【伊勢貞興】
伊勢 貞興(いせ・さだおき)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
室町幕府幕臣、のち明智光秀の家臣。
幼名は熊千代で通称は与三郎、伊勢守。
祖父は伊勢貞孝、父は伊勢貞良。
兄弟に伊勢貞為、阿古御局(異説ありとされています)。
伊勢流の有職故実の探究者です。
武家故実の書として「伊勢貞興返答書」を記述しました。
【生誕】
永禄5年(1562年)
【死没】
天正10年6月13日(1582年7月2日)
【生い立ちと伊勢氏】
伊勢氏は元は室町幕府の政所執事(頭人)を務めた家柄であり、
後述する
伊勢貞宗(9代将軍の頃)及び
伊勢貞陸(1493年)の代には山城守護でしたが、
祖父の貞孝と父の貞良が永禄6年(1563年)に
三好氏との抗争に敗れ戦死して以来、
伊勢氏の力は山城国内にわずかな勢力を残すほどに衰退していました。
伊勢貞為・貞興兄弟は、
13代将軍・足利義輝に近侍していたとされています。
貞興は次男でしたが、
兄が病身となったため伊勢氏の家督を継いだとされていますが、
この家督相続については異説もあるようです。
兄である伊勢貞為は永禄2年(1559年)の生まれとされており、
伊勢貞興とは3歳違いということになります。
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【伊勢氏】
伊勢氏(いせし)は、日本の氏族で桓武平氏維衡流の氏族。
室町時代には室町幕府の政所執事を世襲、
江戸時代には旗本として仕え、
武家の礼法である「伊勢礼法」を創始し、
有職故実の家として知られていました。
「小右記」及び「平安遺文」によりますと、
もともとは中臣朝臣の伊勢国造(伊勢直)の一族が、
伊勢国鈴鹿郡を拠点として、
康和元年(1099年)10月に
伊勢の三重郡司として赴任した事項が見られるとのことです。
以降は伊勢平氏の平正度の子・平季衡(下総守)の系統である
鎌倉時代末期の当主であった
平俊継が伊勢守となって以降、伊勢氏を称したとのことです。
【伊勢宗家】
【政所執事を担う】
南北朝時代に俊継の孫であり、
足利尊氏及び足利義満に仕えた伊勢貞継(いせさだつぐ)が
政所執事となって以降、
政所執事を世襲するようになりました。
通字は「貞」となります。
【応仁の乱勃発】
8代将軍足利義政の養育係を務めた伊勢貞親は
側近として政治にも大きな影響力を持っていましたが、
将軍候補である足利義視を排除するために、
文正元年(1466年)文正の政変を起こし失脚しました。
伊勢貞親は、応仁元年(1467年)、
細川勝元率いる東軍と山名宗全率いる西軍の間で
戦端が開かれ応仁の乱が起こると、
将軍の足利義政に呼び戻され6月に伊勢から上洛し、
応仁2年(1468年)閏10月に正式に復帰を果たしました。
けれども、復帰に反発した足利義視が
同年11月に出奔して西軍に擁立され、
戦乱が長期化する要因となってしまったのでした。
【歴代将軍の養育係】
貞親の子の伊勢貞宗もまた、
9代将軍足利義尚の養育係となり、
細川京兆家の細川政元と共に
幕政に重きをなしていました。
明応2年(1493年)には、
貞宗の子である伊勢貞陸が山城守護に就任し、
前任の畠山氏に抗して起こった山城国一揆を解体しています。
また、同年の明応の政変により、
10代将軍足利義稙が廃位され足利義澄が11代将軍に就任すると、
日野富子の意向もあって伊勢貞宗が
11代将軍である足利義澄の後見人的な立場となりました。
けれども、永正5年(1508年)、
足利義稙が周防・長門の大内義興に擁立されて上洛すると、
細川高国と同様に伊勢貞陸もこれに従いました。
伊勢貞陸の子の伊勢貞忠は、
大永元年(1521年)3月7日、
10代将軍であった足利義稙が細川高国と対立し
堺に出奔すると、
伊勢貞忠はこれに従わずに12代将軍足利義晴に仕えました。
【12代将軍・足利義晴と13代将軍足利義輝】
伊勢貞忠の継養子の伊勢貞孝も12代将軍である足利義晴に仕えました。
大永7年(1527年)に桂川原の戦いで細川高国が敗れ、
阿波から三好元長や細川晴元らが入京すると、
足利義晴は六角氏や朽木氏を頼り近江に逃れて近江幕府を形成しました。
けれども、13代将軍足利義輝の代には、
伊勢貞孝は京に残って三好長慶政権下で政務を行なったのでした。
さらに永禄5年(1562年)3月に
六角義賢が足利義輝や三好氏を追い払い京都に侵攻した際にも
(将軍地蔵山の戦い)、
京に残り政務を行なったため失脚し、京都船岡山で戦死しました。
【備中伊勢氏】
伊勢貞継の弟・盛経の系統。
将軍の近習や申次衆を出していました。
【北条早雲は備中伊勢氏】
戦国大名後北条氏の祖となる
北条早雲こと伊勢盛時(伊勢宗瑞)は
伊勢氏の一族・伊勢盛定の子で、
系図は諸説あるとされていますが、
庶流の備中伊勢氏の出自であるとの見解がなされています。
北条早雲の一族が「北条」と名乗るのは、
実は、早雲の死後の息子北条氏綱の時代以後と考えられており、
厳密に申しますと、
早雲時代の北条家は「伊勢家」と称するのが正しいとも言えます。
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【伊勢貞興、若狭国へ逃れる】
永禄6年(1561年)に13代将軍・足利義輝によって
祖父である幕府政所執事(頭人)であった伊勢貞孝と
父・貞良が討たれると、伊勢貞為と伊勢貞興は
家臣と共に若狭武田氏の元に逃れました。
【お家再興と幼き兄弟】
永禄8年(1565年)、
永禄の変にて13代将軍である足利義輝が討たれると、
伊勢氏の家臣達は三好三人衆と彼らが擁する
将軍候補・足利義栄に対して
御家再興を訴えて認められます。
この出来事の裏付けとして、
これは足利義栄の将軍就任直後に
作成された御供衆の名簿を見ると
「伊勢虎福丸」名義で作成されており、
当時虎福丸と名乗っていた伊勢貞為が
伊勢氏再興を認めた足利義栄に
仕官したことが分かるからです。
この時まだ兄の伊勢貞為は
10歳にもなっていませんでした。
弟である伊勢貞興は更にまだ幼すぎて、
御供衆には加わらなかったそうです。
【当主は弟である貞興へ】
このように三好三人衆が
14代将軍に擁立した足利義栄に仕えて
幕府御供衆名簿を作成・提出しています。
ところが、程なく足利義輝の弟である足利義昭が
織田信長と共に上洛して15代将軍に任命されてしまいます。
足利義昭は14代将軍であった足利義栄に仕えた
幕臣たちの責任を追及して解任しており、
伊勢氏における貞為から貞興への当主交代も
足利義昭による伊勢貞為の追放によって
弟である伊勢貞興が対応したものとする説もある程です。
【15代将軍の御供衆】
15代将軍となった足利義昭に御供衆として仕えた伊勢貞興は
元亀2年(1570年)11月1日になって
政所役(頭人・執事)に任じられて織田信長からも承認されました。
この時わずか10歳前後でした。
もっとも、実際には織田信長が
伊勢貞興の若年(若すぎる!)を理由に政所に代わって
京都市中からの段銭徴収を行っていること、
先の祖父・父の戦死の際に一族・家臣の多くを失い、
更に執事を補佐する政所代(執事代)の
蜷川親長も京都を離れていたことから、
(かなり)幼かった伊勢貞興が
実際に政所の執務を行う状況にはなく、
京都市中の実際の統治は
織田信長とその家臣が政所の業務を
一時的に代行していたのではないかと推測されています。
【明智光秀の家臣になる】
やがて、足利義昭と織田信長が敵対するようになると、
天正元年(1573年)7月、
足利義昭の命で三淵藤英や日野輝資・高倉永相などの
武家昵近衆と共に二条城を守りましたが、
織田軍に城を囲まれると三淵藤英を一人残して
8日に降伏して退場しました。
足利義昭が織田信長により京都から追放され備後国に下向すると、
伊勢貞興はこれに随行することはなく、
他の幕臣と一緒に明智光秀に仕えました。
足利義昭の追放後、京都の市中の統治は
明智光秀と村井貞勝が中心になって行われていましたが、
次第に貞勝の専任へと移行し、
長年その任にあたっていた幕臣は
京都市中の統治から排除されることとなってしまいました。
これは足利義昭が毛利氏を頼って
備後国に落ち着いたことを知った幕臣の中には
京都を脱出して義昭に合流する者が出て、
人材不足に拍車をかけたことに加え、
政所などで行われてきたこれまでの行政が
荘園制など,これまでのシステムを前提にしたもので
織田信長の方針と合致しなかったことなど
が考えられているそうです。
一方、幕臣たちの所領の多くが丹波国など
明智光秀の支配地に属しており、
政所の機能やそれに伴う権益の復活が望めない以上は、
明智光秀に仕えてることによって、
幕府から与えられていた
所領の安堵を求めることを重視する意識が
伊勢貞興や他の幕臣の間にあったからではないかとも
推測されているそうです。
伊勢貞興はかなり若いけれども智勇に優れ、
行政能力や武家故実に優れるなど
軍事にも精通していたために、明智光秀の厚い信任を得ました。
あくまでも一説ですが、明智光秀の娘婿となったともされています。
明智光秀の配下として丹波攻略やその他の戦役に活躍し、
明智家中では斎藤利三と並ぶ戦巧者として
名を馳せ重臣としての地位を確立していきました。
【本能寺の変で信忠を攻める】
天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際、
伊勢貞興は旗下の2千の精鋭を率いて、二条城に籠城した
織田信長の嫡男である織田信忠を攻め寄せ、自刃させました。
自らも槍を振るって奮戦し大勝しました。
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【有望なれど若き命を散らす】
同年6月13日(1582年7月2日)の昼ごろから始まった山崎の戦いでは、
明智光秀軍と織田信長の弔い合戦を挑む
神戸信孝(羽柴秀吉・丹羽長秀など)の軍勢が山崎の地でにらみ合い、
ついに日が傾き始めたころ、合戦が始まっとされています。
織田信孝軍の中川清秀隊3500余に対して、
伊勢貞興隊2000余が攻撃を開始したのが
最初の激突だったとのことです。
精強な伊勢貞興隊は兵数に勝る中川隊を直押しし、
織田信孝軍の高山重友隊などが
中川隊を救援しようとしましたが、
これに明智方の斎藤利三隊が横槍を入れたために
両軍入り乱れての乱戦となったとのことでした。
けれども、総兵力に劣る明智軍は敗れて、
伊勢貞興は明智光秀の敗走を助けるために
残軍を率いて殿軍(しんがりぐん)を引き受け
奮戦しましたが力尽きて戦死しました。
享年は21歳でした。
なお、伊勢氏の家督は
兄である伊勢貞為の子の貞衡が継ぎ、
江戸幕府に仕え、
大身の旗本となって明治まで存続したということです。
ちなみに兄の伊勢貞為は、江戸幕府まで生きて
慶長14年5月23日(1609年5月23日)に亡くなりました。
【御供衆】
御供衆(おともしゅう)は、室町幕府将軍の出行に供奉した人物です。
また、御相伴衆のように幕府における
身分・格式を示す一種の称号でもありました。
その格式は、御相伴衆・国持衆・準国主・外様衆に次ぐものでしたが、
将軍の出行に供奉するという点で、
将軍に最も親近な名誉的な職であったと推測されています。
【形態・役割】
三番編成であり、構成員は御相伴衆を出す家の子弟や
弱小守護家の当主、
奉公衆や政所執事伊勢家など多岐に渡っていました。
その役割は将軍出行の行列の行装を整えることにあり、
遊興目的などに際しては供奉の必要がなかったそうです。
供奉にあたっての人数は5~6名前後と一定せず、
往復で人員が異なることもあったそうですが、
御供の中心は何れにおいても御剣役が中心で、
その役目を担う家は固定されていたとのことです。
また8代将軍の正室である日野富子の御供衆が
将軍とは別個に定められていたそうです。
御供衆が記録にはっきりと現れてくるのは、
8代将軍の足利義政の寛正年間頃からだということです。
【有職故実】
有職故実(ゆうそくこじつ)とは、
古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や
法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと。
また、それらを研究することです。
【公家故実】
平安時代の中期から先例を伝える知識の体系化が進み、
藤原忠平の執政期に儀礼の基本形が確立しています。
【武家故実】
平安時代には、武人の故実(武官故実)は、
紀氏と伴氏が伝えていましたが、
武士の台頭とともに衰えてしまいました。
鎌倉時代には、源頼朝が故実に通じた武士を重んじ、
故実の復元を図っています。
以降、京都から断片的に流入した武官故実と
関東在来の武士の慣習が合わさり、
武家故実が体系化されていきました。
武家故実の中でも弓馬や軍陣における実践的な故実と
幕府や主君の前における儀礼や作法などの故実が存在していましたが、
戦法の変化によって前者は形式的なものになったのに対して、
後者は公家故実とも融合して、
室町時代に小笠原流や伊勢流が生まれました。
【伊勢流】
伊勢家の礼法概要
武家の故実(作法・礼法)は
衛府・検非違使の時代より数多く存在し、
各々の家で伝承されていました。
室町幕府3代将軍足利義満は、
公家には公家の礼法、武家には武家の礼法があるとし、
幕府の諸行事における公式の礼法を定めました。
故実書「三議一統大双紙」によりますと、
その武家礼法を将軍に指南した高家が
(今の言葉でいう知的アドバイザー)
「伊勢家」「小笠原家」「今川家(後の吉良家)」でした。
伊勢家は「内の礼法」殿中一切の礼法を任され、
小笠原家は「外の礼法」弓馬の礼法を、
今川家は書と画を任されたとされています。
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【開祖は伊勢貞継】
宗家の伊勢氏は、
元々室町幕府政所執事の家として礼法に精通していました。
室町初期・足利尊氏及び足利義満に仕えた伊勢貞継が祖とされています。
8代将軍である足利義政の教育係であった伊勢貞親の頃に
殿中諸儀礼の折形など、装束、書札をはじめ、
弓馬、甲冑、作鞍、故実が確立されていきました。
応仁の乱によって幕府の権威が凋落していく中、
伊勢貞陸・貞久は、旧来の伊勢流故実に
公家の有職故実を取り入れて新しい武家故実を作り、
将軍の権威を高めることに努力したそうです。
上洛した大内義興と伊勢氏が交わした故実の問答をまとめた
「大内問答」の例に見られるように、
伊勢流故実は地方の大名に積極的に吸収されていったそうです。
また、伊勢氏の庶流にあたる伊勢貞頼は、
1528年に伊勢氏に伝わる武家奉公人としての
心得・諸作法をまとめた「宗五大草子」を著しています。
「宗五大草子」の影響は江戸時代の故実書「群書類従」にも見られ、
身分に応じた武士の作法の形成に影響を与えたそうです。
伊勢氏は、江戸幕府3代将軍徳川家光の時に、
伊勢貞衡(伊勢貞興の甥にあたる)が
旗本として仕えていました。
更に、貞衡の曽孫である伊勢貞丈が、
中世以来の武家を中心とした制度・礼式に詳しく、
有職故実の第一人者として、
著書を数多く残し、正しい武家礼法を体系化して、
世に知らしめたそうです。
その後、伊勢貞丈の孫にあたる
伊勢貞春が貞丈雑記を発刊しました。
また武家故実を学んだ本多忠憲が多くの著書を残し、
忠憲の伊勢・門人である兵学者・窪田清音(幕府講武所頭取)が
師範免許をもって武家故実類書13冊を残し、
門人を育成したとのことでした。
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