」
を率いていました。
その立場は織田氏に
従属的な家臣とする説と、
独立的な国衆で、
父の佐治信方が
永禄初年頃に織田信長の妹である
お犬の方を室に迎えていることから、
織田一門格であるとする説があります。
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父である佐治信方は織田氏による
伊勢長島攻めに従軍して戦死しました。
その時期は天正2年(1574年)9月28日とも、
元亀2年(1571年)ともいわれています。
よって、幼少の一成が家督を相続しました。
なお、母であるお犬の方は佐治信方の死後、
織田家に戻り、室町幕府管領細川氏の
細川昭元に再嫁しています。
こうした事情から、お犬の方は
佐治一成の生母でない可能性も
考えられており、
また佐治一成は佐治信方の子でなく
弟とする説も存在しています。
近江国小谷城主・浅井長政の娘であるお江を
妻に迎えたといわれており、
後に離縁したといわれていますが、
これには諸説あります。
江(崇源院)は浅井長政と
織田信長の妹・市(一成の伯母)の三女であり、
佐治一成の従姉妹にあたります。
姉には茶々(淀殿)、初(常高院)がいます。
お江は後に豊臣秀勝に嫁ぎ、
豊臣秀勝死後は徳川家康の三男である
徳川秀忠に再び嫁いで
将軍御台所となっています。
浅井長政は天正元年(1573年)に
織田信長により滅ぼされており、
市と三姉妹は織田家に保護され
尾張へ戻っていたと考えられています。
天正10年(1582年)の
本能寺の変による織田信長の死後、
その次男である織田信雄に仕えますが、
羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の敵対から
発生した天正12年(1584年)3月の
小牧・長久手の戦いにおいて、
合戦後に徳川家康が三河へ帰陣する途中の
佐屋街道の渡しにおいて船を提供し、
羽柴秀吉の怒りを買い
大野を退去したということです。
なお小牧・長久手合戦の
発端となった事件として
尾張では織田信雄家臣である
星崎城主岡田重孝が
羽柴秀吉に内通して
粛清されており、
佐治一成もこれに関係して
大野退去に至った可能性が
考えられています。
一方、文書上においては
小牧・長久手後にも佐治一成の
大野支配が確認されていますが、
天正13年(1585年)の頃と
みられる「織田信雄分限帳」においては
佐治一成の名が見られず、
佐治一成の大野退去は
小牧・長久手後の
論功行賞によるものであると
考えられています。
母親のお犬の方が死去した際に、
亡き母親の弔い料として
10月3日に三貫九百八十九文を、
さらに翌年に香料として
十九貫六百五十五文を
それぞれ奉納しており、
離別後も母のお犬の方とは
交渉を持っていたことが窺えます[6]。
その後、伯父である織田信包の領する
伊勢へ逃れてその家中にあり
(丹波・柏原藩筆頭家老など)、
後に織田信長と側室のお鍋の方の娘で
従妹にあたる於振を正室に迎えたと
伝えられています。
寛永11年9月26日(1634年11月16日)、
京都にて死去しました。
享年は66歳でした。
墓所は龍安寺にあります。
(所在地: 〒616-8001
京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町13)
※石庭で超有名ですね。開基は細川勝元です。
【江(崇源院)との婚姻について】
お江(崇源院)の母のお市の方は、
本能寺の変における織田信長横死後の
天正10年(1582年)に
織田家臣である柴田勝家に嫁ぎ、
お江ら浅井三姉妹も
越前国北之庄に移りました。
翌年の天正11年4月24日
(1583年6月14日)に
柴田勝家と市は北の庄において
羽柴秀吉に敗北し自害しており、
三姉妹は羽柴秀吉の元へ引き取られました。
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天正12年(1584年)に
佐治一成が大野を追放され、
お江と離縁したとされる経緯から、
佐治一成とお江の婚姻時期は
天正12年初めで、
佐治氏や織田信長の次男で
佐治一成の従兄にあたる
織田信雄の懐柔を目的とした
羽柴秀吉の意向であったものと
想定されているそうです。
が、婚姻を決めたのは
羽柴秀吉ではなく、
織田信雄であるとし、
婚姻時期は天正12年(1584年)春という
説もあります。
一方で、佐治一成とお江の婚姻を
記した記録や佐治氏系図においては、
時期や事情を記したものは見られません。
近世後期の鳥取藩主池田家の
由来書には婚姻時期を
佐治信方戦死後の
天正2年とする説もあり、
お犬の方の再嫁に伴い、
佐治氏との婚姻を必要としていた
織田信長の意向であった
可能性も考えられています。
なお、「徳川幕府家譜」
においては浅井三姉妹のうち、
茶々を「御台所」、
初を「室」と記するのに対し、
お江については「妻」と
格下表現を用いており、
佐治一成とお江の婚姻の意義や
婚約のみであった可能性など、
実態については議論があるとのことです。
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